喜多院周辺 #1

これにて喜多院での参詣は終了です。
ここからは喜多院の周辺を散策しますが、先ずは東照宮から更に南下して「中院」を訪ねます。

中院

東照宮から中院へは、まさに一直線で、東照宮の表参道前の道をそのまま南下するだけです。
途中の交差点角に「南院遺跡」なる立て札がありました。
南院遺跡
この立て札には更に、「天台宗星野山無量寿寺 多聞院南刹」「明治二年神仏分離令以廃仏毀釈之乱由廃絶」とまるで版画のように作られています。これだけを読むと廃仏毀釈に対する怒りを表している感じを受けるのですが、いかがなものでしょうか。
そしてその遺跡を見ると何かもの悲しげな雰囲気です。
南院遺跡 南院遺跡
時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、かつての隆盛を物語っているのでしょうか。

南院遺跡を跡にした少し先の右側が「中院」です。
一番手前にある門が赤門です。
中院赤門
割れも入っているようなので相応の歴史をもっているのでしょう。
ここから見える境内の紅葉もなかなかの風情です。
中院赤門からの境内
赤門の先にある門が「山門」です。
中院山門
大きく立派な山門です。比較的綺麗なのは最近立て直されたのでしょうか。
山門の前の右側には寺号標があるのですが、左側にある石柱が気になります。「日蓮上人傳法灌頂之寺」と刻まれているのですが、何故、日蓮の名がここにあるのでしょうか。
調べてみたところ、「傳法灌頂」とは阿闍梨という指導者の位を授ける儀式のことなのだそうです。四度加行という密教の修行を終えた人のみが受けられる儀式で、ここで密教の奥義が伝授され、弟子を持つことを許されるのだそうです。更に仏典だけでなく口伝などで弟子を指導することができ、正式に一宗一派を開くことができるのです。要するに横綱を引退して親方になったという…、そんなレベルではないですね。つまりここ中院で正式に日蓮が阿闍梨に認められたということでしょう。
そうなると、ここ中院は日蓮として生まれた寺(地)といえるわけで、それだけでも興味深いことです。
早速、山門を抜けて参道を進みます。由緒にはこう書かれています。

市指定・史跡 中院
中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺のなかに北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。
当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633年)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301)勅願所たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元候の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
平成4年3月 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

中院縁起から補足してみます。
そもそもは天長7(830)年円仁和尚34歳のときに芳道仙人の古跡であった仙波の霊場に一寺を建立し「星野山無量寿寺仏地院」としました。これが現在の中院で、その後、円仁の後を継いだ弟子達が8世承海まで続いたのですが、天慶4(914)年の天慶の乱、そしてその後の元久の乱で全くの灰燼に帰すことになったそうです。
しかし、永仁4(1296)年の秋、武蔵国足立郡郡原市の生まれの尊海僧正が仏地院を再建し、教を広めて関東天台宗580余寺全てが仏地院に付属するという関東天台宗の本山となったのです。そしてその後、この尊海和尚は仏蔵院(北院=現・喜多院)と多聞院(南院)を建立することになるのです。
この少し前の仁治3(1242)年、21歳の蓮長(後の日蓮上人)は、鎌倉の学問所にて尊海の法華経の講義を受け、尊海和尚の導きで比叡山に登り10有余年学を修め、建長5(1253)年4月28日、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、名前を「日蓮」と改め日蓮宗を開宗したのでした。その後、日蓮上人はここ中院において尊海和尚より恵心流の傳法灌頂を受けたのだそうです。したがって、尊海和尚は日蓮の先生ということになるわけです。

この様な経緯がこの中院の正式寺号である「天台宗別格本山中院」および「関東八個壇林」たる所以で、まさに隆盛の絶頂にあったのです。しかし、天文6(1537)年北条氏による河越城攻めにより再び灰燼に帰すことになってしまったのです。
その後、寛永9(1632)年28世尊能が中興したのですが、この時点ではすでに天海僧正による北院(喜多院)の勢力が強く、東照宮建立により現在地に移動し、現在に至っているのです。
天台宗の寺格は、総本山・延暦寺に始まり、門跡寺院、大本山、別格本山、その他寺院となります。
この中院は、別格本山で狭山山不動寺(埼玉県所沢市)、浮岳山昌楽院深大寺(東京都調布市)など11ヶ寺の一寺なのです。一方、喜多院はその他寺院の一寺ですので、天台宗での格でいえば中院のほうが現在でも上といえるのでしょう。
因みに門跡寺院は魚山三千院(京都市左京区)をはじめとした6ヶ寺、大本山は、関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)、日光山輪王寺(栃木県日光市)、東叡山寛永寺(東京都台東区)、定額山善光寺大勧進(長野県長野市)の4ヶ寺です。

かつての無量寿寺には、文字通り北に「北院」、真ん中に「中院」、そして南に「南院」と綺麗に揃っていたのですが、「中院」は一番南に、そして「南院」は廃寺となり、「北院」は喜多院と名称を変えて当時の名残も少なくなってしまったのですが、名刹「中院」はこれからも歴史を刻み続けていくのでしょう。

参道の左手の紅葉も非常に綺麗です。
境内の紅葉 境内の紅葉
デジカメのスペックとスキルで見劣りがしますが、実際は綺麗なんです。
その横には島崎藤村記念碑があり藤村書で「不染」と刻まれています。
不染碑 不染亭
これは、この碑の後にある「不染亭」という茶室を義母に贈ったことに由来しているようです。

不染亭
不染亭は昭和の文豪島崎藤村先生が静子夫人の母堂加藤みき刀自に昭和4年に贈られた茶室で川越市新富町に建てられて在りました。 この度此処に株式会社長谷工がマンションを構築することになり 川越市当局 長谷工 藤村学会 地元有志の熱愛に依り 加藤家の菩提寺星野山中院に移築することを依嘱されました。
委嘱に当って住職並びに中村工務店は責任を以って事に当り、茶道会館に学び表千家妙風会の尽力を得て誠心誠意遂行されました。
茲に藤村先生の母堂に贈られた孝心と遺徳を偲び昭和の川越市の文化財として長く活用し伝承して行きたいと思います。
平成4年11月17日 星野山中院67世 表千家妙風会々長 仁平信海
(石碑碑文より)

先の説明文にも島崎藤村の義母加藤みきの墓があるとの記載がありました。
この加藤みきは、文久3(1863)年に川越松平藩蔵前目付の次女として川越に生まれ、4歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年に再び川越に戻り、昭和15年5月に73歳の生涯を閉じたのだそうです。
昭和16年5月22日、その義母加藤みきの7回忌法要に中院を訪れた際の島崎藤村と妻の静子の写真がこちらです。中院の前住職が撮影されたものです。
島崎藤村と妻の静子 《写真:小江戸探検隊より》
非常に貴重な写真と言えるでしょう。

藤村の記念碑の隣には「大正天皇御手植松」の碑と、その松があります。
大正天皇御手植松
在位15年、実質的には10年程度と言われ、更に病弱だったことから大正天皇の残された足跡は非常に少ないものです。
そのような背景のなかで、このような松が残っていると言うのも実に貴重なものなのでしょう。それにしてもどのような経緯からここに植樹されたのでしょうかね。

正面には本堂が立っています。
本堂 本堂
木々に見え隠れしていますが、近づいてみると結構大きな本堂です。
この日は本堂で「阿弥陀茶会 =仏教ビギナーズカフェ=」というイベントが開催されるようです。親しまれるお寺を目指して様々なイベントが開催されているようです。あと19年後には開山1200年を迎えるそうですから、意気盛んと言ったところでしょうか。
因みにこの「阿弥陀茶会 =仏教ビギナーズカフェ=」ですが、内容のコピーがあります。
「当山は皆様に親しんでもらえるお寺になりたい!と今回この阿弥陀茶会を企画いたしました。まずは中院のご本尊様“阿弥陀如来”さまと一緒に座禅で心身を清め、お抹茶を召し上がれ!点心を召し上がれ!みんなと楽しくお酒を召し上がれ!みなさまのご参加お待ちしております。」と言うことですが、若干そそられますね。

本堂を参拝してからは、先ほど記載のあった墓地をお参りします。
説明にあった「太陽寺一族の墓」がこちらです。
太陽寺一族の墓
立て札には「郷土誌“多濃武の雁”著者 秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓」と記載されています。
郷土史=地誌とは、ある地域の地名・位置・地形・気候・集落・交通・産物・風俗・習慣・伝承などについての記録で、日本では地誌編纂のブームが奈良時代、江戸時代、明治時代の3回あったそうです。
特に江戸時代における地誌は、1.領国支配に役立つような儒学的色彩の濃厚な地誌、2.日常生活に知識や利便性を与える案内型の地誌、3.村明細帳的内容をもつ郷村単位の地誌、4.体験記録型の紀行文の4つに大別できるようです。
そのような背景での江戸時代における川越の地誌は、18世紀中頃から2の案内型地誌が刊行され、「川越索麺」(板倉良矩著 寛延2年〔1749〕)、「多濃武の雁」(太陽寺盛胤著 宝暦3年〔1753〕)、「川越地理略」(関修齢著 明和4年〔1767〕)、「川越年代記」(海寿著 天明元年〔1781〕)などが著され、その後、これらの集大成的な「武蔵三芳野名勝図会」(享和元年〔1801〕)が刊行されたのです。
そしてその中の一つである「多濃武の雁」とは、川越藩や藩士に関することを含んだ、町の来歴や神社・寺院・古跡のことが項目立てて記述されたものだそうです。
そもそも太陽寺盛胤とは秋元侯の家臣で、秋元侯とは宝永元(1704)年から明和4(1767)年に喬知・喬房・喬求・涼朝の4代に渡り川越城主となった秋元家のことなのです。したがって川越藩などのことを記述するような体裁となったのでしょう。
そしてこの3基の墓は太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のことなのだそうです。

墓地のもう少し奥には「島崎藤村の義母加藤みきの墓」があります。
島崎藤村の義母加藤みきの墓
右隣の「蓮月不染乃墓」刻まれた墓石は藤村筆だそうです。
島崎藤村の義母加藤みきの墓
失礼ながらこの加藤家の墓誌を拝見すると、天保、嘉永、安政、文久といった年号を見ることができます。
墓所自体は綺麗であたらしいのですが、流石に川越藩縁の加藤家たる由縁でしょう。

ここからは参道に戻りますが、途中に「釈迦堂」があります。
釈迦堂
これは昭和61(1986)年、比叡山延暦寺西塔にある釈迦堂にならい建立されたものだそうで、毎年ここで花まつりが開催されるそうです。
釈迦堂の隣には「狭山茶発祥の地」碑があります。
「狭山茶発祥の地」碑 「狭山茶発祥の地」碑

河越茶 狭山茶の起源
夫れ茶は遠く平安の昔傳教大師最澄和尚 中国天台山国清寺より伝来し京都に栽培せしより始まる
慈覚大師圓仁和尚天長7年(830年)當地仙波に星野山無量寿寺仏地院建立に際し比叡山より茶の実を携え境内に薬用として栽培すこれが河越茶 狭山茶の起源である
當山茶園の茶株を此処に移植し長く伝承す
(現地石碑碑文より)

茶の栽培は臨済宗の栄西が、中国から持ち帰った種子を佐賀県で植えたのが始まりだと聞いていて、これが元となって京都の宇治茶の基礎となり、更に全国に広がっていったというのが一般的な知識ですが、その一方で、狭山茶の起源がこの中院にあったというのは実に驚きです。流石に古刹だけあってこうした歴史が息づいているわけなのですね。
狭山茶発祥の地で、藤村縁の茶室「不染亭」で茶をいただくというのも、実に贅沢なことかも知れません。

そしてここからは表参道とは別に南参道とでもいいのでしょうか、南側に表参道と並行して参道があります。
この参道を進むと今度は鐘楼門が建っています。
鐘楼門 鐘楼門
由緒はわかりませんが、赤門や山門とはまた違った趣を味わえます。
喜多院とはちがった、落ち着いてしっとりした佇まいは、春や秋にはぴったりの景勝地といるかもしれません。

仙波仙芳塚

中院を出てきた道を戻って喜多院の方へ進みます。
今度は喜多院には入らずに道路を進みますが、その途中の路地の入口に何やら標柱が立っています。
史跡 仙波海干伝承地 仙芳真人入定塚入口
「史跡 仙波海干伝承地 仙芳真人入定塚入口」と書かれています。
そしてその隣に説明文があります。

仙波仙芳塚縁起
7000年前、当地が海辺であったことは、近くの仙波貝塚で証明されていますが、この丘に川越の大地誕生の浪漫縁起が伝えられています。
塚の碑面には大昔、仙芳という真人(仙人)が竜神の助けを得て海を干上げ喜多院の前身たる無量寿寺領を造り上げ今の仙波となった。竜神は仙波下の弁財天池に安堵されたと刻まれています。
当地仙波には6世紀まだ西の大和朝廷の力が及ぶ前の当時の豪族首長の古墳が数多くあり(三変・日枝・慈眼・氷川・愛宕の古墳)仙芳塚もその一つでありましょう。また平安時代の瓦経も出土しています。
川越は上杉の大田道灌、築城以降15世紀あたりから歴史に名がでるようになり徳川時代は幕府の庇護をうけて小江戸として有名になり今日を迎えておりますが、この塚に立たれ更に1000年前の川越を尋ねる、よすがになれば幸いです。
尚この塚の西側隣地は喜多院の本地堂瑠璃薬師堂がありました。大阪落城直後、元和3年(1617)日光に移送中の家康霊柩の大法会が天海僧正の導師で行われた所で、その本堂は明治維新の戦争で焼失した上野寛永寺跡に明治12年、旧幕臣が労をとり仙波新河岸水運を使って運ばれ再建され、今次大戦の大空襲でも焼失を免れ現在の上野寛永寺根本中堂として再会することができます。
この小道にたたずみ、しばし歴史との出会いをお楽しみ下さい。
平成18年8月15日 当地住人 松岡章次
(現地案内板説明文より)

この案内板の隣に「星野山喜多院 本地堂瑠璃薬師殿跡址」と書かれた標柱がありますので、このあたりにその薬師堂があったのでしょう。
星野山喜多院 本地堂瑠璃薬師殿跡址
路地を進むと突き当たりにある碑が仙波仙芳塚です。
仙波仙芳塚
文化元年の建立だそうですからほぼ200年前の石碑です。
丁度ここを管理されている住人の方から(恐らく)何と柿をいただきました。
仙波仙芳塚 来て頂いたからということで、こちらが恐縮するくらいですが、折角なので柿をいただき記念撮影です。

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