芝公園 #5

ここからは再び芝公園を北上します。
都会の中とはいへ、ここだけは時間がゆっくり流れているような妙な感覚の公園です。

芝公園御成門

左手にある白い塔は「こども平和塔」だそうです。
芝公園 こども平和塔
この「こども平和塔」は、昭和22年より7年間をかけて全国の児童生徒が古新聞、古雑誌、こづかい銭を集めて造られたものだそうです。
これを主催したのが「財団法人平和協会」で、戦後まもない昭和22年に当時猛威を振るった結核の研究に献身的に活躍した故田澤鐐二医師により設立されました。
そして戦後の混乱期に平和の大切さを教えるために造られたのがこの塔で、建立以来毎年夏に「こども平和まつり」が行われているそうです。

こども平和塔を横目で見ながら北上を続けると、芝公園の北端に突き当たります。
御成門交差点
この角が御成門交差点となるのです。
交差点と反対側にはペーブメントが伸びていますが、斜めに造られているのは、その先が東京タワーになるための角度のようです。
芝公園
夜景の方がより綺麗でしょうが、昼もまた良い趣です。

北端に控えめながら石碑が一つおかれています。
開拓使仮学校跡

開拓使仮学校跡
北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を育成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。
明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。
仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。
(現地石碑碑文より)

北海道大学は札幌農学校の後、1907年の東北帝国大学農科大学を経て、1918年に帝国大学としては5番目に設立された北海道帝国大学をその歴史としています。そして、明治9年の札幌農学校の時の教頭があの有名な“クラーク博士”だったのです。
現代で考えれば無茶苦茶とも思えるでしょうが、予め婚約者を誓わせるというのも、時代ならではなのでしょう。

2つの発祥の地碑

芝公園もそろそろ終盤です。
この地点が芝公園の北端ですが、御成門の交差点を渡った先もまた東の端で、いわば北東端といった場所です。
そして交差点を渡った先に2つの碑があります。

1つ目は「日本近代初等教育発祥の地」碑です。
日本近代初等教育発祥の地

東京都港区指定文化財 旧跡 日本近代初等教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)
わが国の近代初等教育は、明治5年(1872)の学制発布に先立ち、同3年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、6月12日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒と教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は8歳から15歳までとし、机・硯箱・弁当は各自持参した。
この小学第一校は、明治4年に、西久保巴町(虎ノ門3丁目)へ移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵尋常高等小学校、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。
平成2年10月24日  東京都港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

このような歴史を誇る「鞆絵小学校」ですが、戦後の住居消失や都市という立地から生徒も年々減少したため、1991年廃校となったのです。最盛期には1,600人を越える生徒がいたようですが、閉校時の卒業生は僅か60人だったそうです。
そして、御成門地区にある「鞆絵小学校」「桜川小学校」「桜田小学校」「桜小学校」「神明小学校」の5校を統合して「御成門小学校」となったのです。著名な卒業生としては、三浦環、尾崎紅葉、小沢栄太郎、河原崎長十郎などがいたそうです。
さてこの「鞆絵小学校」は実は古いだけの歴史を持っている学校とは違い、更にすごい歴史があるのです。恐らく日本で唯一の小学校ではないかと思われますが、なんとこの「鞆絵小学校」にはあの“アインシュタイン”が来校しているのです。
大正11年に来日した際、愛宕下町にある「改造社」という出版社が講演会を開催したようで、その際近くにあった「鞆絵小学校」に授業参観に立ち寄ったようなのです。
ちょうど日本に向かう船中で、ノーベル物理学受賞の知らせを受けたそうですから、来日してから一層人気に拍車が掛ったのではないでしょうか。兎にも角にもそんな凄い歴史を持つ小学校だったのです。このアインシュタイン来校の件については、以下のサイトに記載されていますので参考にしてみてください。

参考:【HARUKOの部屋】 -母が語る20世紀-http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/20seiki2.htm

ちなみに同時に設立された5つの仮小学は以下の通りです。
仮小学第二校:番町学校(現・千代田区立番町小学校)吉田茂、東條英機、吉行淳之介など
仮小学第三校:吉井学校(現・新宿区立愛日小学校)夏目漱石、石坂泰三など
仮小学第四校:湯島学校(現・文京区立湯島小学校)長岡半太郎、横山大観、花柳章太郎など
仮小学第五校:育英学校(現・台東区立台東育英小学校)
仮小学第六校:深川学校(現・江東区立深川小学校)

さてもう一つの碑は、少し後ろにある「伝染病研究所発祥の地」碑です。
伝染病研究所発祥の地

北里柴三郎は、福沢諭吉始め民間の援助を受け明治25年11月30日、この地に開校された大日本私立衛生会附属伝染病研究所において、細菌学の研究を開始し伝染病の撲滅に多大の貢献をした。以来、伝染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っている。
創立100年に当たり、ゆかりの地に碑を建て、先人の偉業を顕彰するものである。
平成4年11月吉日 東京大学医科学研究所・社団法人北里研究所
(現地案内板説明文より)

北里柴三郎が注目されたのは、ドイツに留学して破傷風菌抗毒素を発見したことにあるのですが、この留学を計らってくれたのが、同郷で東京医学校の同期生であり、衛生局試験所所長を務めていた緒方正規東大教授だったのです。
しかし、ドイツ留学中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為に、恩知らずとして母校の東大医学部と対立する形となり、帰国後も日本での活躍が限られてしまったのです。
この事態を憂慮した福沢諭吉の援助によって、この私立伝染病研究所が設立されるこことなったのです。ちなみにこの土地は福沢諭吉の所有地だったそうです。
近代医科学記念館 《写真:伝染病研究所の外観を再現した「近代医科学記念館」》
歴史に“もし”といっても仕方ないことですが、この援助が無かったら日本の伝染病研究はどうなっていたのでしょうか、そんなことを考えさせる記念碑でした。

有章院(徳川家継)霊廟二天門

ここからは芝公園を南下して増上寺三解脱門に戻り芝公園散策を終了しますが、日比谷通りを挟んで東京プリンスホテルのエントランス近くに、歴史ある門が残されているので最後に立ち寄りました。
ここが東プリのエントランスです。
東京プリンスホテル
この広大な地が徳川家北霊廟だったのですから、その広大さを推し量ることができます。
現在この東プリでも「江」に因んだイベントが開催されているようです。題して「江 ~姫たちの戦国 お江フェア~」です。
東京プリンスホテル
期間中様々な「江」にちなんだメニューが楽しめる企画のようです。
◆「お江 福々弁当」¥3,500 ◆「江姫ランチ」¥3,500 ◆「お江デザート」姫たちのスイーツ他 \600他 ◆「お江カクテル」\1,250 ◆「姫さまの仮装パーティープラン」¥5,000 ◆「ランチブッフェ【お江ゆかりの料理】」¥2,630
今だけの企画ですから、話のネタにトライするのも良いかもしれません。

余談ながら、この東京プリンスホテルは20年前位に弟が披露宴を挙げた式場だったのを今、思い出しました。
月日のたつのは早いものです。

さて話を戻して残されている門ですが、これは徳川家継の霊廟にあった「二天門」です。
有章院(徳川家継)霊廟二天門

有章院(徳川家継)霊廟二天門
7代将軍徳川家継の有章院霊廟における第一門。増上寺山内北廟に属し、6代将軍家宣の文昭院霊廟の北川に並ぶように配置されていました。8代将軍吉宗(有徳院)以降は霊廟を造営せず、各霊廟に合祀して奥院のみを造営するという縮小したものでした。よって、有章院霊廟は、江戸初期から中期にかけて全盛期を誇った徳川家霊廟建築の最後の遺構と言えます。戦災で焼失した文昭二天門や台徳院惣門に比較すると屋根や部材形状は簡潔な造形が用いられていました。霊廟建築が収束へと向かう時代性をうかがわせます。
(港区ゆかりの人物データベースより)

こうしてみると「御成門」と同じように表面的には経年劣化が見られますが、当時の絢爛豪華な極彩色のイメージを見出すことは可能のようです。
有章院(徳川家継)霊廟二天門 有章院(徳川家継)霊廟二天門
左右には漆塗りの広目天と多聞天が安置されています。
有章院(徳川家継)霊廟二天門 有章院(徳川家継)霊廟二天門
もとは戦災で焼失した文昭院の二天門の持国天、増長天とあわせて四天王として祀られていたそうです。

増上寺を挟んで南霊廟後には、徳川家での最初の霊廟である2代将軍秀忠の台徳院霊廟の惣門、そして北霊廟には徳川家最後の霊廟である7代将軍家継の有章院霊廟の二天門という、増上寺徳川家霊廟のシンボルともいえる遺構が対のように残されているのです。
台徳院霊廟の惣門が寛永9(1632)年建造で、有章院霊廟の二天門が享保2(1717)年の建造という、85年の歴史をもった霊廟建築ということになるのです。

増上寺を中心としてそれを取り巻く芝公園は、様々な時代の遺構が残された歴史的にも興味深い公園でした。
最後に芝公園のデータです。

芝公園 所在地:芝公園4丁目8番4号
施設の概要
面積:13,522.06平方メートル
 芝生広場・・・・・・・・・・・・・・・5,100平方メートル
 保水性ブロック舗装・・・・・・1,550平方メートル
 ベンチ・・・・・・・・・・・・・・・・・・32基
 かまどベンチ・・・・・・・・・・・・3基
 照明灯・・・・・・・・・・・・・・・・・・22基
 ソーラー、ハイブリッド照明・・・3基
 災害用マンホールトイレ・・・・10基
 雨水貯留槽(300t)・・・1式
 管理棟・・・・・・・・・・・・・・・・・1棟
 平和の灯・・・・・・・・・・・・・・・1式
 区民交流ガーデン・・・・・・・1式

港区立芝公園は、平成14年10月以降暫定開放されていましたが、平成16年度に区民参加のワークショップ方式により公園の基本計画をつくり、平成18年度に本格整備を行いました。
災害用マンホールトイレ、かまどベンチ、雨水貯留槽や太陽光発電機による照明施設や時計等を配置し、広域避難場所としての機能を充実しています。
さらに、既存樹木を活かしつつ新たな樹木を植栽し広場を芝生とするなど敷地全体を緑化し、園路は保水性舗装とするなどヒートアイランド対策にも力を注ぎました。
今後は、みなと区民まつりや防災訓練、消火訓練など、多目的に活用できる公園として、また区民のみなさんがくつろげる潤いのある公園として、親しんでいただきたいと思います。

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