喜多院 #3

ここからは階段を上がると、この喜多院の一番縁の人が祀られている「慈眼堂」となります。
慈眼堂に祀られている慈眼大師、天海僧正とは一体どのような人物だったのでしょうか。

慈眼堂

さて階段をあがるとその上に「慈眼堂」があります。
慈眼堂

重要文化財・建造物 慈眼堂
天海僧正は寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして3年後の正保2年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、廚子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行3間(5.45m)、梁間3間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。
平成3年3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

山門前にあった天海僧正の銅像とともに、この慈眼堂は喜多院における天海僧正の偉業を文字通り物語る建造物なのです。
そこでその天海僧正のプロフィールが掲出されています。

NHK大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」紀行放送記念
天海大僧正 坐像 特別開帳 
平成23年10月1日~11月23日
喜多院第27世天海大僧正(1536~1643)は江戸時代初期に住職を勤め、境内を大いに整備し「中興」と称されます。現在の諸堂は、主にその時代のものが伝えられています。
大僧正は徳川家康公に大変信頼され、幕府の宗教政策等に助言を行いました。家康公はたびたび喜多院を訪問し、仏教についての教えも受けたと伝えられています。
秀忠公・家光公も大僧正を慕い、江戸城の近くに大僧正を招くため、上野に寛永寺を建立しました。
また寛永15年の川越大火後の喜多院再建に当たっては家光公の特別のはからいで「家光公誕生の間」「春日局化粧の間」を含む江戸城の御殿を移築しました。
移築された、秀忠公とお江様が過ごされた江戸城の御殿は、昭和21年に国指定重要文化財の指定を受け、大々的な保存修理が施されて、公開されています。
(現地案内板説明文より)

流石に今年は「江」の年だけあって、徳川初期に由来する地には多くのスペシャルイベントが目白押しですが、ここでもやはり「江」にあやかったご開帳がありました。
そこで、ここではまずは天海僧正、その人物について調べてみることにします。

天海僧正の生涯の内、謎に包まれているといわれているのが前半生で、まずは生年についてからが確実ではないようです。大正5(1916)年刊の「大僧正天海」では、天海の生年は1509年から1554年までの12説に分かれているそうなのですが、現在では天文5(1536)年正月元日生まれが定説となっているようです。これは元和元(1615)年に、後陽成天皇より古来より80歳の功臣に下賜される「鳩杖」を賜ったという記録から逆算して出されたものだそうです。まあ、生年はよいとしても1月1日はでき過ぎかもしれませんが、更にできすぎなのが、同年同月同日に豊臣秀吉も誕生していたというエピソードです。完全に否定する根拠がないのですから、全く嘘とも言えませんし、ある意味では歴史としての偶然ではなく、必然と考えるべきなのかもしれません。

次に、こうして誕生した天海の生涯を時系列に辿ってみます。
◆前半生
生まれは陸奥国大沼郡高田(現・福島県大沼郡会津高田町)で、幼名兵太郎と呼ばれていたようです。この生まれたときのエピソードに、秀吉の日輪伝説と同じように母が月に祈ったところ天海を身ごもったという伝説があるそうです。これも必然でしょう。
この兵太郎は11歳の時近所の龍興寺で剃髪し、名を随風と改め日本各地を回って仏法を修行し、知識見識を深めていったそうです。
この頃にもエピソードがあります。
上杉家の「上杉将士書上」によれば、天海は天文23(1554)年に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したと記載されているそうなのです。そしてこの時天海は武田信玄と上杉謙信の一騎打ちを見て、後に信玄にその一騎打ちの感想を述べると信玄は、影武者であると言ったという、なんとも大胆なことが書かれているのです。また、18世紀前半に描かれた川中島合戦図屏風(和歌山県立博物館所蔵)には「信玄謙信一騎打ちを眺める天海」の図が描かれているそうです。
川中島合戦図屏風 川中島合戦図屏風 《川中島合戦図屏風と天海写真:サイト「安曇野の詩が聞こえる」より》
ここまで徹底すれば本当に思えてくるかも知れませんね。

◆喜多院住持
一般的に突如として表舞台に現れた感のある天海僧正ですが、足跡が明確になりだしたのが、この喜多院からのことのようです。
甲斐国から上野国を経て当時の喜多院である星野山無量寿寺に移ったのが天正16(1588)年で、天正18(1590)年には26世豪海僧正より「天海」の名を受け、慶長4(1599)年、豪海の跡を継いで27世の座主についたのでした。
この頃のエピソードに天海が関が原の戦いに参加していたというものがあります。これは関ヶ原町歴史民俗資料館が所蔵する「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた家康本陣には鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されているといわれているものです。但し、この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したものなのですが、原画の彦根城博物館のものには「南光坊」と記載されていないことから、後の天海の名声から付け加えられたものというのが妥当な判断でしょう。当然関が原の戦い当時は無量寿寺の座主になったばかりのころですから、ありえない話ですが、このような事象があるから天海の神秘性が強まっていったのでしょう。
その後、慶長12(1607)年比叡山探題執行を家康より命ぜられ、南光坊に居住して延暦寺再興に関わったのです。これは当時家康のお抱え医師である施薬院宗伯が天海僧正を推薦したことによるもののようで、既にこの時代の天海の名声は仏教界では高かったことがうかがえるのです。
そしてこの頃から徐々に天海は家康からの信頼を厚くしていくのですが、この当時家康から重用されていたのが臨済宗の僧「以心崇伝」です。
以心崇伝は慶長13(1608)年、家康に招かれて駿府につき外交関係の書記を務め、後に幕政にも参加し、キリスト教の禁止や、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わり「黒衣の宰相」といわれた人物で、その後の大阪の役の発端になった「方広寺鐘銘事件」に関与したとされる僧なのです。
したがって、当時の天海は家康からの信頼も厚く、家康の重要なブレーンではあったのですが、まだ側近ナンバー1としての地位ではなかったようです。
そして、慶長17(1612)年に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とし、慶長18(1613)年には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興するなど更に家康からの信頼を厚くしていったようです。

◆後半生
こうして以心崇伝の影でその存在感を強めていった天海ですが、この以心崇伝にかわる権力を得るきっかけとなったのが家康の死後でした。
元和2(1616)年、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を以心崇伝、天海、本多正純らに託します。
同年4月17日、家康は75歳の生涯を閉じ、遺体は直ちに久能山に移され葬儀が執り行われたのですが、ここで一つの問題が浮かんできたのです。それは死後の家康の神号についてです。
以心崇伝は室町時代に大成された神道の一流派である「吉田神道」で既に葬儀も済ませているので、当然、家康の神号を吉田神道における「明神」とするものと考えていました。しかし、ここで天海は異を唱え、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派である山王神道を発展させた「山王一実神道」で祀り、家康の神号を「権現」とすべきだと主張し、以心崇伝と天海の論争が勃発したのです。
そして結論の出ない最中、第2代将軍秀忠から神号について訪ねられた天海は秀吉の例を挙げたのでした。
「明神」は秀吉に対して“豊国大明神”として送られた神号で、その豊臣家を滅ぼした徳川家が「明神」を使用することは、大変不吉なことであると説明したのです。この説に納得した秀忠は家康の神号を「東照大権現」とし、葬儀を山王一実神道でやり直し、家康の遺体を久能山から日光山に改葬したのです。
そして更にこの年、天海は朝廷から大僧正の位を受け、僧侶として当時最高の地位に登りつめたのです。
これらを契機に天海への秀忠の信頼は厚くなり、以心崇伝への徳川家の後ろ盾は徐々に薄くなっていくのです。
その後、天海は第3代将軍家光に仕え、寛永元(1624)年には忍岡(上野)に寛永寺を創建します。これは高齢の天海が喜多院からの江戸に来るのが困難になったため、江戸城に近いところに居住するために創建されたものですが、その実態は江戸の鬼門鎮護という目的があったのです。そして名称も「東叡山寛永寺」とし“東叡山”は文字通り東にある比叡山の意味で、“寛永寺”の寛永は年号に由来するもので、これも延暦年間に建立された延暦寺を模したものなのです。
この名称からもわかる通り、寛永寺は京都における延暦寺と同じ役割を持たせたもので、事実、寛永寺創建以降、天台宗の宗務の実権は江戸に移ったのでした。
そしてこれを機に天海は江戸鎮護の都市計画を行い、陰陽道や風水に基づいた江戸五色不動などを建立するのでした。
このようなことから3代将軍家光からの信頼も厚くなり、高僧の袈裟における紫衣事件を契機にほぼ以心崇伝と天海の権力関係は逆転したのでした。
この頃の家光とのエピソードが残されています。
あるとき天海は家光から柿を拝領し、食べ終わってから種を包んで懐に入れたのを見て、家光から「その種をどうする」と尋ねられたそうです。すると天海は「持って帰って植える」と答えると、「100歳にもなろうという老人が今更無駄なことを」と家光が言うと、「天下人がそのように性急ではいけない」と諌めたそうです。
後年、家光に天海から柿が献上され、家光がどこの柿かと聞くと「先年いただいた柿の種が実をつけました」と答えたということです。いかに信頼関係が厚かったかが伺えるエピソードです。
こうして徳川3代に仕えた天海も寛永20(1643)年、108歳という長寿で没し、遺体は日光東照宮、家康神廟の隣の大黒山に埋葬されて慈眼堂と名付けられたのです。
そしてその5年後の慶安元(1648)年、朝廷より慈眼大師号を追贈されたのです。
このように天海の出世とともに喜多院もまた寺勢を伸ばしていったということになるわけですが、栄枯盛衰、幕府崩壊後の明治時代には徳川家の庇護もなく荒廃したようですが、現在の寺勢を回復したことは文化財指定によるところが大きかったようです。

神秘性とともに様々なエピソードを持つ天海の生涯についての概略をまとめてみたわけですが、もう一つエピソードとして特に興味深い「天海=光秀説」を記載してみました。
その異説の根拠の概要を羅列します。
1.日光東照宮に多くの光秀の紋である桔梗紋の多用。
2.日光に「明智平」という地域がり、命名したのが天海であるという伝承。
3.徳川秀忠の「秀」、徳川家光の「光」で“光秀”という由来という推測。
4.光秀没後に比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残存。
5.光秀の家老斎藤利三の娘である「お福」(春日局)を家光の乳母に抜擢。
6.学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残存。
7.天海と光秀の筆跡を鑑定した結果「極めて本人か、それに近い人物」との結果。
といったようなことから「天海=光秀説」が生まれたのですが、これについては一つ一つ反証が挙げられています。
まあ、反証を挙げる以前に一般的な思考回路で言えば、殆どありえない説と思いますが、これは歴史の偶然といえるでしょう。
しかし天海=光秀説はあり得ないにしても、天海が光秀を尊敬しており、その非業の死と遺徳を偲ぶために、何らかの顕彰を残したかった、という推測もできるわけです。こうなれば極めて必然ですが、いずれにしても実にユニークで興味深いストーリーであることは間違いありません。
こうゆう説に真剣に賛否両論がでるところがまた歴史の面白さでしょう。

そして特別開帳の天海坐像がこちらです。
天海坐像 天海坐像

木造天海僧正坐像 県指定有形文化財
この木像は、頭巾をかぶり、法衣の上に袈裟を着け、払子を持って曲ろく(椅子)に座した天海僧正の姿です。檜の寄木造り、玉眼、全身に漆喰下地の施し、極彩色。墨書で「寛永廿癸未歳八月吉日 大仏師式部卿」との銘文があります。天海僧正が没したのが寛永20年(1643)10月2日ですので、天海僧正の生前の姿を写した寿像であることがわかります。表情に生気がみなぎるようで、天海僧正晩年の姿を今に伝えています。
(喜多院オフィシャルサイトより)

顔の辺りには老齢さはありますが、眼光の鋭さは108歳には思えない矍鑠たるものを感じます。
流石に一時代を築いた人物ならではのものでしょう。
「慈眼堂」の裏手には喜多院歴代住職の墓所があり、中央には「南天慈眼大師」と刻まれた一際大きな墓碑があります。

そしてその墓碑の後に2つの板碑が建立されています。
南天慈眼大師墓碑

県指定・史跡 暦応の古碑
暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□□月十五日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半部に52名にのぼる喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻している。喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この銘文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあるので、暦応(南北朝時代初期)の頃の住職であったことがわかる。
昭和54年3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会

市指定・考古資料 延文の板碑
暦応の板碑とならんで立っている延文3年のこの板碑は、高さ276cm、最大幅69.4cm、暑さ9cmで川越市最大の板碑である。暦応の板碑と同様に、上部に種子キリークがあり、そのもとに、僧1、法師2、沙弥32、尼21、聖霊4、の合計60名が刻まれており「一結諸衆/敬白」とあり、文字通り結衆板碑である。
聖霊の4名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに故人になった人と思われる。したがって完成までに少なからず歳月を費やしたことが考えられる。暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑は、そのほとんどが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧、法師が導師となって、在俗の人々が結衆したことがわかる板碑である。
昭和63年3月 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

丁度、暦応の古碑は天海僧正墓碑の真後ろなので、少し斜めからでないと写真を撮ることができません。
左が延文の板碑で、右が暦応の古碑です。
板碑
暦応は1338~1341年、延文は1356~1360年までのどちらも南北朝時代で、天海以前の資料の少ない無量寿寺時代のことが判るものとしてより貴重なものといえるようです。

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