街の守り神とランドマーク #2

見所満載の三囲神社を後にして、見番通りを南下します。 このあたりは花柳界なので、昼のこの時間帯は長閑な雰囲気です。
夕方くらいからは、華やかな街に変身するのでしょう。そういう雰囲気も味わってみたいものです。

牛嶋神社

見番通りを南下すると右側に「すみだ郷土文化資料館」があります。
見番通り すみだ郷土文化資料館
いつもの散策なら必ず立ち寄る資料館や博物館なのですが、今回は時間がないわけではないのですが、何となく立ち寄る気力がないので(理由は特にない、気まぐれ …、否、お腹が空いていたため!?)パスしました。
別の機会があれば寄りたいものです。

そのまま先に進むと見番通りは言問い通りと交差して終着となります。
その交差点からはスカイツリーをはっきり見ることができます。
スカイツリー
まさに目と鼻の先といったところです。
やはりお腹が空いていたようで、交差点の角にある何となくそそられた【割烹 上州屋】で昼食をとりました。
割烹 上州屋
割烹とは言いながらもこちらはあくまで庶民のための割烹です。
なかなか美味しい昼食と雰囲気を味わいました。

お腹も満たされたことで、資料館に戻ってという選択肢もあるのですが、後戻りしない性格なので、このまま先に進みます。
但し性格的に後戻りしませんが、後悔は常にしています。
言問通りを渡ると「埼玉屋小梅」という和菓子屋を発見します。
埼玉屋小梅
「言問団子」「長命寺桜もち」と続いたスイーツ街道でもあるので、とりあえず寄ってみました。
埼玉屋という名前の通り、初代は埼玉県羽生市の出身で創業は明治30年という老舗です。“小梅”というのはこの辺りが小梅と呼ばれていたからでしょう。確か資料館の隣にあるのが小梅小学校でしたから。
特に名物は「桜橋まんじゅう」「小梅だんご」といったところで、赤飯なども神社に納めているそうです。
埼玉屋小梅 埼玉屋小梅
昼食を済ませたばかりなので、ここで一服というわけにもいきませんが、余りおいしそうなので「豆大福」と「栗蒸羊羹」をお土産に買っみました。
埼玉屋小梅
やはり上品な甘さで大変美味しかったです。

そしてこの「埼玉屋小梅」の裏手にあるのが「牛嶋神社」で、長命寺や弘福寺で出てきた「牛御前宮」です。
この牛嶋神社、参道口が幾つかあります。
恐らく隅田公園から真直ぐ入るこの参道が表参道だと思います。
表参道鳥居
社殿にも真直ぐですし、鳥居も立派なようですから。
これに対して、この表参道と直角に交わる形に参道があり、特に表参道から見て左手の参道口には立派な社号標と鳥居が建っています。
牛嶋神社石造鳥居
そして、この鳥居は「牛嶋神社石造鳥居」として墨田区登録有形文化財となっているそうです。

牛嶋神社石造鳥居
この鳥居は、花崗岩製のもので高さが375センチメートルの明神型鳥居です。現在の神社境内の西門にあたります。柱には文久2年(1862年)正月の銘があり、右柱には「奉献 御手洗信七郎藤原正邦」と刻まれています。この人物は、子育地蔵堂(東向島三丁目2番)の傍らに奉納されている万延元年(1860年)の銘がある庚申塔にもその名が刻まれており、本所・向島と縁が深かったのではないかと思われます。
関東大震災に被災して、神社が旧境内地(現在の向島三丁目周辺)から現在に移る際、共に移転してきましたが、鳥居自体の保存状態は良好と言えます。
(墨田区オフィシャルサイトより)

いずれにしても由緒ある神社のようです。
境内を左右に走る参道には石碑などが建てられています。
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑

<墨田区登録文化財> 烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑
所在 墨田区向島1丁目4番5号 牛嶋神社内
「いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹」談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
元禄時代にはひとつの話芸として確立した落語も、その後衰えていましたが、天明4年(1784)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。
文政5年(1822)80歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)
平成7年3月 墨田区
(現地案内板説明文より)

三囲神社を改築した平野忠八という棟梁もまた「琴通舎雅海」という狂歌師でしたが、当時はこう言った人が多かったのでしょうか。
興津要の「古典落語」での俄か落語ファンとしては、多少深堀をしないといられません。
落語の源流を辿ると、面白みのある話の源流としては「竹取物語」や「今昔物語」などといったものに収められた説話があげられるのですが、滑稽な話を集めた本の元祖としては誓願寺の安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたという1623年の『醒睡笑』が挙げられるのだそうです。江戸時代初期の頃ですが、ここから「子ほめ」や「たらちね」などの古典落語が生まれたのだそうです。
時代が下って17世紀後半になると、江戸では鹿野武左衛門、京都では露の五郎兵衛、大阪では米沢彦八という噺家が人気を博しました。また、この初代米沢彦八が「寿限無」の元になる話を作ったとも言われており、この当時の落語ブームの一端をになっていたのです。
こうしたなか1693年、江戸で悪疫が流行した際「南天の実と梅干しを煎じて飲めば効能がある」との流言が広まり、南天と梅干しの値が急騰するという社会問題が発生しました。結局これは、一儲けしようと八百屋とたくらんだ浪人が流した虚言だということが分かったのですが、犯人が武左衛門の噺をモデルにしたと言ったため、武左衛門は島流しとなり、江戸の落語は下火になってしまったのです。まあ、今ならトンだ濡れ衣です。
そして18世紀後半になって、上方では仮名草子に関わる人々が「咄」を集め始め、白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれたのです。
そして上方では1770年代に、江戸では1786年、烏亭焉馬らによって咄の会が始められ、1798年に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増え再び落語ブームが訪れたのでした。このような歴史的な背景から烏亭焉馬が落語中興の祖といわれるようになったのです。
こういった人の石碑を建立すること自体が粋なのでしょう。

その隣にある石碑の一帯は力石群で登録文化財です。
牛嶋神社力石群

牛嶋神社力石群
江戸時代、腕力や体力を鍛えた者が、重い石を持ち上げて力競べなどを行いました。この時に用いた石を力石と呼びます。江戸や大坂では力自慢たちにより、‘力持番付’が付けられるほど、盛んに行われました。その発祥は、本所・深川であったと考えられています。また農村では、おとなに仲間入りするための通過儀礼のひとつとされました。力石を使った力競べは、明治時代以降は廃れていきました。
牛嶋神社の境内には9個の力石が集められています。力石には、重さや年号が刻まれるばかりではなく、強さの代名詞として刻むことも多くあり、「麒麟」石や「雲龍石」もこうしたうちの一つです。
 中には、石を持ち上げた力持ちの名を刻む場合もあります。「内田店平蔵」とは、寛政6年(1794年)から活躍していた‘石の平蔵’のことで、各地にその名を残した職業的力持ち力士だったようです。「馬石」は、馬の顔のように長い石で90センチメートルもあり、「さし石」は、この石を差し上げたことから刻まれたようです。
コンクリートで固定されているために、重量については不詳ですが、刻まれた数値を信ずるならば、45貫目から55貫目(約169キログラムから206キログラム)もあることになります。
(墨田区オフィシャルサイトより)

力石は江戸時代のエンターテイメントですから、多くの神社に残っています。
勿論、何の記載もないので力石とは気が付かないものもかなりあるようですが、ここのようにコンクリートで固められているのも珍しいです。

さらにその隣には「包丁塚」があります。
包丁塚
「三竹会」という組織が建立したものだそうですが、この辺りはも向島の料亭街が隣接しているので、料亭関係の会なのでしょう。
それにしても「包丁塚」に牛とは、何とも不思議な光景です。食肉を慰霊するといった意味があるのかも知ません。

ここからは表参道を進みます。
鳥居の直ぐ先の一対の狛犬は昭和七(1932) 年に造立されたものです。
昭和七(1932) 年の狛犬
この牛嶋神社には4対の狛犬があり、その内の2対が文化財登録されているのだそうです。

その隣に神楽殿があり、参道の左手には覆い屋で覆われた牛の像があります。
神楽殿 撫牛

<墨田区登録文化財>撫牛
所在地 墨田区向島1丁目4番 牛嶋神社内
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
平成17年3月 墨田区教育委員会
(現地案内板説明文より)

言わずもがなで、きちんと牛の目を撫でさせていただきました。
撫牛
まあ、家内はボケないよう必死に頭と、太らないよう腰を撫でていましたが、結局全身撫でていました。欲深い女です。

ちょうどこの日は婚礼の挙式があるようで、社殿に向う婚礼の列ができていました。
婚礼
「お日柄もよろしいようで…、」といった所でしょう。おめでとうございます。

ここから参拝に上がりますが、社殿を囲む玉垣の入口の鳥居が珍しい「三つ鳥居」となっています。
三つ鳥居
「三つ鳥居」、別名「三輪鳥居」は、以前【三峯神社】を訪れたときに、三峰神社で見た鳥居です。そのとき「三つ鳥居」を調べて、三峰神社と大神神社の2ヶ所しかないと記載したのですが、3ヶ所目があったのですね。
この「三つ鳥居」は形式や由来などが全く不明な謎の鳥居なのです。

「三つ鳥居」をくぐった両脇には、乱積み石の上に子犬とともに安置されている狛犬がいます。
文政10年(1827年)銘狛犬 文政10年(1827年)銘狛犬
これは文政10年(1827年)銘のもので、墨田区登録文化財となっている1対の狛犬です。
よくよく見ると、その文化財の狛犬のさらに手前にもう一対の狛犬がいます。
文化八年(1811) 造立の狛犬
こちらは文化八年(1811) 造立の狛犬ですが、文化財にはなっていないようです。
これで3対目の狛犬です。

そして正面に拝殿が鎮座されていますので、参拝を済ませます。
重量感のありそうな直線的な社殿です。
社殿
流石に歴史に相応しそうな社殿ですが、ここで由緒を確かめてみます。

牛島神社について
牛島神社は、もと本所区向島須崎町に鎮座していたが、関東大震災後昭和のはじめ、水戸徳川邸跡の現位置に再建された。
当社の縁起書によると貞観2年(860年)御神託によって須佐之男命をまつり、ついで清和天皇の皇子貞辰親王をお祀りし「王子権現」と称した。
また天文7年(1538)6月28日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜ったと言われ、隅田川に沿う旧本所一帯の土地を、むかし「牛島」と呼んだところから、その鎮守として明治初年から「牛島神社」と称するようになった。例祭日9月15日は、貞観のむかしはじめて祭祀を行なった日とされている。
治承4年(1180年)源頼朝が大軍をひきいて当地におもむき、豪雨による洪水に悩まされた時、武将千葉介平常胤が祈願し、全軍無事を得たところから、頼朝はその神徳を尊信して社殿を建立し、多くの神領を寄進した。
江戸時代には鬼門守護の社として将軍家の崇敬篤く、特に三代将軍家光は、祭礼神輿渡御の旅所としての土地を寄進した。現在の本所2丁目のお仮宮がこれである。
総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛島神社は、昭和32年鎮座1100年祭を執行、氏子五十余町牛島講の守護神として崇敬尊信をあつめている。
(現地由緒書より)

この御神託は、慈覚大師が素箋鳴尊位冠の老翁と化現し「このところに跡を垂れ、永く国家を守護せん」と告げられたことによると江戸名所図会には記載されています。
また、「牛御前」の名称については、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。これは摂州輪田御崎など、御崎・三崎・岬と記載されているところは少なからず海に面しており、当初このあたりは海辺で州崎といっていたものが須崎となったことから、牛の御崎となったのではないかと江戸名所図会では考えているようです。 いずれにしても1000年以上の歴史を誇る牛島神社は本所の鎮守として現在でも親しまれているようです。
ちなみに江戸名所図会には「牛島神明宮」についても記載されていて、「貞観年間の鎮座なりと。別当を神宮寺と称して、最勝寺より兼帯す」と説明されています。これは牛島神社から両国方面に向った現在、東駒形にある「船江神社」の事のようで、北条家の「分限帳」に“江戸牛島四ケ村”と記載があり、富永弥四郎の所領であったそうです。そして江戸時代当時は本所中の郷(吾妻橋から駒形あたり)から須崎までの惣名と言っており、回向院あたりも江戸の古地図には牛島と記載があるそうです。
要するにこのあたり周辺はかなり広い範囲で「牛島」という地名だったといえそうなのです。

社殿の左右には狛犬ならぬ「狛牛」があります。
狛牛

牛嶋神社の石造神牛
牛嶋神社の境内地奥の玉垣内には、3対の狛犬がありますが、その他に安政6年(1859年)銘の神牛1対が安置されています。この神牛は、2基とも同型です。台座を含めて総高212センチメートル、神牛像の高さは97センチメートル、安山岩製です。表情は厳しく、境内にある撫牛の温和な表情とは対照的です。
牛嶋神社の通称「牛御前」にちなみ、狛犬のかわりに牛が奉納されたものと考えられています。左右とも像座に「奉納 願主 中之郷村 大工 久次郎」、台座に「大工中」と刻まれています。さらに右の像座には「安政六己未年三月吉祥日」、台座に「小梅村 石工 角治郎」と陰刻されています。
神牛が奉納されている例は、区内に限らず多く見ることができないため、牛嶋神社ならではの珍しい文化財と言えるでしょう。
(墨田区オフィシャルサイトより)

これも登録文化財となっています。
今までにも「兎」「鯉」「猿」等を見てきましたが、確かに「牛」は初めてです。

そしてその奥にあるのが4対目の狛犬で、享保14年(1729年)銘で、墨田区内に残る最古の狛犬なのだそうです。
享保14年(1729年)銘狛犬
これも文化財ですが、墨田区には戦前までに造られた狛犬は14対あり、その中で文化財登録されている狛犬は5対だそうです。
そのうちの2対がここ牛島神社で、もう1対が先ほど見てきた三囲神社です。そして残る2対は白髭神社と吾嬬神社にあるそうです。
吾嬬神社だけは亀戸方面ですが、それ以外は隅田川沿いの神社ですから、いかにこの向島周辺の神社が崇敬され続け、長い歴史を刻めてきたかが窺える好例でしょう。

隅田公園

牛嶋神社の参詣を終えて、参道口からそのまま隅田公園内を散策します。
この辺りは長細い隅田公園の中でも比較的東西の幅が広い部分です。
ここには日本庭園があり、都会であることを忘れそうな癒し空間ですが、現在は下町のランドマーク・スカイツリーの見える公園として今後違った意味での人気が出るかもしれません。
日本庭園 スカイツリー
東京タワーに対する芝公園といったあんばいです。

しばし散策をしていると「明治天皇行幸所 水戸徳川邸旧阯碑」と歌碑が建立されています。
明治天皇行幸所 水戸徳川邸旧阯碑

隅田公園 散策解説板 9 明治遷都後初の宮中花見 
-江戸から東京へ、桜の継承-
江戸時代、花見の名所として地位を確立していった墨堤は、明治時代になってもその魅力を増していきました。
明治時代になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移しました。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していましたが、明治維新の混乱期や東京遷都で中断していました。1875年(明治8年)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選びました。
その際に詠んだ歌がここに残されています。いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌です。
(現地案内板説明文より)

その歌が隣の碑に刻まれています。
「花ぐわし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」
今一つ意味ががよく判りませんが、「花ぐわし」の“くわし”は「細し」「美し」という細やかに美しいことをいうそうです。同語源に「香ぐわし」がありますので、これで理解しやすくなるでしょう。
決して「マコトちゃん」では・・・、不謹慎!。

ここにはもう一つ水戸徳川家小梅邸の由来碑があります。

隅田公園水戸邸跡由来記
コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル
徳川御三家ノ一ツデアル水戸家ガ オ浜屋敷 中央区ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ 元禄六年 一六九三年 三代綱條公ノ時デアル 屋敷ハ西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ 面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪 南北二百メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ
墨田区南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタ
コノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残ル小石川本邸 駒込別邸 イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ
弘化元年 一八四四年 烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際 改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ屋敷内ノ長屋デアッタ
ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府の管理スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 明治天皇 同二十五年ニハ 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル
昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッテイタ  シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ ソノ面影モオオカタ失ワレタ
昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ 後世ニ伝エルモノデアル   
昭和五十四年四月
(現地碑文より)

現在の東京ドームの凡そ1.5倍くらいの広さがあったようです。
流石に御三家だけのことはあるようですが、水戸家は水戸学を主とした勤皇家だったことにより、関東大震災で消失するまで水戸家本邸として残ることができたのでしょう。

そのまま公園内を進むと隅田公園の南端となります。
旧水戸藩下屋敷 [水戸徳川家小梅邸]

隅田公園 散策解説板 10 旧水戸藩下屋敷 [水戸徳川家小梅邸]  
-江戸時代からのもう一つの贈り物-
現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。
ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます。
関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当時は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。
(現地案内板説明文より)

その当時の西洋建築の写真が掲載されていますが、現在の門柱と似ています。
旧水戸藩下屋敷 [水戸徳川家小梅邸] 《写真:現地案内板より》
当時をイメージして作られたものなのでしょう。

そして公園をでた歩道に「富田木歩終焉の地」の碑が建てられています。
富田木歩終焉の地
確か三囲神社に木歩の句碑がありました。折角なので木歩について少し調べてみます。

富田木歩とは明治から大正にかけて活躍した俳人です。
富田家は旧家で代々向島小梅村の大百姓でした。木歩の祖父は明治のはじめに向島に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった竹屋の渡しも所有していたのでした。しかし父親は派手好き博打好きで財産のあらかたを無くし、明治22年の大火で資産も無くすと、小梅町の一角に鰻屋「大和田」を開いているだけの貧乏所帯だったそうです。
そのような中で生まれ育った木歩は、1才の時に高熱を出して両足が麻痺して以来、歩行困難・貧困・結核・無学歴の四重苦となってしまいました。しかしその四重苦に耐えながら句作に励み、「大正俳壇の啄木」といわれるほど将来を嘱望されていたそうです。 その俳号の木歩は、歩きたい一心で自分で作った木の足からつけたと言われています。
苦しくも未来のあった木歩でしたが、その終焉は関東大震災にやってきました。
小梅町一帯が火事になり、駆けつけた友人によって隅田川まで逃げたのですが、逃げ切れることが出来ない状況で、木歩は友人に感謝の気持ちを伝え、火事に巻かれて亡くなったのです。

その最後の状況をウィキで描写しています。

「覚悟すべき最後の時にたち至ったのを、二人は期せずして感じとっていた。そういう間にも、迫ってくる火勢は居たたまれぬ熱さとなって、攻めたててくる。声風は立った。そして「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」という悲痛な声とともに、手をさし伸べた。今生の別れの握手だった。木歩は黙ったまま万感の謝意をこめて、声風の手を固く固く握り返した。見つめあった二人の瞳は、涙に濡れていた。が、次の一瞬、折からの熱風とともに吹きつけた 火の渦に追われて、声風は大川に身を躍らせたのである。 かくして数時間の死闘後、漸く対岸の竹屋の渡し付近に辿り着いた時、見返る声風の眼に向島の土手を悪魔の如き火の旋風のはしるのが見え、次の瞬間、土手の人影はことごとく消し去られていたのである。木歩は焼死した。わずか26歳の生涯であった。」

そしてこの友人である新井声風は、その後の半生を木歩にささげ、昭和9年に「木歩句集」を初めとして数々の木歩句集と出版させたのです。そして件の三囲神社の句碑も、この声風ら友人によって建立されたものなのです。
悲しくも美しいストーリーがこの地にあったのです。

こうして「街の守り神とランドマーク」を散策してきたのですが、最後にやはりヴェネツィアとの関わりを明確にしておきましょう。

「街の守り神とランドマーク」
隅田川周辺:860年創建。牛が奉られる神社と東京スカイツリー
撫牛
サン・マルコ広場の起源と同じ頃、860年に創建された牛嶋神社(関東大震災で焼失し、現在地に移転)。境内には狛犬の代わりに狛牛が鎮座しています。また参道の先に目を移すと東京の新たなランドマーク東京スカイツリーが! まさに千年の時空を超えた景色です。

ヴェネツィア:811年創建のヴェネツィア共和国のシンボル
ライオン 《写真:(C)旅路の糧》
ヴェネツィアの中心的な場所「サン・マルコ広場」にはヴェネツィアの守護聖人マルコのシンボルであるライオンが鎮座し、高層建築の少ないヴェネツィアでひときわ目立つ鐘楼(高さ98.6m)がそびえ立っています。
(パンフレットより)

つい成る程と頷いてしまう共通点です。
徐々にこの地でヴェネツィア展とスタンプラリーが行われるのが、さも妥当のように思えてきましたから、人間の心理なんていうものは実に不可思議です。
この企画を考えた方に脱帽しそうです。

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コメント

  1. apcaris | -

    鳥居

    三ツ鳥居は崇徳天皇陵にもあります
    この鳥居はハッキリと由来を示します

    つまり、三ツ鳥居の元は、中国の牌坊&牌楼です
    そして、春聯も同根です

    何れも紅が、魔除け=招福。
    由来は、旧約聖書の出エジプト記であって、中国の場合は認めてます
    その内容で学校教育も行われてます

    隣国にそっくりなものがあるのに、何故か日本だけは、独自のものだという
    不思議な話です

    自家撞着ではないでしょうか?

    ( 22:24 )

  2. 薄荷脳70 | -

    apcarisさん、有難うございます。

    apcarisさん、有難うございます。
    なるほど、そんな由来があるのですね。確かに横浜中華街の善隣門が、そんな形ですね!
    良く分かりました。
    有難うございました^^

    ( 06:19 )

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