喜多院 #4

このあたりは非常に樹木の多いところで、市民の憩いの場としての一端を担っていることも頷けます。
散歩がてらに境内を歩くのも地元の人にとっては、よい気分転換でしょう。

どろぼう橋

歴代住職の墓所から西に向って散策路が続いているようなので、そのまま先に向ってみました。
大きな樹木の横に1本の橋が架かっています。
境内 どろぼう橋

どろぼうばしの由来
所在地 川越市小仙波町1丁目
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕まえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げ込んだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕まえられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐ろしさを知った。盗賊は、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろぼうばし」というようになったということである。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

民話や昔話ではよくあるテーマです。
これを感心した子供たちは大勢いたのでしょう。子供の教育(あるいは大人も含めて)には伝説はうってつけの教育材料ですから。
因みにこの橋の下には水はありませんが、元々空掘りだったのでしょうか。
空堀
どろぼうばしの反対側には、比較的由緒のありそうな墓所があります。
松平大和守家廟所

市指定・史跡 松平大和守家廟所
松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家門、越前家の家柄である。
川越城主としての在城は明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで、7代100年にわたり、17万石を領したが、このうち川越で亡くなった5人の殿様の廟所である。北側に4基あるのは右から朝矩(霊鷺院)直恒(俊徳院)、直温(馨徳院)、斉典(興国院)の順で、南側に1基あるのが直侯(建中院)となっている。いずれも巨大な五輪塔で、それぞれの頌徳碑が建ち、定紋入りの石扉をもった石門と石垣がめぐらされている。
平成5年3月 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

川越城は江戸時代以前よりの城ですが、江戸時代になってからは初代の酒井重忠を初めとして、廃藩になるまでの明治までに21人の城主がおりました。そして松平家としての7代は、松平朝矩、松平直恒、松平直温、松平斉典、松平典則、松平直侯、松平直克となるのですが、ここに記載されている越前家とは少々ややこしい家柄のようです。
実際の越前家=越前松平家は分家が多く、結城秀康の諸子から兄弟順に津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家の五家に分かれ、更に福井藩から糸魚川藩、松江藩から広瀬藩・母里藩が分かれ、合計で八家となるそうです。
そしてその兄弟順は、忠直(津山家)、忠昌(福井家)、直政(松江家)、直基(前橋家)、直良(明石家)となり、ここでいう直基を藩祖とする越前家は前橋松平家のこととなるのです。
そして前橋松平家とは最終の明治時代の地が前橋なので、便宜上前橋松平となっていますが、川越城主の朝矩は直基から数えて5代目となり、江戸時代の間には随分と移封の多い家柄だったようです。
初代・直基:越前勝山藩→越前大野藩→出羽山形藩→播磨姫路藩
2代・直矩:姫路藩→越後村上藩→姫路藩→豊後日田藩→出羽山形藩→陸奥白河藩
3代・基知:陸奥白河藩
4代・明矩:陸奥白河藩→播磨姫路藩
5代・朝矩:播磨姫路藩→上野前橋藩→武蔵川越藩
6代・直恒、7代・直温、8代・斉典、9代・典則、10代・直侯:武蔵川越藩
11代・直克:武蔵川越藩→上野前橋藩
12代・直方:上野前橋藩
このように移封の多い家柄を「引越し大名」とあだ名され、経済的には大変だったようです。
現在の墓所は今年の震災により立入禁止となっています。
松平大和守家廟所 松平大和守家廟所 松平大和守家廟所
いくつかの崩れた墓石も垣間見えますが、もうここから引越すことはないでしょう。

五百羅漢尊

ここからは山門の方に戻り、五百羅漢尊を拝観します。
五百羅漢五百羅漢 五百羅漢
所狭しと羅漢尊が建立されています。まさに壮観としか言いようのない光景です。

五百羅漢
川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。
また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
(喜多院オフィシャルサイトより)

中国や日本では釈迦の弟子達の中で特に主要な10人の弟子を「十大弟子」、仏法を護持することを誓った16人の弟子を「十六羅漢」と呼んで尊崇していました。そして第1回のの仏典編集に集った500人の弟子を「五百羅漢」と称して尊敬することも盛んだったようです。それがこの五百羅漢尊で埼玉県ではほかに寄居町の少林寺にあり、千二百羅漢として有名な京都市の愛宕念仏寺を初めとして全国にも結構あるようです。
さて、この発願した志誠ですが、約40体の羅漢製作に立ち会って亡なったそうです。その後、志誠の遺志を継いだ当時の修行僧慶厳と澄音祐賢の二人が、市内をはじめ江戸、群馬、栃木などで浄財を集めながら製作を続け作り出した五百羅漢なのです。当時においては、まさに壮大なプロジェクトといえるでしょう。

早速、拝観していきます。
この一際高い位置にあるのが釈迦如来でしょう。
五百羅漢
この喜多院では観光ガイドの方が大勢おり境内をガイドしてもらえるのですが、そのガイドを小耳を挟みながら拝観すると判り易いです。もっともガイドを頼めばよいのですが…。

この羅漢尊は観光ガイドブックなどで有名でしょう。
五百羅漢
被写体として確かに惹かれるものはあります。
こちらの羅漢は猿を抱いたもので、干支があるようですがこれは偶然見つけた私の干支です。
五百羅漢
これもガイドの方が何の干支がどこにあるか把握されているようです。
その近くにあった煩悩像とでもいうような、いい気分の羅漢尊…、と思いきや、これは燈明用の油を分けているのだそうです。
五百羅漢
ガイドの話を小耳に挟んで知りました。 「いやぁ、すまん」と照れているのでしょうか、シャイな羅漢尊です。
五百羅漢
この不敵な笑いと、胸の中央で見せているものは何でしょう。実に不気味な羅漢尊です。
五百羅漢
そして最後は“極楽”。いつの時代も疲れは溜まるものです。
五百羅漢
自分なりのお気に入りを見つけるのもまた楽しいものですが、どうも私も含めて、はしゃいでいる人が多いようで…。
帰り際、最初に見たこの五百羅漢尊の門にあった「丸に二引き両」紋が気になります。
これは天海の母親が蘆名氏(蘆名盛高の娘)という説であるのに対して、父親が「蘆名盛氏(会津黒川城主)」「船木景光(会津高田の住人)」「足利義晴(室町幕府12代将軍)」「足利高基(関東古河公方)」といった諸説があるそうです。
これは、この「丸に二引き両」が足利家の紋であることから、このような説が浮かび上がったそうなのですが、果たしてどうなのでしょうか。

鐘楼門

五百羅漢から再び南下して「仙波東照宮」に向いますが、その途中菊祭り会場の後に文化財である「鐘楼門」があるので立ち寄って見ます。
鐘楼門

鐘楼門 附銅鐘(国指定重要文化財・建造物)
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。また、上層にある胴鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。
鐘楼門は、裄行3間、梁間2間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄15年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永15年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄15年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。
昭和21年11月29日指定 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

仕様について彼是いえる知識はないので、極彩色の綺麗な彫刻を愛でておきましょう。
しかしながらこの彫刻にはなかなか面白い伝説があるようです。
表に竜、裏に鷹が1対ずつ彫刻されているのですが、これは江戸の名工・左甚五郎の作と言われているそうです。
鐘楼門 鐘楼門
あるとき境内の鳩が鐘楼門の屋根で遊んでいると、彫刻だと思っていた鷹が羽を広げて襲ってきたそうなのです。それ以来鳩は決して鐘楼門には近寄らなくなったという言い伝えなのです。まあ、それだけ甚五郎の彫刻が見事だったという意味合いなのでしょう。確かときがわ町の慈光寺にも甚五郎作の白馬があり、夜な夜な動くと言う「夜荒らしの名馬」として安置されていました。とにかく甚五郎作を表現するには、動く彫刻が一番わかりやすいのかもしれません。
いずれにしても見事な鐘楼門です。

このまま境内を南下しますと左側に「葵庭園」があります。
葵庭園
この庭園はホタル鑑賞が出来るよう、地元のライオンズクラブによって整備されたものだそうです。
夏の日の楽しみが一つ増えたことでしょう。
また、右側には空堀が続いていて、遠くに「どろぼうばし」を見ることができます。
空堀
実に広い境内です。

仙波東照宮

行き着いたところに「仙波東照宮」があります。
参道の途中となるので、一旦参道を東に向かい表参道から入りなおします。

重要文化財・建造物 仙波東照宮
徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(1617)3月、喜多院に四日間逗留して供養したので、天海僧正が寛永10年(1633)1月この地に創建した。その後寛永15年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随神門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石燈籠がある。なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の、三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。
埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

久能山から日光に改葬されたのは、前述した「明神」「権現」論争の結果ですが、この移葬の途中で法要が営まれたとははじめて知りました。
そしてその後この東照宮が創建されたわけですが、当時は5間の丘陵というので、約9mの丘を築き上げて社殿を造り、後水尾天皇より「東照大権現」の勅額を下賜されたそうです。
そして江戸時代においては、徳川家、喜多院の庇護を受け、弘化4(1847)年に大修理を行ったそうです。
このように趨勢を誇った東照宮ですが、明治時代になり、社領を奉遷や神仏分離による喜多院の管理を離れることになり、現在に至っているのだそうです。
表参道には立派な門が残されています。
東照宮随身門

重要文化財・建造物 東照宮随身門・石鳥居
境内入口にある随身門は朱塗り八脚門・切妻造でとち葺き形銅板葺きである。
八脚門とは3間×2間の門で、門柱4本の前後に各1本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が掲げられていた。
記録によるとこの勅額は寛永10年(1633)12月24日とあることから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。
石鳥居は寛永15年(1638)9月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。
川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

ある意味では喜多院境内なのですが、こちらは樹木に覆われて静寂が似合いそうな佇まいで、事実、静かで落ち着いた雰囲気です。同じ境内地ながら喜多院の喧騒とは正反対の東照宮です。
随身門の先にあるのが、その石鳥居です。
石鳥居
堀田正盛の名は見つけられませんでしたが、当時の川越藩主から寛永15年3月8日には信濃松本藩に転封されていますから、文字通り堀田正盛の川越での最後の御奉公だったのかも知れません。

そして鳥居を抜けた先に石段があり、それを上っていくと社殿が建てられているのですが、この石段の高さが凡そ9mなのでしょう。
石段を上がったところの門扉には「この紋所が目に入らぬか」とばかりに、くっきりと葵の紋が付けられています。
東照宮
流石に東照宮です。
正面にある拝殿はシンプルながらも、凝った彫刻が施されています。
東照宮拝殿 東照宮拝殿

重要文化財・建造物 東照宮拝殿・幣殿
拝殿は桁行3間(5.36m)、梁間(3.64m)で、単層入母屋造、正面は向拝1間(1.82m)あって銅板本葺である。幣殿は桁行2間、梁間1間で背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく銅板本葺である。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の勅額が懸けてある。記録によると寛永10年(1633)12月24日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝の頃に大修復があったと伝えられているが、松平大和守の弘化4年(1847)にも修復が行われたという。
平成3年3月 埼玉県教育委員会・川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

特に彫刻も美しいのですが、回廊の角の葵紋などは、やはり東照宮らしい飾りかもしれません。
東照宮拝殿
そして拝殿の左右には、歴代城主奉献の石燈籠が並べられています。
歴代城主奉献の石燈籠 歴代城主奉献の石燈籠

石燈籠二十六基
 燈籠数  献備年月日        献備者(川越城主)   高さ
1. 二基 明暦二丙申年七月四日     伊豆守松平信綱   七尺八寸
2. 二基 寛文十一辛亥年八月四日    甲斐守松平輝綱   七尺八寸
3. 二基 貞享四丁卯年十一月十六日   伊豆守松平信輝   八尺
4. 二基 元禄十五壬午年二月十六日   美濃守柳沢吉保   八尺七寸
5. 二基 享保六辛丑年二月十七日    伊賀守秋元喬房   八尺
6. 二基 享保十九甲寅年十一月三日   伊賀守秋元喬房   八尺
7. 二基 延享二乙丑年四月十七日    摂津守秋元凉朝   八尺
8. 二基 寛延(注)二己巳年六月五日   但馬守秋元凉朝   八尺
9. 二基 宝暦十四甲申年五月九日    但馬守秋元凉朝   八尺
10.二基 安永八己亥年正月二十二日   大和守松平直恒   八尺七寸
11.二基 寛政五癸丑年九月       大和守松平直恒   八尺七寸
12.二基 文化六己巳年十月       大和守松平直恒   八尺七寸
13.二基 弘化四丁未年十一月      大和守松平斉典   九尺
(現地案内板説明文より)

となっており、1.2.3については本殿の前に、4~13までは拝殿の左右に奉納されてります。
その本殿の近くには玉垣によって行けませんが、中門(平唐門)・瑞垣・本殿という荘厳な造りです。
本殿 本殿
まさに徳川家お膝元の東照宮といえるものでしょう。

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コメント

  1. pansy | -

    羅漢の表情、楽しいですね。

    こんばんわ。
    かなり前になりますけど五百羅漢見ました。同じ表情が無く、楽しく見たのを思い出します。
    喜多院#1~博物館エリア#2まで一気に読ませて頂きました。
    薄荷脳70さんの文章って本当に不思議です、読者を虜にさせるんですね!

    ( 21:00 )

  2. 薄荷脳70 | -

    pansyさん、ありがとうございます。

    五百羅漢それぞれに深い意味が込められているのでしょうが、結構笑ってしまうような滑稽なものがあるのも楽しさのひとつでしょうね。
    故に、被写体としても格好の題材となるのでしょうね。
    お褒めいただき大変光栄ですが、性格上すぐ鼻高々になってしまうので自制自制ですw
    ありがとうございます^^

    ( 04:30 )

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