水の都のメインストリート #1

「鳩の街通り商店街」を抜けて都道461号線、通称“墨堤通り”を南下します。
隅田川に沿って走る道路で、ここからは隅田川とその周辺の散策となります。

隅田公園少年野球場

墨堤通りを進むと左手にスカイツリーを見ることができます。
墨堤通り スカイツリー
当然、この辺りではどこに行っても見ることはできそうですが、やはり何となく現在のスカイツリーは何時でも、何所からでも興味深いものです。
この先の墨堤通りは三叉路となり右が高速向島入口となる墨堤通りで、左は“見番通り”と向島らしい風情の通りとなります。
見番通り 見番通りからのスカイツリー
見番通りからはスカイツリーをはっきり見ることができます。
この「見番」とは芸妓組合、料亭組合、料理店組合が合併したできた“向嶋墨堤組合”のことを言い、料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋、他花街の統括管理等が主な仕事なのです。その見番がこの通りにあることから命名されたようで、この周辺一帯が花街だということなのです。

三叉路の左右に緑におおわれたエリアがあり、ここが隅田公園の始まり、終わり…、いずれにしても隅田公園の一画となるのです。
交差点の北側には大きなアーチがあり「隅田公園少年野球場」と記載されています。
隅田公園少年野球場 隅田公園少年野球場

隅田公園少年野球場
この少年野球場は, 昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして, 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが, 中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。
昭和61年3月 墨田区教育委員会
(現地碑文より)

現在、野球場といわれるものには概ね4つの規格があるようです。
ソフトボールは別として、1.硬式野球場(公認野球場)、2.軟式野球場(一般)、3.軟式野球場(少年野球5年生以上)、4.軟式野球場(少年野球4年生以下)という具合で大きさが違います。
大きさの違いの目安としては、ピッチャープレートからホームベースまでの距離がそれぞれ、1.2は18.44m、3は16m、4は14mとなっていることで凡そのイメージはつかめるかと思います。したがって現在では3と4を基本的に少年野球場と規定しているのです。
元々、この球場は硬式野球場として造られたのでしょうが、当時の事情でこの大きさしかできなかったのではないかと思われます。 そして後年日本少年野球連盟等が創立されるなどして規格的に合わないことから少年野球場となったと推測するのですが、いかがなものでしょうか。
アーチには王貞治氏のプレートが掲げられていますが、この球場の頃は確かピッチャーだったはずです。
王選手プレート 王選手プレート
今日もプロ野球選手を目指して子供たちが練習をしていますが、現在のようにサッカーで育った子供と違い、我々の世代は“巨人・大鵬・玉子焼き”の世代ですから、やはり野球を見ているのは楽しいものです。
隅田公園少年野球場
第二の王選手を目指して頑張って欲しいものです。タイガースファンながら…。

言問団子

隅田公園少年野球場の隣には有名な「言問団子」があります。
なんと言っても江戸時代から続く老舗の店舗ですから、入らないわけにはいかないでしょう。
現在の店舗は当然現代的な2階建ての立派な建物でが、暖簾の屋号などに歴史を偲ばせています。
言問団子
中に入ると結構広い空間で、ある意味では贅沢な造りです。
言問団子
正面にカウンターの商品展示ケースがあり、右手の方に団子をいただけるテーブル席と座敷がしつらえてあります。
言問団子 言問団子
早速、名物の「三色団子」をオーダーします。団子とお茶のセットで¥600-です。

壁には明治期の店舗の絵図が額に飾ってあります。
言問団子
創業年は明確ではないようですが、植木師の外山佐吉という人が江戸時代末期に創業したそうです。
「言問」という名は、在原業平の和歌「名にしはばいざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」と古今和歌集に因んだものだそうで、この歌の舞台が隅田川沿いではないかと考えられたことにより「言問団子」と名付け、この店が著名になるにつれて、この一帯の別称となったそうです。つまり言問団子という店が先にあり、それに因んで地名になったということですから、当時から相当有名な店舗だったことが窺えます。
この墨田区には業平にちなんだ名称が幾つかあり、橋の「業平橋」や駅名「業平橋駅」もあります。この「業平橋駅」に東京スカイツリーがあり、駅名も追って「東京スカイツリー駅」に変更になるようです。ちょっと寂しい気持ちもわいてきますが…。
その後、「言問団子」は特に幸田露伴や竹久夢二、野口雨情などの文人などが多く訪れるようになり、さらなる活況を呈してきたようです。。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にも登場するのですが、当然その時代には存在していないので、あくまで作者の思い入れだったのかもしれません。
余談ながらTBSアナウンサー外山恵理の実家なのだそうです。

さてやってきた団子がこちらです。
言問団子 言問団子
小豆色、白色、黄色の3種類の団子で、これが創業当時からののもです。
ここですっかり勘違いしていたのですが、小豆色の「小豆餡」と白色の「白餡」は、それぞれ米粉の団子を小豆の餡と白のこし餡で包んだものなのです。つまりこの団子は外側の小豆色の部分と白色の部分が、それぞれ小豆餡、白餡なのです。確かに串に差してあれば直ぐ理解できるでしょうが、串が差していないとどうしても餡は中に入っている(大福のように)ものと考えてしまうからです。しかし、黄色の「青梅」は明治時代に近くの水戸家の梅の木の青梅を見て考案したものだそうで、これは逆にくちなしで染めた白玉生地でみそ餡を包んでいるのです。
そして「小豆餡」には十勝産のふじむらさき小豆を、豆の香りが生きる「白餡」には十勝産の手亡豆を使い、「青梅」の味噌餡は京都の白味噌と新潟の赤味噌をあわせたものだそうで、原材料にもこだわった団子なのです。
そして意外とボリュームがあり、一口サイズかと思えば、一口では若干大きする感じです。楊枝で2つに割って食するのが情緒ってものかもしれません。くれぐれも私みたいに1口でほうばったり、かぶりついて食べるのは止めた方が身の為のようです。

三色の団子を食べ終わるともう一つお楽しみがありました。
団子皿に可愛らしい鳥の絵が現れます。
絵皿
絵皿一つとっても結構凝っているのですが、よくよく考えれば何ゆえに鳥の絵なのでしょうか。
これは「言問」の語源と同様、業平の和歌「名にしおばいざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」の“都鳥”に因んで描かれたものなのだそうです。それにしても「言問団子」は有名ですが、シンボルマークが都鳥だったとは初めて知りました。

店舗の少し奥まったところに、何やら展示されているものがあるので見学させてもらいました。
展示コーナー
「言問団子」に関する展示品で、明治時代の写真、本、半天などが展示されていますが、特に目を惹いたのが、都鳥の描かれた団子皿の変遷です。
明治時代の器は三浦乾也氏の「乾也焼」というものが使用されたそうで、それがこちらの団子皿です。
絵皿 明治時代
やや黄色みかかった器で、“言問”の文字がユニークです。

三浦乾也についてのプロフィールです。

三浦乾也
幕末の陶工。文政4年(1821)~明治22年(1889)。
幼名は藤太郎、初号は乾六、別号を天禄堂、通称は陶蔵。谷文晁に絵を習った他、蒔絵・彫刻等を習得し、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵を手がけるなど多芸多才で、西村藐庵から乾山伝書を授かり乾山流の作も多く、弘化2年(1845)には乾山六世を名乗った。
安政元年(1854)幕府から西洋式軍艦の建造技術を習得するよう命ぜられ、長崎に赴いた。
安政3年(1856)仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、松島湾の寒風沢島で洋式軍艦「開成丸」建造の設計・監督に当たった。仙台には万延元年(1860)まで滞在。その間、堤焼の陶工庄子義忠を弟子とし「乾山秘伝書」と「乾」の一字を与え「乾馬」の号を名乗らせるなど、初代針生乾馬を通して仙台の焼物に影響を与えた。
明治2年(1869)神奈川県小田原に窯を築き、埼玉県の飯能窯にも携わり、翌年横須賀でガラスを作り、また東京小菅で煉瓦を製造、のち深川に窯を築き、明治8年(1875)には墨田区の向島に築窯し、根付や簪の珠を焼き「乾也玉」の名で流行した。
(「茶の湯の楽しみ」より)

来歴もユニークです。陶芸家でありながら軍艦の建造に携わっているのですから、まさに「一芸に秀でるものは多芸に通ず」の格言通りの人かもしれません。
墨田区向島とある築窯は、言問団子の直ぐそばの「長命寺」の境内にあったそうです。その様な経緯からここでの団子皿を依頼したのでしょう。また、この地が料亭街であったことから根付やかんざしの珠が流行ったのだと考えられます。

その隣は大正期の団子皿で、こちらは「白井義人」という方の作品です。残念ながら白井義人氏のプロフィールについては判りませんでした。
絵皿 大正から昭和
器のエッジが効いているのが特徴でしょうか…。
そして現在使用されているのが「寺田みのる」という方の皿だそうで、昭和中期から使用されているようです。
絵皿 現代
寺田みのる氏は昭和11年瀬戸市の窯元に生まれで昭和33年美山陶苑入社、10年後独立し現在の「みのる陶苑」を設立されました。
現在その作品はストックホルム国立美術館、ハガネス美術館、ペルー国立美術館、アルゼンチン国立東洋美術館などに永久保存されているそうです。各地で個展等を開催されていて、愛知地球博では陶壁を作成したことでも知られているようです。
現在、この団子皿のデザインは6種類あるのだそうで、味だけでなく目でも味わう和食の粋がここにもあるようです。
単に団子を味わうのではなく、この場所で江戸からの趣を味わうのが「言問団子」の醍醐味かもしれません。

隅田公園

「言問団子」で一息ついた後は、店の前の三叉路を越えた「隅田公園」を散策します。
地図で見る限り、この辺りが公園の北限で、ここから南の吾妻橋辺りまで隅田川沿いに続いている公園です。
隅田公園
ここには2つの石碑があります。
一つは「墨堤植桜の碑」です。
墨堤植桜の碑

墨堤植桜の碑
所在 墨田区向島5丁目1番 隅田公園
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大解の撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共にに楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が100本の桜を、同11年には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢、朝川黙翁、中山ト鄰が150本、天保2年(1831)に阪田三七郎が200余株の桜を植えました。弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂氷機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
平成2年3月 墨田区
(現地案内板説明文より)

この後の経緯が隣の案内板にも記載されています。

隅田公園 散策解説板8 墨堤植桜之碑と桜勧進
-住民が育てた墨堤の桜-
江戸時代、花見の名所として地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。
(現地案内板説明文より)

我々現在の人たちは、桜の花見の名所として各地で楽しんでいるのですが、どこの名所も単に自生していたわけではなく、このような先人達の努力があってこそを心に刻んで感謝する気持ちを持つ良い機会です。
そして、江戸の庶民が楽しむために始めた植樹の恩恵を、現代の我々が多いに楽しむのもまた、先人達への恩返しかもしれません。
なお、調べている途中にこの碑が建立されるまでの経緯を説明しているサイトがありましたので掲載しておきます。

参考:【かんがくかんかく(漢学感覚)】http://ameblo.jp/k2600nen/entry-10108654890.html

もう一つの碑は「立札」という碑です。
立札

立札
都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る
ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唄われたものである。
東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。
昭和63年10月9日 墨田区
(現地案内板説明文より)

先ほどの言問団子にもあった“都鳥”がここにも詠われているくらいなので、よほどこの辺りには「ミヤコドリ」がたくさん生息していたのかと思っていたところ、ここで言う“都鳥”は和名の「ミヤコドリ」ではなく「ユリカモメ」のことなのだそうでした。
正式には「ミヤコドリ」はチドリ目ミヤコドリ科で、「ユリカモメ」は、チドリ目カモメ科の鳥で、これは、前出された在原業平の和歌を取り上げた伊勢物語に根拠があるのだそうです。
ミヤコドリ ユリカモメ 左がミヤコドリで右がユリカモメです。

伊勢物語には「なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。」と書かれていて、ここでの「都鳥」は“隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤い、シギ程度の大きさ、魚を食べる水鳥”とされていて、この条件に当てはまる鳥としてはユリカモメが最も近いと判断され「都鳥=ユリカモメ」と推定されたのだそうです。「ミヤコドリ」は嘴と脚が赤いものの体色は黒(腹部を除く)であるという違いがあったことが判断基準とされたようです。
また、現在では京都でも「ユリカモメ」を見ることはできるそうですが、京都に姿を見せるようになったのは1974年のことで、それまでは確かに京都にはいない鳥だったようです。
現在、この「ユリカモメ」は品川区の区鳥となっていて、東京都でユリカモメといえば新橋~豊洲間を走る東京臨海新交通臨海線が有名ですが、このような歴史を紐解くと実は隅田川が一番「ユリカモメ」に縁があったことを感じた石碑なのでした。

ここにはさらにもう一つ解説板があります。

隅田公園 散策解説板 7 艇庫とレガッタ 
-レガッタによる隅田川の賑わい-
レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。
1883年(明治16年)日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内プール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等に理由で、1967年(昭和42年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。
近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。
(現地案内板説明文より)

この隅田川における主なレガッタの歴史をかいつまんで見ます。

・明治16年6月:日本初のレガッタとして、海軍端舟競漕大会が枕橋から言問間で開催される。 東京帝国大学と体操伝習所による日本初の対校レガッタが、竹屋の渡-言問間で開催される。
・明治20年4月:東京帝国大学、日本初の大学艇庫を向島に建設。
・明治22年3月:東京帝国大学法学部漕艇部学生が、長命寺で初めて合宿をする。
・明治37年:向島に早稲田大学の艇庫が完成。
・明治38年5月:早稲田大学・慶応大学による早慶レガッタが始まる。
・大正9年6月:日本漕艇協会設立。7学校が加盟。
・昭和5年5月:慶応大学、向島艇庫落成。
・昭和14年:慶応大学、向島艇庫を解体。この頃から、艇庫の隅田川離れがおこる。
・昭和19年:戦争のため、早慶レガッタ中断。
・昭和20年11月:戦後初のレガッタとして、レガッタ復活祭開催。
・昭和22年5月:第16回早慶レガッタが戦後初めて隅田川で開催される。
・昭和36年5月:隅田川の水質悪化により、東商戦・早慶レガッタは最後となり、翌年 以降は戸田で開催される。
・昭和42年11月:向島に残る最後の艇庫、一橋大学向島艇庫の惜別式が行われる。
・昭和53年4月:水質浄化により隅田川で早慶レガッタが復活。

やはりレガッタといえば早慶レガッタでしょう。現在でもオリンピックや国体などは別として単独でTV放送されているのは早慶レガッタくらいでしょうから、その根強い人気振りが窺われます。
個人的にはそう思い入れはないのですが、早慶戦中のスポーツマンシップのエピソードがあったということだけは知っていたので、良い機会とばかりに調べてみました。

<第26回大会> 昭和32年5月12日 永代橋-大倉別邸前(向島) 6,000m
このレースはオアーズマンシップ、スポーツマンシップを物語るものとして、早慶レガッタのみならず、日本アマチュアスポーツ界に残る名勝負となりました。当時は「道徳」の教材にも取り上げられていたほどです。
レースの行われた昭和32年5月12日は強い風雨の日でした。永代橋を逆風と雨の中を両校スタート。慶應が先行、浜町付近(1,600m)ではすでに4艇身のリード。しかし、よく見ると早稲田の様子がおかしい…艇前部や後部のペアが時々漕ぐのを休んでいる…この時、荒れた隅田川は白波が立ち、容赦無く両校の艇を襲っていました。シートが外れたのか?あるいは艇の故障か? なんと早稲田のクルーが漕がなかったのは、艇を沈めないために、用意してあったアルミ食器で水をかき出していたからなのです。
そんな状態ですから艇差は開くばかり。両国橋では6艇身差、誰もが慶應の勝利を疑うべくもありませんでした。しかし、蔵前橋を過ぎようとする頃、慶應の艇速が鈍り始めます。今まで何とかしのいできた水が、ついに溜まりはじめたのです。 かき出すにもアルミ食器の準備がない慶応は、ローイングシャツに水をしみ込ませて絞り出す始末。早慶の食器とシャツの汲み出し競争が始まりました。しばらくすると、早稲田が有利になり、厩橋付近(3,500m)では慶應はかなりの浸水状態。駒形橋では早稲田が半艇身に迫ったところで、慶應はついに沈み始めました。コックス、ストローク、7番…と艇尾部から順に沈んでいきます。慶應あえなく沈没、リタイヤ。そんな慶應を横目に早稲田が水をかき出しながら抜き、そのままゴールへ。
審判協議の結果、「(中略)レース中、水路、用艇、その他に関し事故が起きた場合といえども、それぞれのクルーの責任とする」という競漕規則にのっとり、早稲田の勝ちを宣言。この裁定に対し、早稲田は不可抗力によるアクシデントととして、再レースを申し入れましたが、慶應は「負け」を主張。再レースは行われることはありませんでした。
最後に、このレースで苦渋の選択を迫られた両校コックスの象徴的なコメントを紹介しておきましょう。
「どうせ負けるなら、艇を沈めずゴールに入りたかった。立派に負けたかった。」早稲田コックスの弁
「8人で漕ぐのをやめさせることがオアズマンシップに反しないか迷った。早稲田の立派な勝利だ」慶應コックスの弁
(サイト「The Regatta Waseda vs Keio」より)

このエピソードは、後に小学校6年生国語の教科書(学校図書発行)で「あらしのボートレース」という題名で取り上げられ、スポーチマンシップのお手本とされたそうです。
あらしのボートレース 《写真:第26回大会(サイト「The Regatta Waseda vs Keio」より)》
ちょうど私の生まれた翌年の出来事ですから、小6の頃はまだ教科書に載っていたかも知れません。それで何となく記憶があるのでしょうか…。
このように嘗ての賑わいも戻りつつあるようですが、今年4月の早慶レガッタは震災の影響で埼玉県の戸田で行われたそうです。
多彩な歴史を持った隅田公園ですが、これからさらに興味深い歴史を垣間見ることができるでしょう。

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