喜多院 #2

この大黒堂の隣がこの喜多院の重要な建造物である客殿です。
喜多院
歴史にもあった通り「家光誕生の間」、「春日局(家光公の乳母)の間」のある建物です。

喜多院拝観

建物の全景を見ることはできませんが、建物の入口にあたる部分が庫裡で、奥に書院と客殿があります。
庫裏
客殿として使用されている間が「家光誕生の間」で、書院として使用されていたのが「春日局の化粧の間」なのです。

江戸城からの移築建造物
慶長19(1614)年徳川家康公の寄進により伽藍が整備されましたが、寛永15(1638)年の川越大火により、山門を除く諸堂が消失しました。再建にあたり3代将軍徳川家光公は江戸城内の御殿を川越に移築する命を下しました。このことは、当時の当山第27世住職天海僧正と将軍家の特別な関係を示すものです。
江戸城方移築された建造物は、客殿・書院・庫裡の3棟で、現在国指定重要文化財として保存され公開されています。客殿の中の山水画で飾られた一部屋が「家光公誕生の間」と伝えられています。また、書院は家光公の乳母(子守役)である春日局の「化粧の間」と伝えられています。
(現地案内板説明文より)

その配置がこのようになります。
案内図 《平面図:案内板より》
早速、庫裡の入口から入ることにします。

庫裏 国指定重要文化財
客殿と書院に渡り廊下でつながれている庫裏は、現在拝観の方々の入口となっています。客殿、書院と同様、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものです。裄行10間、梁間4間の母屋、裄行東4間、西3間、梁間3間の食堂、それに玄関及び広間が付いています。母屋は一端は入母屋造り、他の端が寄棟造りになっていて、食堂は一端が寄棟造り、他の端は母屋につながり、すべて栩葺形銅板葺。母屋には、一部に中2階があります。
(喜多院オフィシャルサイトより)

拝観料400円で、客殿・書院・庫裡・慈恵堂(本堂)・五百羅漢を巡る拝観コースとなっています。
拝観券
ただし、五百羅漢以外は撮影禁止です。
先ずは真直ぐ進むのですが、ここには喜多院の歴史や川越に関する歴史などがパネル展示されています。
そして客殿に達すると家光誕生の間となります。

客殿(徳川家光公誕生の間) 国指定重要文化財
客殿は、書院、庫裏とあわせ江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものです。裄行8間、梁間5間の入母屋作りで柿葺。12畳半2室、17畳半2室、10畳2室があります。12畳半のうち一室が上段の間で、床と違い棚が設けられ、その襖と壁面には墨絵の山水が描かれています。また、天井には彩色による81枚の花模様があります。湯殿と厠(便所)も設けられています。この上段の間は、この建物が江戸城にあった頃、3代将軍徳川家光公がここで生まれたということから、「徳川家光公誕生の間」と呼ばれています。中央の17畳半の一室には仏間が設けられ、仏事を営めるように設営されています。仏間正面の壁には、豪華な鳳凰と桐の壁画があります。
(喜多院オフィシャルサイトより)

豪華絢爛といった風情ではありませんが、やや照度不足ながら花模様の天井は綺麗でしたね。
この客殿からは庭園が望めます。庭園の撮影はOKのようです。
庭園 庭園
紅葉にはもう一歩と言った感じですが、それでも色づいた木々と共にしばし癒しの一服です。
次は一旦戻ってから書院に進みます。

書院(春日局化粧の間) 国指定重要文化財
客殿につながる書院は、裄行6間、梁間5間の寄棟作り、柿葺です。客殿、庫裏と同じく江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものです。8畳2室、12畳2室があり、一部に中2階があります。この8畳間の2室には、それぞれの床の間が用意され、片方の部屋には脇床も設けられています。これらの部屋は、この建物が江戸城にあった頃、徳川家光公の乳母として知られる春日局が使用していた部屋で、「春日局化粧の間」と呼ばれています。
(喜多院オフィシャルサイトより)

こちらは更に質素です。また春日局の間といっても、それ程広くはないので拍子抜けの感はありますが、化粧(仕度部屋)だけのためと考えれば随分と贅沢な空間です。
ここには幾つかの展示物があり、その中の一つに「公武合体長持」というものが展示されていました。
公武合体とは朝廷と徳川家の婚姻を表し、長持ちとは衣類や寝具の収納のための木箱で、要するに皇女和宮の長持だと言うことです。
その証は、蓋と側面に描かれている紋で、それぞれ2つずつ紋が描かれているのですが、1つは朝廷(天皇家)の菊のご紋と、もう一つは徳川家の三つ葉葵の紋です。恐らく菊と葵が並んでいるのはこの時代でしかないものでしょう。実に面白いものを見ることができました。
また、もう一つ展示されている家具に箪笥があります。「船箪笥」というもので、大小いくつかのものがあります。
この船箪笥は、江戸時代から明治にかけての輸送手段の中心だった商船に積み込まれて使用されたもので、狭い船内でも携行できるよう小型化され、更に荒海にも耐えられるよう頑丈なつくりとなっている箪笥です。
商取引に必要な帳面、金銭、印鑑、筆、硯などを収納していた懸硯や帳箱のほかに、羽織袴などの衣裳を入れた半櫃などの種類があるようで、いずれも船主の富と権力の象徴として作る出されたもののようです。
その船箪笥が何故ここにあるのかは判りませんが、新河岸川や入間川の舟運で栄えた街、川越としての名残なのかもしれません。
船箪笥 《写真:サイト“ぽてちの「人とはちがうモノ」日記”より》
こんな感じの船箪笥があったような、おそらく、多分…。

この書院から眺める風景は「遠州流」という庭園です。
「遠州流」庭園
従来の枯山水的なものに人工的意匠を加えた庭の造り方と説明はあるのですが、もう少し調べてみることにします。

小堀遠州 本名 小堀正一
小堀遠州
近江小室藩主(1万2000石)で江戸初期の大名茶人。近江の国に生まれる。幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となる。慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれる。
生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、延べ人数は2000人に及ぶ。書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた。
遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園である。
美術工芸においては「中興名物」の選定や、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残している。 また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注いだ。
豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえる。
(サイト「遠州流茶道 綺麗さびの世界」より)

特筆すべきは国際性で、伏見奉行という立場から海外の最新情報を知りえたことから、作庭においても西欧の意匠を取り入れたことにあるようです。
この庭園にその意匠をどう見つけるのかは素人にはわかりませんが、これも江戸幕府作事奉行の作品となれば、この書院にも相応しいものといえるのでしょう。多くの方がここでしばし佇んでいるのも無理のないことです。

書院を見学してからは、川越文化のパネル展示を見ながら渡り廊下で本堂である「慈恵堂」に進みます。
渡り廊下からは「紅葉山庭園」と呼んでいる庭園を見ることができますが、ここには庭の説明が掲げられています。
紅葉山庭園

庭の説明
轉合の庭(遠州流庭園)
轉合とは「轉合言うて」と言い「ご冗談でしょう」の意味です。3つの縁石、○◇□(丸、菱形、四角)は元来不調和ですが見事に調和がとられ、幾何学的に整然とした庭になっています。
化し組
左側の大石三石は何処から見ても不思議と重なることがありません。この石組を化し組(あだしぐみ)といいます。
「化し」とは京都の嵯峨野の化し野という地があり、そこからとった言葉です。
尚、この石は右より信長(上を向いて前進した姿)中、秀吉(大きく物欲的)左、家康(時期を伺う姿)の三人を型どっています。
極真組み
前方堀際にある角石のみの三石は極真組方といい、石組中最も難しい技術を要する石組です。
以上、遠州流の手法が各所に使われております。
(現地案内板説明文より)

という事で、これがその三石なのでしょうか。
大石三石
3つの縁石は何処のことを言うのか良く判りませんが、ここからはこれくらいしか見えません。ちょっとわかりにくい説明でした。
渡り廊下からは客殿が木の影からうっすらと見ることができます。
客殿
そして渡り廊下を抜けて本堂に入ると、より本尊の慈恵大師に近寄ってお参りできるということになります。
ここで参拝を済ませて拝観は終了となります。
現在、江戸城後である皇居には数えるほどしか遺構は残存していません。まして江戸城紅葉山の遺構は皆無である状況で、唯一残っている遺構としては実に貴重なものといえるでしょう。
一度は見ておいてよいかも知れません。

小江戸川越菊まつり

拝観を終えて外に出ます。
先ほど渡った渡り廊下と紅葉です。
渡り廊下
恐らく渡り廊下の下は、かつては通り抜けできるようになっていたものを塞いだようです。
付近には「天海僧正お手植え 槇」が植えられています。
天海僧正お手植え 槇
樹齢約350年のものだそうで、ご神木となっているのは神仏習合によるためです。
ここから左手に進むと本堂である「慈恵堂」です。
慈恵堂
今度は外側から拝観します。

慈恵堂 県指定有形文化財
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。裄行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月に大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。
(喜多院オフィシャルサイトより)

堂々たる堂宇は流石に名刹の威容を誇っているかのようです。
慈恵堂 慈恵堂
先ほど堂内で参拝したときに、確かに天井一杯に家紋がありました。どのような意味合いかが判らなかったのですが、檀家からの尊崇の証とでもいえるものでしょう。
本堂から見た境内の一部ですが、広大な境内であることを実感します。
境内 境内

その境内の一画で「小江戸川越菊まつり」が開催されていました。
菊まつり
丁度11月1日~今日23日までの開催だそうなので、非常にラッキーといえるでしょう。
この小江戸川越菊まつりは、昭和58(1983)年に喜多院奉納菊花展として始まり、その後、川越菊まつりを経て、現在の小江戸川越菊まつりと名称を変えてきたそうです。
福島の二本松市で訪れた菊人形展などとは歴史的にも規模的にもかないませんが、川越の菊花会会員を中心として市内の中学生生徒らも参加したスピリッツは同じでしょう。

展示会場内を入ると正面にあるのが「菊の千輪仕立て」です。
菊の千輪仕立て
今回は特別に“復興への祈り”と題されて千輪咲きと千羽鶴が一緒に展示されています。
この千輪咲きは本当に製作者の努力が伺える仕立てであることを以前知ってからは、常に眼を見張るようになってしまいました。
これも大変綺麗な千輪咲きで、特に千羽鶴との相性がよいのでしょう、何となくしっくりしています。
この復興の千輪咲きの後ろ側にも一列に千輪咲きが並んでいます。
菊の千輪仕立て

右側には「小菊盆栽作り」が展示されています。
小菊盆栽作り
これは今までで初めて見たような気がします。この盆栽は挿し芽苗から僅か14ヶ月の間にバランスのよい姿に仕立て、しかも風雪に耐えて育った老樹の風格と、その枯淡な味わいを表現するものだそうです。その上、花まで咲かせようとする小菊の盆栽仕立ては、細かなことに強い日本人が世界に誇る園芸技術といえるようです。華麗さと老練さを併せ持った菊といえるでしょう。
こちらにあるのは各部門別の最高賞を展示してあります。
各部門別の最高賞
また、このような枝振りの菊も妖艶な表情です。
菊
奥には菊人形のような仕立てがあります。
宝船 復興フェニックス
「宝船」と「復興フェニックス」という菊人形が展示されています。
すばらしい作品を堪能できました。
最後に今回印象に残った菊の花です。
菊
1年ぶりに見た菊ですが、久々に上品で高貴な香を堪能しました。

菊まつりを楽しんだ後は、境内の小高い丘にある「慈眼堂」を参拝しますが、その麓に「苦ぬき地蔵尊」とう初めて聞く地蔵尊が祀られていました。
苦ぬき地蔵尊
この「苦ぬき地蔵尊」とは「釘抜き地蔵尊」とも呼ばれていて、文字通り全ての苦しみを取り払ってくれるという地蔵尊で、昭和32(1957)年に本堂改築を記念して信者が奉納したものだそうです。
カラフルな地蔵旗は5000円で奉納できるそうなので、ここだけ幟旗が数多くあったのです。

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