喜多院周辺 #2

思いがけない歴史を垣間見て、更に北上します。
丁度、スタート地点の喜多院山門前の交差点にさしかかりました。
交差点の向こう側が「日枝神社」です。

日枝神社

通りを隔てたところにある鳥居が日枝神社の鳥居です。
日枝神社
境内はそれ程広くはないようです。

日枝神社本殿 付宮殿 1棟 (国指定重要文化財 建造物)
日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉社(日吉大社)を勧請したといいます。
本殿は朱塗りの三間社流造で、銅板葺の屋根に千木、堅魚木を飾ります。三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。
身舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。中備はおきません。妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。縁を正面だけにもうけ、側面と背面にはまわさず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子をもうけないため簡易な建築に見えます。庇は切面取の各柱を虹梁型頭貫でつないで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備蛙股を飾ります。但し、この蛙股は弘化4年(1847)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。身舎と庇のつなぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟みを置きます。
本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式をとどめ、また、中央の保守的伝統的な技法によらない地方的な技法も見うけられます。虹梁に絵様をほどこさず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正円に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手鋏の大まかな刳り形、などは室町末期の様式です。また、正面の縁のおさまり、大棟上に飾棟木をもうけず直接千木・堅魚木を乗せる点、背面の組物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法でかつ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点、などは地方的技法といえます。とくに枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割にかかわらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収監される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。
喜多院は慶長17年(1612)ころに再興されており、日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。
昭和21年11月29日指定 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

流石に重文だけあって建造物としての本殿の見所は多いようですが、素人には何が何やら…。
という事で、少し由緒を調べてみました。
縁起は一部記載されているように、天長7(830)年、円仁により無量寿寺が創建された折に、その鎮守として貞観2(860)年に勧請されたのです。
もとは北院(後の喜多院)の境内にあったようですが、現在はその喜多院山門の道路を隔てて社殿が建っています。この場所には仙波日枝神社古墳(多宝塔古墳)という前方後円墳があり、前方部の一部にこの日枝神社が建立され、後円部に現在の喜多院の多宝塔があったのです。
そして明治45年、県道建設のため前方後円墳は開削され多宝塔を喜多院内に移したということになるのです。
日枝神社古墳 《日枝神社古墳イラストマップ:(C)カワゴエール》
丁度、この手前の道路のあたりに多宝塔があったのでしょう。
日枝神社古墳
その当時の喜多院の境内図です。
江戸時代図誌 巻10 江戸時代図誌 巻10 《「江戸時代図誌 巻10」:がらくた置場by s_minaga》
これを見ると、現在の白山神社と日枝神社(山王)の間に多宝塔があったことが伺えるとともに、その左側に先に訪れた薬師堂と入定塚があったことも判ります。
寛永時において天海僧正が多宝塔を建てる際に遺物が発見され、それらは石函に納められて再度埋められたのです。そしてその石函が県道工事の際に再発掘されたのだそうです。

現在日枝神社といえば千代田区の日枝神社を思い浮かべますが、元々はここ川越の日枝神社から勧請されたことが、山王日枝神社(千代田区永田町)の由緒に記載されています。

当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威として江戸の町の繁栄の礎を築きました。
やがて天正十八年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されました。
(永田町・日枝神社オフィシャルサイトより)

川越の日枝神社も旧社格では県社ですから、この由来からもその格の高さが伺えます。
早速、参拝を済ませます。
日枝神社
拝殿は最近再建されたそうなので、木の香が漂ってきそうな素朴な美しさを持っています。
そして本殿は朱色のこちらです。
日枝神社
細かいところは良く判りませんが、そこはかとない荘厳さを感じます。これが重文の重さというものでしょうかね。

境内を眺めると特に何もないような所に柵に囲われた一画がありました。
蒙御免 無底杭 蒙御免 無底杭
柵の手前には石祠があり、後には石碑があります。

蒙御免 無底杭 碑文抄訳 仙波郷松岡
一千有余年前、慈覚大師が開山された供華の跡地を探し当て浄錐を以って坑井を旋掘した所、底から水が溢出しててとまらず、坑井の底は無限の如くであった。
此の奇跡を不朽ならしめんと欲し譜碑面とした。
安政6年(1859)巳春 住職 亮阿 誌す。
(現地案内板説明文より)

後の石碑から採った拓本があり、その内容が上記のように書かれていたようです。
これは仙波七不思議伝説の中の一つの「無底坑」のことだそうです。「無底坑」は“底なし穴”といった意味で、かつてこの穴にお札を納めると翌朝には1キロ離れた仙波弁財天の泉に浮くという伝承のあった穴のようです。
また、昭和45年に防火用地下水槽の工事中に大量の地下水が噴出して難工事となったという逸話も伝わっているそうです。
その伝説を残すために、あえて整備しこの囲いとなったようです。

ここでちょっと気になる仙波七不思議伝説について調べてみます。
地元川越では、この伝説は「喜多院七不思議」という名称で知られているようで、伝承によっていくつかパターンも内容も相違があるようですが、ここでは一般的に伝承されている項目を取り上げてみます。

1.山内禁鈴
鎌倉時代に蛇好きの僧がいて、近くで見つけた小さな蛇を飼い始めたのですが、僧ももてあますほどの大きさに育つと、その僧は「私が鈴を鳴らすまでは、絶対に姿を現してはいけない」と言い聞かせ、蛇を五重塔(多宝塔ともいわれている)の下に閉じ込めたのです。やがてその僧も亡くなり、経緯を知らない僧が鈴を鳴らしたところ、突然大蛇が現れて猛り狂ったのだそうです。
これ以来、喜多院では鈴を鳴らすのを禁じ、縁起物の鈴を売るようになっても振り子をつけないようになったのです。

2.潮音殿
現在、喜多院本堂は慈恵大師(元三大師)を勧請したことから慈恵堂と呼ばれていますが、別名「潮音殿」ともいわれ、この堂に入って耳を澄ますと潮の音を聞くことが出来るのだそうです。

3.五百羅漢
深夜1人で行って一つ一つ顔をなでてゆくと、必ず1体だけ温もりを持つものがあり、それに印をつけて朝方来て見ると、その顔は亡き親の顔、或いは自分にそっくりだと言われているのです。

4.底無しの穴
享保19(1734)年9月、川越藩の普請奉行が本堂の修理をしようと調査をしていたところ、床下に四~五尺の穴が見つかり、そこから四本の横穴が東と西と北と北西にのびていた。寺の話では、その昔、尊海僧正が竜を封じこめた穴だと考えられていたそうです。

5.三位稲荷
喜多院では箒を寝かせたり、柄を上にして置きません。また、すり鉢とすりこぎを使い終わった後に一緒には置かないそうです。
これは天海僧正を慕って童子に化けた三匹の狐が使っていた道具を供養する意味からだそうで、もしこれを破ると寺に禍が起こると言われているそうです。

6.鐘楼門の鷹
山門を入った左側に慈眼堂の山門だといわれる鐘楼型の門があり、この門には、前面に竜、背面に鷹の彫刻が二体ずつはめこんであるが、名工・左陣甚五郎の作と伝えられ、あまりのできばえに、境内の鳩は恐れをなしてか、この門にだけは寄りつかないのです。

7.お化け杉
閻魔堂のかたわらにあった杉で、これを切ると血が流れ出たので、この名がつけられたそうです。またここには、人が死ぬと新しい足跡がつくという亡者杉なる奇木があったのですが、現在はお化け杉ともども失われてしまったとのことです。

喜多院に伝わっている伝説では項目も内容も違っているものがあるので、一度オフィシャルサイトを見られるのもよいでしょう。 様々な解釈や言い伝えがあるところが、この手の民話、伝説の面白いところなので、比較するのも面白いでしょう。

成田山川越別院

日枝神社から県道を北上して最初の交差点を左折して少し進むと「成田山川越別院」があります。
かなり立派な山門ですが、それよりも人出の多さに驚きます。
成田山川越別院
山門に「火渡り祭」との立て看板がありました。
これは流石にチェックし忘れていましたが、逆にラッキーな機会です。
本来の予定ですと、ここで参拝を済ませて昼食に向かう予定でしたが、多少昼食が遅くなる気配です。
1時からの開催とのことなので、まさに始まろうと言う直前のようで、参拝客が大勢詰め掛けています。中には当然「火渡り」に参加される方も多いようで行列を作っています。
成田山川越別院火渡り
境内の中央に結界が張られ、中には恐らく薪を積み上げた上に桧葉で出覆われているのでしょう。以前、加須市の總願寺での火渡り式では、薪が井桁に積み上げられているだけでした。
成田山川越別院火渡り
また、本堂に山伏の格好の僧が何人も入っていくので、これから準備なのでしょう。
成田山川越別院
この間に少しこの寺院の由緒を見てみます。

ご由緒
成田山川越別院本行院は、江戸時代末に石川照温師によって開創されました。
師は文化2年下総国葛飾郡に農家の三男として生まれ俗名を留五郎、仮名を一心といいました。
幼少より他国に出てさまざまな困難に逢うなど頗る波乱に富んだ生活を送る中、両眼を失明し前途の希望を失い自殺を計ること三度に及びましたが遂に果たされませんでした。
すなわち師は、己を捨てることの出来なかったのは、神仏の未だ己を見捨て給わぬためであると固く信じ、成田山新勝寺に於て、断食の行に入りました。この修行で不思議にも見えなかった両眼に異変を感じて少しずつ見えるようになって、遂に満願の頃にはほぼ元通り平愈することができたのであります。そのため不動尊の偉大なる加持力、また大慈悲に心から感激した師は、一生を明王のために捧げることを誓い、天保13年に成田山の貫首、照阿上人を慕って出家得度しました。その時石川照温師は39歳でありました。
その後、照阿上人の許しを得てついに一念を発起し、不動明王の御霊を鼓吹するため諸国巡歴の旅に上がりました。そして各地で師の徳を慕い集ってくるものが増し、ここ川越の地に不動明王を安置して師を住せしめんと、10数人の有力な地元の世話人達が廃寺となっていた川越久保町の本行院を再興すべく川越城主松平大和守に願い出て、その許可を得ました。
そして嘉永6年本行院の復興とともに成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王のご分霊を開眼し照温師に授与せられこれが成田山川越別院の起源となりました。
成田山本行院と公称するようになったのは、明治10年からで、従来の本行院の建物等一切を本山の管理に移し、本行院は本山の最初の別院となりました。これが、全国成田山別院の魁であり、初代の住職は照輪上人で、歴代の本山貫首を兼務住職として迎えております。
(成田山川越別院オフィシャルサイトより)

奇妙と言うと語弊がありますが、意外と変った開創縁起です。
簡単に言ってしまえば一般の農家の人が、一念発起で寺院を建立するのですから、人智を超えたパワーを感じます。
今年の初詣に成田山新勝寺に行きましたが、別院のことはついぞ知りませんでした。 あらためて別院を調べてみると、全国に8ヶ所もあるのですね。
東京別院(成田山深川不動堂)、川越別院(成田山本行院)、札幌別院(成田山新栄寺)、横浜別院(成田山延命院)、函館別院(成田山函館寺)、大阪別院(成田山明王院)、名古屋別院(成田山大聖寺)、福井別院(成田山九頭龍寺) と言うように、全国の主要都市におかれているようです。したがってこの8ヶ所の住職はすべて本山の兼務と言うことになるのでしょう。
となると開創した石川照温師はというと、境内の一画ににある開山堂に祀られているそうです。

そろそろ開始の時間が迫ってきたようです。
こちらの方がMCのようです。
成田山川越別院火渡り
丁度、この火渡りも17年目だそうで、その間毎年来ている人のアンケートをとると、結構大勢の方が手を挙げられていました。信心とエンターテイメントが結びついたような神事ですから、毎年楽しみにしている方も多いのでしょう。悪い意味ではなく、日頃信心深い方で無くても、よい機会となることでしょう。
更にそれから各種注意点などが挙げられているので、今度は「火渡り」について考察してみます。

火渡りとは熱した炭を敷き詰めたその上を裸足で歩くという行為で、適切に執り行われる限り、やけどを負う危険はないようです。忍耐力などの特異な精神力は必要とされませんが、十分な知識のないままに行うと危険が伴うそうです。
あえてやりたいとは思いませんが、信心、あるいは厄除けとなれば試してみたくなるのも人情かもしれません。そこで、この「火渡り」に関して面白い考察をされているサイトがあったので、引用してみます。

いんちきのようでいんちきではない話―「火渡り」― (2004.08.17 Tuesday) [いんちき心理学講義]
●炎の術は本当にあるか
炎に触れても火傷しないという術の歴史は古く、聖書にも火渡りが行われたような文言が残っています。
「火の中を歩いてもあなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」―イザヤ書
これが現在の炎の術と関係があるかは分かりませんが、火渡りは宗教的な意味合いでとらえられる事が多いのは事実です。もっとも、ユダヤ―キリスト教だけではなく、東洋やインドなどでも頻繁に儀式として行われていますが。
この火渡りに関しては、初期は修行による超常能力とされ、現代では超能力によるものとされている場合もあります。
実際に火渡りの儀式を行った場合、火傷しない人がいる一方で、火傷する人もいます。このことから、火渡りはいんちきか、さもなくば本当の超能力と思われたのでしょう。
結論から言えば、炎の術はいんちきではありません(もちろん、いんちきを使ってさらに炎の術を実現させやすいようにする例もあるでしょうが)。しかし、いんちきでないからといって超能力というわけでは、もちろんありません。
(中略)
●火渡り
炎の術の中でもっとも凄く見えるが火渡りです。
まず四隅に竹を敷き詰め、その中央に松の薪を積んで燃やします。清めの塩をたっぷりと撒いた後に、行者が祝詞をあげながら進んでいくと、不思議なことに熱がる様子もなく平然と燃えた薪の上を歩いていきます。
まずポイントになるのは、松炭や石炭は熱の伝導性も熱容量も低いという点。つまり、熱をあまり保持せず他に伝わりにくい。そして水分を含む人間の足はかなりの熱容量があり、中々熱を受け付けないようになっているということです。
熱の伝導性と熱容量が火傷にどう関係するかは、オーブントースターでパンを焼くとよく分かります。パンを焼いてオーブンを開けた瞬間は、オーブンの中の空気もオーブンの鉄皿も同じぐらい熱いはずです。しかし、オーブンの中に手を入れても熱いと感じるぐらいで火傷はしませんが、鉄の皿に触れると火傷します。これは、鉄よりも空気の方が熱容量も熱伝導も低いからです。
また松炭は、灰の多い炭なので元々熱が伝わりにくくなっています。そこからさらに塩を撒けば熱そのものに足が触れる機会は減ります。さらに松炭に火をつけた場合、足で踏めば空気が遮断され火は小さくなり、足を離せば空気が吹き込み再び赤くなるので、本当は火が小さいのに外から見れば常に熱く燃えているように見えるという、まことに都合のよい代物です。
(以下省略)
(「いんちき心理学研究所」サイトより)

「火渡り」を決して勧めているわけでもなく、いんちきだと否定しているわけでもありません。
但し、こうしてみるとスピリチュアルな面だけでなく科学的に証明ができそうな「火渡り」ともいえそうです。ヤル、ヤラナイ、はあなた次第ということになるのでしょう。
とはいいつつも若干長いMC故に(注意事項や準備待ちなので仕方ないのですが)、折角の機会ながら、今回は火を見ずにこれで別院を後にすることにしました。
遠巻きに本堂を参拝して、食事に向う途中の横断歩道から見た境内です。
成田山川越別院 成田山川越別院火渡り
山伏達が法螺貝を吹きながら清めているのでしょうかね。

別院前の県道15号線を横断歩道でわたり、15号線沿いに西に進んだ右手に【手打ちそば 鎌倉】があり、今日はここで昼食とします。
鎌倉
時間も1時半少し前くらいでしたが、休日とあって店内は少し混雑の名残がありますが、美味しい蕎麦をいただき喜多院エリアの散策を終えて、後半の博物館エリアに向います。

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