人と生活をつなぐ橋

隅田公園散策を終了し、次なるスタンプポイントである吾妻橋へ向かいます。
次なるテーマは「人と生活をつなぐ橋」ということで、より人々の役に立つ(役に立たない橋というのも聞いたことはないのですが)橋を巡ります。

枕橋

ちょっとほろ苦い木歩終焉の地碑から通りを渡って、再び隅田川テラスに戻ります。
隅田川には多くの橋が架けられています。 その中にはまさに地名を拝した「言問橋」や歩行者専用の「桜橋」などがありました。
そして当然鉄道のための橋もあるわけで、ここから見える橋が「隅田川橋梁」です。
隅田川橋梁
これは東武鉄道が浅草駅まで延長するために隅田川に架けた橋で、長さ166mの鉄道橋梁で、別名「花戸川鉄道橋」とも呼ばれているそうです。
丁度、浅草駅近くですから発着のどちらもゆったりとした速度で走行するため、隅田川のゆらりとした景色とあいまって、実に浅草の情緒を味わうかのような風情をかもしだしています。 朝、これに乗って浅草から曳船まで行った鉄橋です。
丁度出発するのは東武特急のスペーシアでしょうか。鉄チャンにはいいスポットなのかも知れません。

隅田川テラスはこの先で途切れています。
それは隅田川から東に北十間川が引き込まれているためで、一旦隅田公園前の墨堤通りに戻って南下します。
すると当然ながら、この北十間川を渡る橋があるわけですが、これが「枕橋」なのです。
枕橋
ちょうど東武鉄道の「隅田川橋梁」が終わった高架になっている下にあります。

先ずは「枕橋」の下を流れる北十間川について調べておきます。
北十間川は、総延長3.24kmの荒川水系の一級河川で、江戸時代初期に開削された掘割です。北西から南東へと斜めに流れ、北西側が隅田川、南東東側が旧中川と接続し、途中、大横川、横十間川を分岐しており、名称は、本所の「北」を流れる、川幅が「10間」の川であることに由来しています。
江戸時代、明暦の大火後の本所開発の一環として、隅田川から業平橋までは材木輸送のため万治2(1659) 年に開削され、業平橋から先は寛文3(1663)年に農業用水のために開削されたそうです。そして最初の隅田川から業平橋までを「源森川(別名源兵衛堀)」、業平橋から先を「北十間川」と呼んでいたのです。
しかし、その後、隅田川増水時の洪水被害が著しく、寛文12(1672)年には間に堤が築かれ分断されたのです。
その当時の様子が「天保一四年天保御江戸絵図」に現されています。
資料館ノート 《絵図:江東区深川江戸資料館「資料館ノート」より》
時代が下って明治18(1885)年、住民の要請で源森川と北十間川が再び接続されました。これによって隅田川と旧中川が最短距離で結ばれ、業平橋駅での鉄道貨物とも連携して物流の動脈として機能したそうです。しかし、戦後舟運は衰退し、昭和53(1978)年には大横川との分流点に北十間川桶門が設けられ航路としては再度分断されたのです。更に大横川等のかつての接続河川も多くが埋立てられ、水運の役割は殆どなくなっているのが現状のようです。

その様な掘割にかけられた「枕橋」ですが、こちらも紆余曲折があるようです。
枕橋 枕橋
この橋は寛文2(1662)年に関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に掛られた橋で、当初は源森橋と称していましたが、ほとりに源兵衛という船乗りが住んでいたので、源兵衛橋とも呼ばれていたそうです。また、その北側にあった水戸藩の下屋敷(現隅田公園)入る掘割に新小梅橋という小橋があり、この源森橋と並んであったため、「ふたつ並びし枕橋」と小唄にも謡われていたそうです。
その後、北側の堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、明治8年、残った源森橋は正式に「枕橋」となり、源森橋の名は東となりの無名の橋に付けられたのです。
そして現在の枕橋は昭和3年に架け替えられ、昭和63年には東京都著名橋に指定されたのです。

当時、この枕橋の西北の隅田川べりには「八百松」という料亭があり、隅田川と源森川の風情が楽しめるとして、政財界を初めとして大いに賑わったそうですが、やはりここも関東大震災で閉店となったそうです。
八百松と枕橋 《写真:墨田区立緑図書館》
写真の手前にある橋が枕橋で、右にある建物が「八百松」です。
当時、この辺りが名所であったことは、橋の欄干にはめ込まれた「隅田川八景 枕はし夜雨」でも窺えます。
隅田川八景 枕はし夜雨
これは2代目広重の作のようで、隅田川八景として有名なのはやはり初代の作で、その夜雨は、荒川区の白髭橋付近を描いているようです。それにしても粋で風雅な時代だったのでしょう。
なお、江戸時代ここには「山の宿の渡し」がありました。渡しのあった現在の台東区の花戸川河岸付近が「山の宿町」と呼ばれていたことからこの名が付いたようです。その為「花川戸の渡し」と呼ばれたり、墨田区側の枕橋の袂にあったことから「枕橋の渡し」とも呼ばれていたようです。創設年代は不明ですが、江戸中期には運行されていたようで、浅草寺の参詣客や、墨堤の花見客などで賑わったようです。

現在の枕橋の北十間川の西側(下流)の目の前には水門があり、その先がもう隅田川です。
枕橋水門
潮位が上がるとこの水門を閉めるのでしょうが、これによって隅田川テラスが途切れているのです。
一方東側(上流)は今や絶好のスカイツリービュウスポットになっているようです。
北十間川上流
今日も大勢のカメラマンたちがここに集っていました。新しい名所の誕生と言ったところでしょう。
そして先に見える橋が現在の「源森橋」です。
源森橋
江戸から明治にかけての名所も、昭和になって少し陰が薄くなっていたようですが、平成の現在、また新たな歴史を刻むために輝き始めたようです。

吾妻橋

枕橋を渡ってからは、再び隅田川テラスに向います。 テラス前の土手の手前の墨田区役所の一画に「勝海舟」の銅像が建立されています。
「勝海舟」の銅像

建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕180年
平成15年(2003年)7月21日(海の日)
墨田区長 山崎昇
(銅像プレート文より)

坂本龍馬、西郷隆盛と並ぶ幕末の英雄でありながら、何故海舟だけ銅像がないのだろう、という疑問が「勝海舟の銅像を建てる会」の設立になったようです。
個人的にも割と好きで、「勝海舟(子母沢寛)」「親子鷹」「氷川清話」の3冊だけは読みましたが、非常に個性的なキャラに惹かれてました。
勿論、幕末における海軍創設、咸臨丸渡米、江戸城無血開城など功績は数々あるのですが、非常に魅力的なのが先見性や判断力と言ったものを含めたその明晰な頭脳でしょう。ある意味、龍馬が行ったことは海舟の敷いたレール上のことといった感すらありますので。
しかしながら、龍馬や西郷さんのように今ひとつ人気がないのは、その気質に拠るところが大なのでは無いでしょうか。
どこか人を小ばかにしたような振る舞いや、ほとばしる熱い思いを隠すといった“ずるそうな”気質によるものでないのでしょうか。恐らくジョークであったり照れ隠しであるような、江戸っ子気質に基づいたものではないかと思えるのですが、その辺りが全国的には理解できないところがあるのかもしれません。

「胸が苦しいからブランデーを持って来い」と家人に命じた海舟は、「今度はどうもいけないかもしれないぞ」と言いつつ、ブランデーを飲み、脳溢血で倒れ意識を失いました。そして海舟が最後に呟いたのは、たった一言、「これでおしまい」。
海舟の名言は数々ありますが、この一言が海舟の気質の全てを表しているように思えます。この名言が、迷言と思える方は恐らく海舟を理解することは難しいのではないかと思っています。福沢諭吉のように…。
何事にもぶれない1本筋の通った信長、天真爛漫な明るさの秀吉の比べ、タヌキと言われた家康の一般的な人気は高くありません。 臨機応変が、裏を返せばタヌキじいいと言うことになるのかもしれません。何故か本質的に家康と海舟に同じような気質を感じるのですが…。
この銅像で多くの人が海舟を理解してくれると良いですね。

参考:【勝海舟を顕彰する会】http://www.katsu-kaisyu.net/

墨田区役所の隣にはあの有名な昭和のランドマークであるアサヒビールの「ウ○コビル」があります。
そのアサヒビールのタワーに映し出されたのが平成のランドマーク、スカイツリーです。
アサヒビールビルのスカイツリー
こういった光景もまたここならではの風景でしょう。

ここから隅田川テラスに下りると、左手には赤い「吾妻橋」を見ることができます。
吾妻橋 吾妻橋
江戸名所図会でも「大川橋」として挿絵が描かれています。
江戸名所図会 大川橋 《挿絵:江戸名所図会》
挿絵に見える山は筑波山で、この挿絵は下流から上流に向って描かれており、川の右岸が向島周辺です。

この「吾妻橋」は安永3(1774)年10月17日の架けられました。それまでは「竹町の渡し」があったようです。
この「竹町の渡し」は別名「駒形の渡し」とも言われ、現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間ぐらいにあったのですが、江戸時代にこの吾妻橋が架けられたことから利用者が減り、明治9(1876)年に廃止されたそうです。
この様に「吾妻橋」は江戸時代に隅田川に架けられた5つの橋のうちの最後の橋で、これ以外の4本の橋は以下の通りです。

1.千住大橋:文禄3(1594)年-家康が江戸に入府して架けた最初の橋
2.両国橋:万治2(1659)年-明暦の大火が架橋のきっかけ
3.新大橋:元禄6(1693)年-5代将軍綱吉の母の発願による
4.永代橋:元禄11(1698)年-上野寛永寺本堂の材木を使って架橋

当時は長さ84間(約150m)、幅3間半(約6.5m)の橋で、面白いことに武士以外のすべての通行者から2文づつ通行料を取っていたそうです。天明6(1786)年7月18日の洪水で永代橋、新大橋が消失し、両国橋も大破した中で、吾妻橋だけが無傷で残ったことから、架橋した大工や奉行たちに褒章が贈られたそうです。

江戸名所図会にもあるように初めは「大川橋」と呼ばれていました。これは当時隅田川を“大川”と呼んでいたからですが、俗称では江戸の東にあることから町民からは「東橋」と呼ばれていて、後に慶賀名として「吾妻橋」となった説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説があるそうです。
いずれにしても、明治9(1876)年2月に木橋として最後の架け替えが行われたときに正式に「吾妻橋」と命名されたのだそうです。 因みに慶賀名の橋としては「永代橋」や「万年橋」などがあります。
この最後の木橋は明治18(1885)年7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて吾妻橋の橋脚に衝突し、一緒に消失してしまったそうです。その為、明治20(1887)年12月9日に、鋼製プラットトラス式の隅田川最初の鉄橋として再架橋され、人道橋、車道橋、鉄道橋(東京市電)の3本が平行して架けられたのです。
しかし後の関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちたため、一時的な補修の後、昭和6(1931)年に現在の橋に架け替えられたのだそうです。現在は長さは当然殆ど変りませんが、幅は当時の約3倍の20mの橋となっています。
赤色で塗装された吾妻橋は、対岸の浅草寺の赤をイメージして塗られたものだそうです。余り華やか過ぎずそれでいて存在感を主張しているようで、実に周りの風景に溶け込んだ美しい橋です。

折角なので江戸の雰囲気だけでもと吾妻橋を渡ってみることにしましたが、その橋の袂に「隅田公園入口」と刻まれた古そうな石碑がありました。
隅田公園入口碑

石造標柱 隅田公園入口
大正12年(1932年)の関東大震災は隅田川沿いの人々に大きな打撃を与えました。住宅、工場はもとより、江戸時代から続く名所・墨堤の桜も壊滅的な状態となりました。そのような中、帝都復興計画事業の一環としての防災公園、隅田公園は大正14年から着工し、昭和6年に開園しました。
機能的ではありましたが、味気ない公園に憩いと潤いを与えようと、当時の吾妻橋親和会の人々44人が、江戸から続く墨堤の桜を復活させようと、多くの桜を植栽しました。その記念に翌7年4月に建立した標柱です。
当初、吾妻橋のたもとに建てられていましたが、平成元年のスーパー堤防及び墨田区役所新庁舎整備の際に現在地に移されました。
区登録名勝「墨堤の桜」、区登録文化財「墨堤植桜之碑」とともに、墨堤の歴史を物語る資料といえます。
(墨田区オフィシャルサイトより)

文化財の標柱なのですね。基本的に隅田公園はこの吾妻橋から北上するのが本来のルートなのでしょう。
今日は逆に辿ってきましたが。

そして吾妻橋をわたります。橋の中央付近から上流を眺めた風景です。
吾妻橋 隅田川上流
この右岸をずっと歩いてきたわけです。
吾妻橋を渡りきった先が浅草です。
浅草方面
そして、ここから見える風景が現在の向島を代表する新旧のランドマークです。
新旧ランドマーク
さながらキントンウンに乗ったスカイツリー…、ですか!?
新旧ランドマーク

ここから再び吾妻橋を戻りますが、やはり橋の中央付近から見た下流方向で、ここを下って最終の両国にある江戸東京博物館に行くことになるわけです。
隅田川下流
吾妻橋を渡りきって、吾妻橋東詰交差点に到着し角にある「吾妻橋観光案内所」に向かいます。
吾妻橋観光案内所
ここは今回のスタンプラリーのスタンプポイントとなっていて、本日2つ目のスタンプを頂きました。
吾妻橋観光案内所 スタンプ
この観光案内所で両国までのアクセスを訪ねたのですが、水上バス(水辺ライン)は1時間、都営バスもまだ30分以上の待ち時間があるとのことなので、ここはタクシーで両国に向かうことにしました。
タクシーを捜しているうちに「浅草名物 芋きん」なる店を見つけたので入ってみました。
満願堂 吾妻橋店 満願堂 吾妻橋店
店舗は「満願堂 吾妻橋店」とあるのでチェーン店なのでしょうが、芋のきんつばがはじめてなので、芋と餡を一つづつ買い求めて、本日最後のスイーツとなりました。
流石に食べ過ぎ感は、十分自覚しているのですが・・・。

最後のこのテーマにおけるヴェネツィアとの対比です。

「人と生活をつなぐ橋」
隅田川周辺:江戸期に開削された運河にかかる東京都著名橋
北十間川
隅田川にも明治以降デザイン性あふれる多くの橋がかけられました。さかのぼること江戸時代、この一帯は埋立てられ、盛んに掘割が開削されました。
今も残る掘割、北十間川にかかる枕橋は13ある東京都著名橋のひとつ。そこから細い水路を眺めていると昔の人々の生活の姿が目に浮かんできます。

ヴェネツィア:リアルト橋など多くの橋がラグーンにかかる
リアルト橋 《写真:(C)研究者7の旅ブログ》
水の都ヴェネツィアには様々な表情をもつ橋がかかります。カナル・グランデにかかる4つの橋のうちのひとつで建築家ダ・ポンテが手がけたリアルト橋。そのコンペにはあのミケランジェロも参加しました。そして街なかのリオと呼ばれる細い水路には人々の生活をつなぐ多くの橋がかかります。
(パンフレットより)

先に東京都著名橋を調べてみましたが、枕橋のほかの12のうち、8つは、お茶の水橋・聖橋・昌平橋・万世橋・目黒新橋・千登世橋・五之橋・南浅川橋なのですが、それ以外の4つがどうしても判りませんでした。
何故、こんな簡単そうな検索が出てこないのでしょう。
隅田川に架かる橋梁は現在大動脈としてなくてはならない存在で、どちらかと言えば北十間川にかかる橋などが、ここで言うところの生活感のある橋といえるでしょう。
現在、北十間川に架かる橋は、枕橋・源森橋・小梅橋・東武橋・京成橋・西十間橋・十間橋・境橋・福神橋・小原橋の10橋ですが、実際に見てはいませんが、庶民にとっては無くてはならない橋なのかもしれません。
隅田川周辺が、日本のヴェネツィアとして認識されるのかどうかはわかりませんが、歴史を紐解くと結構共通するところがあるようで、そういったことを学べた非常に面白い散策でした。
最後はメインイベントのヴェネツィア展に向かいます。

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