NHK放送博物館 #2

NHK放送博物館はまだまだ続きます。
これからが放送の歴史や技術の各論に触れることが出来ます。

放送の歴史

2階は文字通り放送の歴史についての展示で、ラジオ放送の誕生から、今日のデジタル放送時代に至る放送の歴史をさまざまな放送機材や受信機・受像機の実物資料が展示されています。

入口付近に「東京放送局」の模型が展示されています。
「東京放送局」の模型
これは芝浦の仮放送所から1925(大正14)年に移った愛宕山の新局舎の模型です。1939(昭和14)年までこの地で本放送がされていました。

最初のコーナーは、ラジオ放送の開始から「玉音放送」による終戦までの放送機器と文献などが展示されています。
ラジオ放送初期のラジオや放送器材が展示されていますが、ラジオのアンテナが微笑ましい形状です。
ラジオ放送初期 ラジオ放送初期

そしてやがて戦争の色が濃くなり始めた2・26事件の時の資料です。
2・26事件
1936(昭和11)年2月26日に発生した2.26事件に際して、2月29日午前8時48分から戒厳司令官・香椎浩平中将の名で東京地方向けにローカル放送された「兵に告ぐ」という有名な放送原稿が展示されています。要するに「天皇の命令によって自分の隊に戻りなさい」という反乱に参加した兵に対する投降勧告なのです。
これは、帰順勧告放送の命令を受けた大久保少佐という軍人が、戒厳司令部内に設けられていた放送室に飛び込んで、マイクを持ち何か話そうとしたのですが、言葉が出てこなかったために、手元にあった便箋に書きなぐってわずか2分足らずで書き上げた草稿だったそうです。
そしてこの時、1人放送室にいた中村茂アナウンサーが、「私が放送しましょう」と言ってこれを放送したのです。
この放送後、29日午前9時30分頃、大久保少佐の下に警視庁方面の決起部隊の一部が帰順してきたと言う第1報が届き、その後、時間の経過とともに帰順投降、撤退などが相次ぎ、午後1時には一部を除いた全決起部隊が帰順、撤退したということです。

この後、太平洋戦争に突入すると言動は統制され、NHKというよりは大日本帝国としての放送所の機能しか有していないという暗黒の時代が続くのですが、それもいよいよ終末を向え、あの“日本でいちばん長い日”を迎えるのです。
“日本でいちばん長い日”は半藤一利の原作で1967年に公開された日本映画です。
これは、昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年(昭和20年、明治78年)8月14日の正午から、国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いた内容で、その玉音放送が「終戦の詔書」といわれるものです。

この「終戦の詔書」はこの円盤録音機とマイクロフォンで録音されたそうです。
「終戦の詔書」の円盤録音機とマイクロフォン
録音機はドイツのテレフンケン社製をモデルとした国産品だったそうで、実際に使用されたのは、この録音機と同型のものだったそうです。またマイクロフォンはA型ベロシティマイクロフォンという万能マイクとして昭和35年頃まで使用された国産のマイクだったそうです。

そして隣に展示されている原稿は「玉音放送予告アナウンス原稿」と「玉音放送前後のアナウンス原稿」なのだそうです。
「玉音放送予告アナウンス原稿」と「玉音放送前後のアナウンス原稿」

謹んで御伝え致します 
畏きあたりにおかせられましては この度 詔書を渙発あらせられます
畏くも 天皇陛下におかせられましては 本日正午おん自ら 御放送遊ばされます
洵に畏れ多き極みでございます
国民は一人残らず 謹んで玉音を拝しますように
(複製原稿より)

といったようなことが記載されています。
予告アナウンスは8月15日朝7時に放送され、前後のアナウンスは8月15日正午に放送されたものだそうです。

そしてこれが実物の「玉音盤」です。
玉音盤 玉音盤
これは窒素ガスを封入したシールドケースに入れ、紫外・赤外線カットのガラスを使い、常時4℃を保つ恒温ケースに入れられて展示されているのです。但し録音したレコードは1年で劣化する材質であるため状態は悪く、実際の再生は困難であるいわれているそうです。

ここまでの経過をまとめてみます。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、宮内省への出頭命令により、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけたそうです。
録音作業は庁舎で行われ、録音機2組などの録音機材は拝謁間に用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意されました。18時から録音の予定だったようですが、詔書の最終稿の修正もあり、結局23時20分頃から録音作業が始められました。
2回のテイクで玉音盤は合計2種4枚製作されたそうで、2テイク目は声が低かったという天皇自身の発案であったといわれています。
1テイク2枚となった理由は当時の録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送であったため2枚となったようです。
先に展示してあった国産の円盤録音機は日本電気音響(後のデノン社)製のものだったそうで、同じく日本電気音響製のセルロース製SP盤に録音されたのだそうです。 この後録音作業は翌日15日の午前1時までかかって終了しました。
この後、関係者が坂下門から出る際に、玉音放送を阻止しようとする反乱軍により拘束・監禁された以降は映画の通りです。

そして運命の8月15日の正午を迎えるのです。この玉音放送の流れを時系列に整理します。
◆正午の時報
◆「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」(和田信賢アナウンサー)
◆「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(下村情報局総裁)
◆君が代奏楽
◆詔書(天皇陛下・録音盤再生)
◆君が代奏楽
◆「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村情報局総裁)
-以降は和田信賢アナウンサーによる放送-
◆「謹んで詔書を奉読いたします」
◆終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
◆「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)
◆内閣告諭(14日付の鈴木総理大臣の内閣告諭)
◆これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)
◆交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
◆一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
◆万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(天皇による終戦決意)
◆ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)
◆カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)
◆共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
◆緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
◆鈴木総理大臣放送の予告(午後2時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際は総辞職の閣議のため、午後7時のニュースに続いて放送された)
こうして長い戦争も終結し、終戦の日となったのです。

そしてこちらには、この玉音放送を実際に天皇自身が聞いたラジオが展示されています。
天皇自身が聞いたラジオ
アメリカRCAビクター製のラジオだったそうです。流石にこの辺りは鬼畜米英のラジオでも良かったのですね。
そして、こちらに展示されているのが「終戦の詔書」です。
終戦の詔書
ということで、NHKにとっても“いちばん長い日”だったのかもしれません。

終戦を迎えて平和の時代が訪れると、テレビ放送までのラジオの黄金期を迎えるのです。
ラジオの黄金期
録音機やラジオ自体の性能も進化し、「のど自慢」やクイズなどの新番組も生まれてきたそうです。

そのような背景の中で、幻と終った昭和15(1940)年の東京オリンピックに向けて、既に戦前からテレビの研究・開発・実験放送が行われていたのです。
カメラ
このようなテレビの開発や、中継のためのカメラの開発などが盛んに行われていた時代です。
テレビの開発 テレバイザー
特にこの妙な形のものは「テレバイザー」というテレビの元祖ともいえるテレビ受像機だそうです。

また、この時代の特筆すべき事項は日本で最初のテレビドラマが作られたことです。
タイトルは「夕餉前」で、昭和15(1940)年4月13日、世田谷のNHK放送技術研究所から千代田区内幸町の旧放送会館と、ここ愛宕山の旧局舎へ実験放送されたものだそうです。
◆試作(脚本):伊馬鵜平(後に伊馬春部、劇作家、小説家で、昭和30年度放送文化賞受賞)
◆人物(キャスト):貴美子:関志保子、篤:野々村潔(女優・岩下志麻の父)、母:原泉子、他に:豆腐屋の声
約12分のドラマだったそうですが、当初は「すき焼きを食べながら3人が話をする場面」が考えられたそうですが、すき焼き一式を揃える予算が無く「夕餉どき」が「夕餉前」になったのだそうです。
それらの貴重なシーンのスナップ写真が展示されています。
日本で最初のテレビドラマ 日本で最初のテレビドラマ
当時は映画用の大光量の照明が使用されていたため、着ていた着物が焦げたというエピソードもあったようです。

こうした様々な試行錯誤が行われ、テレビの普及に拍車をかけたのが皇太子ご成婚でした。
テレビの普及 テレビの普及
軽井沢の“テニスコートの恋”で「ミッチーブーム」を巻き起こした皇太子(現・天皇)と美智子妃は1959(昭和34)年4月10日に実況中継された“ご成婚パレード”でミッチーブームが頂点を迎えました。
当時の放送関係の出来事では、この前年に東京タワーが完成し、マスメディアの領域ではテレビ放送時代の幕開けの準備が整っていたのです。
そして世紀のパレードを見るためにNHKの受信契約数も200万台を突破したそうで、テレビ製造メーカー、マスメディア共々大量消費社会へと移っていったのです。

そしてテレビの普及と共に技術の発展は東京オリンピックで飛躍的に向上するのです。
東京オリンピック 東京オリンピック
1964 ( 昭和39 ) 年10月の東京オリンピックは、NHKはじめ日本の放送関係者が総力をあげて、そのテレビ放送の実現に努力した結果でした。
一連の放送機材を国産で開発し、静止衛星シンコム3号を利用して世界に初めて生中継したのです。そして大会では開・閉会式、レスリング、バレーボール、体操、柔道など8競技がカラー放送されました。
また、VTR収録したものを再生するスローモーションVTRや接話マイク(いわゆる現在のヘッドフォン式マイク)などの新しい技術が一斉に登場したのです。まさに東京オリンピックは「テレビオリンピック」とも言われた先駆けとなったのです。
開会式の視聴率は84.7%で6,500万人が同時に視聴し、さらに東洋の魔女、日本VSソ連の女子バレーボール決勝戦は最大視聴率95%に達するというメディア史上に残る記録を残したそうです。
個人的なことですが、当時自宅にはモノクロテレビしかなく、カラーテレビを持つ友人宅に招かれて開会式をカラー放送で見ましたが、確かに日本選手団の真っ赤なブレザーが眩しかった記憶があります。最もカラーテレビの見方を皆が知らなかったため、部屋中のカーテンを閉めて真っ暗な部屋で見ていたのも懐かしい思い出です。

そしてその後、技術の進歩も目覚しいのですが、それと同様コンテンツの内容も充実し始め、朝の連続ドラマや大河ドラマなど、人気番組が目白押しとなるのです。
人気番組 人気番組
スタジオのカメラの変遷も目覚しいものを感じます。
カメラ

放送が伝えるもの-1

3階の展示は、放送開始当時の様子や、報道・スポーツ・教育・教養・娯楽番組を通じた放送の歴史を振り返るコーナーです。 放送が伝えるもの 放送草創期
最初のコーナーは放送草創期の歴史を辿ります。

放送無線電話(ラジオ)とは・・・
1920年(大正9)11月2日、アメリカ・ピッツバーグで世界最初のラジオ局(KDKA局)が開局しました。
ラジオの企業化は、ヨーロッパでも進み、ラジオ流行の波は、やがて日本にも押し寄せました。その頃、鉱石ラジオを組み立て、送信機まで製作したアマチュア無線家も現れました。
1923年(大正12)9月1日の関東大震災に際し、磐城、銚子、潮岬等の無線局が通信連絡で大活躍し、災害時における無線電信の威力が証明されることとなりました。
同年12月、逓信省令で「放送用私設無線電話規則」が公布・施行されましたが、当時、国民の多くは、まだラジオがどういうものなのかを知りませんでした。
(解説パネルより)

これを契機にして放送局設立への機運が高まっていくのです。
非常にラジオの黎明期らしい展示があります。
左側に東京放送局聴取圏内「鉱石ラジオ感度地図」です。
鉱石ラジオ感度地図
高さ7.5メートル、長さ13.5メートルのアンテナを立て、鉱石ラジオで聞いた場合の感度を表しているのだそうです。
子供のころゲルマニウムラジオが流行って随分聞いていましたが、確か水道管とかでも聞こえたような記憶がありますが。いずれにしても時代を感じさせる資料です。

放送局 設立!
1923年(大正12)12月、「放送用私設無線電話規則」が制定されました。
この「規則」では、放送無線電話(ラジオ)は民営にすると規定されており、放送事業の出願は、全国で100件を越えました。
当時、アメリカでは、大きな電気メーカーは、ラジオの大量生産と販売をしながら、放送事業の経営にあたっていました。 こうした実情は、新聞・雑誌などで日本にも紹介され、国内の電機メーカーや新聞社、研究団体などを刺激しました。
逓信省は、一都市一放送局という原則を守るために、出願者を統合しようとしましたが、大阪では順調にいきませんでした。 時の逓信大臣・犬養毅は「放送事業というものは、公益性の高いもので、これは営利の手段とすべきではない」と判断しました。
こうして1924年(大正13)12月11日、社団法人東京放送局が誕生しました。
(解説パネルより)

ここでは当時の放送所の建物の青写真や、設立を記念した様々なグッズが展示されています。
設計図 グッズ
また、一画にはラジオアーカイブとして、時代ごとの放送を聴くことができます。
ラジオアーカイブ
ここでは東京裁判に関する放送をチョイスして聴いてみました。悉く聞きたい衝動に駆られますが、先に進みます。

こうして設立された東京放送局ですが、様々なニュースやエンターテイメントもそうでしょうが、当時、特に重要な役割の一つだったのが“時を告げること”だったのです。しかもそれは「正確な時を伝える」という必要があったのです。
その歴史を振り返ってみます。

NHKの時報小史
◆仮放送所時代 1925年(大正14)3月~
-アナウンサーの声が、やがて「ドラ」の音に-
最初はアナウンサーの声で、「ただいまから正午をお知らせします。10秒前、5秒前、4、3、2、1、はい」という調子だった。
仮放送所のの最後の2日間と愛宕山に移ってからの2日間は“ドラの音”で正午を知らせた。

◆愛宕山時代 1925年(大正14)7月~
-チューブラーベルから自動送出へ-
愛宕山では、放送にのせるには音質が適切でないとドラにかわってチューブラーベルが採用された。
標準時計であるクロノメーターに技術職員がストップウォッチを合わせ、それを受け取ったアナウンサーが秒針をにらみながらチューブラーベルをたたいた。
□1928年(昭和3)
この年には中継線が整備され、時報は全国に流されるようになった。NHKは時報の自動化を計画。技術部員の加藤倉吉さんが試作研究を始めた。
□1933年(昭和8)
標準楽音440Hzを使い、自動装置の正式運転が始まった。時報は正時前の59分20秒から始まる。
上図下部の説明に「-印はピアノ音」とあるように、自動打鍵装置がカチカチ音をはさんで10秒ごとに予告音をたたいた。カチカチ音は電磁石に鉄片がぶつかる音を取り出した。

◆内幸町時代 1939年(昭和14)~
-自動報時時計による報時システムに-
第2次世界大戦中は、40秒の予告音がいかにも長く、30秒に縮められ、戦後になって、毎秒3つの予告音のあと正時音をたたくという現在の形になった。
ピアノの自動打鍵装置にかわってリレーで音叉をたたく方式になり、時報専用のスタジオはなくなった。
□1951年(昭和26)
文部省がNHKの時報を音楽教育の楽音の標準として利用するよう各学校に文書で通知。
□1960年(昭和35)
水晶発振器による新しいシステムがスタート。ラジオの時報だけでなく、テレビ画面時計、放送局内の各スタジオの秒時計、番組自動送出装置用にも使われるようになった。

◆現在
-ルビジウム発振器で誤差は1600年に1秒!-
時報のほかにも時報音はさまざまに利用されている。
FM放送の時報音:学校、病院、公園時計などの誤差修正。
教育テレビの時報音:家庭用VTRやDVDなどの内臓時計の修正。
BSデジタル放送・地上デジタル放送:正確な時刻を常時送り続け、電子番組ガイド(EPG)の情報で自動録画が簡単に出来るなど正確で信頼性の高い「時報」は、電波の広範性、即時性を最大限に生かし、多様な分野で活躍している。
(解説パネルより)

先ずは初期のドラとチューブラーベルと、それらを打つ為のストップウォッチです。
ドラとチューブラーベルストップウォッチ
ストップウォッチは「ロンジン製」だそうです。いずれも苦労の色が見えるようです。
そして、内幸町時代の自動報時時計などが、こちらに展示されています。
自動報時時計

確かに、単なる時報に過ぎないのですが、いわれて見れば自動録画など何もしていないのに時刻は常に合っているわけですから、単なる時報と済ませてはいけないのでしょう。
時報一つでもこのような歴史が隠されていたことが、非常に興味深い発見でした。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks