愛宕神社

「江」縁の地の散策も一応これで目的を果たしことになるのですが、愛宕山にきて「愛宕神社」を参詣しないわけには行かないでしょう。
博物館の直ぐ目の前がその「愛宕神社」なので、最後に参拝して帰ることにします。

愛宕神社

NHK放送博物館の前が「愛宕神社」です。
ロケーション的には愛宕山エレベーターから上がって鳥の巣のような橋を渡って、左側に博物館が、そして右側に「愛宕神社」があるのです。

最もこちらは表参道ではなく、南参道とでも言うべき境内の最南端になります。
愛宕神社
したがってここから入ると社殿の左手(表参道から見て)となります。
境内に入ると直ぐ神輿が出されています。
神輿
後に知ったのですが、この日は例大祭の日だったようです。但し今年は神輿の渡御が行われず、本日の午前中に例大祭式だけ行われたそうです。それで神輿が出されていたのです。

その先に柵に囲われた梅の古木があります。
将軍梅 平九郎手折の梅樹
「将軍梅 平九郎手折の梅樹」と書かれていますが、どのような由緒を持つものかがわかりません。
とにかく先に進みますと由緒書がありました。

愛宕神社御由緒 慶長8年(1603)9月24日建立
主祭神:火産霊命(火の神)
祭神:罔象女命(水の神)、大山祗命(山の神)、日本武尊(武徳の神)、勝軍地蔵菩薩(勝運・出世)、普賢大菩薩(辰・巳年の守り本尊)、天神社(学業)
境内末社: 太郎坊社(猿田彦神)、福寿稲荷神社(宇迦御魂神)、弁財天社(市杵島姫命)、大黒天神祠(大國主命)、恵比寿神祠(事代主命)
祭日:大祭-9月23・24日(出世の石段祭り/隔年)、中祭-6月23・24日(千日詣り・ほおづき縁日)、小祭-各月24日(月次祭)

当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年(1958年)再建されました。寛永11年(1634年)三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上がり、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。(ご社殿内に額縁寄贈)
海抜26mは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、現在は6月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残りをとどめています。

伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり

年間神事
1月元旦:歳旦祭、7日:七草火焚き祭(七草粥授与)
2月節分:節分祭
6月23日:千日詣り・ほおづき縁日(二十四日共)、24日:中祭式(夏越しの神事)
9月23日:出世の石段祭り(隔年)、24日:大祭式
12月大晦日:除夜祭・鏡開き式
昭和20年(1945年)、尊攘義軍十烈士が敗戦の国を憂い山上にて自刃・玉砕、並びに二夫人がその後を追われました。現在も慰霊碑の前で御遺族、有志の人達の手により慰霊祭が行われています。
(現地案内板説明文より)

この由緒では江戸時代、家康の命により創建とありますが、江戸名所図会では徳川家康の持仏「勝軍地蔵菩薩」についての由来が記載されていました。

縁起に日く、天平十年戊寅〔七三八〕、行基大士、江州〔近江国〕信楽の辺行化のとき、当社の本地、将軍地蔵尊の像を彫刻したまひ、後、安部内親王に奉る(第四十六代孝謙天皇〔七一八-七〇〕の御事なり)。親王、すなはち、かの地に宝祠を営みて、これを安置なしたまふ(その旧跡をも、いま、宮村と名づく)。しかるに、天正十年壬午[一五八二〕の夏、台旗〔将軍の旗。家康をさす〕泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。
このとき多羅尾四郎右衛門[一五三四-一六〇九〕といへる者の宅に、舎らせられける頃、あるじこの像を献ず(『多羅尾家譜』にいふ、「左京進光俊はじめて多羅尾と号す。その子常陸介綱知、三好若江の三人衆といふ。その子四郎兵衛光綱、江州信楽を領す」と云々。多羅尾は四郎左衛門にあらず、四郎兵衛光綱入道道賀のことなるべし)。その節、同国磯尾村の沙門神証といふを供せられ、この霊像を持して東国に赴きたまふ。しかりしより御出陣ごとに、神証をしてこの勝軍地蔵尊を祈念せしめらる。つひに、慶長八年突卯[一六〇三〕の夏、台命によつて同康子年[一六〇〇〕、石川六郎左衛門尉、当山を開き、仮に堂宇を造建したまひ、その後、同十五年庚成〔一六一〇〕、本社を始めことごとく御建立あり。
(江戸名所図会より)

そもそもは738年に行基上人が、修行を終えて教化の遍路に出た際に信楽周辺でこの勝軍地蔵尊を作り、後の孝謙天皇に捧げたもののようでが、その後800年以上もたった後に、何故、この多羅尾家にこの像があり、またどうして家康に渡ったのか、紐解く必要がありそうです。

まずはこの信楽がどのような地区だったのかを理解しなければならないようです。
白鳳~奈良時代にかけては近江大津宮の造営、さらに遷都やその後の壬申の乱、そして聖武天皇時代には恭仁京への遷都や、信楽宮の造営など大和(奈良)と山城(京都)を結ぶ朝廷の用件は多く、その途中にあった当時の多羅尾(地名として)は、山の中の寒村であったのですが、主要道路として多くの旅人に知られ、道中の“憩いの場”でもあったようです。現在の滋賀県甲賀市の南部にあたります。
したがって行基がその当時信楽辺りを辺行化しているのも、極、当然の成り行きだったかもしれません。
その“憩いの場”である多羅尾に「多羅尾」氏が生まれたのは、正應4年(1291)当時、信楽が藤原氏の一族・近衛氏の荘園だったころに始まります。この地には信楽荘という藤原氏の一族の近衛氏の隠居所があり、当時、左大臣・近衛経平が病弱なため職を辞してこの地に住み、この近衛経平と多羅尾の地侍の娘との間に生まれた男の子・高山太郎が、嘉元元(1303)年、母の里である多羅尾の地名を姓として、多羅尾師俊として改名し武士となり多羅尾家が始まったのです。

その後、この多羅尾家で歴史上名を現したのが多羅尾家14代目の光俊です。光俊は永正11(1514)年多羅尾に生まれ、佐々木六角高頼の配下であったのですが、高頼が死んでからは織田信長に仕えました。
そして家康との出会いは、記載にある「泉州を発したまひ、大和路より宇治を経て、江州信楽に入らせたまふ。」という、いわゆる本能寺の変の際の家康が「伊賀越えの難」にあったときです。
家康は本能寺の変で自分の身が危ないと察し、堺から急遽三河に急ぎ戻ろうとしたところ、何度も山賊や野武士に襲われ、やっとのことで宇治田原(現在の京都府綴喜郡)までたどり着いたのです。
宇治田原城主であった山田甚助の養子・藤左衛門父子は家康一行を厚くもてなす一方、実家の父・多羅尾城主に連絡し、光俊は二男の光太、三男・光定を迎えに出し、藤左衛門とともに多羅尾城に出迎えたのでした。
その後家康は多羅尾家一行に守られ無事伊勢白子浜に到着し、三河に帰ったのでした。

こうして光俊は天正14年頃には8000石の大豪族となり、秀吉の姉「とも」の長男で、豊臣家の世継ぎになっていた関白大政大臣秀次に光俊の孫娘「お万」が見初められ、秀次に「お万」を側室として差し出したのでした。
こうした中、秀次の素行が荒れだし謀反との噂の中、秀吉はついに秀次に切腹を命じ、四人の若君と一人の姫君、それに側室として仕えていたお万の方を含む34人、計39人を処刑したのでした。
そして光俊はじめ多羅尾家一族は秀次との関係から、本領、領地すべてを没収され伊賀国に隠れるような生活を強いられたのでした。

秀吉が亡くなり家康の天下となると、家康は早速光俊をはじめ一族の者を信楽に呼び戻し、当座の手当てとしてニ百人扶持を与え、光太を徳川家の旗本として取り立て、関東・上杉討伐に参戦、関が原の合戦で戦功のあった光太に、かつての多羅尾家の領地信楽7000石余を与え、弟の光定、山口藤左衛門なども旗本に取り立て、さらに光俊には隠居料として小川の800石を与え、昔の伊賀越えの難での恩に報いたのでした。
そして時代は下って寛永15年、江戸幕府は多羅尾家16代光好を代官に任命し、信楽・多羅尾村にある光好の屋敷内に代官信楽御陣屋という近畿地方の天領を治める役所を設けさせ、これが明治まで続いた多羅尾代官所の始まりとなったのです。
こうして歴史を追ってみると、多羅尾家がそもそも朝廷に近い近衛家の親類だったことで、「勝軍地蔵尊」像が多羅尾家に存在し、「伊賀越えの難」の際に守り神として家康に渡ったものであろうということが理解できるわけです。

「勝軍地蔵尊」が解決した次の謎であった梅の由緒もわかりましたね。曲垣平九郎盛澄が手折った梅だったのですね。「出世の石段」については後ほど見た後にしておきましょう。

また、由緒書きの隣には「桜田烈士愛宕山遺跡碑」と刻まれた記念碑がありますが、これが桜田門外の変を起こした水戸浪士の集合場所記念ということでしょう。
桜田烈士愛宕山遺跡碑

昔、吉村昭著の「桜田門外ノ変」を読みましたが、確かに愛宕神社集合したとかの記述がありましたね。うる憶えですが。
この結果はいうまでもありません、ここから時代が大きく動き出したといっても過言ではない影響を社会に与えたのですが、この変を100年以上引きずっていたことがあったということの方が驚きです。
それは、この事件の当事者である当時の水戸藩と彦根藩、現在の水戸市と彦根市が和解したのが何と110年後の1970年だったそうです。水戸市からは偕楽園の梅、彦根市からは堀の白鳥がそれぞれ贈られたということだそうです。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主、井伊直愛だったそうで、和解させたのが敦賀市だったそうです。
何故、敦賀市がというと敦賀は水戸天狗党がことごとく殺された土地で、水戸と敦賀が1964年に姉妹都市提携を結んだことから、水戸と彦根の仲立ちをしたのだそうです。
その後、彦根市は高松松平氏と水戸徳川家の血縁関係から水戸市と高松市の姉妹都市提携の仲立ちをしたそうです。
勿論、話題づくりの一環としての和解でしょうが、そういった因縁が現在まで残っているとしたらどこになるのでしょうか。鹿児島と会津とか…、ですかね。

記念碑の反対側には手水舎があり、そこには「羽子板絵馬」と記載されています。
羽子板絵馬
これが由緒にもあった羽子板市の発祥の地としての名残でしょう。
江戸名所図会にも記載があります。

月ごとの二十四日は、縁日と称して参詣多く、とりわき六月二十四日は、千日参りと号けて、貴賎の群参稲麻のごとし(縁日ごとに植木の市立ちて、四時の花木をここに出だす。もつとも壮観なり)。
(江戸名所図会より)

この千日参りは、6月24日に参拝すれば1000日詣でたのと同じ御利益があるのだそうです。そしてこの日は「ほおずき市」が立ち、これもまた発祥の地なのだそうです。
元々江戸時代に神託によりほおずきが薬であることを知り、家族や隣人に飲ませたところ、子供の疳の虫や夫人の癪が治ったということから広まったようです。てっきり「ほおずき市」は浅草が発祥だと思っていましたので意外でした。
確かなことかどうかは判りませんが、発祥の地ではありながら、現在「羽子板市」は特に開かれていないようで、その代わりが「羽子板絵馬」なのでしょう。実際に見ていませんが、羽子板の形の絵馬(そのまんまではありますが・・・)と思っておけば間違いないでしょう。
いずれにして、どちらも現在は浅草寺の風物詩となっていますが、歴史を辿ると興味深いものが見つかるものです。

ここからは参拝に向かいますが、目の前には比較的新しそうな朱の神門があります。
神門
江戸名所図会には「楼門の金剛力士は運慶〔?-一二二三〕の作、同二階の軒に掲げし「愛宕山」の三字は、智積院権大僧正〔玄宥、一五二九-一ハ〇五〕の筆なり。」といったことが書かれています。

江戸名所図会での「愛宕神社」です。江戸名所図会は2枚に分かれていますが、これは上下の連作となります。
愛宕権現 《江戸名所図会-1》

愛宕権現 《江戸名所図会-2》
下の図のいちばん手前には総門がありますが、これは楼門ではなさそうなので、上の図の二王門のことを楼門と言っているのでしょう。 当時は立派な二王門があったようです。
この挿絵で見る限り愛宕山は相当高いように感じられます。

それでは神門をくぐって参拝しますが、その前にまたまた気になるものが左手にあります。
「招き石」なるもので、撫でると福が身につくようです。
招き石
謂れは判りませんが、やれるものはやっておきましょう。
そして立派な社殿で参拝をすませます。
社殿
社殿の横には境内末社が並んでいます。
末社
そして帰りは表参道から帰りますが、その途中に池があり、その由緒が書かれていました。
児盤水(小判水)の滝

児盤水(小判水)の滝
昔この愛宕の地に児盤水(又は小判水)と云う霊験あらかたな名水が湧き出ていました。承平3年、平将門の乱の時、源経基と云う人がこの児盤水で水垢離をとり愛宕様に祈誓をこめ神の加護により乱を鎮めたと云うことが旧記にのっています。然し現在では昔を偲ぶものとてありません。幸い都心にそびえ立つ録の名跡愛宕山にゆかりも深い児盤水の名をとどめ昔を偲び東京の新名所として御参詣の皆様に神のお恵みと心の安らぎを得ていただければ幸いと存じます。
昭和51年如月 宮司 松岡岑男
(現地案内板説明文より)

現代で言うところのパワースポットといったところでしょう。
児盤水(小判水)の滝

ここから後先になってしまいましたが、「出世の石段」にむかいます。
石段の手前には二の鳥居があり、それをくぐる抜けると「出世の石段」となります。
二の鳥居
先ずは、この境内から見える眺望を確かめますが、残念ながら江戸時代や幕末のような眺望を望むのは無理なようです。
江戸名所図会にはこのように記載されています。

そもそも、当山は懸岸壁立して空を凌ぎ、六十八級の石階は、畳々として雲を挿むがごとく聾然たり。山頂は松柏鬱茂し、夏日といへども、ここに登れば、涼風凛々として、さながら炎暑をわする。見落ろせば、三条九陌の万戸千門は、甍をつらねて所せく、海水は砂焉とひらけて、千里の風光を貯へ、もつとも美景の地なり。
(江戸名所図会より)

当時、境内からの眺望はNHK放送博物館で見たベアトの写真を思い出すと判りやすいのですが、いわゆる江戸時代にあっても大都会の先に大海原が見える絶景の地といった意味合いでしょうか。
流石に、時代が変わっても大都会には違いないのですが、残念ながらここからでは海は見えなくなっています。

早速、「出世の石段」を下るのですが、かなり急な石段で、石段自体の幅が狭いのでより急に見え、手摺を伝わなくては恐怖心に勝てませんでした。
出世の石段
下までおりて石段を見上げると、逆に急な上り階段であることが(当たり前!)見てとれます。
出世の石段
下ってくるときに数えたら86段(恐らく・・・)あったようでした。
江戸名所図会には“六十八級の石階”とあるのですが、当時は68段だったのでしょうか。それにしても「懸岸壁立して空を凌ぎ」といった辺りは現在も同様のようです。

ということで、単に昇るのもきついでしょうが、馬にのって上がるとは、恐れも知らぬ行為ですが、それによって全国に名を轟かせたというところも納得できますが、ただ現在のような意味での出世(階級が上がるといった)を曲垣平九郎がしたのかどうかは不明です。
それでも世の中面白いことを考える人がいるもので、この曲垣平九郎にチャレンジした人がいるそうです。要するに馬で駆け上がれるかというチャレンジで、何と成功例は3例あるそうです。
1例目は、仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬という人で、明治15(1882)年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許されたそうですが、この当時の葵の門の価値はどうだったのでしょうかね。
2例目は、参謀本部馬丁の岩木利夫という人で、愛馬・平形の引退記念として挑戦し大正14(1925)年11月8日に成功したのだそうです。この模様は山頂の東京放送局(現・NHK)によって生中継されたそうです。勿論、当時はラジオですが、これが日本初の生中継なのだそうです。放送博物館には、そのようなデータはありませんでしたが、芝浦の仮放送が大正14年(1925)3月22日で、愛宕からの本放送が7月12日ですから、確かにありえる話しではありそうです。
このとき昇りは僅か1分ほどだったようですが、下りは45分もかかったそうです。馬のひずめでは確かに下りのほうが怖いでしょうね。
因みにこの愛馬・平形は、この放送で昭和天皇の耳に入り、陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなったそうです。
そして最後の3例目が、馬術のスタントマンである渡辺隆馬という人だそうです。昭和57(1982)年、日本テレビの特番「史実に挑戦」で安全対策の上で実施されたそうで、32秒で登頂したようです。
まあ、この後挑戦する人がでても、実施させてくれないでしょうね。

この男坂の隣には勾配が緩やかな女坂があり、江戸時代当時の香りを留めているようです。
男坂と女坂
さてここでもう一度、江戸名所図会の愛宕権現全図を見ると、出世の石段の麓の右側に「本地堂」と書かれた堂宇が確認できます。
本地堂 《江戸名所図会》
これは本地仏である「勝軍地蔵菩薩」のことで、愛宕山金剛院でったとされています。しかしながら御府内八十八ヶ所大意によると、金剛院についての説明に「円福寺寺中愛宕御本地堂」とあり、この出世の石段下の参道周辺が別当である「円福寺」といえるのでしょう。

この「円福寺」についても江戸名所図会に記載があります。
「愛宕山円福寺毘沙門の使ひ」という挿絵が描かれています。
愛宕山円福寺毘沙門の使ひ 《江戸名所図会》

愛宕山円福寺毘沙門の使ひは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕やといへる茗肆のあるじ、旧例にてこれを勤む。この日寺主を始めとし支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯を饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、麻上下を着し、良き太刀を佩き、雷槌を差し添へ、また大なる飯がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、これを冠る。相随ふもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎机によりてたたずみ、飯がいをもて三度魚板をつきならして日く、「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、古参は七杯御飲みやれ御のみやれ。おのみやらんによつては、この杓子をもつて御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、その一ろうたるもの答へて白く、「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と云々。「しからば毘沙門の使ひは罷り帰るで御座ある」といひて、本殿へ立ち帰る。
(江戸名所図会より)

要するに愛宕神社から毘沙門天の使いという者が、無位無官の旗本の礼装であった“素襖”という着物を着て、昆布の兜を被り、すりこ木と長太刀に大杓子を持って、愛宕神社下の円福寺の寺僧にご飯を強要するという儀式が毎年正月3日に行われていたというものです。
図会にも下手の中央に「大杓子」を持った人が描かれており、これが「毘沙門天の使い」なのでしょう。
この異様な「大杓子」ですが、一般的に大杓子は広島の宮島のイメージが強いのですが、京都の知恩院にも「大杓子」があるそうです。伝説によると、これは三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったといわれているのですが、ご飯を「すくう」=人々を「すくう」という救済にとして、阿弥陀仏の慈悲深さをあらわしているともいわれているそうです。このような由来ゆえかどうか定かではありませんが、ユニークな儀式といえるでしょう。

要するに一の鳥居の左右周辺に円福寺があったということでしょう。
愛宕神社 愛宕神社
噛めば噛むほど歴史の味が染み出してくるようで、懐の深そうな神社でしたが、最後に大変なことを思い出しました。
今回は裏の参道から入って表参道を通って出てしまったことから、「出世の石段」を下ってしまって、上っていなかったのです。ということは、私の出世は…、下り!? 
必ずもう一度行って石段を必ずのぼります!!!!

真福寺

「愛宕神社」を後にして最後に訪れたのは、江戸名所図会にもあった「真福寺」です。
真福寺 真福寺

摩尼珠山真福寺
桜川の西岸に傍ひてあり。新義の真言宗にして、江戸四箇寺の一員、智積院の触頑なり。当寺本尊、薬師如来の霊像は、弘法大師の作なり。慶長[一五九六-一六一五〕の頃、甲州の領主浅野長政〔言茜七⊥六】こ、当寺中興照海上人をして、みづからの等身に薬師仏の像を手刻せしめ、件の霊仏をばその胎中に籠め奉るといへり(毎月八日・十二日は縁日にして よって参詣多し)。
(江戸名所図会より)

浅野長政といえば、叔父である浅野長勝の娘・“やや”の婿養子として家督を継ぎ、同じく長勝の養女となっていた“ねね”が秀吉に嫁いだことから、秀吉に最も近い姻戚として秀吉の与力となった人です。
秀吉時代には、五奉行の筆頭となり、その行政手腕を買われていたようです。
その後、朝鮮出兵などにも功績を残し、甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入ったのが文禄2(1593)年だったそうなので、このころ薬師如来像を奉安したのでしょう。
この後、一旦家康から暗殺の嫌疑をかけられたことから武蔵国府中に隠居し、家督を子の幸長に譲ったのです。
関が原の戦いで幸長は、家康方に付いた事で紀伊国和歌山37万石へ加増転封され、長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移ったそうです。
ちなみにこの浅野長政の次男は安芸国広島藩となり安芸浅野家として幕末まで続き、三男の長重は長政の隠居料を相続して真壁藩主となり、子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となる赤穂浅野氏となりました。
この長重の曾孫、長政にとっては玄孫があの元禄赤穂事件の浅野内匠頭長矩なのです。

江戸名所図会では、薬師堂のほかに弁天堂、不動堂、聖天堂などを見ることができます。
真福寺 《江戸名所図会》
この浅野長政については記載されていませんが、由緒が記載されています。

総本山智積院別院 摩尼珠山 真福寺 略縁起
真福寺は京都市東山七条にある真言宗智山派総本山智積院の別院で、真言宗智山派の宗務出張所が置かれているお寺です。
天正19年(1591)中興照海上人が徳川家康公を慕って江戸へ出て、鉄砲洲に庵を構えたのが始まりで、慶長10年(1605年)家康公より愛宕下に1360坪の土地を賜わり、開創されました。
元禄年間になると弘法大使四国八十八箇所札所詣りの信仰が盛んになり、宝暦年間には御府内八十八箇所が定められ、真福寺も第六十七番札所として名を連ねています。
このお寺のご本尊様は「薬師如来」、正しくは「薬師瑠璃光如来」といい、そのお姿は、右手で人々に安らぎと勇気を、左手に持つ薬壺で、病気の苦しみを除く請願を示し、「愛宕下のお薬師さん」と通称され、ご縁日には門前市を成す賑わいで、広く庶民の信仰を集めてきました。
長い歴史の中で度重なる火災や震災などにより堂宇も焼失しましたが、大正から昭和にかけて再建された本堂や庫裡も老朽化が進み、平成7年4月に近代的な「真福寺・愛宕東洋ビル」として再生され、宗団の東日本における拠点として活動しております。
総本山智積院別院  真福寺
(現地案内板説明文より)

真言宗智山派の宗務出張所が置かれているというところに「江戸四箇寺」と呼ばれた所以があったのでしょう。
当時の「江戸四箇寺」とは他に、豊島区の根性院延寿寺、墨田区の徳宝院弥勒寺、足立区の吉祥院星谷寺といわれていますが、他にも説はあるようです。
さらに案内板には別の説明もありました。

オランダなど使節宿館跡
幕府は、安政5年(1858年)、アメリカを初め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五ヵ国と通商条約を結び、江戸の地には、外国の使節の往来がはげしくなった。この間、江戸における使節団の宿舎として、攘夷派浪士への対策、多人数が収容できるなどの理由から寺院が選ばれている。ことに港区内の寺院は、開港場と江戸を結ぶという地理的条件から宿舎に指定されるものが多かった。
真福寺(真言宗智山派の東京別院)は、安政5年3月から約半年間、オランダ使節の宿舎となり、以後、当寺は、短期間であったが、ロシアやフランスの宿舎にもなった。なお、当時の建物は関東大震災で焼失した。
昭和50年1月 東京都港区教育委員会
(現地案内板説明文より)

寺院というのは昔はあるときは宿舎、あるときは娯楽場、そしてある時は葬儀場として多目的に使われていたようです。
ある意味では現在のコンビニエンステンプルといったところでしょうか。港区らしい歴史を感じさせてくれます。
最後に真福寺を参拝して、この場を後にしました。
真福寺

こうして浜松町駅前の「世界貿易センター」ビルから始まった、「江」を訪ねる今回の散策も、この「真福寺」で終了です。
特に増上寺を中心とした、徳川家との縁ある芝公園には、上野などと同様、江戸時代の歴史の宝庫といえるかも知れません。
突如して降って沸いた「江」ブームに確かに乗らない手はないと思います。 そういった意味では、今後、このような機会に恵まれるかどうかも判りませんので、今回の散策は実に思い出に残りそうな散策でした。
最後に今回は大河ドラマのように実に長い長い散策記になりましたが、今後は無理でしょう、きっと…。

2011.10.20記

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks