児玉秋祭り

祭りの雰囲気もかなり盛り上がってきて、いよいよ祭りの始まりである「御神幸行列」がPM2:00から始まります。
この連雀町の先にある八幡神社から皮切りとなります。

御神幸行列

ここから目と鼻の先が八幡神社です。
繭市場跡から先に進むと、装束をまとった人たちが神社に向っています。
八幡神社
そろそろ八幡神社で行われる「御神幸行列」の準備なのでしょう。
本来はこの先の本町の会所へ行くつもりでしたが、このまま八幡神社向うことにしました。
東岩清水八幡神社は1000年近くの由緒ある神社で、その由緒には御例祭には毎年奮励に従い一社相伝の古式神馬渡御式を執行せりと記載されています。 御神幸行列ですが、基本的にここでは「御神馬の巡行」と呼んでいるようで、町内を神馬が練り歩くということなのです。
それでは何故に御神馬の巡行となったのかについては良く判りませんが、まずはこの渡御について知っておかなければならないようです。この散策でも結構様々な祭りに出かけているのですが、言葉だけは常に聴いているのですが、確かに正式な意味を理解していませんでしたね。

そもそもこの「渡御」とは、神霊の行幸が行われる神社の祭礼である「神幸祭」と一般的に言われています。
基本的には“神の行幸”ですから、神が神社から目的地までの往路の過程を言い、復路の過程は還幸祭というのだそうです。渡御祭・還御祭という言葉も同じ意味だそうです。
ここでいう目的地とは、、氏子地域内への行幸、御旅所のことを言います。御旅所とは神の休憩所・宿泊所の意味を持ち、神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれたり、その神社の前身である元宮や元の鎮座地などが選ばれることもあります。そして現在ではその御旅所が複数選ばれるケースもあるようです。

そしてこの御旅所に向かう神幸祭の大まかな過程は以下のようになります。
1.神霊を移す神事
2.神社から御旅所への渡御
3.御旅所での神事や奉納(御旅所祭)
4.御旅所から神社への還御
5.神霊を還す神事
という流れとなり、このうちの2および4の過程で氏子地域内を巡幸する場合が多いそうです。また、御旅所を設定しない場合には、神霊が氏子地域を見回る、或いは、ある特定の場所で神事などを行うために行幸されるという名目となるそうです。
前述した児玉の夏祭りのように、この神幸祭がかつては数日間行われる場合もあったのもこのためなのです。

そしてこの神幸祭の行幸を行うのが渡御行列なのです。
行列の順序は祭礼によってまちまちなのですが、一般的には行列の先頭部分には猿田彦がいることが多いようです。これはそもそも猿田彦が天孫降臨の際に道案内をしたという神話から、道の神、旅人の神とされるようになり、渡御行列でも先導役として位置しているのです。そして猿田彦は「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされていて、渡御行列での猿田彦は天狗面を被っているのが一般的なようです。
更に先頭部には、御幣、笠鉾、獅子、幟、高張り提灯、太鼓などの露払いの役割の者達が続き、この後に神輿が来るのです。
ここでいうの神輿とは、渡御にあたり神霊が一時的に鎮まるとされる輿のことをいい、一般的には小ぶりなものが多いようです。そして輿であるので通常は担ぎ上げて移動するものを言うのですが、台車に乗せて曳くものなど別形態のものもあるそうです。
確か本庄祭での神輿が台車に載せていました。
本庄まつり 《本庄祭での神輿 2008年11月3日撮影》

神輿のルーツを辿ると奈良時代に遡ります。聖武天皇が奈良に東大寺を建て大仏を建立して国のシンボルとして建設に当たる時、天平勝宝元(749)年に、これを支援するため、宇佐八幡神は、屋根に金色の鳳凰が輝く天皇の乗り物「鳳輦」に乗って奈良の都へと渡御したといわれ、この「鳳輦」が現在の神輿の原型といわれているのです。
余談ながら、1981年のアメリカ映画「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」を覚えている方は多いでしょう。監督スティーブン・スピルバーグ、主演ハリソン・フォードのインディ・ジョーンズシリーズの第1作です。
この映画で描かれている失われた“アーク《聖櫃》”が実はこの日本の神輿とそっくりだという話なのです。
この“アーク”とはヘブライの秘宝「契約の箱」と呼ばれ、現在に至るまで行方不明なため「失われたアーク伝説」としてオフィシャルに知られているもので、元々はモーゼ(紀元前13世紀9が神から授かった「十戒石板」(モーゼの十戒)を保管するための箱だったのだそうです。
そのアークの絵がこちらです。
フランス・サント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱 豪華装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれた契約の箱 《左:フランス・サント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱》
《右:豪華装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれた契約の箱》
アークの上には像が置かれ、全体が金で覆われています。更にアークの下部には2本の棒が貫通していて、これでよって担いで移動されていたのだそうです。こうしてみると神輿とかなり似通っていることが判りますね。
古今東西、神を崇めるという行為・気持ちは同じでしょうから、その祀り方が偶然同じようなものとなっても不思議ではないのですが、何らかの形でユダヤ文化が日本に伝来したものであれば、より歴史も面白くなりますね。

そして神輿の準備ができると、この神輿の後の行列には、祭礼の規模などにもよるのですが、神職、巫女、稚児、山車、獅子、舞踏(屋台)などが行列に加わる場合もあるそうです。
いずれにしても、こうしてこの渡御行列が目的地を目指すのですが、児玉秋祭りに関しては特別な御旅所はないようで、氏子町内を回るという形式となり、特筆すべきことは、ここでの渡御行列では神霊は神輿ではなく神馬に鎮まるということです。日本全国でここだけ、というわけではありませんが、ちょっと珍しい渡御にふれられるよい機会といえるでしょう。

八幡神社境内には、この渡御に参加する氏子の方々が三々五々集ってきます。
境内に入るところで、丁度向こう側から本町の山車がやってきました。こちらの山車は派手さこそありませんが、しっとりした美しさを感じます。気合も徐々に入っているのでしょう。
本町の山車 本町の山車
本町の山車を見送って境内に入ると、御神馬を運んできたトラックが駐車されています。
神馬輸送トラック 神馬輸送トラック
「御神馬輸送中」のプレートににんまりしてしまいます。
そしてよくよく見れば何となく見た憶えのあるステッカーがトラックに貼られています。そして車体のサイドの「S.KURIO」のネームをみてよくよく考えてみれば、クリオステーブルのトラックです。
2008年12月ですから彼是3年前になりますが、小鹿野の【八幡神社の鉄砲まつり】を訪れたとき、やはり御神馬として2頭出ていたのですが、そのうちの1頭がこのクリオステーブルの馬だったのです。
そう、小鹿野町にある牧場でした。

そしてその御神馬がこちらにいました。
神馬 神馬
一般的な馬よりは随分と小さな馬体です。こうゆう種なのでしょうか、馬のことは良く判りませんが。
ただ、かなり古そうな鞍が乗せられているので、これが神輿の代わりに神霊が鎮まる依り代となるのでしょう。
ニンジン しかし御神馬といえどもやはり好物は“ニンジン”のようです。何となくホッと癒されます。
御神馬の右側の庫裏には、鎧・兜などが奉られています。中央の台が空になっているので、ここに御神馬の鞍が奉られていたのでしょう。
庫裏 庫裏 庫裏
鎧・兜も、もう一つの鞍もかなり古そうなものです。
どのような由緒を持っているのかわかりませんが、この神社に相当縁のあるものでしょう。聞いてみればよかったですね。

参道には多くの氏子の方が神事の開始を待っています。
神事待機
そうこうしている内にそろそろ神事の始まる時間が迫ってきたようです。
社殿前の参道の両脇に氏子の方達が並び、社殿では特に氏子代表の方が上がられています。
神事
このオレンジの装束の人が猿田彦の方です。
神事
そしていよいよ御神馬の登場です。
神事 神事 神事
馬体は小さいですが、落ち着いて堂々たる登場です。
そして御神馬が社殿の前に登壇すると、祝詞が始まり神事のクライマックスとなります。結構長い時間でしたが、御神馬は暴れることもなくじっと祝詞を受けていました。
神事 神事
流石によく調教されているだけのことはあるようです。
ただ、途中緊張からか(!?)大きな排泄物を参道にボトリとしておりましたが、ご愛嬌です。

こうして神事も終了し、無事神霊も御神場に鎮まった(多分…)後は、いよいよ渡御行列の開始となります。
文化財の随身門までは、この高下駄を履いているのでは無理はありませんが、歩みの遅い猿田彦が最初に向います。
猿田彦
地元の方によると、昔は天狗を模して1本歯の下駄だったそうなので、更に歩みは遅かったのだそうです。
そして文化財の随身門を抜けて来た行列の先頭は、氏子の代表の方でしょう。 それに続いて錫杖を持った方2名と御幣が続きます。
渡御行列 渡御行列
そしてその後に案内人である猿田彦が歩んでいきます。
渡御行列
2本歯といっても高下駄ですから隣には支えの方が付き添っています。 その後には榊、幟と続き、宝箱?、道具箱?を担いだ方と裃の装束に身を包んだ氏子達が行列をなしています。
渡御行列 渡御行列 渡御行列
そしてその後に御神馬が厳かに続きます。
渡御行列 渡御行列 渡御行列
最後の神職が続いて(これは遅れたのかもしれませんが…)行列の一行となります。
渡御行列 渡御行列
これで渡御の宮出しも済み、これから2~3時間をかけて町内を回るそうです。大変ご苦労様ですが、これも年1度の神事ですし氏子の方にとっても誇らしい役割ですから、苦にされる方はいらっしゃらないのでしょう。
宮出しが終了したので、ここからは山車の曳きまわしを見学に児玉駅へ向います。

お囃子競演会

国道を今度は北上する形で児玉駅に向かいます。
児玉駅の駅前ロータリーで、この祭りの目玉のひとつである“お囃子の競演会”が行われるのです。
この国道と駅前から西に伸びる県道191号線の交差点である、「駅入口」の先あたりから山車が3台続いて戻ってきているので見ることにしました。
曳きまわし
いよいよ祭りも本番、最初の盛り上がりの駅前での山車競演に移るのですが、それぞれの地区の人たちも楽しそうです。
曳きまわし 曳きまわし 曳きまわし
ここで素朴な疑問が湧いてきます。
このように現在、3台の山車と1台の屋台は町内を巡回するように曳きまわされているのですが、本来であれば渡御行列に随行するものなのでしょうが、渡御は神事で、曳きまわしはエンターテイメントという割り切りなのでしょうか。

それでは根本的に祭礼における「神事」というのは、どのような行為をいうのかを調べてみます。
あくまで祭礼における神事には、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為、神饌を献ずる行為や直会、そして神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為などがあるそうです。
噛み砕くと、依り代を立てて神を迎える行為や送る行為、神幸に関する行為とは、まさしく神輿に神霊を移し、または戻す行事から渡御行列を行う神幸祭を行うことにあたります。また、神饌を献ずる行為や直会とは、供物を供えて、その供えた供物を食べる宴のことです。
そして神職や巫女、稚児などが神意を伺う行為とは、何らかの物事について神意を聞くという意味の祈りをいうのだそうです。
この“祈り”というのは日本書紀にも記述があるそうで、第10代崇神天皇の時代、国に疫病が流行った際に天皇は神々に占いをして神意を伺ったのだそうです。すると大物主神は自分を祀るようにと告げられ、その通りにするのですが状況は変わりませんでした。
そこで天皇は再度お伺いを立てると、「天皇、乃ち沐浴斎戒して、殿の内を潔浄りて、祈みて曰さく」と言われ、占いによって神意を伺うのではなく、一心に祈ったところ、天皇のその夜の夢に大物主神が現れて、私の子の大田田根子を祭主として祀るならば、平穏になるだろう、と告げられた、ということなのです。
このようにそもそもは、神職等が祈ることによって、初めて神意が伺えるという意味だったそうなのです。
そしてこの神意を伺うという行為が、後年、間接的な行為として神前での相撲や流鏑馬などによって吉凶を占うようになったのです。そして更に身近なものとして「おみくじ」があるのです。

それでは一体山車や屋台などは、どのような神事に当たるかと考えると、これは神輿に近い依り代の役割を持ったものと、奉納としての風流があるそうなのです。
奉納と言われると先ほどの“神饌を献ずる行為”と言う神事で、供物を捧げるという解釈になりますが、本来の奉納の意味は、氏子・檀家が神仏を敬い、また鎮め愉しませる目的のため、人々にとって「価値のあるもの」を供物として神仏(お墓なども含む)に捧げる宗教的な行為をいうだそうなのです。
とすると、奉納の対象は必ずしも食物や酒、金銭や宝物といった「物質」を納めることに限らず、神楽や謡曲、踊りや武芸、山車や神輿の練りや巡行などの「行為」で捧げてもよいと言うことになり、このような山車や屋台の曳きまわしも、神饌を献ずる行為としての神事であると言えるわけなのです。

この児玉秋祭りのように、伝統も歴史もある神事としての祭り以外に、最近ではエンターテイメント(に近い)として行われているケースも多いようです。
私の地元の上尾市で毎年行われている「上尾夏まつり」もその神事の変形とも言えるのでしょう。
現在は、毎年7月14日に近い週末に行われているのですが、これは元々氷川鍬神社の例大祭が7月15日に行われていた祇園祭を起源としているのです。この祇園祭は、氏子域である上町、宮本町、仲町、愛宕町の4町内によって行われていたのですが、現在は連合渡御として、先の4町会以外に、谷津、柏座、二ツ宮、本町の4町会が加わり、8町会として渡御が行われているのです。
したがって先の4町会は氷川鍬神社での宮出し、宮入れとなり、後者の4町会はそれぞれの神社での宮出し、宮入れとなるわけです。
現在では「市民まつり」という色彩もあるので、神事一辺倒という意味合いは薄いかもしれませんが、ある意味、その地域の伝統、歴史ある祭りを継続していくには、こういう方法もあるのでしょう。
現代は、古のように祭が最大のエンターテイメントの時代ではないのですから…。
いずれにしても山車は駅前に向けて進んでいきます。
曳きまわし

話しが長くなってしまいましたが、そろそろ駅前での山車の競演が始まりますので、児玉駅前に駆けつけます。
最初に入ってきたのが「新街」(町の地は、どうやら“街”の字が正式のようです)の屋台です。
新街屋台新街屋台
駅前ロータリーで180度転回して、ロータリーの一番右側に納まります。
この間もお囃子は続き、賑やかで活気にあふれた競演に期待も膨れます。
そして屋台が納まると屋台の前には、この新街の屋台の説明立て札がたてられ、その内容と同じパンフレットも配布されていました。

本庄市指定有形民俗文化財 新街の屋台
この屋台の創建は新街に残る屋台各部の収納箱や関係文書より明治十年代末と伝えられその後、明治大正の各年代に改修され現在に至る。
総体は向い唐破風造りの黒漆塗りに飾り金具を施し彫刻類には何れも極彩色が施されている。高さ二十尺 正面十三尺五寸 全長二十二尺である。
表鬼板の彫刻は八幡神社の御祭神でもある応神大皇、神功皇后と武内宿禰、裏鬼板は雲間に親子龍の図柄が用いられている。欄間は牡丹に阿吽の孔雀と金鶏鳥、腰支輪は波間に亀鴛鳥、鯉金魚であり見附柱には宝珠を握る昇降龍を配している。
水引幕は蜀江紋模様に新街の文字を金糸の内盛刺繍で施し、後幕は日本画家の岡倉天心と共に明治期に日本美術院創立に参加した尾形月耕の下絵による牛若丸、武蔵坊弁慶、五条大橋合戦の構図である。更に屋台の特徴としては歌舞伎舞台と同じく平床式の回り舞台を付設していることである。
新街
(パンフレットより)

この屋台は2代目だそうです。
初代は山車で、創建は江戸時代後期といわれているそうです。当然、2代目が建造されるまで曳行されたようですが、現在は何も残っていないそうです。
そして2代目として建造されたのがこの屋台で、秩父系の宮大工によって造られた秩父型屋台といわれるものだそうです。贅を尽くした豪華絢爛な屋台は、本家秩父夜祭の屋台に比肩するほどといわれたそうで、当時の新町の財力が伺われる屋台なのです。
一番最近の修復は平成元(1989)年だそうで、それでも20年以上経っていながら、これだけの美しさを保っているのですから、よほど日頃からのメンテナンスが行き届いているかという証でしょう。

彫刻や飾りについては見ての通り、まさに息をも呑む極彩色の美しい屋台です。
新街屋台
パンフレットの裏面にはその屋台の構造図がありますので、こちらも掲載しておきます。
新街屋台構造図 《屋台図:パンフレットより》
意外と気がつかない裏側の幕は「弁慶 牛若五条大橋の出会い」というもので、こちらでは「弁慶の幕」といわれているそうです。
新街屋台後幕
裏にもなかなか凝った演出がなされているようです。

次にやってきたのは「仲街」の山車です。
仲街山車
やはり同じように180度転回して、新街と一番離れたロータリーの左側に納まりました。
特に山車の説明もないので、少し調べてみました。

仲町花車(山車)の概要
仲町の花車は、秩父型屋台と江戸鉾台型山車を融合してできた型とされています。屋根や土台は秩父型の様式でできており、屋根の中央部分に匂欄台を設け、その上に鉾台が立ち、いわば屋台の屋根上に鉾台が立つ形になっています。この鉾台は滑車を使った迫り上げ装置によって上下でき、鉾台上には「神功皇后」の人形が載ります。曳行時には鉾台を下げて花車の中に格納し、重心を低くして曳きます。当仲町ではこの鉾台のことを「三重」と称しています。作美陽一著『大江戸の天下祭り』(河出書房新社)の中で、この型の山車としては、児玉仲町花車が最初とされ、児玉型山車として記述されています。仲町花車築造の山車(宮)大工は、榛澤郡小前田村(現在の花園町小前田)の藤井作次郎ですが、小前田村は秩父往還(現国道140号)の中ほどに位置しており、秩父屋台と熊谷の江戸鉾台型山車を融合させた型を設計したのではないかと推測されます。
戦時色濃厚の昭和15年(1940)、皇紀2600年を祝い、神功皇后を載せた記念写真がありますが、その翌年昭和16年(1941)に太平洋戦争に突入、祭りが途絶えてしまいました。戦後昭和21年(1946)に秋祭りが復活しましたが、人形の迫り上げは昭和15年以後行われませんでした。昭和30年(1955)正月4日未明、不慮の大火により、上町から仲町にかけて40数戸が罹災しました。その翌年、昭和31年(1956)の秋祭りに、三重を組み16年ぶりに神功皇后を載せて、町内復興を祈念しました。その後交通事情や町内鳶職等の関係などで、長年にわたり人形の迫り上げは中断していましたが、平成11年(1999)築造105周年に当たり、迫り上げ装置を復元、43年ぶりに三重に人形を上げることに成功し、往時の雄姿を復活させました。
(「こだま仲街」ウェブサイトより)

結構、人形をあげるのは大変なようですね。それで5年に1回なのかもしれません。
ある意味児玉型山車の最古のものですから、非常に貴重なものといるのでしょう。
仲街山車
サイトには歴史や祭りの内容など詳しく説明されていますので、一度見ておくとかなり解かりやすいと思います。

参考:【こだま仲街】http://nakamachi.main.jp/

三番目にやってきたのは「上街」の山車です。
上街山車 上街山車
「仲街」の右隣に納まりました。

こちらの山車も新街と同じように2代目だそうです。
但し、初代も山車で、創建年代は不詳ですが、山車蔵に弘化4(1847)年と墨書された道具箱があることから、江戸時代後期には存在していたようです。
形式等も不明だそうですが、江戸の山車型か秩父型の笠鉾のどちらかではなかったかと推測されています。
そして現在の2代目の山車は明治30年頃のもので、やはり秩父系の宮大工により製作された児玉型の山車です。児玉型というくらいですから、仲街と同じように秩父型屋台と江戸鉾台型山車を融号したもので、最上部には素戔嗚尊の人形が乗っていたそうです。
しかし、大正時代の電線架設で鉾台と人形を高く上げての曳行は困難となったため、せり出しを廃止して鉾台上部の二重支輪・勾欄を屋根上に固定し、これによって不要になった鉾台部分と人形は売却され、四方幕は現在後幕に使われているのだそうです。
上街山車後幕
そして、昭和49年に大修理が行なわれ現在に至っているのです。
山車ごと売却していたら、現在の雄姿は見られないわけで、これもまた貴重な山車といえるのでしょう。

そして最後の「本街」の山車が納まり4台が揃います。
本街山車 上街山車 4台整列
その山車の歴史がサイトに掲載されています。

明治24年に新調(初代)
  総工費 259円69銭
備品は大太鼓・小太鼓・すり鉦・その他の天幕が用意される。
記事:その後3ヶ年にわたり、青年の「火の番請負金」等により彫刻、その他を完成(不足金50円50銭)。町内の支出を合わせて総工費400円也で決算する。
棟梁:児玉町 丸山又八氏、彫刻師:大里郡小前田の人(姓名不詳)、青年代表:石川亦二郎・西田吉次郎
※青年の「火の番請負金」等とは、消防組「火の番」を青年が請負とし、その収入金より炭・油代を引き去り残金すべてを「山車新調資金」に寄付する事を承知し、決定せりとある。

明治33年に新峰山車落成 (2代目)
明治32年8月に着手、彫刻物は同年11月より着手
彫刻物:前鬼板・鞍馬山、後鬼板・松に鷹、前懸魚・雲に烏天狗、後懸魚・松に猿、前内破風・波、後内破風・波、軒支輪・雲に鶴、腰支輪・波に千鳥
幕物:後幕・緋羅紗に波と松の刺繍、水引幕・金禰 
昭和3年9月に山車の車輪を新調
総工費:車輪代195円、諸雑費:44円18銭、合計239円18銭。制作は熊谷市・木村徳太郎氏。記事:車輪と台車に熊徳車の焼判がある。
昭和29年2月に山車車輪修理実施
鉄輪の焼ばめ修理。鍛冶屋(青池茂氏)6,000円、とび職500円、棒屋1,500円、合計8,000円
(「本街秋祭りのページ」より)

現在の山車は2代目となるのですが、初代から2代目に変るのが随分と早いようです。何か不慮の事故でもあったのでしょうかね。

参考:【本街秋祭りのページ】http://www.geocities.jp/maturibayashi/aki/index.htm

4台が揃うと本街の山車に御幣と榊が供えられています。やはり神事であることから、ここが依り代、或いは御神体として祀っているのでしょう。
御幣と榊 御幣と榊
こうして4台の山車・屋台が揃って一斉にお囃子の競演が始まります。
勢揃いの競演 勢揃いの競演勢揃いの競演
華麗にして絢爛豪華、まさに贅沢なお囃子です。どちらの祭りでもそうですが、山車による祭りの醍醐味はやはり「曳っかわせ」と「勢揃いの競演」でしょう。
しばらくは競演と山車を楽しむことにします。
勢揃いの競演 勢揃いの競演 勢揃いの競演
この競演の歴史は意外と新しく昭和19(1974)年から行われるようになったのだそうです。

それ以前は、各町会それぞれでお囃子を行い、道筋で他の町会と出会うと「曳っかわせ」を行いというだけの形式だったのでしょう。
それを一つのクライマックスとして競演を考え出したものと思われます。

4台連合のお囃子の競演が済むと、今度は各町会ごとのお囃子となりますが、その前にやはり挨拶があります。
主催者ほか、来賓等、等、等、幾人の方々が祝辞を述べて正式な祭りの開始となります。
挨拶
最初のお囃子は左側の「仲街」のお囃子です。
仲街お囃子
正確に測ったわけではないので、あくまで体感ですが、5分~10分くらい「仲街」のお囃子が続いていたのではないでしょうか。
そして次の「上街」に移る前に、渡御行列がこのロータリーに差し掛かってきたので、お囃子は一時中断です。
先導役の後から猿田彦を案内役として行列がつづきます。
渡御行列 渡御行列
そして、行列が私の前辺りに差し掛かったところ、突如として頭から全身に塩を浴びることになりました。
渡御行列
どうやらお清めの塩をまきながら行列をしていたようで、髪の毛の中にはざらざらの塩だらけとなってしまったのですが、近くにいたご婦人から「これで厄が切れるわよ。私の方が浴びたわ。」といわれ、非常に喜ばしいことなのだと教えていただきました。
これで運勢が良くなったら、毎年行きますよ、この祭りに…。
ありがたい清めを受けつつ、御神馬が粛々と通りすぎる様を見学していました。
渡御行列

こうして渡御行列が過ぎ去ると、またお囃子の開始です。
次は「上街」のお囃子です。
子供たちが一生懸命練習して1年に何回しかないお披露目ですから、十分演奏したい気持ちもあるでしょうし、神事ですからはしょることも出来ないでしょうから仕方の無いことですが、観光客にとっては流石に長すぎます。
本来、この祭りは夜の駅入口交差点で行われる文字通りの「四つ角の競演」がクライマックスなのですが、夜の8:00からとあっては待てないところもあるので、このお囃子とともに、残念ながらここで帰宅することにしました。

本庄市と合併してからは、市内に同じような歴史を持つ祭が、同じ日に催行されることとなってしまいました。
本庄祭りは以前訪れているので、これでやっと両方の祭りを見ることが出来たわけです。
思っていた以上に児玉秋祭りへの地元の思いが厚いのにプチ感動しました。更に老若男女が揃って参加しているところも微笑ましく、とてもよい祭りを見ることができました。
丁度、この祭りについて記載されている詳しいサイトがありましたので、掲載しておきます。

参考:【武州児玉の祭り】http://www.geocities.jp/kdm_rensei/index.html

因みに、このサイトには秋祭りのほかに夏祭りや児玉のイベントなども記載されているのですが、夏祭りでは長浜町・鍛治町・上町・仲町・新町・連雀町・本町・下町の8町会と高柳地区の計9基の神輿が出ていて活気ある祭りのようです。
したがって本来なら秋祭りも8町会あってもようはずですが、この辺りのところを調べたところによると、他の町会もかつて山車を所有していたようですが、訳あって現在は所有していないようです。
長浜町:山車を所有していたようですが、大正初期に廃絶されたそうです。
鍛冶町:屋台を所有していたのですが、大正4年頃に群馬県藤岡市大戸町に売却されたそうです。現在、大戸町では秩父から売却されたという推測がされているようですが、時代と形式等にこの鍛冶町のではないかと思えるようなふしがあるので、正確な裏付けはありませんが大戸町に現存していると私は考えます。
藤岡市大戸町山車 《写真:(C)祭りだ! 山車だ!》
連雀町:明治30年代に2代目の山車が製作されたそうですが、大正後期に群馬県鬼石町上町に売却されたそうです。しかしこちらは現存していないようです。
下町:明治30年代に造られたと思われる屋台を所有していたようですが、やはり大正期に諸般の事情で競売にかけられたそうです。
先の仲街にもあったように、電線架設の大正期を一つの岐路として、売却・廃棄したところと、維持し続けたところと分かれたようです。様々な理由があり、苦渋の決断だったのでしょうが、それもまた一つの歴史として興味深いことです。

最後に祭りの中で見かけた“祭りの華”を紹介しておきます。
絶賛
もしかすると新街の方かもしれませんが、このデザイン見事でしょう。“粋”な二人のお嬢さんに脱帽です。
児玉秋まつり そして、いつものようにとりあえず言っておきます。機会があれば夏祭にも…。

2011.11.21記

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