連雀町

県道に一旦出てから東に向かい、先ほどの仲町の交差点を右に曲がって国道を南下します。

連雀町の昔ばなし

国道を南下すると「連雀町 趣味の作品展」と看板のあるテントが1張設置されています。
連雀町 趣味の作品展
ちょっとのぞいてみると、古い祭りの写真や、明治・大正期の人形などが展示されています。
連雀町 趣味の作品展 連雀町 趣味の作品展
今回祭りの山車や屋台には連雀町というのは無かったのですが、あえてこのような展示をされているということは、やはりそれなりの歴史があるのでしょう。
連雀町についての歴史が記載されている印刷物が掲出されていますので、その歴史を確認してみます。

連雀町の昔ばなし 第1号
連雀町の町名の由来 発行者 松村勅彦 金子昭一
連雀町に住んでいれば、誰でもむかしの連雀町がどんな町であったか知りたくなるでしょう。
そこで、「古い資料や情報を集めて、昔の連雀町の姿を探してみよう」と松村・金子の2名で調べ、これまでに解かったことを報告します。
また、この資料を第1号として随時、継続していく予定です。小さな町ですが、連雀町を知り、連雀町を愛する人が増えることを念願しております。
さて、古い文献ですが、武蔵風土記稿に児玉の鳥瞰絵図が描かれていました。
遠方左上より「十二天山」「陣見山」「浅間山」が見えます。その下には「八幡神社」「玉蔵寺」「城跡」があり「児玉町」「八幡山町」の表示と、町境には柵門が見えます。
この絵図から、連雀町はおおよそ町の中央辺りに位置し、さぞ賑わっていたことが想像されます。

現在、埼玉県内で連雀町の町名が残っているのは、児玉町と川越市だけです。隣の群馬県では高崎市と前橋市に連雀町があります。
「連雀」とは、連尺、連索、とも書き、麻縄などで肩に当たる所を幅広く編んでつくった荷縄また、それをつけた背負子、のことを連雀と言います。
「連雀商人」とは、背負子を担ぎ、生産商品を運搬し、販売する商人のことを言います。昔は品物が大量生産されず、各業種ごとに職人の手によって、コツコツと個別生産されていた為、これらの生産商品を連雀で背負い、運搬し、販売する商人が必要だったのです。
連雀商人、行商人が各地から集まり、定期市を開き、物を売る町が連雀町と言われるようになりました。領主から公認され、連雀商人を取り締まる連雀頭や連雀座制度もありました。
連雀座の仕事は、連雀商人からの税の徴収、領主の代行を行い、さらに連雀町市場の警察的業務をして、市場の管理を役割としました。
連雀商人達は、少量の品物を近い地域から参集し売買する人々であり、後に、連雀商人・行商人から店舗商人となって城下に定着するようになり、商人の町として発展してゆきました。
連雀町のついて高崎市の例では、井伊直政が箕輪城下にあった連雀町を、高崎城移城と共に大手門前に移し、連雀町と命名しました。連雀町は領主から優遇された町の1等地であり、そこから南北に地割していったと言われています。
彦根の連雀町は、井伊家が高崎から彦根に移封された時、大名井伊家に従い、高崎から移り住んだ住民らによって作られた町だと伝えられています。
残念ながら児玉の連雀町についての記録はありませんが、上記に述べたような資料から、意味ある「町名」であることは確かです。この連雀町名を使い、この町名を意識するのはお祭りの時ぐらいになりましたが、大切に守って行きたい町名だと改めて感じました。
(現地印刷物より)

私などが調べている上っ面の歴史より丹念に調査されており、遥かに興味深いですね。確かに連雀町という響きは凄く心地よいのですが、意味まで知りませんでした。私の住んでいる原市も文字通り「市」の立つ町からの由来ですが、連雀町はあったのでしょうかね。
そういう意味では、もっと地元のことを詳しく調べると面白いのでしょうが、どうも広く浅くというのが子供の頃からの性格のようで、私には真似はできません。
因みに、こちらが掲載されていた鳥瞰絵図です。
鳥瞰絵図 《鳥瞰絵図:連雀町の昔ばなし 第1号より》
ということで、掲載はここまでと思ったのですが、かなり面白いので、もう少し引用掲載させていただきます。

連雀町の昔ばなし 第2号
お神輿と天王さま 発行者 松村勅彦 金子昭一
児玉夏祭り、八坂祭りは江戸時代から行われてきた。
この祭りは牛頭天王(須佐之男命)を御祭神として、特に高温多湿で流行病が発生する夏季に、それら汚れ災厄を清めるために行われる祭りである。
八幡宮神輿は牛頭天王を御祭神としていることから、別名天王様ともいわれている。祭りは、毎年7月13日から15日まで、3日間催行されていた。各町内には神事の場に不浄ものの侵入を禁ずる印として、注連縄に紙垂が張りめぐらされ、町内の境には祭り竹を立て、完全な神の領域をつくる。
13日の本祭りは、八坂神社において渡御発興祭を済ませ、宮出し渡御が行われ、引き続き八町内を氏子らによって担がれ、本祭り渡御がはじまる。町内渡御は予定の順番あり、これを町内送りといった。
町内送りの際には、他町内への宮神輿の引継ぎを少しでも引き延ばしたいため、当日最後の予定町内に引き継がれるのは、翌日早朝になることもあったと伝えられている。
14日の宮神輿は、仲町に設けられたお仮屋へ安置され、町に訪れた人々が参拝した。
最終日15日には、初日と同じく、宮神輿は残りの予定町内を渡御して、八坂神社へ戻り祭りは終了する。
戦後も祭り期間は3日間であったが、途中から15日だけとなり、最近では7月15日に近い日曜日に実施されている。娯楽も少なく、お祭が唯一の楽しみであった頃と現代とでは、日数減少も当然である。しかし、これからも先人が作った伝統行事を踏襲し、守って行くことが大切であると思う。(以下略)
(現地印刷物より)

省略した部分には大正時代の夏祭りの記念写真が掲載されていました。
大正時代の連雀町神輿と子供たち 《大正時代の連雀町神輿と子供たち:連雀町の昔ばなし 第2号より》
残念なことに今回の秋祭りではなく夏祭りについての歴史でしたが、その分この児玉の地での夏祭りの重さを感じ取ることができます。秋祭り以上に重要な祭りと位置付けられているのでしょう。
是非、今度は秋祭りの歴史についても知りたいものです。

次はその秋祭りに関連する八幡神社にある「高札場」についての説明があります。
前回訪れた時に高札場は見ていたのですが、特に詳しい説明もなかったので丁度よい機会です。

連雀町の昔ばなし 第3号
高札場 発行者 松村勅彦 金子昭一
高札場は昭和7年史蹟江戸時代高札場として埼玉県から指定されました。昔は鎌倉街道沿いに設置されていたが交通の妨げとなり現在の位置に移設された。
幕府は庶民の統治上で重視した施策を宿場の中央、あるいは名主宅前など、人々が多く集まる場所に法令、禁止令などを墨で書き入れた、「高札」を掲げ、公示した場所が「高札場」です。
当初の高札は五角形の将棋の駒型をしたもので、一本の杭に固定して立てる形態でした。江戸時代、高札制度が定着してゆく中、一本立ちの高札から徐々に大型化してゆき、五角形の高札や長方形の高札を、複数掲示出来るようにする為、各地に高札場が多数設置されました。

高札で永年にわたり、掲示されたのは、
1.切支丹嘱託高札:幕府はキリシタン禁止政策を採って特に厳しく取り締まった法令
2.雑事高札:基本的人権、人身売買、贋金、毒薬、強盗、殺人、賭博などの法令
3.火付高札:火事放火が多く火付け訴人を嘱託し賞金による厳重取締りの法令
4.駄賃高札:駄賃、人馬賃銭、渡し場賃銭などの基本賃銭を維持するための法令
(※嘱託とは賞金をだして密告させる監視方法)
上記四例は基本的なもので、各地域ならではの特徴のある高札も数多く残されています。たとえば、鉄砲打高札、川越高札、関所高札、鷹場高札などがありました。
高札は法令が改正されるまで、あるいは改元などで書き換えされるまでのものをいい、永年掲示される高札は「大高札」と呼ばれ全てに知れ渡るまで掲示されていました。

大高札の中で代表的なものは「切支丹嘱託高札」でキリシタン信者を見つけ、届ければご褒美がでました。
1.伴天連訴人(ばてれん:宣教に従事した司祭) 銀 500枚
2.伊留末無訴人(いるまん:宣教師、修道士) 銀 300枚
3.立ちかえり訴人(一度棄教したが再び門徒となった者) 銀 300枚
4.同宿井宗門訴人 銀 100枚
上記のように、訴人が出ることを大いに奨励し褒美まで取らせていましたが、罰則、および密告については、名主五人組までの連帯責任とし、相互監視が狙いでした。
高札は、幕府がすべて法令を公示したものでは無く、法令の代表として総括されたものとして、幕府の基本姿勢や、日常生活の根本法令であり、庶民統治上、最も重視した施策を公示したものでした。高札場に法令を掲げることは、常に庶民の目に触れる場所に掲示することで、法令の周知徹底を目的とし、また、法令に慣れ親しみ、近親感を植えつけさせることにあったと考えられます。
幕府は基本姿勢を高札として掲示するとともに、法令文を「御高札之写」として、寺子屋の教本に活用しました。これは子供への教育を通じて、文盲の大人たちに法令が伝わるようにすることも、狙いの一つでした。
法令に違反したものは厳罰に処し、庶民に法の尊厳さと遵法精神を教え込んだと考えられます。
以上埼玉県立図書館 資料室調による。
(現地印刷物より)

前回訪れたときの高札場の写真です。
高札場 《高札場 2010年1月16日撮影》
「飴と鞭」といった様相ですが、その背景には大人や子供への教育といった一面を持っていたとは初めて知りました。
現代の文盲率ほぼ0%の日本では考えられませんが、江戸時代当時は学門、遵法精神、そしてメディアが今のように発達して言いませんでしたから、このような深い意義を持った高札場が考え出されたのでしょう。
ちなみにどうしても知りたくなるのが、この嘱託の褒美金額です。
当然、江戸時代の時期によっても価値がバラバラですから、あくまでも概算で計算してみます。
まず、一般通貨として流通上では“銀1枚”という単位はなく、銀貨は匁(もんめ)が用いられていました。しかし、恩賞や贈答に使用される包金銀の場合は、金1枚とか銀1枚という単位になるのだそうです。 これは上納や公用取引のために所定の形式の紙を用いて包装・封印されたもので、悪質な貨幣の混入を防ぎ、確認の手間を省くためのものです。「越後屋、お主も悪よの~」といって代官が受け取る饅頭の箱の下に、紙で括られ束になっている金貨をイメージすればわかりやすいでしょう。
話を戻します。
そしてこの銀1枚が43匁なので、500枚では21,500匁となります。
江戸初期(1600年頃)では、金1両=銀50匁、元禄期(1700年頃)では、金1両=銀60匁だったようなので、ここでは60匁としておきます。とすると、銀21,500匁は金約358両となるわけです。
これを江戸時代中期(1750年頃)の元文小判1両が、米価では約40,000円となるようなので、358両は14,320,000円となるのです。更にこれを大工の賃金ベースで換算する約10倍ですので1億4,320万円となるのです。確かに密告したくなりますね。
最後にもう一つだけ引用・掲載させていただきます。

連雀町の昔ばなし 第4号
児玉繭糸市場跡 発行者 松村勅彦 金子昭一
大正7年3月、児玉繭市場は川越街道に面した八幡神社並びで玉蔵寺入口の児玉190番地(坂本宅)を借り、町内の倉林権三郎、松村丑太郎、菅沼原作らの各氏を中心に、大沢村や丹荘村などからも参加者があり市場を発足させました。
繭市は毎年、出荷時期を除き3と8のつく日に月6回おこなわれて、昭和16年ごろまで続きました。
これより先、安政6年ペリー来航によって横浜が開港したことで、生糸貿易が始まり政府は、明治5年富岡に製糸工場を造り、続いて新町に紡績工場を造ります。これにより、政府の輸出政策はそれまでの児玉地域(丘陵地で畑作が多く自宅で取った繭から糸を取るやり方)を一変させました。
児玉には明治17年、木村九蔵氏による競進社が建てられ、やがて郡内はもちろん県内外の繭増産に大きく貢献することになります。明治の末には信州をはじめとする大工場を持つ製糸が児玉に大量の繭を買いにきました。児玉には買入所が次々に出来て市場は賑わいました。記録によると、大正12年の「全国主要繭集散地」としては埼玉県児玉町が51万貫で全国一でした。

この市場はそんな時代の遺産です。
特徴
(1)連雀町と代表者たち
市場の位置を戦国時代城下に見られる「連雀町」にしていること。そして、前出の倉林氏は実弟が後に町長になり、松村氏は後に県会議員になりました。菅沼氏は当時児玉町長です。まさに「連雀頭」とも言えるような人たちが中心となり市場が選ばれ始まりました。
また、当時は(今のような各方面へのバイパスはなく)この往還が寄居-藤岡、富岡間で本庄、神保原にも通じ、秩父、鬼石の出入り口でもあり、深谷道にも近く、交通面でも最適地であったのでしょう。
(2)建物
道路まで突き出た庇、中には電話室、広い土間に、広い板の間等は当時の様子をよく伝えています。その他、繭かご、選繭台、台秤、等も残されています。
(現地印刷物より)

以前の散策で競進社を訪れましたが、先に児玉の地に紡績工場があったとは知りませんでした。そして繭市場ができるのは当然としても、この連雀町に市が立っていたことは興味深いことです。
このような散策をしていると、当然ながら各地で関連した歴史を垣間見ることが出来るのですが、埼玉県越生町にある越生絹織物会館では平成19年度の統計で、繭の生産量が埼玉県は全国4位で、県内では児玉郡美里町が第3位とありましたので、大正年間にこの地が集散地として全国一というのも頷けます。
特徴にもある通り、かつての鎌倉街道の地である交通の要所で、生産の要所でもある地ですから、当然ビジネスとしての売買もまた成り立つ訳ですね。
当時の建物の写真が掲載されています。
「繭市場跡全景」「電話室」 「電話室」 《「繭市場跡全景」「電話室」:連雀町の昔ばなし 第4号より》
競進社だけの散策ではなかなか知りえない貴重な歴史です。

特にプロフィールはありませんが、発行者の方は郷土史家なのでしょうね。特に松村氏は、ここに記載されている県会議員の松村氏と関連があるのでしょうか。
いずれにしても実に判り易い説明で非常に興味深い歴史を知ることができました。このようなレアでディープな歴史は個人的には好きですねえ。
この「連雀町の昔ばなし」はこのあとの第5号まであるのですが、第5号は「児玉町旧水道配水塔」を取り上げていて、以前の散策で訪れましたので割愛します。

ディープな歴史を知ってから先に進むと、「なんということでしょう」(って、ビフォーアフターとは違います)、先ほどの繭市場跡が目と鼻の先に残っています。
繭市場跡
現在は個人の住居として使用されているようですが、確かに大きさや造りから言われてみればその名残は感じます。
前回の散策ではこの通りを絶対に歩いているのですが、全く気が付きませんでした。それも当然でしょうが、今回それを知ることが出来たのは実に幸運でした。
そしてその先の右手に連雀町会館があります。
連雀町会館
祭りの山車こそありませんが、歴史ある町会のひとつとして、これからも歴史を刻みながら、その歴史を伝承していくのでしょう。
今回は偶々連雀町の歴史を知ることが出来ましたが、各町会の歴史も同じようにきっとあるのでしょう。
それぞれの歴史を訪ねるのもまた郷土史家の醍醐味ともいえるのでしょう。

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