水の都のメインストリート #2

ここからは隅田川沿いに隅田公園を南下して行きます。
最初は先ほどのレガッタの歴史にもあった、東京帝国大学法学部漕艇部が合宿したという長命寺から散策を始めます。

長命寺

隅田公園の見番通り沿いを僅かに進むと右手が長命寺の山門となります。
長命寺
山門を入った両側は幼稚園となっていて、その中央がそのまま参道になっています。
参道を進むと斜め右正面に本堂が建っていますが、その手前の左側に「橘守部の墓」があります。
橘守部の墓

橘守部の墓
所在 墨田区向島5丁目4番4号 長命寺内
江戸時代の国学者。天明元年(1781)伊勢に生まれる。17歳にとき江戸に出て、10年余り、芝新銭座または八丁堀に住み、その間はじめて国学に志したが全くの独学であった。29歳のとき武州幸手に移り、40歳をすぎるころより守部と称した。48歳のころ再び江戸浅草弁天山に居を定め池庵と号した。出府後まもなく「山彦冊予」を板行して名声をあげ、以来続々と名著を出し、平田篤胤、伴信友、香川景樹らとならんで天保の四大家といわれた。嘉永2年(1849)5月24日、69歳で歿し当寺に葬られた。
守部の学は、本居宣長の学説に対抗する意識をもって成立しているといわれる。すなわち、宣長の「古事記伝」に対し「日本書紀」神代巻および「記」「紀」の歌謡を訳した「稜威道別」「稜威言別」があり、「詞の玉の緒」に対し「助辞本義一覧」などがある。
昭和45年11月3日 建設 墨田区
(現地案内板説明文より)

守部の父が大庄屋格で、津の国学者・谷川士清の門人であったことから、自然と国学に興味を持っていたのかもしれません。独学ということもあるのでしょうが、まさに大器晩成型といえるかもしれません。
さてその経緯ですが、簡単に言えば、この橘守部と」いう国学者は、本居宣長を批判し、古事記よりも日本書紀を重要視し、神話の伝説的な部分と史実の部分の区分けの必要性を説いたということでしょう。
内容的には私ら凡人では理解できませんが、その時代の主流を批判することによって知名度が上がるということは現代においてもよくあることで、主流をなした人々の偉大性がクローズアップされると同時に、それに真っ向から対立する反流もまた、それ以上の理論武装が必要なわけですから、単なる批判者、評論者ではなく世に認められる反流もまた偉大だと言えるでしょう。
最後に説明文を整理すると、宣長の「古事記伝」に対しては「難古事記伝」を著し、「稜威道別」は日本書紀の研究書で、「稜威言別」は古代歌謡の注釈書なのだそうです。

参道に戻ってから本堂を参拝します。
比較的新しい建築で、白壁と無垢の木目が輝いて見えます。
長命寺本堂
江戸名所図会では次のように記載されています。
江戸名所図会の長命寺 江戸名所図会の長命寺 《挿絵:江戸名所図会》

宝寿山長命寺 
遍照院と号す。天台宗東叡山に属せり。本尊は等身の釈迦如来、脇士は文殊・普賢・般若・十六善神等の像を安ず。
牛島弁財天(同じ堂内に安ず。伝教大師の作なり)。
延寿の椎(堂前にあり。寺の号によりて名づくるとなり)。
梯の樹(堂の左の方、垣ぞひにあり。元禄五年壬申〔一六九二〕江戸御菓子司大久保主水某、相州鎌倉にあそび、扇が谷の善光寺にして、この若木のわづかに三寸ばかりに生ひ出でたりしを得て、当寺にうつし殖ゑたるよし、樹下の碑文に見えたり。いまは丈二丈ばかりあり)。
(江戸名所図会より)

この挿絵には長命寺と牛御前宮が描かれているのですが、中央にある建物が「長命寺」で、その下の川沿いにあるのが「牛御前宮」です。
「牛御前宮」は現在の「牛島神社」のことで、現在は長命寺からは大分離れた南方向に移転しています。

そして本堂の手前には「弁財天」と刻まれた石碑が立っており、本堂前の賽銭箱には「隅田川七福神 弁財天」と記載されているので、現在も七福神巡りとして賑わっているのでしょう。
弁財天
江戸名所図会では「牛島弁財天」と記載されていますが、当時このあたりは牛島と呼ばれた地だったそうですから、そう呼ばれていたのでしょう。
また、ここに記載されている延寿の椎や梯の樹は見当たらなないので、既に無くなっているようです。

参拝を済ませてから本堂の左側、境内の奥へ進んでみます。
左手に「長命水」とかかれた井戸があり、その由来書があります。
長命水

長命水の由来
江戸徳川三代将軍家光公が当地に御鷹狩りに見えた際急に腹痛を起された。当時の住職が庭中にあった井戸水(般若水)を加持し、その水で薬を服用したところ、傷みが止まったので、長命水と命名された。寺号も常泉寺から長命寺と呼ぶよう改号された。隣接の長命水石文に由来が刻まれている。
長命寺の起源に関しては、寺伝によると 「当寺は元和元年項の中田其の檀那寺なれば、その頃の建立に係るものならん」…とあり、村内一宇の道場として小庵が存在していたと思われる。石文によると「いにしへは宝樹山常泉寺と唱し道場なり」長命寺と改号されてから東叡山寛永寺の末寺に属し、僧侶は、ここで身仕度を整え、登叡したと伝えられる。
江戸時代の本堂は安政二年の大地震で焼失してしまい、明治になっても復興は困難であった。麻布にあった武家屋敷を移転させて仮本堂としたが、大正十二年の震災で再び焼失し、本尊阿弥陀如来、弁天堂安置の弁財天像、芭蕉堂の芭蕉像他を持出し、かろうじて難をのがれ、現在に至っている。宗派は天台宗に属し、比叡山延暦寺を本山としている。
賓寿山遍照院 長命寺第三十二世 小林昭彦
(由来書より)

長命寺の由来となった長命水の井戸がこれなのですね。
長命水井戸
そして石文が隣にあるこれでしょう。
長命水石文
確かに上部に「長命寺石文」と刻まれているのが見て取れます。
水に関係している由来からあえて牛島の弁財天を残したのでしょうか。時系列にしなければはっきりとはわかりませんが、あくまでも勝手な推測です。

そしてその先にある大きな石碑が「芭蕉雪見の句碑」です。
芭蕉雪見の句碑

芭蕉雪見の句碑
所在 墨田区向島5丁目4番4号 長命寺内
芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祗空はこの地に庵をつくり、その後、祗空の門人自在庵祗徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祗徳が安政3年(1858)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。
芭蕉は寛永21年(1644)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、談林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄7年(1694)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出してます。
平成18年8月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

この句碑には「いざさらは 雪見にころふ 所まで」と刻まれているそうです。
江戸名所図会にも“ことさら当寺は雪の名所にして、前に隅田河の流れをうけて、風色たらずといふことなし。”と記載されているように、江戸中期頃から雪見の名所として広く知れ渡っていたそうです。
そしてこの長命寺の境内に三世自在庵祗徳により、芭蕉を初め先人の霊を祀るために安政5年(1857年)の初夏に建立されたのがこの句碑なのです。この句は芭蕉が熱田神宮を詣でた際に詠んだ句で、芭蕉門人が最も有名な雪見の場所に、最も有名な俳人の雪見の代表作の句碑を建立したとして、俳句の世界ではかなり著名な句碑なのだそうです。
“ちょうど良い時に雪が降り出してきました。さあ、それでは皆さん、雪見に出かけるとしましょう。道で滑って転んだら、それもまた楽しいものです。さあ、転ぶところまで出かけましょう。”というワクワクしそうな雪見の心情を綴っているのです。
雪見、月見、花見などは江戸時代では、重要なエンターテイメントですから、その心躍る気持ちは昔も今も変らないということでしょう。
ついでながらこの芭蕉堂は現在ありませんが、かつては現在の幼稚園の辺りにあったそうです。
なお、この碑のバックにスカイツリーを見ることができますが、スカイツリーを見た芭蕉は何と詠むのでしょうかね。
芭蕉雪見の句碑

芭蕉の句碑の隣にも幾つかの碑がありますが、説明がないとなかなか判りません。
石碑群 石碑群
しかし、説明がなくてもわかる碑がありました。突き当たりのこの碑は「木の実ナナ」の植樹記念碑です。
「木の実ナナ」の植樹記念碑「木の実ナナ」の植樹記念碑
裏側にその説明があります。

隅田川のほとり 向島に生まれ長命寺さんでバレエを習った子供時代 大好きな私のふるさとに感謝をこめて 平成15年2月吉日 植樹
(現地石碑碑文)

鳩の街通り商店街で生まれた木の実ナナが5歳のときからバレエを習っていたことは商店街の散策で知りましたが、ここ長命寺にバレエ教室があったとは意外です。
書道、そろばん、学習塾などはよく寺院にありましたが、バレエ教室とは当時としても、現在でも異色の寺院といえるかもしれません。でもそのおかげで木の実ナナの現在があるようなものですから、感謝の気持ちを表したくなるのはもっともな事ですね。
何かプチ感動です。

左手には「隅田川七福神」についての解説があります。
かいつまむと、由来の長命水という“水”に関係する寺院であることから、やはり水の神でもある弁財天が祀られたということのようです。

その隣にある石碑もまた文化財のようで「成島柳北の碑」だそうです。
成島柳北の碑

成島柳北の碑
所在 墨田区向島5丁目4番4号 長命寺内
成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。
天保8年(1837)江戸に生まれました。18歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。
同5年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治17年(1884)11月30日、48歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治18年に建立されました。
平成18年8月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

この説明だけ読むと、重厚な部分がクローズアップされていますが、随筆家と記載されている通り、文芸雑誌「花月新誌」を創刊したり、花柳界を描いた「柳橋新誌」など、数多くの著書を残した文人でもあるようで、硬軟持ち合わせたキレモノといった感じです。
ちなみに「墨堤植桜の碑」で成島柳北の尽力が称えられていましたが、大倉財閥の創立者である大倉喜八郎、安田財閥の祖である安田善次郎、そして東京川崎財閥の創設者、川崎八右衛門という草創たる財界人からの賞賛ですから、実業家としての力も相当だったようです。
それにしてもこのような散策を通じて、全く知らなかった偉人達を知ることができる機会が、非常に貴重なものに思えます。恐らくこのような機会がなければ、一生知らないままでしょうからね。
余談ながら、安田善次郎の曾孫が「オノ・ヨーコ」という、どうでもよい話もあるのですが…。

このように長命寺は別名“風流寺”といわれるほど60基くらいの石碑があるそうですが、説明がないと素人では判らないのは前述した通りですが、後に調べて幾つか判ったものもありました。

芭蕉の句碑の向に建つ3つの碑です。
右から「十返舎一九の狂歌碑」「江戸桜の碑」「孕山堂江雨燈影の碑」です。
「十返舎一九の狂歌碑」「江戸桜の碑」「孕山堂江雨燈影の碑」
「十返舎一九の狂歌碑」は、碑面の左上に刻まれた歌に“十返舎一九”の名が読め、その右側には“蜀山人”とあるので、「大田南畝」の狂歌でしょう。
十返舎一九の狂歌碑
ちなみに狂歌とは社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌のことなのだそうです。また一つ勉強になりました。
「江戸桜の碑」は、当て推量でいえば墨堤の桜のことかと考えますが、さもあらず、これは明治29年に9代目市川団十郎が演じた“助六由縁江戸桜”を記念して、出演した河東節連中が建立したものなのだそうです。
最後の「孕山堂江雨燈影の碑」については良く判りませんでしたが、描かれた人物から落語家のような感じがします。この長命寺は落語「花見小僧」に登場するので、それに関係した碑なのかもしれません。

3つの碑の左隣には、また変わった石碑があり「六助塚」と刻まれていて、碑の下に犬の顔が造られています。
六助塚
江戸時代、現在の中央区にネズミを捕るのが上手な「六助」という犬がいたそうで、町の人たちから大層可愛がられたようです。しかしある日野犬狩りで殺され、その死を悼んだ有志によって建てられた碑なのだそうです。
まあ、色々あるもんです。

成島柳北の碑の隣にあった「初代鶴澤清六之塚」は、文楽義太夫節三味線方の名跡である“鶴澤清六”の江戸時代に活躍した初代のことのようです。
初代鶴澤清六之塚
向島らしい粋な石碑です。

そして最後に本堂の脇に隠れるようにして建っていたのが「庚申地蔵尊」です。
庚申地蔵尊
これは、万治2(1659)年に建立された地蔵菩薩を主尊とする墨田区最古の庚申塔だそうで、登録文化財とされているそうです。
まさに江戸時代初期の遺仏です。

このほかにもたくさんの石碑がありますが、こういった石碑が好きな方にはたまらない寺院なのでしょう。
その名の通り風流な長命寺を参詣も終了し若干後ろ髪を引かれる思いはありますが、次に進むことにします。

弘福寺

長命寺の次は隣にある「弘福寺」に向います。
長命寺と同じように見番通り沿いに山門がありますが、こちらは趣のある山門です。
弘福寺山門
全体的に厳ついイメージで、二層になっている屋根がどこか中国風です。
こちらも江戸名所図会の挿絵にあるとおり、当時も二層の山門だったようですが、現在のはかなり小さくなっているようです。
江戸名所図会 弘福禅寺 《挿絵:江戸名所図会》

牛頭山弘福禅寺 
牛御前宮の東に隣る。この辺りを須崎といふ(旧、洲崎に作る)。黄檗派の禅室にして洛陽万福寺を摸す。本尊は唐仏の釈迦如来、左右は迦葉・阿難なり。開山鉄牛和尚〔鉄牛道機、一六二八-一七〇〇〕、延宝紀元発丑〔一六七三〕創造す。毎歳七月十五目大施餓鬼修行あり。
(江戸名所図会より)

先ほどの長命寺でも記載されていたように、この当時は弘福寺の北に長命寺があり、西に牛御前宮があったのですが、牛御前宮は後に牛島神社となり弘福寺のさらに南に移転しています。
かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島氏の城址に寺地を受けて移したのが始まりで、現在に至っているのだそうです。
開山は鉄牛道機禅師で、石見の出身で京都宇治万福寺の創建にも尽力し、大変行動力のあった禅僧だったということです。

ここで余り聞きなれない「黄檗宗」について少し紐解いてみます。
黄檗宗とは、臨済宗、曹洞宗につぐ禅宗の1つです。
江戸時代初期の承応3(1654)年に明の末期の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆により始まり、元文5(1740)年、第13代住持までは伝統的に中国から住職を招聘してきたのだそうです。
従って同じ禅宗の臨済宗、曹洞宗が日本風に宗風を変えた現在でも、黄檗宗だけは中国・明朝時代の様式を色濃く残しているのだそうです。
当初は、正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」と名乗っていたようですが、幕府の庇護の下、大名達の支援を得て、「鉄眼一切経」の刊行といった社会事業などを通じて民間の教化に勤めた結果、教勢は拡大し、1745年には1000以上の末寺があったそうです。
明治7(1874)年、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」に改称させられたのですが、明治9(1876)年、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなり現在に至っています。

こういったことから山門が中国風なのが理解できましたが、中国から持たされたものは教義・建築物だけでなく、美術・印刷・煎茶・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚などは隠元禅師来日後、日本に持たされたそうで、江戸時代の文化全般に影響を与えたそうです。
特に中国風精進料理「普茶料理」は日本の精進料理とは大きくイメージが違い、高タンパク・低カロリーで見た目も美しく盛り付けられているそうです。
普茶料理 《写真:普茶料理》
山門全体も中国風ですが、山門の屋根の上の鯱のようなものは想像上の動物・摩伽羅といわれるもので、魔除けとして載せられているのだそうです。
摩伽羅
鯱のヒレの代わりに足が生えていて、女神の乗り物としてガンジス川に棲息するワニだといわれている動物です。
こんなところにもインド~中国~日本への文化の影響が見られるのです。

山門を抜けると右手に「布袋尊」碑があり、その隣には七福神に関連する句碑があります。
布袋尊
ここは長命寺同様、「隅田川七福神」の一つで、布袋尊が祀られています。この布袋尊は中国唐時代の実在した禅僧だったことから、この黄檗宗の弘福寺に祀られたようです。

「布袋尊」碑の先には「翁媼尊」なる小さな社があります。
翁媼尊 翁媼尊

翁媼尊
この石像は、風外禅師(名は慧薫、寛永年間の人)が、相州真鶴の山中の洞穴に於て求道して居た折、禅師が父母に孝養を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以って自らが刻んだ父母の像です。禅師は之を洞内に安置し恰も父母在すが如く日夜孝養を怠らなかったといわれております。
小田原城主当山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されるを憐れみ城内に供養していましたが、たまたま同公移封の為、小田原を去るにあたり、当寺に預けて祀らしめたものです。
尚、古くよりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には、煎り豆と番茶を添えて、その礼に供養するという風習が伝わって居ります。
(現地案内板説明文より)

最近では世相を繁栄してインフルエンザ除けに受験生などがお参りに来るそうです。予防接種はあくまで軽く済むためのものですから、根本的にインフルエンザにかからないようにするには、うがいや手洗いの予防と神頼みというのも頷けます。とりあえずやることは全部やったという安心感でしょうかね。

そして参道の突き当りが本堂です。
本堂
本堂もまた中国、明朝様式が色濃く残っています。二層の屋根や廂の蛇腹天井等がその特徴のようですが、特に本来禅宗様は“花頭窓”が一般的なのですが、この本堂は円窓となっているのが特徴的です。
本堂円窓
また特筆すべきことは「聯額」です。
対句を分けて左右の柱に掛けたものを“柱聯”といいう、中国では一般の民家にもこの風習があるそうです。そして門や室内に掲げた額が“扁額”で、合わせて「聯額」と言い、黄檗寺院には特に多いのだそうです。
この本堂にも「大雄宝殿」と書かれた“扁額”と、“柱聯”を見て取ることができます。
扁額 柱聯
これは江戸時代であっても同様に珍しいようで、江戸名所図会では細かく記載されています。
江戸名所図会 《挿絵:江戸名所図会》
当時は「大雄殿」と記載されていたようで、本尊の左右に“柱聯”があったようです。
また、先の山門にも「聯額」がありましたが、当時とは対句が違うようです。

このほかに当時は座禅堂、牌堂、開山堂、天王殿、鐘楼などにそれぞれ「聯額」があり、食堂や浴室にも扁額があったようです。
江戸名所図会 江戸名所図会 《挿絵:江戸名所図会》
まさに「聯額」コレクションとでもいえるようです。

また、本堂の前の賽銭箱には葵の紋が刻まれています。
流石に、江戸時代の譜代大名で老中でもあった稲葉正則が開基とあって幕府の庇護の篤さの表れでしょう。
このように歴史と文化のある貴重な弘福寺ですが、江戸時代の大火や関東大震災で殆どが焼けてしまい、現在の建物は昭和(1933)年に山門、鐘楼、客殿、庫裏などとともに再建されたものなのです。
有名人との関わりも深く、20歳の頃の勝海舟が良く座禅を組みに通っていたり、関東大震災前までは森鴎外の墓があったそうです。
様々な歴史とエピソードに包まれています。

本堂の右手には「鐘楼」があります。
鐘楼
江戸時代には30,000に及ぶ梵鐘が製作されたそうですが、現在墨田区では殆ど残っていないそうです。その中でこの弘福寺の梵鐘は貞享5(1688)年6月に鋳造されたもので、縁起、経緯などのほか仏教経典が刻まれているのです。
弘福寺は縁起にもあったように稲葉正則が開基とあって山城国淀藩稲葉家の菩提寺なのですが、その他にも越後与板藩井伊家や陸奥泉藩本多家、鳥取藩池田家、津和野藩亀井家などの多くの関係者の菩提寺でもあったようです。
そしてこの梵鐘は越後与板藩井伊家から寄進されたものなのです。
梵鐘
江戸名所図会にはその刻まれている文字が記載されています。

牛頭山弘福禅寺大鐘銘ならびに序
瑞聖鉄牛和尚、弘福に住するの明年、寺宇を修葺してまさに大完たらんとす。井伊氏伯嘗守直武公、玉心院太夫人・寿林元栄大師と、発心して金を施す。ために巨鐘を造し、もって幽顕を利す。書を寓して余の銘を徹し、これが銘を為つて日く、
 牛首之阜今 有大法将  整飾琳宮今 局殊天匠  幸値賢守今 母子同心
 乃召長氏今 乃簡赤金  範斯巨器今 永鎮禅林  暁昏考撃今 以利幽顕
 日福日寿今 夫岩浅鮮  用祈世主今 万歳千春  億兆楽業今 四海帰仁
 姦斯術慶今 子孫振振  以空為口今 密婁為竜  擬書蕨勅今 莫樺一毛
貞享五年歳在著確執徐〔戊辰、一六八八〕林鐘上幹〔六月上旬〕穀旦
支那国伝臨済正宗三十四世高泉敦敬撰
(江戸名所図会より)

ということで昔から多くの人たちに知られた梵鐘のようです。

鐘楼の横には「建部綾足の墓碑」というのがあります。
建部綾足の墓碑
江戸時代中期の俳人、小説家、国学者・画家といったマルチな才能を持った人だったそうです。特に特筆すべき事項は“片歌”を提唱したことにあるようです。
「和歌」と呼ばれるものは、一般的には5・7・5・7・7の短歌を思い浮かべるのですが、そもそも和歌とは「長歌・短歌・旋頭歌・片歌」などの総称なのです。
長歌は5・7・5・7音の句が続き、最後が7・7音の句で終わるもので、短歌はご存知の5・7・5・7・7音です。そして片歌は5・7・7音の歌で特に問答歌として活用され、これを2つあわせると旋頭歌になるのだそうで、この古の片歌を江戸時代に提唱したのが、この建部綾足なのです。そしてこの当時賀茂真淵に入門して片歌と国学とを講義し、多くの人たちに片歌を啓蒙していたようです。

その先のちょうど鐘楼の裏にある墓碑が「池田冠山の墓碑」です。
池田冠山の墓碑

<墨田区登録史跡> 池田冠山の墓碑
江戸時代後期の大名で因幡若桜藩主です。儒学者としても地理物産学者としても著名です。明和4年(1767)に生まれ、幼名を鉄之丞、恒次郎、のちに定常と名乗りました。天明5年(1785)に家督を継いで藩主となり、従5位下縫殿頭に叙任しました。学問は佐藤一斎について学び、古今和漢の書、地誌仏典にいたるまで多くの書に目を通し、また諸芸にも通じていました。訪問する者の貴賎に関係なく接し、幅広い交流をもちました。
享和元年(1801)健康を害して藩主の座を退いたのちは、もっぱら著述を楽しみとし、晩年、冠山道人と号しました。佐伯候毛利高標、仁正寺候市橋長昭とならんで文学三候と称されましたが、天保4年(1833)7月9日、67歳で没し、当寺に葬られました。著書には『浅草寺志』『江戸黄檗禅刹記』『墨水源流』など数多くあります。
平成15年3月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

前述した通り各藩などと縁の深い寺院としての一端を垣間見ることができる墓碑です。
さらにその隣には立派な墓所がありますが、こちらは梵鐘を奉納した越後与板藩井伊家の墓所です。
た越後与板藩井伊家の墓所
近江彦根藩主・井伊直興の四男の井伊直矩は最初、遠江掛川藩の第4代藩主となり、改易となったため越後与板藩初代藩主となったのです。そしてこの墓所にはこの初代井伊直矩をはじめ、二代井伊直陽、四代井伊直存、六代井伊直朗、七代井伊直暉、八代井伊直経、九代井伊直充という歴代の藩主が眠っているのです。
ちなみに最後の藩主、十代井伊直安は養子で、あの大老・井伊直弼の四男です。
こまめに散策すればまだ多くの藩主の墓所があるそうですが、今回はこの辺で切り上げることにしました。

文人や実業家などの比較的庶民に近そうな長命寺と、時の為政者である大名などの多い弘福寺と、非常に対比の面白い寺院が隣り合わせになっていますが、2つあわせて江戸の政治・経済・文化の一端を知ることができるようで非常に興味深い参詣でした。

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