江戸東京博物館 #3

江戸の文化もさらにディープな世界に入ってきます。 まさに300年間に築き上げられた文化の集積です。

江戸文化コーナー 2

次のエリアには出版関連の展示が行われています。
浮世絵版画のできる行程を見ると、1枚作りあげるのもかなり大変な作業であることがわかります。
浮世絵
こちらは今で云うところの本屋でしょうか。
浮世絵
庶民の娯楽の最たるものでしょう。

そして以前から気になっていた「黄表紙」と言われる本が展示されていました。
黄表紙

庶民の読み物 黄表紙
江戸時代の小説・絵草紙(草双紙)の一種。
絵草紙は毎頁に絵が描かれ、現代で言う絵本や漫画に近かったが、黄表紙は洒落や滑稽を盛り込んだ大人向けの読み物である。
1775年(安永4)に刊行された恋川春町の「金ゝ先生栄華夢」が黄表紙の始まりとされ、安永・天明期(1772~1788年)にかけて全盛期を迎える。
やがて長編物が増えていった黄表紙は、1806年(文化3)に合巻という合冊の形態に形を変え、庶民に親しまれた。
(館内案内板より)

結構、時代小説を呼んでいたりするとこれ結構出てくるんですね。そのとき調べれば良いのですが、意外とそのまま何となくイメージで判った振りをして先に進んでいたものです。
やっと長年の疑問がとけました。
他にも様々な本等が展示されていますが、現在のようにIT社会となっても、そして未来においても形は変われど活字は常にいきいきと生き続けていくのでしょう。

次のエリアは江戸の商業というテーマでの展示ですが、商業といえば当然こちらが代表格となるでしょう。

三井越後屋 江戸本店
江戸時代の代表的な呉服店「三井越後屋」の店先(駿河町)を、「本普請画図面」(1832年三井文庫蔵)などをもとに再現した。
三井越後屋の創始者・三井高利は、伊勢松坂の出身で、1673年(延宝1)、京都に呉服の仕入店を設け、江戸に販売の店を開いた。江戸店は、当初本町2丁目に置かれ、「店前売」や「現金、懸値無し」の新商法が当たり繁盛したが、呉服仲間の反感を買い、1683年(天和3)駿河町に移転した。
高利は、金融業にも手を広げ、江戸、大坂、京都で両替商を営み、やがて幕府の公金を扱う御為替御用も勤めた。
(館内案内板より)

三囲神社で散々出てきた越後屋の本店模型です。
越後屋本店 越後屋本店
この店先の暖簾は15分毎に開閉するのですが、ちょうど閉まる瞬間だったので両方撮ることができました。
確かに大層な繁盛振りですが、こういったイメージからTVなどで「越後屋、お主も悪よの~」等と云われるのも迷惑な話でしょう。

そしてもう一つ江戸の文化としても外せないのが「吉原」です。
吉原

吉原は幕府公認の遊郭として都市江戸の成立と共におこり、幕末の動乱期を除き、約3~6千人余りの遊女がいた。華やかな妓楼では贅を尽くした遊興が、着飾った遊女たちを相手に日夜くりひろげられた。
遊女の身なりは流行の先駆けともなり、その姿は浮世絵の好画題であった。また、吉原は洒落本など多くの文芸作品にも取り上げられ、江戸独自の文化の形成に大きな役割を果たした。
しかし、こうした吉原の繁栄を支えてきたのは、経済的理由から吉原に身を売り、遊客の相手をすることを職業としなければならなかった女性たちである。
明治維新後、政府は「娼妓解放令」(1872年・明治5)を出し、さらに遊女の自由廃業を認める「娼妓取締規則」(1899年・明治32)も施行した。しかし実際には吉原の妓楼は<貸座敷>と名を変えたのちも存続した。
(館内案内板より)

先の「二人の貴婦人」の解釈がまさに同じで、洋の東西を問わず、ある意味では高級娼婦はかつてのトレンディでもあったのです。
吉原
さらに今回の散策では「鳩の街」という旧赤線地帯を散策しましたので、単なる江戸~昭和での風俗ではなく、まさに江戸・東京の発展のある意味底辺を担った文化といえるのでしょう。

その好画題の浮世絵人気の立役者の一人である「葛飾北斎」の展示があります。
葛飾北斎
隣には北斎のアトリエを再現しています。
葛飾北斎

北斎の画室
葛飾北斎の画室を、弟子の露木為一が描いた「北斎仮宅図」(国立国会図書館蔵)をもとに再現し、名品誕生の舞台裏をのぞいてみた。
北斎は、本所割下水(当博物館に近い、現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、生涯に90回あまりも引越したと伝えられる。
この模型は、そうした仮住まいのうち、83歳ころの北斎が、橙馬場(現・墨田区両国4丁目付近)の貸家に娘の阿栄と住んでいたときの、彼の画室である。このような狭く、粗末な家から世界的な傑作が生まれた。
(館内案内板より)

それこそ浮世離れした、まさしく江戸時代のアーティスト、画壇のスーパースターの由縁でしょう。
豪邸の中で描いていたら、庶民から見ればあまり嬉しくない光景ですから、このような環境がまたうってつけだったのでは無いでしょうか。本人にも庶民にとっても。

そして江戸ゾーンのシンボルが最初に見た「中村座」です。
中村座の中には舞台が設置されています。
助六

助六の舞台
江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」の衣裳・大道具・小道具などを、江戸後期の古典的な舞台の上に展示しています。「助六」に登場する衣裳をまとめて展示するために架空の場面を設定したものです。江戸歌舞伎の伝統は衣裳、大道具、小道具など、その多くが今日まで受け継がれています。ここで展示した衣裳や小道具は、現在の舞台で使われているものと同じものを製作しました。
(館内案内板より)

助六とは古典歌舞伎を代表する演目のひとつで、「粋」を具現化した江戸文化の極致といわれています。歌舞伎宗家の市川団十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つで、特に上演回数も多く、上演すれば大入り間違いなしの人気演目だそうです。
折角の機会なので、あらすじ位知っておきましょう。

花川戸助六という侠客に姿をやつした曾我五郎は、源氏の宝刀「友切丸」を探すため吉原に通っている。様々な男が集まる吉原で、遊客にわざと喧嘩を吹っ掛けて刀を抜かせようというのである。そこに助六を情夫にしている花魁の揚巻(あげまき)と、揚巻に言い寄る髭の意休(ひげの いきゅう)が登場。意休が友切丸を持っていると勘づいた助六は刀を抜かせようとするが、なかなかうまくいかない。そこへ白酒売に身をやつした兄の曾我十郎がやってきて弟に意見するが、助六の真意を知った十郎は自らも喧嘩を売る稽古を始める。
やがて揚巻が一人の侍を伴って再登場。助六はその侍に喧嘩を売ろうとするが、驚いたことにその侍は、兄弟を心配してやってきた母の満江であった。満江は助六に破れやすい紙子の衣を着せて、激しい喧嘩を戒めると十郎とともに帰ってゆく。
舞台には再び意休が登場。意休は実は助六が曾我五郎と見抜いており、友切丸を抜いて源氏を裏切ることをそそのかす。助六はもちろん応じず、意休(実は平家の残党・伊賀平内左衛門)を斬り、友切丸を取り返して吉原を抜け出す。
と、書いてしまえばなんとも単純なお話ですが、見ると全く違うのかも知れません。機会があれば助六に限らず一度見てみたいものだと思っているのですが…。
江戸時代から綿々と連なっているリアル江戸文化です。

「中村座」の正面に出ます。
中村座

芝居小屋中村座
江戸時代の代表的な歌舞伎の芝居小屋である中村座の正面部分を、原寸大(間口11間、奥行3間)で復元した。ここでは、庶民も大名も、日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせた。
芝居小屋がもっとも華やかな装いをみせるには、毎年11月の顔見世興行のときである。公許のしるしである櫓の下に、絵看板や文字看板、提灯などを飾りたて、往来をにぎわせた。その様子は、「戯場訓蒙彙」や「堺町中村座内外の図」にくわしく見ることができる。
この模型の復元に当たっては、「町方書上」や「江戸名所図会」なども参照した。看板類は、1805年(文化2)11月の顔見世興行(清和源氏二代将)のときのものを想定して作成した(絵看板-九代目鳥居清光/画)。「暫」の絵看板の絵は、江戸歌舞伎を代表する図柄なので特に加えた。
(館内案内板より)

「公許のしるしである櫓」というのがこの幕の張られたところで、左右の幕には、「中むら」「きゃうげんづくし」「かん三良」と3行で書かれています。
中村座
これを掲げられるのが、いわゆる幕府から認可を受けた芝居小屋だけということになるのです。

さて、ここに記述のある顔見世興行なのですが、一般的には正月思うのですが、やはり、この辺りには江戸の伝統があるようです。
現在の歌舞伎は、その役者の多くが松竹株式会社に所属して、その下で各劇場に別れて公演をしています。しかし江戸時代においては興行権が幕府公許の芝居小屋・江戸三座(中村座・市村座・森田座)にあり、それぞれの小屋が毎年11月に年間の専属役者を決めていたため、11月を年初めとして「今年1年はこのメンバーで上演しますのでよろしく」といったお披露目の意味を込めて11月に開かれる興行を「顔見世興行」というのです。
年間が1月~12月、学齢が4月~3月、そして歌舞伎は11月~10月、これがそれぞれの1年となるわけで、元旦や入学式と同じように顔見世も華々しく行われるのです。

そしてこの「中村座」とは、寛永元年(1624)、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりといわれているのです。したがって当初は猿若座と称し、その後、中村座と改称されたのです。
何回かの移転を経て、天保の改革により浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられ、この時の町名が初代勘三郎に因んで猿若町と命名されたのです。
明治17(1884)年、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転し、猿若座と改称されたのですが、明治26(1893)年1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となったのです。
ちなみに定式幕も公許の三座しか許されず、中村座は黒・白・柿、市村座は黒・萌黄・柿、森田座は黒・柿・萌黄と決まっており、現在の歌舞伎座の定式幕は森田座式の黒・柿・萌黄(あの永谷園カラーです)を踏襲しているのです。
定幕
奇しくも隅田川テラスの浅草側ではまさに「平成中村座」の公演が行われるところですが、由緒ある江戸からの「中村座」を復活させたものなのです。

江戸ゾーンの最後は祭りのコーナーです。
「中村座」の前に祭りの山車が展示されています。
神田祭り山車

「神田祭り」の山車(祭礼のとき、さまざまな飾り物などをして曳き出す車)の一つを、関東に現存する山車や絵画資料をもとに原寸大で復元した。
江戸時代、9月15日の神田神社祭礼の日には、神輿の前後に30数台の山車とさまざまな練物が従い、江戸町人の盛んな意気を示し、江戸城にくりこんで、将軍の上覧に供した。この山車は、江戸末期に古川長延によって改修された8番目須田町のもので、人形は関羽(中国の蜀漢の武将)である。
(館内案内板より)

埼玉県の祭りではこのような山車が数多く曳き回されています。
これらの山車の多くはかつて都内で曳き回された山車が数多く残っています。これは高架や電線などの問題で山車が通れる道路が限られてきて、次第に都内の祭りは山車から神輿にシフトしていったからなのです。そして使われなくなった山車は関東近県に譲渡・売却されたのです。
最近の山王祭などでは山車が復活したようで、江戸時代の風情が戻ってきているとのことです。
残念なことに神田・麹町周辺に20数年も勤務していながら、神田祭りや山王祭などは殆ど見ていなかったことが悔やまれます。
そしてその祭りの様子が展示されています。
神田祭り
かなり館内の照明が暗いので、壮麗さが際立ちます。
江戸ゾーン最後に相応しい、庶民の息吹を感じさせる展示でした。

東京ゾーン

東京ゾーンの最初のコーナーは当然明治時代です。
冒頭に日本橋からみた「朝野新聞」の建物から明治時代が始まります。
朝野新聞

「朝野新聞」は、1874年(明治7)に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣に批評し、人気を博しました。現在の銀座4丁目交差点北西角(和光ビルがある場所)に建てられた朝野新聞社屋のファサードを原寸大で復元。
扉のガラスは当時の製法で作られており、表面に凹凸がみられます。銀座通りの夜を照らしたガス灯もあわせて展示しています。
(館内案内板より)

「朝野新聞」は明治26(1893)年までのおよそ20年という短い期間で廃刊されたようです。そもそもは民権派の政論新聞として人気を博したそうなのですが、ちょうど社屋が4丁目交差点に移ってきた辺りから、社長の成島柳北自身が新聞に情熱を感じなくなり、新たに雑誌「花月新誌」という文芸誌を発刊したため、次第に「朝野新聞」が衰退していったそうです。
この成島柳北については、今日散策した長命寺に碑がありました。
この後、生命保険会社の創設に関わったり、墨堤の桜の植樹などに尽力したのは、前述したとおりです。

最初の展示は勿論横浜の開港に関しての展示で、ペリー来航の図が掲出されています。
横浜開港
このあたりは横浜を訪れた際に充分知りましたので、ほぼスルーとしておきます。

江戸城や愛宕神社からの有名なベアトの写真が展示され、まさに明治の始まりを象徴しています。
江戸城 ベアト 江戸
「子供たちの笑顔はいつの時代でも…」といったようなコピーが浮かんでくる写真です。
明治の子供たち
その回りには明治を代表するかの様な建築物等が展示されています。 第一国立銀行、ニコライ堂、そして銀座の煉瓦街がジオラマ展示されています。
第一国立銀行 ニコライ堂 銀座の煉瓦街

銀座煉瓦街は、1872年(明治5)2月の築地一帯を焼き尽くす大火の後、近代国家にふさわしい街づくりとして、明治新政府によって計画、建設されました。設計はトーマス=J=ウォートルスが担当、翌年には西洋を模した街区が出現しました。この模型は25分の1の縮尺で当時の新聞や雑誌の記事をもとに店を再現、銀座で起こったいくつかの事件も紹介します。
(館内案内板より)

なかなか精緻な模型となっていて、臨場感たっぷりです。
銀座の煉瓦街
このように事件となったものをクローズアップしてくれるのですが、これは何の事件でしたか…。

そしてその隣にあるのは浅草のシンボルであった「凌雲閣」です。
凌雲閣

凌雲閣
<十二階>の名で親しまれた凌雲閣は、英国人の技師ウイリアム=K=バルトンの設計による展望塔で、1890年(明治23)落成。浅草のシンボルとして土産絵にも登場し、関東大震災で倒壊するまで多くの人びとで賑わいました。高さは197尺(約60メートル)、建物のなかには世界各国の品物を売る店や休憩室があり、11・12階には、望遠鏡も備えられました。模型は電気館と同じく10分の1で復元しています。
(館内案内板より)

このような華やかな時代もそ長くは続きませんでした。
時代が下って大正時代には、今日の散策でも再三現れる関東大震災が発生します。
関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の地震災害です。

当時の報知新聞付録・大正12年9月の「大正大震災誌」による記述です。

人々、ホッと息をついた昼頃、どこでも午餐の支度を整え、あるいは食卓についている時分、不意にどこからともなく、異様の音響が起こったかと思うと、たちまち大地が波うちはじめて、振動は次第に激しく、やがて一大震動とともに、壁が崩れ、屋根が落ち、塀が倒れ、柱が折れ、家という家はことごとく大破し、あるいは倒れ、あるいは潰れた。
(「大正大震災誌」より)

まさに震災が起こった瞬間を描写しています。
そして浅草での被害の最初は12階の「凌雲閣」でした。
凌雲閣 《倒壊した凌雲閣》
6階目から無残に折れ、下敷きになった人が数知れず、12階の劇場では公演中だったために役者は全て即死だったそうです。観客にも多くの死傷者がおり、同時に火災が発生したため救出は不可能だったそうです。
まさに大惨状となった下町だったのです。
関東大震災
東京の被害は、隅田川より東側が最も大きく揺れたそうで、このエリアの家屋倒壊率は20~30%に達し、特に隅田川から柳島一帯、本所横綱から被服廠跡地、深川の大部分が最も被害が大きかったそうです。
まさに、下町一帯は関東大震災の生き証人でもあるのです。

このような大災害でも人々の復興への道は早かったようです。
円タク

円タクと同型の自動車フォードA型・4ドアセダン
東京のタクシーは1912年(大正1)に営業を始め、昭和初期には市内は均一1円の料金で“円タク”と呼ばれ、庶民も利用するようになった。これは昭和初期の街でよく見かけたタクシーと同形式の右ハンドル車である。
1935年(昭和10)の統計ではタクシーの車種の約44パーセントはフォード、約27パーセントはゼネラルモーター社のシボレーであった。両社は大正末期以降に日本工場を設置し、日本向きの右ハンドル車を生産した。当時フォード社日本工場では年間約1万台の車を日本市場に送っていた。このモデルAは1927~31年までに全世界で500万台余りが生産された。
(館内案内板より)

“円タク”が登場したのが昭和2(1926)年ですから、まさに昭和と共にやってきたのです。
それにしても歴史は繰り返すのとおり、現在では日本がアメリカに工場を設立して日本車を販売しているのですが、当時は想像すらできなかった事でしょう。

そして昭和初期のころの文化が展示されています。
昭和前半の文化
一番左にあるのが日本で始めてのパーマネント機です。
恐ろしく手間が掛りそうです このように震災の傷も癒え、輝かしい昭和が生まれてきたのですが、再び暗雲が立ち込めます。太平洋戦争です。

展示は戦時下の庶民の家の模型から始まり、3月10日の東京大空襲に襲ってきた焼夷弾なども展示されています。
戦争当時の家屋 焼夷弾
そしてこちらにあるのが貴重な展示物です。
東京空襲後墜落したB29の機関銃

東京空襲後墜落したB29の機関銃
昭和19年12月3日、都内は武蔵野町(現/武蔵野市)にある中島飛行機武蔵製作所を中心にB29による爆撃を受け、約180名の死者を出した。来襲したB29は86機で、5機が撃墜されたが、そのうちの1機は爆撃の帰路、千葉県香取郡神代村(現/東庄町)の上空で迎撃した日本軍機「飛燕」が撃墜した。
これは、そのとき墜落したB29の12.7ミリ機関銃である。墜落後プロペラとこの機関銃は、戦利品として地元の小学校に送られ展示されていたが、終戦直後に埋められた。
それから50年後の平成7年に、その小学校跡地に建設中の公園の工事現場から、機関銃だけが発見された。
(館内案内板より)

非常に不謹慎かもしれませんが、戦無派の私としては子供のころのお気に入りの模型飛行機は、このB29とドイツのユンカースでした。模型を買っては作っていましたが、子供のころの私にとってはB29はスターでした。
また、こちらにあるのは話には聞いていました「風船爆弾」です。
風船爆弾
気球で爆弾をアメリカ大陸まで飛ばして攻撃しようという、本気とも冗談ともつかない爆弾があったことは知っていました。そして確かにアメリカ人にとっては脅威だったようですが、それを実感させるほどの効果はなかったのですが、資源のない日本では苦肉の策だったのでしょう。

一方、日本では昭和20(1945)年、太平洋戦争の戦局は悪化の一途をたどり、2月から5月にかけてB29による無差別攻撃により東京の市街地は焦土と化したのです。
その象徴とも言える残骸がこちらです。
戦災被害
このようにオブジェのようなものにしてしまうのも皮肉なものです。

こうした暗く辛い戦争もやがて終わりを告げます。
日本の全面降伏を示したあのポツダム宣言を受諾して、休戦協定に調印した「降伏文書」です。
降伏文書

降伏文書
1945年7月26日、米国・英国・中華民国首脳により、全日本軍の無条件降伏等を求めた「ポツダム宣言」が日本政府宛に発せられた。 その後、米軍による広島・長崎への原子爆弾による攻撃、ソ連軍の満州国侵攻(日ソ中立条約破棄)に衝撃を受けた日本政府は8月14日、御前会議を経てポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔勅が発せられた。同月16日には陸海軍停戦命令が下り、9月2日、米軍戦艦ミズーリ上で日本と連合軍の間で休戦協定の調印が行われた。
(館内案内板より)

あの有名なミズーリでの調印写真での降伏文書です。
降伏文書調印式
サインは以下の通りです。

重光葵
梅津美治郎
連合國最高司令官 ダグラス・マッカーサー(DOUGLAS MAC ARTHUR)
合衆國代表 シー・ダブリュー・ニミッツ (C.W. NIMITZ)
中華民國代表者 徐永昌
連合王國代表者 BRUCE FRASER
「ソヴィエト」社会主義共和國連邦代表者 KUZMA DEREVYANKO
「オーストラリア」連邦代表者 THOMAS BLAMEY
「カナダ」代表者 L. MOORE COSGRAVE
「フランス」國代表者 JACQUES LE CLERC
「オランダ」國代表者 C.E.L. HELFRICH
「ニュー、ジーランド」代表者 LEONARD M. ISITT

こうして無事調印が終わったかといえば実はそうではなかったようなのです。
サインを良く見ると、本来代表者のサインのする場所はアンダーラインの上になります。
つまり、「C.W. NIMITZ」、アンダーライン、“United States Representative”で一括りなのですが、下から4本目のサイン欄のアンダーライン上にサインがありません。
降伏文書
これはカナダ代表がアンダーラインの肩書きの下に署名をしてしまったからなのです。
したがってこうなると、カナダ代表のサインは「L. MOORE COSGRAVE」、アンダーライン、“Provisional Governmennt of the Frenchi Repubric Representalive”となりフランス代表となってしまうのです。
そこで、“Provisional Governmennt of the Frenchi Repubric Representalive”に修正ラインを引いて、新たに手書きで“Dominion of Canada Representalive”と付け加えており、以下の行もすべて修正されているのです。
このような重要な文書が修正されていたとは初めて知りました。やはり皆緊張していたのでしょうかね。

こうして平和が訪れると日本の文化も高度経済成長と共に花開いていくのです。
それらのシンボル的物品が最後のコーナーには展示されています。
街頭テレビ ◇戦後日本の元気を取り戻すきっかけとなるテレビ放送のための「街頭テレビ」。
三種の神器 ◇そして高度経済成長の証であり「三種の神器」である、テレビ・洗濯機・冷蔵庫。
東京オリンピック ◇日本が世界に再び戻る証となった「東京オリンピック」。
スバル360 ◇モータリゼーションの到来を告げる国民車使用の「スバル360」。
こうして現在の東京につながっていくわけなのです。

最後の展示品に「井戸」があります。
井戸

江戸後期の井戸が、火災により使用できなくなり、焼けた廃材によって埋めもどされた状態で発見された。この井戸は、下町地域に多く見つかる上水井戸(上水を引いた井戸)ではなく掘り抜き井戸(地下水を汲み上げる井戸)である。
(館内案内板より)

横に色分けして引かれたラインが時代を表していて、一番下の青いラインが1657年以前の部分で、上の黄色の部分の右側に白いラインがあるところが第2次大戦時の空襲での焼土の部分なのだそうです。
井戸
文化財にしてもよい位の実にに珍しいものですが、まさに江戸から昭和までの歴史を見続けてきた井戸とも言えるのです。
まさに江戸から昭和の「歴史の路地尊」とでもいえるかもしれません。

江戸から昭和にかけて文化という側面で捕らえたテーマでの「江戸東京博物館」は、東京の歴史を違った角度で認識できる個性的な博物館でした。

こうして終わった今回の散策ですが、最後にやらなければならないことがあります。
そう、スタンプラリーの賞品をいただかなくてはなりません。
ということで、再びエスカレーターで1階まで降り、墨田区文化観光案内コーナーで終了印とオリジナル賞品をいただきました。
スタンプ せんべい
「ヴェネツィア展オリジナルせんべい」です。
これは東向島駅付近にある老舗「坂本せん餅」で焼かれたものだそうです。
最後まで下町の風情がたっぷり詰まったスタンプラリーでした。

今回の散策の前に「江」ゆかりの地として芝公園周辺の江戸時代を散策しました。
シンボルである東京タワーを中心とした芝公園周辺は、江戸時代の将軍や大名などの為政者の町で、同じくシンボルである東京スカイツリーを中心とした向島周辺は、江戸時代での庶民の町でした。
こうしたコントラストが、歴史での面白さを一層引き立ててくれたきがします。。芝公園が上品な「江戸の香」なら、向島は旨い「江戸の味」なのです。両方を感じて初めて江戸や東京の一端を知ることができるということでしょう。
今後もまだまだ「江戸」を求めて散策を続けたい魅力ある江戸、東京でした。

2011.11.13記

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