街の守り神とランドマーク #1

隅田川沿いから一旦、隅田公園に戻ります。
次は先ほど「竹屋の渡し」にあった、向島の三囲神社に向かって隅田川での文化を散策します。

三囲神社

隅田公園には再び首都高をくぐって東に進みます。するとこの辺りにも長命寺付近で見た「石庭の隅田川」がありました。
「石庭の隅田川」都鳥 ここでのタイトルは「都鳥」だそうです。
そして首都高沿いに古い大きな鳥居を見出すことができます。
三囲神社の鳥居
「竹屋の渡し」で見た三囲神社の鳥居で、近くで見ると結構大きい鳥居です。

<墨田区登録文化財> 堤下の大鳥居と竹屋の渡し
所在地 墨田区向島2丁目1番 墨田公園内
隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークの一つとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見えられるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久2年(1862)の建立です。
三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。
竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。
昭和5年(1930)、言問橋の開通によりこの渡しは廃止されました。
平成20年2月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

かなり重厚感のある石造りの鳥居で、ちょっとアンバランスな扁額が迫力ものですが、スカイツリーに比べればカワユイものかもしれません。
三囲神社の鳥居
江戸名所図会の挿絵によれば、手前の隅田川のすぐ近くにこの鳥居があり、こちらが表参道であったことが窺えます。
江戸名所図会の三囲神社 《挿絵:江戸名所図会》
目と鼻の先が隅田川だということは変わりがないようです。

早速境内に入りますが、残念ながらこちらは鍵が閉まっていて境内に入ることはできませんので、グルッと廻って見番通りから参詣することになるようです。
見番通り沿いには社号標と白亜の鳥居が建っています。
三囲神社 一の鳥居
これが現在の一の鳥居となるわけです。

参道を進んで直ぐ二の鳥居があるのですが、その手前に歌碑があります。
三囲神社 二の鳥居 日比翁助 石垣の歌碑

日比翁助 石垣の歌碑
いしがきの 小石大石持合ひて 御代は揺るがぬ 松ヶ枝の色  日比美勲
日比翁助は号を美勲と称し 三越呉服店の会長 わが国 近代的百貨店の創始者であった
茲来百年 松を新たに植え 旧観を復した
(現地案内板説明文より)

日比翁助は、久留米藩士の子として生まれ、慶應義塾大学で後に「三井中興の祖」といわれた中上川彦次郎と出会い、明治31年三越呉服店の支配人として起用されました。
ロンドン視察の際、ハロッズ百貨店の経営者から「見たまえ、私のデパートは宮殿のようで、ここに来る人々の顔は悦びに満ちあふれている」といった経営哲学に深く感銘し、大正12年会長に就任したのを機に、翌年の13年に現在のルネッサンス様式の新店舗を建設し、不況だった三越を再建し日本初の近代的百貨店を作り上げた「デパート王」なのです。
唐突に現れた三越ですが、三井家と三囲神社の何らかのつながりを窺わせます。

二の鳥居の横には「最古の紀年銘」という燈籠があります。
最古の紀年銘
これは藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永3年(1707)に奉納した、この神社で最も古い年代を示す石像物なのだそうです。
この燈籠、面白いのは火袋に3つの穴があいていて、何となくこれも三井家と関連があるのかと思ってしまいますが、どうなんでしょう。
最古の紀年銘
特に関係はないと思われますが、藤堂高睦は伊勢国津藩4代目藩主で、三井家は同じく伊勢国松坂であったことから、藤堂高睦に頼まれて…、ということは無いでしょう。深読みしすぎですか。
それにしてもここも長命寺と同じように石碑が多そうです。
石碑群
やはり説明がないと判りませんが、マニアには垂涎の神社かもしれません。

燈籠の先には三の鳥居があり、その横には「三囲講」と書かれた由緒書きがあります。
三の鳥居 三囲講

由緒
1.東京市本所区向島2丁目7番地 鎮座
1.村社 三囲神社
1.御祭神 宇迦能魂命
1.御祭日 例祭4月9日
三井總元方 三井銀行 三井物産株式曾社 三井鑛山株式曾社 株式曾社三越
右總元方を始め各株式曾社交替に正五九の小祭を受持ち昔の例の儘に祭祀を執り行ふ
当社の草創は実に一千余年前の事にして、その間度々の変遷あり。
元亀年間火災に罹り社殿を再建し、慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南2丁の現地に移さる。
霊験は妙なるが中にも元禄6年6月の大旱魃のとき俳聖晋其角献句雨乞によりて霊験たちどころに顕れ翌日大雨あり之より御神徳天下に普く、特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三囲大神の信仰厚く当家の守護神と仰ぎ享保元年、三井高治・三井高久・三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧げ奉り又、享保12年5月には従二位卜部朝臣兼敬に請ひて更に霊璽を当社に遷し鎮め奉り田地を捧げ社地を拡張し神殿瑞垣を改築せり。
以来二百余年子孫代々祖先の志を継ぎ、敬神以って今日に至る迄昔の隋々に当社の維持経営に努め又、三囲講を創設して祭礼に力を致す。
境内末社多く、中にも大国神、恵比寿神は隅田川七福神の一として其名高く、額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め又、樹間に黙綴せる諸名家の碑石は其の数多く碑石は興趣掬すべし。
昭和17年1月25日
(現地案内板説明文より)

創建については1000年前以上ということで明確ではないようですが、江戸名所図会にもう少し細かく説明されています。

三囲稲荷杜 
小梅村、田の中にあり(ゆゑに田中の稲荷ともいふ)。別当は天台宗延命寺と号す。神像は弘法大師の作にして、同じ大師の勧請なりといへり。文和年間〔一三五二-五六〕、三井寺の源慶僧都再興す。慶長[一五九六-一六一五〕の頃まではいまの地より南の方にありしを、後、このところに移せり。当社の内陣に英一蝶〔一六五二-一七二四〕の画ける、牛若丸と弁慶が半身の図を掲けたり。
(江戸名所図会より)

田中稲荷とも呼ばれていて弘法大師の勧請によると言っています。そして文和年間に近江三井寺の僧・源慶が東国を巡って隅田川のこの辺りを通ったときに、荒れ果てた小堂を見つけて、付近の農夫に尋ねたところ弘法大師の建立であることを知って、直ちに再建したのだそうです。
この再建の最中に、土中に壺を掘り当て蓋を開けてみると中に老翁の神像があったそうです。そしてそのとき何処からともなく白狐が現れ、神像を3回廻って去っていったことから、「三囲(みめぐり)」と呼ぶようになったのだそうです。
こうしてその後、元亀年間(1570~72)、堂社が焼失したので、天正年間に新たに南方の一ヶ所を選んで再建し、更に慶長年間の隅田川築堤にともない現在の位置に移されたのだそうです。
以来、時代と共に多少の移り変わりがあったにしても、大過なく過ごしてきたのですが、突如として「三囲稲荷(神社)」が名を馳せるようになったのです。
それが、由緒にある俳聖「其角」の献句だったのです。これについても江戸名所図会に記載されています。

『五元集』〔其角、一七四七〕
牛島みめぐりの神前にて、雨乞ひするものにかはりて
夕立や田をみめぐりの神ならば  宝普斎其角
あくる日、雨ふる。
社僧云く、元禄六年〔一六九三)の夏おほいに早魃す。しかるに、同じ六月の二十八日、村民あつまりて神前にむかひ請雨の祈願す。その日其角〔榎本其角、一六六一-一七〇七〕も当社に参詣せしに、伴ひし人の中に白雲といへるありて、其角に請雨の発句をすべきよしすすめければ、農民にかはりて一句を連ねて、当社の神前にたてまつりしに、感応やありけん、その日膏雨たちまちに注ぎけるとなり。その草はいまも当社に伝へてあり。
(江戸名所図会より)

要するに元禄6年は春から非常な旱魃で、困った農民は「三囲稲荷」に集まり雨乞いを祈願していました。そこに参詣に来た其角が門人の白雲と共に農民の悲願を知り、能院法師や小野小町の故事に因んで一句詠んだのだそうです。そしてそのことを其角は、その自著である俳書五元集に「牛島みめぐりの神前にて、雨乞ひするものにかはりて“夕立や田を見めぐりの神ならば”翌日に雨降る」と書き残したそうなのです。
このことを「江戸名所図会」などの出版物に記載したことから、この霊験が評判となり、信仰する人たちで大いに賑わうようになったとのことなのです。つまり今で言うところのパブリシティなのです。
現在でも盛んにTVや雑誌などで各地のパワースポットなどを取り上げていて、メディアに掲載されるとドッと人が押し寄せるというPR手法を用いていることが多く、江戸時代も平成もやっていることは殆ど変らないといえそうです。

そしてこの霊験を尊崇したのがあの三井家で、この三囲神を江戸における三井家の守護神として崇め、享保元年に社地の拡張や社殿の造営を行って、ほぼ現況に近い姿を整えたそうです。
その後も社地を更に拡張し、三囲神社の維持が出来るように三井関連会社で「三囲講」を設立して、祭礼に援助をしているのだそうで、現在でも大祭は地元町会が仕切っているのですが、それ以外の正月、5月、9月の小祭は三井関連会社により執行されているのです。
また、三越の本支店には三囲神社の分霊を祀っているというのですから、かなり篤い尊崇を表している証といえます。
更に境内社の大黒・恵比寿はもともと越後屋に祀られていたものだそうで、とにかく三井家との強い結びつきのが窺える三囲神社なのです。

隣には小さな石碑があり、正面には「三囲稲荷大明神」、右側には「右秋葉道」、左側には「左稲荷社」と刻まれているので、道標となっていたものでしょう。
道標
恐らく方角的には水戸街道辺りにあったものではないでしょうか。
半七捕物帖を書いた岡本綺堂の明治末期に書かれた“風俗江戸東京物語”には、「府下で有名の稲荷は一々数うるに暇あらず。そのうちでも主なるものは王子稲荷、向島の三囲稲荷、浅草田町の袖摺稲荷、橋場の真崎稲荷、芝の烏森稲荷、赤坂の豊川稲荷、吉原の九郎助稲荷等で、近来は羽田の穴守稲荷が大いに繁昌するという」と記載していて、明治期においても何万とある稲荷神社の中でも相当著名であったようです。

その前の参道の両側にある狛犬は延享2年(1745年)銘で、奉納者として100余名もの三井越後屋出入りの人々の名が台座に刻まれていて登録文化財となっています。
延享2年(1745年)銘の狛犬

その狛犬が鎮座している左側には、ひと目でわかる「ライオン像」があります。
三囲のライオン像

三囲のライオン像
三越の旧池袋店から移した 三越のシンボルであるライオン像は 大正3年 当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み 三越本店に 一対のライオン像を据えたのにはじまる 戦後 本店の像をもとに各支店に設置されている ライオン像の原型はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオンである なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は大いに発展し 明治29年三越呉服店につながる
(現地案内板説明文より)

前述したロンドン・ハロッズ百貨店視察の折のことのようですが、この視察の時点で既にこのライオン像を発注していたそうです。英国の彫刻家メルフィールドが型取りバルトンが鋳造したもので、完成まで3年の歳月を要し、当時イギリスの彫刻界でもかなり話題になったのだそうです。
トラファルガー広場のライオン像
トラファルガー広場のライオン像 《写真:(C)ロンドン観光旅行ガイド ロンドンナビ》
その隣には「銅壷の台石」というものが置かれています。
銅壷の台石
これは客に出す茶の湯を沸かす台だそうで、明示29年から昭和初期まで実際に使われていたものです。
横に描かれている○に“越”は三越の範形といわれているものだそうですです。
銅壷の台石
とにかく三井関係なら何でもあり状態のようです。もう一体ライオン像を設置すれば“狛獅子”になるのですが・・・。

参道の右手には宝井其角の句碑があります。
宝井其角「ゆふたちや」の句碑

<墨田区登録文化財> 宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)
所在 墨田区向島2丁目5番17号 三囲神社内
元禄6年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。
其角は寛文元年(1661)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永6年(1777)に建立されたものが摩滅したので、明治6年(1873)に再建されたものです。
平成18年12月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

由緒にあった宝井其角の句です。
江戸名所図会には「夕立や田をみめぐりの神ならば」と記載されていましたが、「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と記載されています。江戸名所図会のほうは新訂版ですから現代表記に直されたのかも知れませんが、それにしても“遊ふた地や”など上手い表現を使うものです。流石に芭蕉の第一の高弟です。

そして社殿の前には狛犬ならぬ“狛狐”が鎮座しています。
三囲のコンコンさん三囲のコンコンさん

三囲のコンコンさん
目尻のさがった温和な表情を ここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた。
享和2年(1802)の奉納
(現地案内板説明文より)

途中の説明端折られているので今ひとつ意味がわからないのですが、登録文化財となっているようです。
そこで墨田区のサイトでもう少し調べてみました。

三囲神社の石造神狐
三囲神社は、かつて田中稲荷と呼ばれていました。三囲の名は、かつて地中に埋もれていた白狐にまたがる翁の像(稲荷神)を掘り起こした僧の前に白狐が現れ、像の周りを3回廻って、いずれかに消えたという縁起からきています。
 この神狐を奉納したのは、三井三店(呉服・両替・向店(むかいだな))のうちの向店です。台座に「向店」との陰刻が克明に読み取ることができます。元禄年間以降の三井家の隆盛とともに、三囲神社との関係が始まり、三井家各店がこぞって厚く信仰していました。
 この神狐は安山岩製で、総高162センチメートル、像は高さ75センチメートルあります。左右の台座の裏面には「享和二壬戌年十二月吉日」と陰刻されています。阿像尾部に破損の痕跡があります。
(墨田区オフィシャルサイトより)

やはり三井家に関係するものなのですね。

ここでやっと参拝を済ませます。
かなり有名な神社でありながらそれほど大きな社殿ではありません。
拝殿
三井家の庇護の下に質素でありながら、庶民に親しまれ易そうな佇まいです。質実剛健といったイメージでしょうか。 この社殿は墨田区登録文化財となっています。
安政2年の大震災後の文久2(1862年)年に棟梁の平野忠八によって再建され、明治17(1884)年に大工・平野芳太郎によって大修繕が行われたそうです。
この平野忠八という棟梁は、「琴通舎雅海」という狂歌師でもあり、「はなしとり」「春の霜」といった著書もあるそうです。あくまで本業は棟梁だそうですが、なかなか粋な棟梁がいたものです。
更にこの社殿の特徴は本殿の屋根の上に“神狐”が配置されていることです。
本殿 本殿
流石に「コンコンさん」の神社です。

参拝を済ませてからは、社殿の周りを巡ってみます。反時計回りにまわります。
こちらにも沢山の石碑があります。社務所には石碑ガイドのような本が販売されていました。
石碑群 石碑ガイド
1冊2500円ではちょっと・・・。

社殿の右手には4つの鳥居(4つの参道)が並んでいます。
境内社
いちばん手前の鳥居は鳥居が数本並んだ参道になっていて、その先には「広富稲荷社」が鎮座しています。
広富稲荷社 広富稲荷社
いわゆる「コンコンさん」が祀られているのですが、こちらにいる白狐は、社殿の前の狛狐と違って皆厳しい表情ですから、侮ってはいけないようです。
広富稲荷社
2つ目の鳥居の先は「福寿稲荷社」です。
福寿稲荷社
いずれも「コンコンさん」です。

3つ目の鳥居には「白狐祠」という扁額がかけられていますが、参道の途中から2又に分かれていて左側の参道の先に「白狐祠」があります。
白狐祠 白狐祠 白狐祠
そして二又の右側には2体の石像が置かれています。
老翁老嫗の石像

老翁老嫗の石像
所在 墨田区向島2丁目5番17号 三囲神社内
元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願う事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どっからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、唐翁像には「元禄14年辛巳5月18日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
平成18年12月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

この白狐が祭神である宇迦之御魂命の遣わした狐で、このお婆さんが人々と狐の橋渡し(通訳?)をしていたわけです。従ってこのお婆さんも宇迦之御魂命の使いであったわけですから、誰でもそれが出来るわけではないということです。
因みに、其角は“早稲酒”と詠んでいるので何かお爺さんにも関連することかと思いましたが、“早稲酒”は秋の季語だそうなので、お爺さんはやはりこの話しには関係が無いようです。
こう言った関係から「白狐祠」から分かれた参道にお婆さんがいるという構図になっているようです。

最後の4つ目の鳥居の先には「水神社」が鎮座しています。
水神社
由来等はわかりませんが、ここだけ「コンコンさん」ではなく、きっと水神か何かを祀っているのでしょう。

ここからは社殿の裏手になります。
社殿裏手
この辺りにも石碑がたくさんありますが、分かるものだけ箇条書き的に見て行きます。

富田木歩句碑 富田木歩句碑
「夢に見れば死も なつかしや冬木風」木歩
(裏面)大正13年9月1日の一周年に於いて富田木歩君慰霊の為建立 友人一同 亜浪書

野崎車応追悼碑 数拳の名手 野崎車応追悼碑
太田南畝(蜀山人・四方赤良)の漢詩を冒頭に置き「ひらく手の五ゥは勝なり梅のはな」と続く。
「五ゥ」の「ゥ」は「五」の読みを示すふり仮名であって「うっ(打っ)」の意味である。
文化9年(1812)年建立

朱楽管江辞世碑 朱楽管江辞世碑
「執着の心や娑婆に残るらむ よしのの桜さらしなの月」朱楽管江
建立の年代は書かれていないが文化文政の頃にはすでに有名な石碑であった。

其角惜春の句碑 其角惜春の句碑
「山吹も柳の糸のはらミかな」其角 天保6年(1835)建立

筆祖 蒙恬将軍の碑 筆祖 蒙恬将軍の碑
光緒8年(1882)清の名筆 揚守敬撰書 画像は応挙筆 明治16年除幕
三かこいでも著名な名碑のひとつ。光緒は中国清の年号

といった具合で境内には、これの10倍位の石碑がまだあるのではないでしょうか。

裏手の一画に変わった形の鳥居があります。「三角石鳥居」というものです。
三角石鳥居
三井邸より移されたもので、原型は京都太秦の木島神社にあるそうです。
神社建築用語では「三柱鳥居」と言うそうで、主な例としては、ここに記載している「木島神社」のほか、岐阜県大和町や奈良県桜井市等にあるようです。
木島神社三柱鳥居 《木島神社三柱鳥居》
やはり「三」絡みで三井家で造られたものなのでしょう。ここまでくると特に驚きもありません。
もう一つおまけに三柱の手水舎もあります。
三柱の手水舎
とにかく三尽くしの境内です。

境内の西側には「神門」があり、その先が隅田川沿いの「堤下の大鳥居」となります。
神門
そしてその左手に「顕名霊社」という社があありますが、これは三井家の先祖を祀る社なのだそうです。
顕名霊社
小振りですが流石に細かいところまで精緻に作られているようです。狛犬は“犬”です…。

さらにその隣には「木遣音頭碑」があります。
木遣音頭碑

木遣音頭碑
地面をつき固める「タコ」を形どり、上部に木遣音頭の来歴、下に町火消の名前が列記してある。明治8年建立
左右にある副碑は戦災による損傷が著しいが共に明治初年の町火消の貴重な足跡を示している。
(現地案内板説明文より)

下町向島らしい碑です。
毎年6月6日には木遣唄奉納として、ここ三囲神社で江戸消防記念会により執り行われているそうで、 宮司によるお祓い、祝詞奏上、玉串奉奠後、木遣り唄の奉納が行われるのです。
あの独特の節回しの木遣りですが、ここで唄われるとまた違った厳粛さを感じるのではないでしょうか。

ここから社殿に戻ると境内社の「富士見稲荷社」があります。
富士見稲荷社
そしてその隣に「恵比寿・大国神社」があり、由来にもあったとおり、この2神は元々越後屋に祀られていたもので、隅田川七福神の一つになっているのです。
恵比寿・大国神社 恵比寿・大国神社
最後に神楽殿を巡って参詣も終わりです。
神楽殿

日本人の大好きな「三大…」ではないですが、狐と其角と三井家という摩訶不思議な三題話しも取りあわせのなかで、1000年以上の歴史を刻んできた「三囲神社」は下町の文化を披瀝するかのような神社でした。

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