迷路のような町並み

現在の墨田区の話題といえば全国的には「東京スカイツリー」しかありません。
634mの世界一の高さを誇るタワー自体は完成し、2012年5月22日のグランドオープンを迎えるまでの最終建設・準備が行われています。
恐らくオープンと同時に溢れるばかりの観光客が訪れることでしょうが、現在でも観光客は徐々に増えつつあるようです。
その「東京スカイツリー」のある“業平橋駅”(いずれ「とうきょうスカイツリー駅」に改称されるようですが)の一つ先の駅が今回の出発地点の東武伊勢崎線「曳船駅」なのです。

スタンプラリー

曳船駅に降り立つのは初めてです。
曳船駅
このような機会がなければ一生来る機会はないでしょう、恐らく。
最初に向かうのは「鳩の街通り商店街」というところで、最近ではその存亡も危惧されている昔ながらの商店街です。
曳船駅から5,6分歩いたところにあるのですが、当然ながら途中スカイツリーをチラチラと見ることができます。
スカイツリー
逆光で写真写りはよくありませんが。

既に下町らしい街中を抜けて水戸街道に到達すると、道の向こう側に狭い路地のような商店街が発見できます。
商店街入口
まさに発見といった方が相応しい、目的としていなければ気がつかない商店街といえるでしょう。
通りを渡って商店街の入口に着くと、ピンクのアーケードが意外と(といっては失礼ながら)オシャレなのに感じ入りました。
アーケード 商店街
但し、アーケードの先の直前を見渡すと、本当に商店街なのと思ってしまうほど商店街のイメージはありません。

この「鳩の街通り商店街」は昭和3年に設立された寺島商栄会から続く約80年の歴史をもつ商店街だそうで、東京大空襲をまぬがれたために道幅は戦前のままで、昭和初期の木造建築物が残っている昭和レトロな商店街なのだそうです。
そして最近では活性化への取り組みが評価されて経済産業省の「新・がんばる商店街77選」の一つとして全国の商店街から選ばれたそうなので、その選定理由からこの商店街の特徴が把握出来るでしょう。

商店街のアートスポットから地域の魅力を情報発信
昔懐かしい建物が点在し、昭和の面影を色濃く残す商店街であり、芸術や建築関係者の人気を集めている。昔ながらの商店に加え、木造長屋を改装したカフェや工房ショップが人気を集め、地域の魅力を発信しながら地域に活気を与えている。
(中小企業庁サイトより)

様々な工夫や努力によって何とか商店街を活性化しようとしている姿が目に浮かびます。
といってもこちらの電気店のように閉店というだけでなく建物自体もかなり老朽化している状況で、商店街の活性化というのは口で言うほど簡単なものではない事を実感させられます。
商店街

閉店した電気店を進んでやっと商店が現れてくると、1軒を間に挟んで2軒の病院があります。
手前が「長田医院」で奥が「三浦医院」です。
長田医院 三浦医院
長田医院が耳鼻咽喉科と内科の診療所で、三浦医院が内科と小児科という一部内科でコンペとなるのですが、何となく地元では棲み分けが出来ているのでしょう。珍しいといえば珍しいケースのように思えますが、この辺りが商店街にある病院の面白さかもしれません。
因みに三浦医院は昭和27年に開院して以来、ほぼ60年が経過するという歴史を持った医院のようなので、ずっとこの商店街をはじめとした地域住民に頼りにされてきたのでしょう。

三浦医院から先にある右折した路地には井戸があります。
路地尊 路地尊
この周辺地域では有名な「路地尊」という井戸なのだそうです。
この路地尊とは、降った雨を広場などの地下の雨水貯留槽にため、手押しポンプで汲み出して利用するシステムのことを言うのだそうです。
これは、この地域周辺が細い道(路地)ばかりであるということを認識して、通常は地域の広場というコミュニケーションの場として、また災害時には避難路になるという路地を尊ぼうという気持ちから「路地尊」と名付けられたものだそうです。
そもそもは東京都の「防災生活圏モデル事業」に選定されたのがきっかけで“一言会”という組織がが設立され、「一寺言問を防災のまちにする会」によって考え出されたものなのです。
昭和62(1987)年に「路地尊1号基」が設置され、ポンプが組み込まれた路地尊は翌年の昭和63年に設置された2号基からのようです。
現在は、ポンプのある路地尊は21基あり、そのうち向島・東向島のこの周辺には、6号基までの5ヶ所があるそうです。そしてここにある路地尊は5号基で、通称“はとほっと”と呼ばれていて、広場を含めて予算約900万円で設置されたものだそうです。
やはり下町では、このように地域の防災意識が高いのですね。

参考:【一言会】http://hitokotokai.com/

ここからまた商店街に戻って先に進みます。
左手に「鈴木荘」と書かれたフラッグが垂れています。
チャレンジスポット! 鈴木荘 チャレンジスポット! 鈴木荘
ここが今回のスタンプラリーの最初のチェックポイントである「チャレンジスポット! 鈴木荘」です。
このチャレンジスポット! 鈴木荘は、鳩の街通り商店街振興組合が6室の空きアパート“鈴木荘”を一括して借り上げ、それをベンチャービジネスや店舗として3年間の期間限定で利用者に運営してもらい、商店街の活性化に活用するという目的のために開放された施設なのです。
現在、1階の奥は脚つぼマッサージの店で、真ん中の店舗はレンタルショップ、という具合に7日単位で借りられるのだそうです。
そして一番手前が「紙工房 堂地堂」という店舗で、ここがスタンプラリーのポイントとなっています。
紙工房 堂地堂
先ずは最初のスタンプをいただきます。
スタンプ
この「紙工房 堂地堂」はオリジナルのノート、メモ帳、スケッチブック等を製造・販売していて、オリジナルデザイン表紙のノートや、スカイツリーをモチーフとした「すけっツリー」といったコンセプト商品があります。
紙工房 堂地堂 紙工房 堂地堂
ステーショナリーやハンドメイドクラフトなどが好きな人には楽しいショップでしょう。
2階はどのようなショップ・事務所なのかは判りませんが、商店街の呼び水になってくれると良いのでしょうね。

鳩の街

「チャレンジスポット! 鈴木荘」でスタンプをいただき商店街を進むのですが、鈴木荘の反対側にはまさに昭和レトロを地で行くような建物があります。
旅館 桜井
よくよく見れば玄関の左上に白い楕円形の表札がありますが、そこには小さく「旅館 桜井」と記載されています。この状況から見れば現在は当然営業されているとは思えません。先の電気店と同じように今だ再生がされないままということでしょう。
このような廃屋!?について気になったので、「桜井旅館」について少し調べてみました。
すると一般財団法人ハウジングアンドコミュニティ財団という組織の発表してる“住まい・まちづくり活動事例集”のなかに、この桜井旅館を取り上げた「向島学会」という報告書がありました。

元桜井旅館改修ケーススタディ
─墨田型グループホームから(仮)地域生活支援ステーション・墨田への転回と展開─
鳩の街商店街に面する旧・桜井旅館は、木造2階建て、延べ面積103.5m2(31.3坪)の建物であるが、まちのシンボル的外観を呈することから、向島学会や商店街からも何らかの活用が期待されている。長い間旅館としては使われておらず、雨漏りや構造面での傷みもいくらかあり、また、所有関係も複雑になっている。
向島に隣接する山谷地域を拠点に活動するNPO自立支援センターふるさとの会が、この旧旅館を改修して地域福祉の拠点をつくろうというプログラムを提案した。まずグループホームを計画したが、資産となる建物の購入や改修費などの初期投資に対する金銭的問題から実現しなかった。しかし、2004年11月、新しいオーナー候補が出てきて、借り手がいれば建物を改修して賃貸に出すという話が浮上したため、新たに地域生活支援センターとして開設することを決定し、2005年3月現在、まちづくり会所で改修の相談を行いながら検討を進めている。
地域に福祉的施設を根付かせる上で地域との連携は不可欠であり、鳩の街商店街や向島学会との協働プロジェクトの拠点としても位置づけている。具体的には、この建物1階リビングスペースを不定期の会所や店舗スペースにするなどの案が考えられる。
(「住まい・まちづくり活動事例集」財団法人ハウジングアンドコミュニティ財団より)

商店街の再生化・活性化の一つの提言のようですが、これは平成17年時の報告書ですから地域生活支援センターとしての再生は頓挫しているということになるのでしょう。
我々素人には良く判りませんが、こういった地域の活性化や再生といったことがどれだけ困難なことであるかを知らしめてくれたといった意味においては、店舗再生のシンボル的建造物といえるのでしょう。
それにしても玄関のデザインなどは妙に凝ったデザインです。やはり旅館としての佇まいを、下町らしい“粋”で表現したものなのでしょうかね。

参考:【財団法人ハウジングアンドコミュニティ財団】http://www.hc-zaidan.or.jp/index.html

鈴木荘・桜井旅館から先に進むと、左手に「佃忠 向島店」というお店があります。
佃忠 向島店
おでん種だけを販売している店舗で、しかも製造・販売という自家製なのです。おでん好きの私としては、こういった店が近くに欲しかったのです。おでん種は勿論スーパーなどで買えるのですが、やはり専門店は味が良く変り種もあるので見逃せないのです。
しかもこの「佃忠」は明治45年日本橋で創業して、昭和56年に向島に開業したという老舗のようなので、余計にそそられるのですが、現在はチェーン店化しているのでしょうか。
散策が始まったばかりですし、お店もまだ準備している最中なので購入できませんが、よだれを流さんばかりに後ろ髪引かれつつ先に進むことにしました。

ここで少し寄り道をします。
「佃忠」の反対側に細い路地へ右折して、更にその路地を左折するとこの街の重要なポイントとなるレトロな街に出会えるのだそうです。
旧赤線地帯
ちょうど商店街と東側に1本ずれて並行する路地です。
商店街より更に細い路地で、その重要ポイントとは、この路地にある建物に関係していて、ここに見える一部タイル張りの建造物が当時の名残なのです。
カフェ建築物 カフェ建築物

そう、この路地はかつて「赤線」として発展した路地で、「赤線」ゆえに表通りではなく裏通りに存在していたのです。
先ずはこの赤線を知る事から始めないといけませんね。
この「赤線」とは、戦後GHQによる1946年の公娼廃止指令から、1958年の売春防止法施行までの約12年間に、黙認(半ば公認)で売春が行われていた地域をいいます。
戦前までは、特に江戸時代のような公認の遊郭等があったのですが、GHQの民主化政策により女性の人身売買を禁止しようとしたのが公娼廃止指令なのです。しかし一方では女性の自由意志による売春自体は禁止できないとして、売春が完全に禁止になったわけではないのです。簡単に言えば無理矢理に売春をさせてはいけないが、生活のために自らの意思で行う分には黙認しますよということなのです。
そこで遊郭などがあった場所では警察の指導で看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取ることとなり、娼妓・私娼は女給と呼ばれるようになったのです。このことから東京ではこのような風俗店をカフェーと呼ぶようになったのだそうです。ちなみに大阪では料亭などと呼んでいたそうです。
そして東京のカフェーの場合、建物もまたよりカフェーらしくするため1階にはダンスホールやカウンターなどが作られ、女給は2階に間借りして、ここで売春を行うといった仕組みになっていたようです。

では一体何故カフェーという隠れ蓑になったのでしょうか。
日本で始めて開業したカフェは、明治44(1911)年、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に開業した「カフェー・プランタン」だそうで、コーヒー・酒、そしてソーぜージ・マカロニグラタンなど当時としては珍しいものが出されていたのです。勿論、当時フランスのカフェを模して造られたのですが、当時は会員制のカフェーとして黒田清輝、岸田劉生、森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎などの文化人が名を連ねていたようです。
このフランスのカフェを模した「カフェー・プランタン」ですが、一つだけフランスにはない特徴があったのです。それは“女給”がいたことなのです。
カフェー・プランタンの女給 《写真:当時のカフェプランタンの女給(サイト「大正風俗事情」より)》
文字通り現在で言うウェエイトレスのことですが、当時のフランスのカフェでは男性が給仕していたのだそうです。
そして「カフェー・プランタン」ではこの“女給”に人気が集り、かなり繁盛したのだそうです。

こうした歴史の中で後年、この赤線地帯を黙認するために警察は「カフェー・プランタン」のようなカフェ風の店舗へと表向きを整えさせたのが真相のようです。
そしてこの「赤線」の名は、戦前から遊郭などの風俗営業が認められる地域を、警察では地図に赤線で囲んで表示してたことから呼ばれたと言われているのです。
因みに「赤線」の他に「青線」というのもあり、風俗営業法の許可を取らずに保健所から飲食店の許可だけで「赤線」と同様の営業を行っていたところを「青線」と呼び、東京では新宿歌舞伎町がそれにあたりました。現在その一部が新宿ゴールデン街です。
ちょうど私が生まれた頃に売春防止法が施行されたのですから、全く知る由もない時代だったのです。

それでは次に、このような赤線がどうしてこの鳩の街にやってきたのかを探ってみます。
発端は大正7,8年頃、浅草観音裏手の境内が狭められ、道路の拡張工事より、その周辺に密集していた射的場や銘酒屋と称する売春宿などが取り払われることとなり、丁度バスの便がよかった大正通り(現在の白髭橋~四つ木橋に至る)沿いに店舗が移転したのでした。
その後、関東大震災により浅草周辺の営業再開が禁止されたことから、売春宿は大正通り沿いの“玉の井”周辺に腰を落ち着け、次第に活況を呈したのだそうです。
賑わった「玉の井」でしたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で消滅し、当時400~500軒あった売春宿と1200人程度の娼婦は四散したのでした。
その四散した中の売春宿5軒と娼婦12人が戦災を免れた寺島商栄会へ移り、長屋を改装して売春宿を再開し、終戦直後はは占領兵士の慰安施設として活用されたのだそうです。
しかしながら性病蔓延の恐れから昭和21(1946)年に米軍兵士の立入が禁止され、その後日本人向けに特殊飲食店・従業婦と呼び名を変え赤線地帯となり、昭和27(1952)年には108軒、従業婦298人という赤線としては飛躍的な発展をしたのです。
これもある意味では、戦災に遭わなかった商店街の功罪の一つといえるかもしれません。

この頃の「鳩の街」を著したものに、吉行淳之介の小説「原色の街」や、永井荷風の戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」などがあるそうで、吉行や荷風の他、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一など多くの文化人が出入りしていたことでも知られているようです。
さて、このように赤線地帯として発展した“寺島商栄会”ですが、どうして現在の鳩の街通り商店街という名称になったのでしょうか。
これは赤線のできた頃、当時、黙認されていたとはいへ、やはり赤線があることで薄暗いダーティーなイメージを拭い去ることができないため、当時の東京都衛生局の細川事務官という人が「鳩の街」と命名し、明るさと平和という現代的なイメージを打ち出して、このダーティなイメージを払拭しようとした結果なのだそうです。
同じように街の淫靡なイメージ払拭を図って東武鉄道の「玉の井駅」を昭和62年に「東向島駅」と改称した玉の井地区と、「鳩の街」をそのまま町興しに利用した東向島地区の対比には非常に興味を覚えるところです。

こうして発展した「鳩の街」も昭和33(1958)年4月1日に施行された売春防止法により、すべての売春宿が廃業し、最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだそうで、その名残を留めているのは「鳩の街」というネーミングと、このタイル張りの家屋だといえるのです。
このように、これら昭和の建造物は現在の鳩の街を語るに重要な歴史的ポイントなのですが、当然、居住している方たちもいらっしゃるので、写真などは程ほどにしておきましょう。
カフェ建築物
このような歴史を持つ「鳩の街通り商店街」からも、向島地区のこれからの歴史を作る現代のシンボル「スカイツリー」を見ることが出来ます。
スカイツリー
決して平坦な道ではないのでしょうが、スカイツリーと共にまた新たな歴史を作り出すのでしょう。

鳩の街通り商店街

昭和のディープな歴史に触れ、再び商店街を進みます。
左側には「大塚商店」という雑貨屋さんがあります。
大塚商店
確かに30~40年前にはこう言ったお店が何処にもあったのを記憶しています。
現在、こういった雑貨はスーパーなどで購入するのが殆どなのですが、このようなお店ではコミュニケーションが弾むところがよさなのでしょうか。
このお店は昭和17(1942)年の開業だそうですから、まさに太平洋戦争の最中ということになります。空襲の被害に会わなかったことから昭和の生き字引のようなお店が残っているのです。

「大塚商店」の斜め2軒先に「こぐま」というアート&カフェと銘打ったお店があります。
こぐま
昭和2年建築の元薬局を改修して食事とコーヒーを出す飲食店でありながらギャラリーや古本コーナーなどがあり、かなり人気のお店のようです。
人気の秘密は「すみだ個だわりショップ認定店」「墨田区商店コンクール優良賞受賞」等を受賞し、古民家カフェとして古きよき時代を演出している点にあるのだそうです。
まだ、時間も早く休憩するほど散策をしていないので店内には入りませんでしたが、その代わり店の前でちょっと珍しいものに出会いました。
「路地琴」というものだそうです。
路地琴
この「路地琴」とは所謂、据え置き型の水琴窟のことで、上から柄杓で水をかけると壺の中で水滴の音が反響して美しい音色を奏でる仕組のものです。
壺から飛び出た竹の筒に耳をつけて聞くのですが、実際にやってみると割と周辺が静かなので、耳をつけなくてもその場で綺麗に聞こえるものです。中々風情を感じる面白い演出に感心する次第です。
これは路地琴プロジェクトという団体が主催しているのだそうで、墨田区と北十間川以北のエリアを対象として、現在35ヶ所に路地琴が設置されているのだそうです。
「路地尊」や「路地琴」など、地元のことを真剣に考え、そして地元を愛している人たちがたくさんいるということの証かもしれませんね。

参考:【路地琴プロジェクト】http://www.rojikin.com/

「こぐま」を後にして商店街はいよいよ大詰めに近づいてきました。
「こぐま」の先の左側には昔ながらの魚屋「魚政」があります。
魚政
こちらも50年以上の歴史を誇る鮮魚店なのだそうです。現在ではスーパーでしか魚を買う機会はなくなりましたが、小学生、中学生時代にそれぞれ一人ずつ家庭が魚屋だという同級生がおり、風の便りでは一人は後を継いだと以前聞きましたが、今はどうしているのでしょうか。
ノスタルジーを感じる「魚政」でした。

その先の角の左側には「池田屋」があります。
池田屋
ここも創業60年以上経過する老舗なのだそうです。やはり戦後間もなく戦災に遭わなかったこの地で開業したのでしょう。
興味深いのが職種で「染物、洗張り、生洗、しみ抜き、和装小物」とあります。
染物は文字通り着物やのれん、半天などを染めることで、染物、洗張り、生洗は着物の手入れのようです。つまり着物を販売しているのではなく、着物の修理・メンテナンスを生業としているということです。
開業当時は戦後のもののない時代でしたから、1着の着物も大事に扱わなければならなかったのでしょう。また、当時ここにカフェーがあったことも無関係でなかったかもしれません。やはりこちらも戦後の昭和史を背負った店舗といえるでしょう。

斜め前には、今や絶滅危惧種となっている大衆浴場があります。「松の湯」です。
松の湯
我々の世代としてはTBSのテレビドラマ「時間ですよ」の影響で、大衆浴場といえば「松の湯」でした。その由緒ある・・・!?、「松の湯」があることに郷愁と共に驚きを隠せません。
現代は温泉ブームで、所謂“銭湯”ではなく“温泉”(近場の)には良く行く機会があります。様々な形態の湯船があり、また岩盤浴、サウナなども出来ることから非常に楽しい温泉ですが、このような純粋な銭湯には彼是30年以上入っていません。
下町ならではの味わいということになるのでしょう。

そしてこの辺りが、女優「木の実ナナ」の生まれ育った地なのだそうです。
木の実ナナ旧生家付近
最近はそれほどTVなどの露出も多くありませんが、最近のイメージでは「万引きGメン・二階堂雪」を思い浮かべます。
生まれは昭和21(1946)年7月11日の65歳だそうですから、まさに終戦直後で、ここでもこの鳩の街通り商店街が空襲にあわなかった恩恵といってもよいかもしれません。
昭和36年渡辺プロ主催の新人コンテストで1位になって芸能界入りして「東京キカンボ娘」で歌手としてデビューします。TV「ホイホイミュージックスクール」などで活躍するのですがヒット曲にめぐまれず、心機一転、本場のショー・ビジネスを学ぶため44年渡米し、47年ミュージカル「アプローズ」(劇団四季)で注目を集め、さらに細川俊之と共演した「ショーガール」で日本を代表するミュージカルスターとしての地位を確立し、その後はTV、舞台などでエンターテイナーとして現在に至っています。

トランペット奏者の父と元ダンサーの母の間に生まれ、両親とも日本人ながらハーフに間違われいじめにあったようです。生まれつき病弱だったため、体を鍛える目的で5歳からバレエを始めると、すっかりバレエにのめり込んだのだそうです。
当時の下町では、よその家で夕ご飯を食べるということは日常茶飯事で、彼女もその一人だったそうです。そして、その食事の後には彼女の歌と踊りを皆楽しみにしていたようで、このような下町らしい風情が、ダンサー、そして芸能界への彼女の憧れの一端となったともいえるのでしょう。
ある意味では商店街に育てられたといっても良いのかもしれません。人情味溢れる下町気質とでもいうのでしょう。
先ほどの「池田屋」を初めとした老舗の方々のなかには、そんな彼女をよく知っている方もまだいるのではないでしょうかね。

池田屋の1軒置いた隣に綺麗なファサードの美容院があります。
TACHIBANA
「TACHIBANA」という美容院ですが、よくよく見て驚きました。
屋号の下になんと「Since 1945」の文字が見えます。
建物は改修されたのでしょうが、こちらも66年の歴史を持っている老舗のようです。
現在は三代目の方が営業されているそうですが、こちらもカフェと無関係ではないでしょうが、何気ない美容院がこのような歴史を持って存在していることに驚きを感じます。

商店街もそろそろ終わりが近づいてきました。
そこで一つ思い出すのが、冒頭のスタンプラリーの目的にあった、何故この商店街がヴェネツィアとの共通点を持っているのかです。
それはパンフレットにその答がありました。

「迷路のような街並み」
隅田川周辺:空襲を免れた路地はかつての面影を残す
鳩の街通り商店街
昭和レトロな雰囲気のタイムスリップ感が味わえる街「鳩の街通り」。
東京大空襲をまぬがれたことで、戦前のままの道幅と、昭和初期の木造建築物が多く残っています。
約80年の歴史を持つ商店街には、古民家を改装したカフェや、ギャラリーや工房もあり、下町の憬れたアートスポットとしての顔も合わせもちます。

ヴェネツィア:迷宮を彷徨うような感覚に陥る街中
ヴェネツィアの路地 《写真:(C)ラゲッジブログ》
ヴェネツィアといえば、細い路地が重なりあった迷宮のような街並みも名物の一つです。500年前とほとんど変わらない美しくロマンチックな街並み。そんな路地を彷徨っていると、中世にタイムスリップしたように錯覚してしまいそうです。
(パンフレットより)

確かに薄れた記憶の中にもヴェネツィアの路地は印象に残っています。
人がすれ違うのがやっとの路地を進むと突如として店舗があったりと、まさにラビリンスであった気がします。その点から言えば鳩の街もラビリンスと言えない事もないのですが、多少の強引さには眼を瞑りましょう、楽しんだのですから。
そう思って振り向けば確かに路地のような商店街でしたが、商店街の街灯にはシンボルの鳩が輝いています。
鳩の街通り商店街 街灯
貴重な終戦直後の歴史を背負った街であり、これまで何とか存続してきた商店街です。だからといって前途洋々と言うわけでもないようですが、何とか「青い鳥」を見つけて「廃墟の鳩」にはなってほしくないというのが勝手な願いです。
そして、このアーケードが商店街の終着点です。
アーケード アーケード
いつまでも思い出に残りそうな「鳩の街通り商店街」でした。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks