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おがの化石館

小鹿野町のメインストリートに入る前に「おがの化石館」へ向かいました。
おがの化石館
かつて捏造事件が起こったのは確か秩父ではなかったかと思いますが、そのような影響はもう微塵もないのでしょうか。そんなことを考えながら化石館に到着しました。
大分雨も小降りにはなっていますが、まだしとしと降っています。
写真で見るよりも多少大きな感じのする建物です。建物の後ろに地層が見えますが、あれが「ようばけ」でしょうか。とりあえず化石館に入ります。
入館料¥300を支払って展示物を眺めます。
おがの化石館

展示スペースはそれ程広くありません。
中央に化石館のメイン展示物であるパレオパラドキシアの骨格復元模型が誇らしげに展示かれています。
おがの化石館

埼玉の奇獣 パレオパラドキシア
パレオパラドキシアは、今からおよそ1,500万年前(新生代第三紀中新世)に日本と北アメリカ西海岸の海辺で生息していた哺乳類です。
円柱を束ねたような奥歯(臼歯)、厚い板状の胸骨など風変わりな歯や骨を持っていて、古生物学的に不明な部分が多く、世界の奇獣とも呼ばれています。骨格模型は、海を泳ぐ姿勢で復元してあります。
(パンフレットより)

あくまでこれは復元模型で、隣にあるパレオの骨は化石なのでしょう。
おがの化石館
もう少し判りやすいよう調べて見ました。

パレオパラドキシアは、海が秩父の山すそまで広がっていて、現在の秩父盆地が入江であった時代に、カバのような体型で海辺で海草や貝などを食べていたと考えられています。
パレオパラドキシア 《パレオパラドキシア復元図》
パレオパラドキシアという名称は、カリフォルニアで発見された奥歯を基に命名され、その形が現在のジュゴンにも似ているし、ゾウの祖先にも似ていることから、パレオ(昔の)・パラドキシア(矛盾した=パラドックス)とされたのでした。
埼玉県内では、秩父市大野原の荒川右岸で1975年に当時、秩父農工高等学校の高校生だった堀口勉さんという方が最初の発見をし、次の発見は1981年で、秩父セメント株式会社(当時)の子会社に勤務されていた坂本道夫さんという方で、小鹿野町般若のセメント採石場から発見したそうです。
その後、1984年(昭和59年)8月21日に福島県伊達市梁川町の広瀬川河床の梁川層で発見されたものは、世界で4例目のほぼ完全な形での発見で、頭骨まで正常な形で発掘されたのは梁川標本以外にはアメリカ合衆国北カリフォルニア、スタンフォード大学の物理学研究施設にあるだけだそうです。
日本でも他に岐阜県瑞浪市、群馬県安中市、岡山県津山市でも化石が発掘されているそうです。

このように奇獣といわれるパレオパラドキシアですが、実際の姿はこうなるそうです。
パレオパラドキシア
骨格復元模型の隣に生体復元模型が置かれていました。
まさに”出っ歯のカバ”じゃないですか。骨格や復元図からは到底想像し得ない滑稽さがにじみ出てきます。
因みに”クアパレスおがの”という温泉には何頭かパレオがいるそうですが、何か返って癒されそうな奇獣ってどんなんですかね。話のネタには最適かもしれません。

パレオパラドキシアを堪能?した後、1階にある現・皇太子が訪問された時の写真や、宮沢賢治が訪れた時の写真などを見てから、2階に上がります。
2階には世界各地の化石などが展示されていますが、目玉はなんと言っても「ようばけ」でしょう。
ようばけ
勿論、そこから「ようばけ」は十分見えますが、望遠鏡が設置されているので覗いてみました。
綺麗な地層がはっきりと見えます。詳しいことは判りませんが、改めて古から少しずつ大地が形成されていく様を思い浮かべるという、滅多に無い感傷を…、なんてことは無く、「地層ねえ、馳走ならありがたいが…」などと救われないオヤジギャグを飛ばしている場合ではないのだが、どうもパレオパラドキシアの姿が笑えるものですから。

町指定天然記念物 「ようばけ」 昭和37年9月20日指定
◆「ようばけ」とは
大字下小鹿野奈倉地内を流れる右岸に白い岩肌を見せている大きな崖があり、この崖を「ようばけ」と呼んでいる。 この「はけ」とは、崖のことで、陽(日)のあたる様子から名付けられたと伝えられている。
高さ約100m、幅約400mにわたる地層の大露頭で、周囲の自然と調和し、見事な景観を作っている。
この崖は、当地の基盤である第三紀層が赤平川によって侵食されたもので、秩父町層群奈倉層とよばれる地層からなる。その地層の年代は、今から約1.500万年前の新生代第三紀中新世である。当時の日本列島の大部分は海となり、奥秩父の山すそまで海が広がり、泥岩、砂岩、レキ岩、凝灰岩からなる第三紀層が形成された。この地層は、埼玉県内の盆地や丘陵に分布し、クジラやサメ、カニ、貝類など様々な化石が見つかっている。「ようばけ」の地層も比較的浅い海の中で、主に泥が堆積して形成されたものである。地層の露出状態は、全国でも有数の規模を誇り、地質学上から見て貴重なものであり、重要な見学拠点となっている。昭和52年3月には、県自然環境保全地域に指定され保全が図られている。
また、同じ地層が分布する般若地内からは、大型ほ乳類のパレオパラドキシアの化石が昭和56年に発見されたほか、大型魚類の新種として平成6年11月に発見された「チチブサワラ」も同じ地層から発見されており注目されている。

◆泥岩互層(※砂泥互層の間違いでは無いかと思われる)
秩父盆地では、砂岩層と泥岩層とが交互に重なった地層が良く見られ、このような地層を砂泥互層と呼ぶ。これは海底にたまった土砂が、度重なる海底地すべりなどによって海中に舞い上がり、より深い海底に流されて、砂と泥が交互に堆積してできたと考えられている。

◆化石の語る海
「ようばけ」が形成された当時の気候は、温暖で秩父の山すそに暖流が流れていた。海底にはサンゴやウニなどの生物が棲み、沖合いには体長数メートルのヒゲクジラが群をなしていた。時折、カルカロドン・メガロドンという体長10メートル以上に達する巨大ザメが出没し、クジラやパレオパラドキシアなど海の生物たちを脅かしていた。
(パンフレットより)

”太陽の当たる崖”だから「ようばけ」ですか、なるほど旨いこと考えましたね。朝日とか夕陽(どちらが当たるのか判りませんが)崖が輝く姿が美しい、などという観光コピーが書ける位の情景です。
学術的なことは全く判りませんが、サイトを見ると実際にこの「ようばけ」の近くで化石が取れるんですね。日曜日などには家族でやってきて石を探して、割って、化石を見つける…、ごっこ? 子供も大人も楽しめるんでしょうね。
お金もあんまり掛かりそうもないし。
まあ、私はしません。雨も降ってることだし、寒いですから。
ですが、昭和52年の県自然環境保全地域に指定にはそそられますねえ。つい先日蓮田市の【黒浜沼】で学習したばかりですし。フムフム、なるほど。

たった一枚のパンフレットなのに濃いですね、内容が。
昭和56年のパレオパラドキシアの化石が発見されたのは前述したとおりですが、この秩父セメント株式会社(当時)の子会社に勤務されていた坂本道夫さん、実は「チチブサワラ」も発見した方なんだそうです。
チチブサワラ 《チチブサワラ標本:(C)埼玉県立自然史博物館》
セメントの原料を採掘する仕事をされていたので、こういったチャンスはあるのでしょうが、やはり見る目が無ければ今頃どこかのビルのセメントと化していたかも知れないのです。
まさに貴重なワンチャンスといえるでしょう。

参考:【新種チチブサワラの化石発見 -よもやま話-(埼玉県立自然史博物館 自然史だより)】http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/26/26_5.html

”泥岩互層”は多分文面から察すると”砂泥互層”では無いかと思うのですが。誤字ですかね、校正は大事ですよ本当に。痛い目に何回もあっている私が言うのですから…、って説得力はないですね。
まだまだ、掘り下げるべきところ満載です。
”化石の語る海”…中々のリードコピーですね。ミステリーのタイトルになりそうな感じです。
それはさておき、このヒゲクジラ、これは実際に1500万年前のヒゲクジラ類の新種「チチブクジラ」と言われて県指定天然記念物に指定されている化石なんだそうです。
チチブクジラ化石 《チチブクジラ化石:(C)埼玉県立自然史博物館》
1984年,当時,高校の教員だった吉田健一さんという方が、フィンランドの化石研究者を案内して秩父市内の荒川周辺を歩いている時に偶然見つけたそうです。その結果、2003年に埼玉県立自然史博物館研究報告に新種として記載され、ディオロケトゥス・チチブエンシスという新しい学名が付けられ、和名にはチチブクジラという名前が使われることになったそうです。
恐るべし秩父ですかね。

参考:【1500万年前のヒゲクジラ類の新種チチブクジラ(埼玉県立自然史博物館)】http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/exhibit/2005kujira/kujira.htm

そして最後にカルカロドン・メガロドンというロボットみたいな巨大ザメですが、1986年に関根浩史さんという方が大里郡川本町の荒川の河床でサメの歯を同時に50本以上発見したそうです。
カルカロドン・メガロドン 《カルカロドン・メガロドン:(C)山を歩いて美術館へ》
現在、長瀞の埼玉県立自然の博物館に展示されているそうですが、まさにジョーズです。秩父のジョーズです。
たった一枚のパンフレットですが、実に興味深く勉強になるものだと思います。

参考:【山を歩いて美術館へ】 http://www.ma-museum.com/index.html

化石館をでて、先ほど見た宮沢賢治の歌碑へ向かいます。
宮沢賢治の歌碑
ちょうど建物の裏手にあり、「ようばけ」を背景に鎮座していました。
宮沢賢治の場合、研究している人は沢山いてサイト上での資料は事欠きません。ちょっと興味深いサイトがありましたので引用させていただきます。

1916(大正5)年、この時期賢治は、秩父方面に 土性・地質調査見学に出かけています。その日程を堀尾青史著「年譜宮澤賢治伝」や原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」、また詳細に調査された文献として「宮澤賢治『修羅』への旅」萩原昌好著により調べると次のとおりでした。

9月1日盛岡発(午後7時)の列車にて出発。
9月2日午後12時53分上野着。賢治は午前中帝室博物館。 関教授指導の秩父、長瀞、三峰地方土性地質調査一行(農学二部、林科生)と上野駅で合流。 午後1時20分の列車で上野発。 熊谷へは午後3時20分に到着。 「蓮生坊」の歌を詠む。 熊谷に一泊したと推定。(その後、熊谷、寄居、小鹿野、三峰山に行く)
9月3日熊谷より寄居、寄居から末野を経て国神まで。 立が瀬、象ケ鼻、荒川河岸の観察、親鼻橋近くの紅簾片岩(こうれんへんがん)等を調査。 梅乃屋に一泊したと推定。
9月4日国神より馬車で小鹿野まで。 途中、随時調査を重ねて「ようばけ」調査。 その夜は寿旅館に一泊と推定。
9月5日小鹿野より三峯山まで。 林学科との合同調査を重ね、三峯神社宿坊で一泊。
9月6日三峯山より秩父大宮まで。 三峯山を降り、影森の石灰洞を見学して、角屋で一泊と推定。
9月7日秩父大宮より本野上を経て、盛岡へ帰郷。 列車は午後11時と推定。

そんな旅の様子が、歌稿〔A〕大正5年7月の中に、「小鹿野」として詠まれている作品があります。
《さはやかに半月かかる薄明の秩父の峡のかへり道かな》
という短歌です。研究成果により、この作品の詠まれた日付は9月4日の「ようばけ」調査後の宿への帰路であることが判明しています。
(ウェブサイト「賢治の事務所」より)

参考:【『賢治の事務所』】 http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/index.html

この歌が、右側の歌碑に刻まれています。
では一方の左側の歌碑はというと、保阪嘉内という人の歌でで、盛岡高等農林学校の同人誌「アザリア」の会員のうちの主要メンバー4人のうちの一人だそうです。(残りの3人のうち一人は当然、宮沢賢治です)
賢治が「ようばけ」を訪れた翌年の大正6年、同じく地質調査見学旅行で秩父を訪れた保阪嘉内も、賢治の旅をしのんで「ようばけ」を訪れたようです。

嘉内がその時に綴った『秩父始原層 其他』というノートがあり、その中に記された行程から考えると、おそらくは全員で「ようばけ」を訪れたのではなく、集団行動の行程を終えてから嘉内一人もしくは有志で訪れたのではないかと推測されます。
その時嘉内が「ようばけ」で詠んだ歌が、
「この山は小鹿野の町も見えずして大古の層に白百合の咲く」

これが。左の歌碑に刻まれている短歌だそうです。
このほかに、小鹿野に関しての宮沢賢治二について様々に語られていますが、こちらを参考にしてください。

参考:【宮沢賢治と「アザリア」の友たち】 http://azalea-4.blog.so-net.ne.jp/

本当に様々なことが勉強になる化石館でした。
そろそろPM1:00頃になりますので、昼食を摂りにと化石館を後にすることとなりました。

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