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秋はソバの花咲く眺めの「馬喰新田」

概要

江戸時代に中山道を京へ上る道筋で、最初に足を踏み入れる上尾市域の地は上尾下村である。天明8年に江戸の漢詩人市河寛斎は上尾宿を訪れるが「雨夜上尾道中」という漢詩の中で「喬花爛漫野田秋」と歌っている。
台地で畑と山林の多い上尾への道中は、寛斎が詠んだように、秋にはソバの花咲く眺めがあったと見られる。寛斎と弟子の一行が最初に踏んだ上尾市域の地が、小字の「馬喰新田」(現・栄町)である。集落に入ってすぐ左側に川越道の三差路があるが、そこに庚申塔が建てられている。この庚申塔台座には、鮮やかに「馬喰新田」と刻まれた講中たちの村名が見える(「江戸詩人選集」第5巻)。
「馬喰新田」の左に連なる集落は、上尾下村の小字「薬師原」(日の出1-3丁目付近)である。延宝6(1678)年の「原市村・上尾村の村境争論裁許絵図」によると、上尾下村の北には広大な山林があり、ここでは「上尾原」と記され「入合」の文字も見える。現在のさいたま水上公園・上尾運動公園から西宮下1-3丁目にまたがる地であるが「入合」と記されているので上尾宿・上尾村・上尾下村などの共有地であったと見られる(「上尾市史」第3巻・「武蔵野国郡村誌」)。
馬喰新田から中山道を北へ1km歩くと現・上尾陸橋の交差点である。この辺りは鎌倉街道と中山道の交差点でもあり、上尾宿の小字は「土手松」である。明治初年の記録ではここを古跡として挙げているが、そこには「往古鎌倉より奥州への通路ありて、其頃の並木なり」と記さている。前記の延宝6年の絵図でも並木が記されているが、戦前「鶴亀松」と称された古木が残存していた所である(前掲書)。
上尾陸橋から北上し、左に愛宕神社を見ながら進むと、もうこの辺りは上尾宿の「下宿」である。東側の内科・眼科医院の手前に右折する小道があるが、天保9(1838)年の宿絵図では「岩槻道」とある。
この道路と互い違いの位置に左折する小道があり、これは宿絵図では「川越道」と記されている。川越道の北に接して、中山道両側に「一里塚」が描かれている(前掲書)。
下宿に続く家並みが「中宿」で、ここは問屋・本陣・脇本陣など宿場の中枢機関が集中していた所である。今はビル街に変貌して昔日の面影はないが、それでも鎮守である氷川鍬神社は静寂空間を保ち、かつての「聚正義塾」の跡をとどめている(前掲書)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)-「公報あげお」より引用-

中山道を上る #1

 

中山道をさいたま市方面から北上すると現在の上尾市に入ります。ちょうど上尾市の市境のプレートがあります。
上尾市境

ここからが現在の上尾市となりますが、概要にある市河寛斎とは江戸時代の儒学者で漢詩人で、寛延2(1749)年6月16日生まれの上野(群馬県)の人です。
この市河寛斎が上尾宿に来た理由は【氷川鍬神社】に「聚正義塾」が創設された天明8(1788)年の開講日を祝って、当時の江戸の昌平黌の学員長であった市河寛斎を招いたことによるものだそうです。したがって市河寛斎はこのまま上尾宿の氷川鍬神社まで歩いていったということです。

馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔 そして、その先の三差路の中央にあるのが概要にある庚申塔です。
したがって左側の路地が川越道でしょう。

馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔 この庚申塔は上尾市の登録文化財となっているようです。

市登録有形民俗文化財 文化財名:馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔
登録番号:第3号
種別:民俗文化財・有形民俗文化財、登録年月日:平成19年3月1日、所在地:上尾市栄町
形式:駒型庚申塔、寸法:塔身(高さ99cm 幅 36cm 奥行 24cm)、台座(高さ 26cm 幅 60cm 奥行 41cm)
製作者:「石工江戸=岸嶋南新=栗屋勘兵=」の銘あり(=は判読不能)
造立者:「武州足立郡馬喰新田講中貳拾人」の銘あり
紀年銘:寛政十二年十二月吉日(1800年)
庚申塔番号:8

概要
   正面に青面金剛像が邪気を踏まえる。上部に瑞雲を伴う日月、下部に三猿が配されています。欠損が少なく保存状態がよい。台座右側面に銘があり、江戸の石工の製作であることが分かります。上尾市では石工銘のある庚申塔は本塔と、畔吉徳星寺と上尾村の住宅街の中にあるものの3基のみです。
本塔には秋葉、平方、川越への道標と里程が刻まれていますが、旧道が線路で分断されているため、道標の機能は損なわれてしまっています。
所在地は中山道から平方方面へ向かう旧道が分岐する地点で、道路拡幅のため元の位置からは少し奥まった位置に移動されています。この地点は旧上尾下村と別所村の境に位置し、昔から村境として認識されていたといわれています。昭和10年ころまでは中山道をはさんだ向かいに団子屋があって、原市方面から平方の船着場へ向かう商人が小休止したといい、この辻が交通の要所であったことが分かります。
本塔の周囲は三角地の小さな空き地になっていて、菊などの花が植えられ、今でも大切にされている様子がみてとれます。
(上尾市オフィシャルサイトより)

馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔 確かに「武州足立郡馬喰新田講中貳拾人」を銘を見ることができます。

東京日本橋に「馬喰町」がありますが、これは牛馬商人のことを「博労」「馬九郎」「馬工郎」等と呼び、当時「博労」頭の高木源五兵衛に命じて厩舎を作らせ、数百頭の馬を飼うために、配下の馬喰(馬方)を住ませたことから「馬喰町」となったそうですが、この「馬喰新田」もまた中山道と市の原市、宿場の上尾、河岸の平方、そして大都市川越を結ぶ東西の幹線道路の交わる拠点として、厩舎や伝馬があったからそう呼ばれたのかもしれません。

先に進むと現在の愛宕3丁目あたりとなるのですが、現在の日の出町は右側の中仙道沿いとなります。
現在愛宕3丁目にあるバリュープラザから俯瞰してみました。

コーセー前 前の通りが先ほどから北上してきた中山道です。
その道沿いにある大きな門のある区画が化粧品メーカーのコーセー上尾事業所で、その先が日の出町周辺です。

そして右斜め先に見える木々のあるあたりが上尾運動公園から水上公園方面(写真:右)で、正面が横浜タイヤ及び高崎線の上尾駅方面(写真:中央)で、左側が西宮下周辺(写真:左)です。
西宮下方面 上尾駅方面 愛宕方面

ところどころに樹木がまだ残っていますが、運動公園から西宮下までが山林だったという名残は殆どありません。

東京スカイツリー・・・!? バリュープラザの駐車場からはこのように眺めが結構良く、(多分間違いないでしょうが)東京スカイツリーも見ることができました。

もっと高性能なカメラなら更に鮮明に写せるでしょう。

上尾陸橋交差点 運動公園通り バリュープラザを先に進むと上尾陸橋交差点です。
左右に交差している道路が「鎌倉街道」ということですが、現在は運動公園通りと呼ばれています。

埼玉県教育委員会の『歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道』によると以下のように説明されています。

所沢市において鎌倉街道上道から別れ、県南部を北東に進み、荒川(旧入間川)を渡り大宮台地に沿い北上する街道は、奥州脇道とも羽根倉道とも称されている。上道と中道の中間に位置する本道は、大宮台地上の南北に広がる地域を繋ぐ道であるとともに上野に至る要路であったと推測される。
(「歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道」埼玉県教育委員会)

埼玉県内には所沢、狭山、毛呂山、嵐山、寄居、児玉を通る「上道」と、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手、栗橋を抜ける「中道」の2本の鎌倉街道が存在したように考えられています。
したがってこの鎌倉街道は、本線ではなく鎌倉街道の支線として、ちょうど「上道」と「中道」を繋ぐような街道で、鎌倉街道羽根倉道(奥州脇道)と呼ばれていたようです。
この羽根倉道は現在の国道17号線を渡り、【上尾歴史散歩-2 鎌倉橋を渡る】で氷川神社方面を通り白岡町方向へ抜けていきます。

「鶴亀松」の写真 その戦前にあったという「鶴亀松」の写真がこちらです。

形からイメージすると手前が鶴で、奥が亀でしょうか。
周辺はポツンと一軒の建物があるだけで、周囲は何も無いようですので実に目立つ松の木だったのでしょう。

愛宕神社周辺 上尾陸橋交差点から北上を続けると左側に【愛宕神社】が鎮座しています。このあたりの地名「愛宕」の由来ともなったことでしょうから鎮守として崇敬されたのでしょう。

「下宿」あたりの原内科眼科医院 概要にあるとおり、この辺りが「下宿」で、その中心がこの原内科眼科医院の辺りでしょう。

ここに上尾宿の江戸側の木戸があったようなので、当時本来の上尾宿はこの辺から北に向って始まっているということです。

街道沿いの建物 街道沿いの建物 このように街道沿いには古そうな建物も散見できます。

岩槻道 そして原内科眼科医院の手前の道が「岩槻道」です。

「岩槻道」は当時の日光御成街道で、中世の鎌倉街道「中道」を前身として江戸時代に整備された日光街道の脇街道で、将軍が日光東照宮へ参拝する際に利用された街道のことです。
当時は本郷追分(現・文京区)で中山道から分岐し、岩淵宿(現・北区)、川口宿(現・川口市)、鳩ヶ谷宿(現・鳩ヶ谷市)、大門宿(現・さいたま市緑区)、岩槻宿(現・さいたま市岩槻区)、幸手宿(現・幸手宿)を通って日光街道に合流する道筋で、岩槻藩の参勤交代にも使用されたことから「岩槻道」とも呼ばれたのです。
上尾からの道筋は、伊奈町、蓮田市を経由して白岡町あたりから御成道に結ばれていたのではないかと推測します。

原市新道道標 現在この路地には「原市新道」の道標が立てられています。
この「原市新道」は【上尾歴史散歩-1 :原宿を歩く】で見たように現在は原市大通りまで続いています。

川越道 川越道 そして原内科眼科医院の左手の路地が「川越道」です。

川越道=川越街道もまた中仙道の脇往還として江戸時代に整備された街道です。板橋宿・平尾追分から中山道と分岐し、上板橋宿(現・板橋区)、下練馬宿(現・練馬区)、白子宿(現・和光市)、膝折宿(現・朝霞市)、大和田宿(現・新座市)、大井宿(現・ふじみ野市)の6ヵ宿が設置され川越に通じる街道です。川越からは児玉街道となり上野国藤岡(現・群馬県藤岡市)まで通じ、2つの街道をあわせて川越児玉往還とも呼ばれたそうです。
川越道は距離も短く中仙道のように河川の氾濫で通行止めになることも少ないことから常に賑わい、川越藩以外でも参勤交代で使用する藩も増加したことから時代と共に川越道は賑わっていったようです。
この様に中世では鎌倉街道「上中道」の連絡道として、そして御成道、川越道への迂回道であったことから江戸時代以前の上尾宿が誕生する前身となったのかもしれません。

一里塚跡・・・!? この川越道あたりの中山道の両側に一里塚があったようですが、現在は全く痕跡もありません。

先に北上すると「中宿」へ入ります。
伊勢屋 右側に「伊勢屋」という創業180年の老舗和菓子店があります。こちらの名物は「ゆず最中」と「鐘馗羊羹」だそうです。

江戸時代には上尾地内では各家庭に柚子の木があったくらい柚子の産地だったようで、その名残を留めたのが「ゆず最中」で、同じように江戸時代における上尾地内の名物である「屋根の鐘馗様」を永く伝えるための作られたのが「鐘馗羊羹」なのだそうです。
この「屋根の鐘馗様」というのは、鐘馗様は疫病神を追い払う神といわれていて、鬼屋根瓦の家に対して鐘馗様を以って対峙する意味で置いていたもので、この風習は中山道の他の宿場にはなく上尾宿特有のものなのだそうです。
それにしても鬼瓦も厄除けですから、鬼瓦と鐘馗様との間で疫病神をピンポンのように払いのけているのですが、疫病神は一体何処へ追い払うのでしょうかね。

などと言っていると、そぐその先に現代の鬼瓦VS鐘馗様の対決が見られます。

井上家 井上家の鬼瓦 右手のコーナーは鬼瓦で、そもそもこのあたりは井上家の脇本陣のあったところで、その当時の鬼瓦を現在の塀に使用しているそうです。
現在でも井上の表札が掲げられていますので子孫の方が住まわれているのでしょうかね。

おしゃれ工房 新井屋 新井屋の鐘馗様 そして中山道を挟んで左手のコーナーは鐘馗様で、「おしゃれ工房 新井屋」という店舗の屋根にちょこなんと鎮座しているものです。

勿論、これは新しいものでしょうが、井上家の鬼瓦に対峙して作られたのでしょうか、なかなか洒落が効いていて微笑ましく限りです。
上尾宿の名残は殆ど無い現在の上尾市ですが、江戸時代の文化、風習の名残を留めるものがあったとは非常に珍重すべきものでしょう。

元「中宿」の上尾仲町 そしてこの辺りが嘗ての「中宿」で、現在では上尾仲町となっており、その先に見える信号の左側が概要にもある「氷川鍬神社」です。

現在の見る影も無い上尾宿ですが、唯一といっても良いくらい名残を留めているのが【氷川鍬神社】といえるでしょう。

案内図 案内図 神社の前に案内板があります。

中山道上尾宿と本陣
上尾市の市街の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。
宿駅として整備されたのは、慶長7年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、50人50匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。
また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ34家ほどでした。上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は、182軒、人口は793人、旅籠屋は、41軒でした。
図は、文化3年(1806)完成の「中山道分間延絵図」に描かれた中山道上尾宿の中心部です。中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左が桶川方面になります。画面下側中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が2軒あります。その右近くには問屋場、更に右に行くと道をはさんで両側に一里塚があります。鍬大神宮のすぐ右側にもう1軒の脇本陣が描かれています。上尾宿には本陣が1軒(林八郎右衛門)、脇本陣が3軒(本陣の右が白石長左衛門、左が井上五郎右衛門、向かいが細井弥一郎)ありました。これは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ばれました。脇本陣は副本陣のような性格を持ち、本陣の代理もしました。
平成11年3月 上尾市教育委員会 埼玉県北本県土整備事務所
(現地案内板説明文より)

中山道分間延絵図 「中山道分間延絵図」がこちらです。

この「中山道分間延絵図」は「五海道其外分間見取延絵図」の一部なのだそうです。「五海道其外分間見取延絵図」は幕府の道中奉行所が18世紀末から19世紀初頭に作成した絵図で、 その名の通り、五海(街)道 (東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中) およびその他の主要な脇街道(美濃路、伊勢路、例弊使街道他20余)について 街道の状況(地形、屈曲)、沿道の事物(寺社、橋、一里塚、境界等)、 宿場町や街道が通過する村々の様子が詳しく描かれていて綿密な実地調査や測量を基にしている絵図なのです。
江戸時代の多くの絵図が距離の情報を持たないポンチ絵的な絵図であったなかで、この「五海道其外分間見取延絵図」は縮尺を持った絵図として貴重なものなのだそうです。

上尾宿案内板 その「ポンチ絵」的な絵図で判り易い例が、この案内板の道を挟んだ反対側の歩道に更なる案内板に掲出されていました。

木曾街道 上尾宿 加茂之社 それは渓斎英泉によって江戸時代に描かれた「木曽街道六十九次」の中の上尾宿の絵です。
判り易いようにカラー版を掲載します。

「木曾街道 上尾宿 加茂之社」と題されたこの絵は、上尾宿とその江戸方の一つ手前の大宮宿との間にある加茂神社と加茂宮村を舞台とした絵です。絵の中央に「立場茶屋」と呼ばれた茶屋、その手前に加茂神社、更にその神社境内前の中山道で唐箕(脱穀したイネの殻を吹き飛ばす道具)を使って農作業をするという構図なのですが不可思議な点が2点あるのです。
1つは単純に江戸時代と言えども五街道の中山道で農作業することはありえないということ。2つ目には「立場茶屋」と加茂神社は確かに実在した建造物なのですが、実際は300m以上離れていて、同一のフレームには収まる距離感ではなかったということです。更に突っ込めば、加茂神社も立場茶屋も上尾宿と大宮宿の中間にあったもので、何故ここを上尾宿としたというのも謎ですが、当時の上尾宿のイメージを伝える観光案内と考えれば多少納得もいくところです。更にこの絵には作者の遊び心が加わっていて、加茂神社に立っている幟に書かれている「いせり」とは、この絵の版元の名前なのだそうです。
なかなかペーソスにあふれたユニークな観光案内とも言えるのでしょうが、言い換えれば当時の上尾宿には、文字通り“絵になる”ものが無かったということになってしまうのですが・・・。

さてその本陣・脇本陣ですが確かに“絵になる”ものは殆ど無いようです。

林八郎右衛門本陣跡 現在、1Fにコンビニエンスストアが入居しているビルが本陣にあたるようですが名残などは皆無です。

白石長左衛門脇本陣跡 その左側にある白石長左衛門脇本陣もまたこの通りビル街です。

井上五郎右衛門脇本陣跡 隣の病院のあたりが井上家脇本陣だったようですが、先ほど見た井上家の鬼瓦が唯一名残として存在しているものなのでしょうか。

細井弥一郎脇本陣跡 最後の脇本陣である細井弥一郎家も殆ど名残を見受けられませんが、何となく左側の家の形が蔵の形状をしているのが、細井家の名残と無理矢理思いましょうか・・・。

このように上尾宿としての歴史が殆ど残っていない現在の上尾市ですが、明治時代になってからの上尾駅開業に始まる近代化の波と、昭和のバブル景気までの不動産乱開発による犠牲になったということでしょう。
それはそれで住民の暮らしには十分メリットがあったわけですから仕方ないことでしょう。

しかし、その様な開発が終焉を迎えると、ふと無くしたものに気付くといったことはよくあることです。
上尾宿 上尾宿 そんな思いの一端が現在駅周辺を中心としてこのような表示や、町内会などのペナントにも現れているようで、中山道や上尾宿をアピールしようとしている構図です。

遅まきながらでも少しずつ歴史を振り返ることができれば、それはそれで結構なことでしょう。

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