博物館エリア #2

三芳野神社を参詣し終わってから、最後の「川越城本丸御殿」に向いますが、御殿への途中、神社境内の外れに2つの石碑が立っています。

川越城の七不思議

一つは「わらべ唄発祥の所」碑で、先の“通りゃんせ”の発祥のことを記念した碑です。
「わらべ唄発祥の所」碑 「川越城七不思議」
そして、もう一つの碑には「川越城七不思議」と刻まれています。

川越城の七不思議
1.霧吹の井戸
城中に苔むした大きな井戸があった。ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。そのため、川越城は別名「霧隠城」ともいわれる。

2.初雁の杉
川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木があった。いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。そのため、川越城は別名「初雁城」ともいわれている。

3.片葉の葦
浮島稲荷社の裏側一帯は、萱や葦が密生した湿地帯で、別名「七ツ釜」といわれていた。ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。
川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

4.天神洗足の井水
太田道真・道灌父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成することができたといわれている。かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事にし神慮にこたえたという。

5.人身御供
川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって「明朝一番早く汝のもとに参った者を人身御供に差し出せばすみやかに成就する」と言った。道真は、龍神にそのことを約束したが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰姫であった。さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ツ釜の淵に身を投げてしまった。そののち川越城はまもなく完成したという。

6.遊女川の小石供養
むかし、川越城主にたいそう狩りの好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声がきこえるからともいわれている。

7.城中蹄の音
川越城主酒井重忠は、不思議なことに夜ごと矢叫や蹄の音に眠りをさまされていた。ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。
昭和57年3月 川越市
(現地案内板説明文より)

喜多院の七不思議に加えて、川越城の七不思議があるとは、やはり川越の地が歴史と色濃い文化を持っていた証ともいえるでしょう。
「初雁の杉」は先ほどの三芳野神社の杉でしたが、「天神洗足の井水」も同様です。「片葉の葦」は浮島稲荷神社にそれぞれ碑がありましたが、「人身御供」もまた七つ釜とあるのでこの周辺のことでしょう。それ以外の七不思議について、「霧吹の井戸」は、当時川越城の一の郭にあったようで、現在市立博物館にそのレプリカが残されているそうです。「城中蹄の音」は文字通り川越城内でしが、「遊女川の小石供養」だけははっきりしていないようです。
因みに、ここにある2つの記念碑には「山崎嘉七」の建立の名が見えますが、川越一といっても過言ではない老舗菓子店「亀屋」の代々の当主で、この碑の“嘉七”は何代目なのかは判りませんが、4代目嘉七を襲名した山崎豊は慶応3(1867)年に川越藩の御用商人となり明治期に「第八十五銀行」と「川越貯蓄銀行」の2つの頭取を兼ねるなどの豪商だったそうなので、その頃のものかも知れません。
ここからは目と鼻の先である「川越城本丸御殿」に向います。

川越城本丸御殿

三芳野神社の直ぐ目の前に「川越城本丸御殿」が建っています。
本丸御殿 本丸御殿 本丸御殿
実用の建造物ですから華美な装飾はありませんが、御殿に相応しい威容を感じることができます。
ここではまず、川越城の歴史を振り返ります。

川越城の歴史
川越城は、扇谷上杉持朝が長禄元年(1457)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子ら家臣たちに命じて築城させた城です。当時、持朝は山内上杉房顕と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していました。築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。
小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落としました。天文15年(1546)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏・古河公方と共に、川越城奪還を図りましたが、後北条軍の奇襲にあって大敗し(川越合戦)、後北条氏は北武蔵への支配を固めていきました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越領を持つことになりました。
寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、本丸・ニノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約9万9千坪(約32万6千ポ)余りの規模をもつ巨大な城郭になりました。
(本丸御殿パンフレットより)

喜多院では松平家の歴代城主の墓所がありましたが、ここでは改めて歴代城主の確認です。
扇谷上杉・北条氏時代〔長禄元(1457)年~〕
1.上杉持朝、2.上杉政真、3.上杉定正、4.上杉朝良、5.上杉朝興、6.上杉朝定、
7.北条氏綱、8.北条氏康、9.北条氏政
江戸時代〔天正18(1590)年~〕
1.酒井重忠(1万石)、2.酒井忠利(3万7千石)、3.酒井忠勝(10万石)
4.堀田正盛(3万5千石)
5.松平信綱(7万5千石)、6.松平輝綱(7万5千石)、7.松平信輝(7万石)
8.柳沢吉保(11万2千石)
9.秋元喬知(6万石)、10.秋元喬房(6万石)、11.秋元喬求(6万石)、12.秋元涼朝(6万石)
13.松平朝矩(15万石)、14.松平直恒(15万石)、15.松平直温(15万石)、16.松平斉典(17万石)、17.松平典則(17万石)、18.松平直侯(17万石)、19.松平直克(17万石)、
20.松平(松井)康英(8万4百石)、21.松平(松井)康載廃藩
流石に歴代30代、約400年の歴史を持つ川越城です。更に幕府における川越城の重要さも、歴代城主の中で酒井忠勝、柳沢吉保が大老・大老格、そして酒井忠利、堀田正盛、松平信綱、秋元喬知、秋元涼朝、松平(松井)康英が老中であったことからも伺えます。
そしてその川越城の中心となるのがこの本丸御殿なのです。

早速入館しますが、チケットには4パターンあるようです。
共通入館券
この御殿だけ入館するには¥100なのですが、この御殿と博物館、蔵造り資料館の3館セットで¥300、更に美術館がプラスの4館セットで¥450、そして川越まつり会館のセットになった5館だと¥650という具合だそうです。
以前、蔵造り資料館は訪れていましたし、といあえず博物館へは訪れるつもりですが、美術館には行く予定は行く予定にしていないので、御殿、博物館、各々を別々に支払っても¥300と同じなので、こちらで3館セット入館券を買い求めました。

チケット販売所の前がいきなりの見所の「大広間」です。
大広間
36畳の広さの御殿内で2番目に大きかった座敷で、来客が城主が現れるまでの間待機した部屋と考えられているそうです。
特にこの広間での見所は「杉戸絵」という板戸なのですが、現在のある場所には襖があったことから、元々はここにあったものではないようです。なお、この「杉戸絵」があるので、この大広間だけは撮影禁止です。
オフィシャルサイトの写真やご丁寧に壁紙としてダウンロードできるようですから、そちらで見えると大広間の様子が良く判ります。
座敷の周りは幅広い廊下が巡っていますが、場所によってケヤキ、ツガ、マツが用いられていて、丁度この東側の廊下はケヤキだそうです。
東側の廊下
といって比較してみても良く判りませんでした。

御殿の南側には綺麗な庭園があります。
庭園
もとはこの辺りに城主との対面を行った「大書院」と呼ばれた巨大な建物が建っていたのですが、明治初期に解体されたそうです。
廊下の先には資料室があり、ここには平成20年度の修理過程や、鬼瓦などが展示されていました。
鬼瓦

ここからは西側に回りますが、この辺りの廊下にツガが使用されているところです。
西側廊下
左に入ったところが2つ目の資料室で、ここには御殿の歴史がパネル展示されていました。

川越城本丸御殿
弘化3年(1846)の二の丸御殿の焼失により造営された本丸御殿は嘉永元年(1848)に竣工しました。造営にあたっては、当時の城主松平大和守斉典が石高17万石を誇る大名であったことから、その格式にふさわしい威容を持つ御殿が造られました。巨大な唐破風を持つ玄関やその両脇に連なる櫛型塀などは、その象徴的な意匠とすることができます。
現在では玄関・広間部分と家老詰所など、その一部が残っているのみですが、その頃に描かれた「本城住居絵図」などを見ると、広大な御殿であったことがわかります。現在の本丸御殿の南には城主との対面の間を擁する「大書院」があり、その西側には城主の住まいなどの私的空間である「中奥」・「奥向」が連なっていました。
また、現在の本丸御殿から西に伸びる廊下には御殿内最大の居室である「御時計の間」や城主の食事を作る厨房があり、その最も西側に家老詰所がありました。
(現地パネル説明文より)

江戸時代初期の川越城は17世紀後半に制作されたとされる「江戸図屏風」に描かれています。
江戸図屏風 《江戸図屏風での川越城》
先の入館チケットのデザインにもなっているものです。
これに於ける川越城は本丸と二の丸が堀で区画された2つの郭とした城として描かれていることから、特に本丸御殿は鷹狩などの将軍の“御成り”のための「御成御殿」という意味合いの建造物と考えられているようです。したがって実質的な川越城の御殿は二の丸にあったということになります。
しかし、元禄15(1702)年の「武州河越御領分明細記」には“二之丸御屋形”という記載があるため、城主御殿は二の丸に置かれ、本丸に関する記述がないことから本丸御殿は既にこの時に解体されていたようです。そして弘化3年の焼失により、当時空き地となっていた本丸に再建されたのです。
この新たな本丸御殿は建物数16棟、1,025坪に及ぶ広大な建物で、城主の住まいだけでなく、城主が政務を行い家臣たちが常駐する部屋なども設けられ、文字通り城の中心となる建物だったのです。
しかし、明治になると城としての役割を終え、本丸御殿をはじめとする多くの建物が移築・解体されましたが、明治4(1871)年、廃藩置県のより入間県ができると川越に県庁が置かれ、本丸御殿の玄関と広間部分はその庁舎として利用されることとなったのです。
その後、埼玉県となって県庁が移転してからは、入間郡公会所、専売局淀橋専売支局川越分工場、初雁武徳殿、市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)仮校舎などを経て、昭和42年に川越城本丸御殿修理工事を実施し、現在のような歴史的施設となったのだそうです。

当時の川越城の平面図が掲げられています。
平面図 《川越城平面図》
平面図の上が西で右が北となります。
南側には「大書院」を含めて大きな建物が建てられていたのが解かります。

また、上部、西側にある建物が現在、移動されてこの資料室の先に設置されている「家老詰所」です。
いずれにしても川越城に相応しい建造物であったようです。
さて、この資料室にはもう一つポスターが貼付されています。
JIN
あの人気のTBSドラマ「JIN-仁-」の撮影に使用されたのだそうで、わざわざ台本まで展示されていました。
まあ、よいPRにはなるでしょう。

そして資料室の隣の「家老詰所」に向かいます。
江戸時代、藩主には参勤交代制度があったため。実質的な藩政は家老が行っており、その家老が詰めていた建物です。
この建物は明治初期に解体され、現在のふじみ野市の商家に再築されていたのですが、昭和62年に川越市に寄贈され、現在地に移築されたものだそうです。
先ほどの平面図にもあたっ通り、この家老詰所は一番西側にあり、そこまでは先の資料室から西に伸びる大廊下があり、そこを通って詰所との行き来をしていたようです。
庭園
その大廊下の跡が、庭園に置かれた瓦で柱の位置が示されています。
渡り廊下跡
かなりの距離だったことが偲ばれると共に、御殿の大きさもうかがい知ることが出来ます。
一番奥の部屋では、家老を含めた3人が何やら談議している様子です。
家老詰所 家老詰所
「越後屋、お主も悪よ…」なんてことは言ってないでしょう。

家老詰所を後にして、座敷を一周して玄関に戻りました。
玄関
御殿平面図などでその往時の姿を想像するのは難しいのかもしれませんが、本丸御殿の一部でも現存していることは非常に稀なのだそうです。本丸御殿大広間が現存しているのは、日本ではここと高知城だけなのだそうですから、大変貴重な遺構といえるでしょう。

川越市立博物館

次に向かうは御殿から目と鼻の先にある「川越市立博物館」です。
川越市立博物館川越市立博物館
蔵をイメージした建物は、川越をイメージさせるには一番よいフォルムでしょう。
早速、エントランスに向かいますが、途中にあったのが川越城七不思議の「霧吹の井戸」です。
霧吹の井戸
この蓋を取ると霧が立ち込めるはずですが、この井戸はレプリカでしょうか、それとも穴は別としても側は当時のものなのでしょうか。
そして近代的なエントランスから入館します。
川越市立博物館
当然のように撮影禁止ですので、ここからは説明だけとなります。
丁度、学芸員の方のガイドが受けられる時間のようなので、そのガイドでの興味深い点だけピックアップしてみました。

最初は、館内の中央にある大きな江戸時代の川越のジオラマの説明です。
江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視したことから、有力な大名を配置したのは歴代城主の通りです。そしてその内の松平信綱は城下町を整備し、舟運を起こして物流を活発化させ、江戸との物流・文化の交流の中で商人の町として“小江戸”と呼ばれるほど賑わったのだそうです。したがって発展する一方で、守りとしての街作りも行われており、三方を低地と河川で囲まれた防衛に最適な台地の形状に合せて城と城下町がレイアウトされた合理的な街つくりなのだそうです。
基本的には碁盤の目状ではありながら、袋小路、鉤の手、七曲り、丁字路など城下町特有の街路が作られたそうで、一番の中心地は高札場がつくられ、現在の“札の辻”の交差点に当たる場所だそうです。

展示コーナーには、本丸御殿でも触れた「江戸図屏風」のレプリカが展示されています。
2枚の屏風からなっており、江戸城と川越城が描かれていることからも、川越城の重要性が伺えます。
ここで興味深い話を聞くことが出来ました。
それは、この屏風の中に野点傘を差しかけられていて、顔の見えない人物がいるそうなのです。その人物こそが3代将軍・徳川家光だそうで、畏れ多いことから顔が隠されているのだそうです。そして更にこの人物、この屏風の中に何人か存在しているのだそうです。
江戸図屏風 江戸図屏風 《江戸図屏風》
私の調べた範囲ですと左隻には5扇(5折)の上部に1人。右隻には5扇の上部、3扇の中央、1扇のやや上の全部で4人の家光が描かれていると思うのですが。
江戸図屏風の家光-1 江戸図屏風の家光-2 江戸図屏風の家光-3 江戸図屏風の家光-4
これ目茶苦茶面白い話だと思っていたら、既に「江戸図屏風の謎を解く」という書籍にまでなっているような、極々一般的なことだったようです。
でも、個人的には知ることが出来てよかったです。更にこの屏風を見ることが楽しくなりそうですから。

屏風の先には「天海僧正」の木像が展示されています。こちらは間違いなく喜多院の慈眼堂の木像のレプリカです。
ここでは天海僧正が、詠んだ長寿歌を披露されていました。まあ、108歳というのも108の煩悩からのものでしょうから、実際にはいくつだったのかはわかりませんが、いずれにしても長寿だったことは間違いないのでしょう。
その歌です。
「気はながく 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころひろかれ」
この歌は、短気で好色な家光に対して詠んだ歌だそうですが、享年48歳だったそうですから、効き目は無かったようです。
一方、2代将軍・秀忠にも長寿歌を残していたそうです。
「長命は、粗食、正直、日湯、陀羅尼、時折、ご下風あそばさるべし」
日湯とは毎日風呂に入ることで、陀羅尼はお経を唱えることで、下風とは屁のことだそうです。
大食漢で嘘つきで不潔。そして勉学をしない堅物…、ってどんな人物だったのでしょう秀忠とは。あの「江」の旦那ですから…。
それでもやはり効き目は薄かったようで享年53歳だったのです。
まあ、将軍のほうがやはりストレスが溜まっていたのでしょうね。

この先は川越らしく蔵の町川越についての説明でした。
やはり蔵づくり通りのジオラマがあり、蔵の実寸構造物などがあり、改めて蔵の町を実感しました。
こちらの博物館では、見た目自体に目を惹くようなものがありませんから、やはり説明を聞きながらみると面白い見方が出来るかも知れせんね。

道灌

博物館を出てから、すぐ近くにある和菓子「道灌」に立ち寄って今日の締めくくりとします。
道灌 道灌
綺麗な店舗で美味しそうなお菓子が並んでいますが、やはり店舗の名物の「道灌まんじゅう」と「くるみまんじゅう」を試食です。
「道灌まんじゅう」と「くるみまんじゅう
「道灌まんじゅう」は玄米の皮で包まれた饅頭で、かなり香ばしいかおりと上品な餡でかなりの美味です。「くるみまんじゅう」もまた然りで、どちらも結構いけてました。
という事で、お土産には訳ありの「甘藷納糖」と「芋クリームどら焼き」と自分でも意味が良く判らない買い物をしました。
それはそれで良しとしましょう。美味しいのですから。

最後に駐車場に戻りがてら見たこの校門は、新しい川越の文化の一石ともいえる、あの「ウォーターボーイズ」を生んだ県立川越高校です。
県立川越高校
コミカルでセンセーショナルな「ウォーターボーイズ」は今や、喜多院や御殿に勝るとも劣らないある意味の文化財かもしれません。

半日程度の散策でしたが、流石に歴史と観光の町川越らしく見所は盛りだくさんでしたが、とても半日では味わいつくせない川越でもありました。
江戸の文化が色濃く残る町として、全国から観光客が訪れるのも無理もないことですが、これから更にどのように発展していくのか、それもまた楽しみな街です。

2011.12.7記

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