喜多院 #1

上尾市の国道17号線からそのまま国道16号線に分岐して、喜多院門前にある有料駐車場に到着したのが10:00ころです。
比較的早かったこともあり、殆ど渋滞らしきものもなく、全くスムースに到着することができました。
今日の散策の初めは主目的の「喜多院」を参詣します。

喜多院由緒

駐車場のすぐ隣が喜多院の山門となります。
喜多院
山門の手前には、今上天皇・皇后、及びスウェーデン国王行幸の記念碑と「白山神社」と「天海僧正」の銅像があります。
記念碑 白山神社 天海僧正銅像
山門前からすでに盛りだくさんといったところです。
この白山神社は奈良時代に疱瘡が流行り、聖武天皇が白山権現に祈祷してもらったところ疱瘡がおさまったという古事から、この白山神社はいまでも天然痘に関する信仰の白山権現が祀られているそうです。

山門を抜けて境内に入ります。
山門
歴史的な建造物としての重厚さは感じますが、喜多院というイメージの割には意外とシンプルな山門です。

重要文化財・建造物 山門、県指定・建造物 番所 山門は四脚門、切妻造りで本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫ものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さを持っている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632)に建立したもので同15年の大火を免れた喜多院では最古の建造物である。
山門の右側に接続して建っているのが番所で間口10尺(3.03m)、奥行2間半(4.55m)、起屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ1棟の遺構である。
平成2年2月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

400年近い歴史を持つ山門ですから、喜多院では非常に貴重な建造物といえるわけですね。
山門
そして、こちらが山門に接する番所です。
番所
天保12(1841)年の喜多院境内図には山門より後方に描かれているそうなので、どこかの時点で現在のように山門脇に移されたものと考えられているようです。

山門を抜けた右側にはあの有名な五百羅漢が建立されており、門柱には「天明二年建立 五百羅漢尊」のプレートが掲げられています。
五百羅漢尊 五百羅漢尊
しかしながら、門は閉じられて中に入ることが出来ません。
カメラマンの方も門の隙から写真を写しているようです。後でわかった事ですが、拝観の入場券を購入すると羅漢尊を拝見できるとのことでしたが、この時点では仕方なく先に進みます。

隣には六角形の小ぶりなお堂があります。
太子堂
「太子堂」だそうです。

喜多院太子堂縁起山門 本年は聖徳太子御忌1355年に当ります。
申すまでもなく聖徳太子は、わが日本の文化史上における代表的偉人でその政治上の功績は云ふまでもなく、学問著述教育宗教音楽芸能工芸築建医療養護社会施設その他諸道の祖として信仰されております。特に室町の時代末には仏教宗派にとらはれず、太子を芸道の祖として尊ぶ信仰が生れ、大工左官屋根職等の仕事師の絶対的信仰をあつめたのであります。
当山の太子堂は、弘化4年3月当山末寺金剛院境内地に創建され、明治以後廃寺にともない日枝神社境内に移し、更に明治42年3月現在の多宝塔建立地に移築し、そして昭和47年11月この地に立派な六角太子堂として再興したものであります この度慈恵堂多宝塔大修繕の勝縁を記念して、太子堂再興新太子像奉刻木遣塚石垣等建設と共に川越鳶職組合(代表西村甚平氏)が中心となり、喜多院太子講の結成を見まして、十方有縁の篤信徒に太子のお徳を戴けることは、まことに佛天の恵み千載一偶の法縁であります。
こゝに畧縁を誌し記念とする次第であります。
昭和51年2月22日 星岳亮善 識
(現地石碑碑文より)

また太子堂の手前左手には「木遣塚」が建立されています。
木遣塚

木遣塚建設の碑 昭和50年4月吉日
木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌を云い、木曳歌と同義語である。木曳の際の号令の役目をした掛声が木遣歌となった。
我々の先祖はその音頭に合わせ真棒と曳綱に命をかけて建設への基礎造りを続けて来たが現今では、木遣と云えば、木遣音頭を以て代表され、諸々の行事に広く歌われるようになった。
この度川越鳶組合は、近隣鳶組合と計り、ここ喜多院太子堂の聖地に木遣塚を建設し、その由来を記し先祖の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しようとするものである。
塚建設に当り多数の御賛助を得たので ご芳名を刻み永く伝えたい。(以下省略)
(現地石碑碑文より)

“学問著述教育宗教音楽芸能工芸築建医療養護社会施設その他諸道の祖”というトンでもな肩書きのついた聖徳太子は確かに歴史の教科書でもスパースターであることは間違いありません。正月も盆もクリスマスも全て祝えるような日本人を作ったのが聖徳太子といっても過言ではないことから、様々な祖といっても何となく納得してしまいます。
聖徳太子は仏法と共に宮大工や仏師を保護したとか、大工道具の指金を考案したという伝承などから大工の神様として崇められているということもいわれているようですが、実際には全国にたくさんの寺院を建立したことから、それに関係する大工、左官、とび職などの職人たちが経済的な恩恵にあずかったというところから、感謝・尊崇されたといったほうが正しいのでしょうから、太子堂も木遣塚も、感謝の表れとともに、これからの繁栄を祈願したということでしょう。
因みに“木”に関わる職を「右官」、“土”に関わる職を「左官」と呼んだ由来は、当時の都造りのために天皇のそばで建築に関わったことから高貴な名“官”で呼んでいたという説もあるそうです。そして更にこの高貴な職を司ることから、大(大いなる)工(巧み)という意味で大工と呼ばれたともいわれています。
つまり大工さんとは、元々は畏れ多い職業だった言うことなのです。

太子堂の隣には売店があります。
売店
まだ、時間も早いので寄る人もいませんが、ここから五百羅漢を見学すすことができるそうなので、後ほど寄ることにします。
そして北側の参道を挟んで「多宝塔」があります。
多宝塔

県指定・建造物 多宝塔
「星野山御建立記」によると、寛永15年9月に着手して翌16年(1639)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和47年より復元のため解体が行なわれて昭和50年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせている。下層は廻縁を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に宝形造の屋根をのせているので組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に調和している相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。
昭和54年3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

先の太子堂を含めて、ここでの説明は単に建造物の形式、様式を説明するだけでなく、その背景にある大工などの職人等についても触れている点が非常に面白いです。したがって聞きなれない(というか、知らない)単語がいくつも出てきます。
番匠とは簡単に言えば現在の大工の前身です。
古代においては、大和や飛騨などの国から交代で朝廷に仕え、木工寮(現在でいうところの宮内省に属していた機関)に属して宮廷の建築に従事した職人のことで、戦国時代以降は大名支配による大工組織となり木造の建物を全般を造る職人を言うようになったのです。
こうした桃山・江戸時代初期の番匠の一人が平之内大隅守なのです。
平之内大隅守って誰、と解き明かすキーがこの説明文に記載されている「匠明」という本です。

近世における木造建築を高度に発達させた要因の一つに“木割”と“規矩”という規定があったそうです。“木割”は建物の様式を定め、その規模に応じて部材の配置や大きさを相関的に比例して定めるもので、いわゆる設計に必要な技術です。一方、“規矩”は部材の継ぎ手仕口等を作る上で必要な図形を、直接木材の表面に描く現場の技術なのです。
そしてこの“木割”を著した本が「匠明」で日本最古の木割本であることから、歴史的価値が非常に高いものなのだそうです。更にこの「匠明」は、最古という歴史的価値のみならず、現代の建築史家が、建築物の年代を推定する要点ともなることから、現代でもこの本は復刻されているということなのです。
匠明 《「匠明」復刻本》
つまりある意味では日本木造建築物の規定書ともいえるわけですから、その時代、時代によって違った規定を確認するにはうってつけというわけなのです。
そして、この「匠明」を著したのが「平内吉政」「平内正信」の親子なのです。

平内吉政は江戸初期の大工で、そもそも平内家は紀伊国根来(和歌山県)の出身で、秀吉の命じた京都方広寺大仏殿造営で紀州棟梁10人のひとりとして参加するほど平内家は紀州を代表する大工家といわれたようです。この吉政の建築作品は、慶長11(1606)年造立の和歌山天満神社本殿が現存しているそうです。
その子、平内正信は、幕府作事方大棟梁に登用され越前守に任官しました。慶長13(1608)年から15年にかけて父の吉政と共に「匠明」を著し、後半生は鹿島神宮の木造狛犬をはじめ、寛永9(1632)年造営の増上寺台徳院霊廟などを手がけ、同年10月幕府作事方大棟梁職に就任し、その後、日光輪王寺常行堂など日光東照宮の寛永度造営にも参加したそうです。したがって、ここの記述のある平之内大隅守は「平内正信」ということになるようです。
このように現代でも、建築史家には大家である「平内正信」が直接手がけた多宝塔ということで、歴史的建造物のみならず、史実としても貴重な建造物といわれているのです。
そしてこの多宝塔の前に喜多院の歴史・由緒が記載されています。

国指定重要文化財 川越大師 喜多院案内図
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力により取り除き損像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を勧請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法統をつぐが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき寺領48000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、4代家綱のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるった。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで3代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年の間に再建し、それが今日文化財として大切に保存されているのである。
江戸時代までは寺領48000坪、750石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の復原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮も含めて14000坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除などの護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の1週間宝物特別展も開かれている。
(現地案内板説明文より)

ここでは創建の慈覚大師について調べてみました。
慈覚大師 《慈覚大師》
慈覚大師・円仁は、延暦13(794)年下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)の豪族・壬生氏に生まれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行し、大同3(808)年、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となりました。
承和5(838)年遣唐船で唐に渡り、唐での9年間の紀行を日記「入唐求法巡礼行記」全4巻にまとめたものは、マルコポーロの「東方見聞録」、玄弉三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記といわれているそうです。
こうして承和14(847)年に帰国した後は、斉衡元(854)年61歳の時に延暦寺の座主となり、貞観6(864)年に71歳で没したのです。
もともと現在の栃木県の生まれですから、関東以北には、ここ喜多院をはじめとして、日光山、福島県伊達郡の霊山寺、松島の瑞巌寺、山形市の立石寺、岩手県平泉町の中尊寺、毛越寺、秋田県象潟町の蚶満寺、青森県恐山の円通寺など開祖或いは中興とされる寺が数多くあるようです。これは慈覚大師が天長6(829)年から天長9(832)年まで東国巡礼の旅にでた折に、天台宗を広めたことがきっかけとなっているそうなので、伝承ではなく、紛れもなく喜多院は慈覚大師が創建した1000年以上の歴史を持った由緒ある寺院と言えるのです。

参道の先には小さな社である「大黒堂」があります。
大黒堂
文字通り大黒様を祀った社ですが、ここ喜多院の大黒堂は小江戸川越七福神の一つとなっています。
小江戸川越七福神:1.毘沙門天・妙善寺、2.寿老人・天然寺、3.大黒天・喜多院、4.恵比寿天・成田山、5.福緑寿神・蓮馨寺、6.布袋尊・見立寺、7.弁財天・妙昌寺となっています。
また、この七福神の各寺は、それぞれ秋の七草を育てているそうです。
上記の順に、1.女郎花、2.桔梗、3.萩、4.撫子、5.尾花、6.葛、7.藤袴だそうですので、正月の七福神は混みそうなので、秋の七草巡りは風情があってよいかも知れませんね。

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