博物館エリア #1

昼食も済ませて元気が回復してきたところで、ここからは市立博物館ゾーンエリアに向かいます。
博物館方面はほぼ北上といったところですが、流石に観光地として整備された川越だけあって、案内標識が至るとろろに立っているので、それほど詳細な地図を持っていなくても迷うことはないかもしれません。

浮島稲荷神社

成田山別院辺りから5分も歩くと、路地の片側に公園と一体となった「浮島稲荷神社」があります。
浮島稲荷神社
結構、年季の入った鳥居と見受けます。

浮島稲荷神社
所在地 川越市久保町
地元の人々から「うきしま様」と呼ばれ、広く親しまれているこの神社が、いつ頃建てられたのかは定かでない。かつては末広稲荷とも呼ばれ、安産の神として麻を奉納する習慣が伝えられている。
言い伝えによれば、大昔、星野山(今の喜多院)にあったのを慈覚大師が喜多院を開いたときここに移したとか、また一説には、太田道灌の父太田道真が川越城を築城した際に、城の守護神としてこの地に祀ったものとも伝えられている。現在ある社殿は、大正4年(1915)に改築したものである。
今では、この一帯もすっかり様子が変わってしまったが、以前は「七つ釜」といって、清水の湧き出る穴が七つもあり、一面葦の生い茂った沼沢地であった。そのため遠くから神社を眺めると、ちょうど島のように浮かんで見えたところから、浮島神社と呼ばれるようになったという。
また、伊勢物語を初めとして、昔からしばしば和歌に歌われた「三芳野の里」や「たのむの沢」は、このあたりを指すのだともいわれている。 昭和57年3月 川越市
(現地案内板説明文より)

伊勢物語には次のように記載されているようです。

十段 たのむの雁も 
昔、男武蔵の国までまどひありきけり。さて、その国に在る女をよばひけり。父はこと人にあわせむといひけるを、母なむあてなる人に心つけたりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡みよし野の里なりける。「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」。
むこがね返し、「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ」となむ。人の国にても、猶かかることなむやまざりける。
(伊勢物語より)

簡単に言えば、遠い平安の昔、一代の美男子在原業平がはるばる京都からやって来て、武蔵娘と恋を語った場所が「三芳野の里」であったと言うことです。
では一体、その「三芳野の里」がどこかと言う考察には諸説あるようですが、東武東上線霞ケ関駅、あるいは国鉄川越線的場駅的場付近にある「三芳野塚」「初雁池」辺りではないかと考えられているようです。
また、一方の「たのむの沢」は新古今和歌集で、藤原良経によって詠まれたものだそうです。
「忘るなよ たのむの沢を 立つ雁も いなばの風の 秋の夕暮れ」
ここでは「たのむの沢」は、田続きの沢という意味だそうです。
いずれにしても「七つ釜」「三芳野の里」「たのむの沢」は牧歌的でありながら、情緒のある場所だったといえるのでしょう。

参道を進むと右手に石碑があります。
浮島稲荷神社周辺 片葉の葦叢生の所
「浮島稲荷神社周辺 片葉の葦叢生の所」と刻まれています。
「片葉の葦」で一般的に有名なのが墨田区本所を舞台とした本所七不思議の奇談の一つです。
江戸時代、お駒という大層美しい娘がいて、近所の留吉という、今で言うところのストーカーに付きまとわれていたのです。最後に逆上した留吉によってお駒は惨殺され、駒止橋付近の堀に投げ込まれたのです。それ以来、この駒止橋付近の堀に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという話なのです。
このようにこの奇談・怪談は全国にもあるのですが、科学的には風が吹くと葦の葉は片側に寄ることがあるそうです。大抵これらの奇談・怪談は尾ひれがついてというものですが、三大話とともに喜多院にもあったように七不思議というのは世界的にも人々は好きなんですね。
こういった背景の中で、かつてはこの辺りが葦の名所という事で、この石碑が立てられたのでしょう。
その後に池があるのですが、その中に植えられているのが「片葉の葦」をイメージしたものかも知れません。
浮島稲荷神社片葉の葦

正面に大正期に改築された社殿があります。
浮島稲荷神社
かつての「うきしま様」の名残は当然ありませんが、それでも素朴で質素な社殿ながら、多くの人々に親しまれたからこそ、現在でもその歴史を紡いでいるのでしょう。

三芳野神社

浮島稲荷神社から北東に進むと「三芳野神社」となります。
参道口には石碑が立っていて、「我が方に よると鳴くなる 三芳野の田面の雁を いつかわすれむ」とここにも伊勢物語が刻まれています。前述した在原業平の詠んだ歌です。
三芳野神社
かなり長い参道を進むと途中に案内板があります。

三芳野神社(市指定 史跡)
三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小径を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
なお、参道は、江戸時代より若干変化している。
平成11年3月 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

当時の川越城の見取り図と天神様(三芳野神社)へのルートがこちらです。
天神様(三芳野神社)へのルート 《イラスト:(C)カワゴエール》
3つの門があるわけですから、当然警備も厳重だったことが窺えます。となればこの城内の神社に庶民がお参りするには大変な警備を潜り抜けなければならないわけで、そこから「通りゃんせ」が生まれたわけなのです。
「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ 天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」
7つのお祝いといっているのですから七五三のお参りでしょう。
まあ、一つにはわざわざ警備の厳重な城内の神社ではなくて、他の神社では済ませられなかったのか、という素朴な疑問もあるのですが、これについては年に大祭の時と七五三の時だけ庶民に解放されるのだそうですから余計お参りに行きたいということになるのでしょう。さてこの歌詞にある「行はよいよい、帰りはこわい」とは、文字通り入るときは比較的簡単だけれども、出るときは厳しいという意味に取れます。しかしながら、一般的なセキュリティはより入場の方が厳しいわけで、この歌にも前半に「御用のないもの 通しゃせぬ」とあるので、やはり入るときには相当厳重なチェックがなされたものと考えるのが自然でしょう。
したがって、入るときは当然厳重ですが、帰るときも結構厳しいチェックを受けるよ、つまり行も帰りも“怖いよ”といっているのかも知れません。
また、一説では「こわい」は“疲れた”という意味の方言と捉えて、行は厳重な警備を抜けてやっとお参りも終えたので、帰りはくたくたに疲れたよ、という意味にもなるということらしいです。但し、この場合の方言は北海道ですから、当時江戸周辺で使われていたかどうかは不明ですが、同じ「こわい」を“硬い”という意味での方言であれば、関東・中部地方でも使用されていたようです。確かに私の祖母も“硬い”という意味で「こわい」といっていましたし、赤飯のことを「おこわ」とも言っていましたから、厳重という意味での「こわい」という考え方も有るかもしれません。つまり行だけでなく帰りも意外に厳重だよ、といったような意味です。
色々解釈できそうなところが、こういったわらべ歌や童話の面白いところでしょう。「本当は怖い…」という本が受けるのも判る気がします。

早速、「行はよいよい、帰りはこわい」参道を進みますが、この参道は参道の両脇に石畳が敷かれていて、中央には石畳がありません。
参道
これはそもそも参道の中央は神の通り道なので、参拝客は参道の両脇を通らなければいけないという、神道の作法によった参道なのでしょうか。そうであれば、知らない人も自然に作法どおりとなる実に合理的な参道といえるでしょう。

参道を進むと一の鳥居があり、その左手の小高い丘が天神曲輪の土塁跡のようです。
一の鳥居 土塁
もちろん石垣は後年のものだそうですが、この辺りを通って天神様に向ったのです。
土塁上から境内を眺めればこんな感じです。
境内
そして一の鳥居の正面が三芳野神社の拝殿です。
三芳野神社 三芳野神社

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦二年の棟札(県指定・建造物)
平安時代のはじめ大同年間(806~810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として崇敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟梁木原義久が改修を加えました。
社殿の屋根はこけら葺きでしたが、弘化4年(1848)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺きに改められ、さらに大正11年銅板葺きに改められました。
三芳野神社社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造りで、屋根はこけら葺き形の銅板葺きです。外部は朱塗装を基調とし、内部は軸部を朱塗装、建具と天井を黒基調とします。
本殿は正面3間、側面2間の入母屋造で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間3間に板唐戸、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀戸を装置します。組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。中備は極彩色を施した蛙股です。
幣殿は正面1間、側面2間の両下造りで、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蛙股、内部が間斗束になっています。内部は拭板敷に小組格天井です。
拝殿は正面3間、側面2間の入母屋造りで、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に1間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蛙股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫でつないで、両端に獅子鼻を付け、連三斗を組んで中備に蛙股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手挟みを飾ります。
三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。
寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれていた社殿は、流造りの本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。
平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書「三芳野神社社殿修理工事報告書」によれば、蛙股と各部取合せを調査した結果、本殿、幣殿・拝殿の計23面の蛙股は全て同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後袖の蛙股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蛙股が存在していましたが(ただし現在の蛙股とは異なる)、本殿は蛙股のない建築であったことも明らかになりました。現在の蛙股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せで収まりが不自然なところも数ヶ所指摘されています。
以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。
明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。
蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に面し向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。
朱塗の1間社流造り、見世棚造りで、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕授首です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。
明暦2年(1656)の「三芳野天神別当乗海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄十一年川越市街屋敷社寺記」に「末社貳ケ所共 表四尺四寸、奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面4尺、側面は身舎と庇をあわせて6尺4寸5分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保19年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。
昭和30年11月1日(平成4年3月11日追加)指定 川越市教育委員会
(現地案内板説明文より)

そもそもは主祭神の素盞嗚尊と奇稲田姫が大宮の氷川神社から、そして配祀の菅原道真が北野天満宮から勧請されたのではないかと考えられているようです。
そして、ある程度歴史が明確になるのが大田道灌のころからのことです。
この複雑な社殿の歴史をまとめれば、1624年にまず拝殿と本殿が建立されました。その約30年後の1656年に江戸城二の丸東照宮を移築し、その内の拝殿と幣殿を現在の氷川神社に、本殿はこの三芳野神社に分けて移したのです。
そして1624年建立の拝殿と1656年移築の本殿とを新たに作った幣殿でつないで、現在の社殿となっているということになります。
拝殿、幣殿、本殿と違ったDNAを併せ持った社殿なのです。
三位一体とはこのことでしょう。デザイン的には全く1つの社殿としか遠目からは見えません。
三芳野神社
また、本殿内の写真も案内板に掲出されています。
本殿 《写真:(C)川越市教育委員会》
流石に本殿内は風雨にさらされていないので、煌びやかに見えます。
改築当時は全体的にも、もう少し壮麗だったのかもしれませんね。

社殿の前のこちらが蛭子社本殿と大黒社本殿です。
左が蛭子社本殿で、右が大黒社本殿です。
蛭子社 大黒社
どちらも本殿だけの造りで実に質素で素朴なのですが、歴史だけはしっかり背負っているようです。
最後に本殿の近くに「三代目初雁の杉」と「二代目初雁の杉」の碑が立っています。
二代目初雁の杉
碑には“名木”と刻まれているので、由緒ある杉なのでしょう。

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