秩父神社 #1

2011年12月3日土曜日、朝から土砂降りの雨、雨、雨模様です。
一体祭りは開催されるのだろうかと、ネットでツイッター確認。幾つかの屋台は曳きまわされている様ですが、雨上がり待ちの屋台もあるようです。同時に天気予報を確認すると、午後から雨は上がるとの予報ながら、結構な雨脚にたじろぐ雰囲気です。
まあ、とにかく行ってみようとばかりに自宅を出たのがAM10:00少し前でした。
早速、上尾駅からJR高崎線で熊谷駅で降車、乗り換えの間にカイロやコーヒーを買い込み防寒対策をします。
11:06発の秩父鉄道で約1時間、12:00過ぎには秩父駅に到着となりました。

秩父神社由緒

到着した秩父鉄道秩父駅には祭りの提灯が出迎えてくれます。そして駅はこの「地場産業センター」という建物の中にあります。
秩父駅 地場産業センター
というよりは駅ビルといったほうが解かりやすいでしょう。
幾分、小降りとなったと言いながらもやはり雨模様なので、駅前もまだそれ程混雑しているという感じではありません。
駅前ロータリー 駅前ロータリー
むしろ閑散としているといった光景なのですが、ロータリーでは雨の中でお囃子も奏でられ、祭りの雰囲気を大いに醸し出でています。
秩父屋台囃子
お囃子でモチベーションを上げて先ずは秩父神社を参詣します。なんと言っても秩父神社の大祭なのですから。
駅前ロータリーの夜祭看板
秩父駅からホンの2、3分で意外と間口の狭い一の鳥居のある秩父神社参道口に到着し、鳥居脇の右にある社号標の“国幣小社”が由緒と社格の高さを偲ばせます。
秩父神社 秩父神社

由緒
秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。
(秩父神社オフィシャルサイトより)

創建の10代崇神天皇の代は紀元前97年~紀元前29年ですので、兎にも角にも2000年以上前というトンでもな歴史をもった神社です。勿論、古事記や日本書紀に記載されている頃の天皇ですから、一般的な神々と同じ神話の時代といえるのですが、現代における日本の学術上、実在の可能性が見込める初めて(一番古い)天皇とも言われているようなので、この時代からの事象はあながち伝承・伝説と一括りするわけにはいかないかもしれません。
知知夫国は凡そ西暦700年以降に成立した武蔵国の前の国ですから、凡そ800年近く存在していたことになります。そしてこの国の国造を任官されたことの感謝や、これからの祈願の気持ちから「八意思兼命」を祀ったのです。この八意思兼命とは、神話における“岩戸隠れ”の際に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けた神です。
こうして創建された社は、その後の第19代允恭天皇の時代412年~453年の頃に「知知夫狭手男」により“知知夫彦命”が合わせて祀られたのだそうです。
これは八意思兼命-知知夫彦命-知知夫狭手男という図式が、神を敬うという意味の前提に「先祖」を敬うという意味が込められているのを知ることができるのです。つまり現代日本における「盆と正月」のスピリッツにつながっていると言えるものなのです。

盆と正月
「まるで盆と正月がいっしょに来たようだ」という表現は、私たちが不意の催しで大騒ぎする時に使う言葉です。それほど、お盆と正月は、昔から日本人にとって最大の年中行事であり、今でもこの時節には官民挙げて仕事が休みとなり、さすがの大都会も閑古鳥が鳴くほどの静けさとなります。
 昔から、お盆には先祖のみたま祭で家族がいっせいに帰省し、正月は新年を祝って初詣や年始回りが恒例の行事となっています。大晦日から元日の朝まで徹夜をして、家には歳神様を迎え、土地の鎮守様へ詣でたり、お盆には先祖の御霊を家に迎えて供養するのは、たぶん現代社会に最も根強い日本の伝統行事にちがいありません。
 この両行事に共通するところは、共にどんな形に世俗化するにせよ、日本人の霊魂観という宗教以前の根深い文化システムと無縁ではないということです。たとえば、お盆に代表される先祖の祭は、古くから日本人の宗教生活に大きな位置を占めてきました。日本の宗教で、直接間接に祖先崇拝に関係ないものはありません。仏教の寺院も、民衆とのかかわりの大半は先祖供養にあり、神道も一口に敬神崇祖を唱えて、神を敬い祖先に感謝することを主眼としています。ご先祖様を大切にすること、先祖をカミともホトケとも呼ぶほどに大切にすることは、日本の文化や歴史を古代から現代まで貫通している特徴であり、今日最も大切なことのひとつであると思います。
(秩父神社オフィシャルサイトより)

つまり2000年以上昔から行われていた先祖を敬うという行為が、現代の日本人にも脈々と流れているということになるのです。逆に考えれば、古の時代から神を祀ることは、先祖を敬うことだったということも言えるわけです。要するに神を敬うことは特別な何かを崇拝すわけではないということになるのです。
信心深い方には極めて当たり前のことかも知れませんが、個人的には目から鱗…、でした。

話を歴史に戻すと、こうして創建された秩父神社は記述されているように“延喜式”にも記載があり、この時に全国2861社のなかの一つとして国幣小社の社格を認められた古社となるのです。
このように隆盛を極めた知知夫国の総鎮守であった秩父神社も、律令制度の崩壊により秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつけて次第に衰退していったようです。
そしてこれに代わって登場するのが記述にもある「妙見信仰」なのです。

天慶年間(938~947年)に平将門と鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、上野国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て将門の軍勢を打ち破ることができたことから、以来、妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際に花園村から妙見社を勧請したのでした。
この妙見菩薩とは、古代中国の思想では天帝と考えられている北極星(北辰)の化身とされ、“妙見”とは「優れた視力」の意味で、善悪や真理を見通す者と解釈されています。
妙見菩薩 《妙見菩薩》
花園村から勧請された妙見社はもともと神社境内の北東にあったのですが、鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し再建される際に合祀され、主祭神として祀られるようになったようです。
このことは平良文の子孫が土着し秩父平氏として武士団を形成し、この秩父地域ではこの武士団の勢力が強かったことと、妙見菩薩が、道教の武神「玄天上帝」と習合したと考えられ、妙見菩薩が弓箭神として武士団の守護神となったことからではないかと推測されているようです。
この後、秩父神社はこのような武士を中心とした人々の信仰を受け、延喜式での正式名称である「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称のほうが有名になったそうで、このことは江戸時代に語られています。

江戸時代当時の絵図によると、この秩父神社の境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されているのだそうです。この中の神宮司社が秩父神社延喜式以来の主祭神である“八意思兼命”と“知知夫彦命”の祀られた社で、まさしく秩父神社の衰微した姿と考えられていたようです。
つまり主祭神の歴史としては、創建時は“八意思兼命”が祀られ、その後、“八意思兼命”と“知知夫彦命”の2神となり、鎌倉時代に“妙見菩薩”が加わって3神となったという経緯なのです。当時は神仏習合ですから仏が祀られることは、一般的なことすから、何ら不思議なことはありません。
しかし、先の絵図においては江戸時代での主祭神が、何時の頃からか“妙見菩薩”の1神になっているということなのです。
これについても江戸時代中期の儒者“斉藤鶴磯”が「武蔵野話」のなかで神宮司社のことを、「この神祇は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家を貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」と評しています。
末社に本社が乗っ取られるという実に言い得て妙なのですが、この状況も明治時代となって終わりを迎えます。
明治の神仏分離により、祭神を妙見菩薩と習合していた天之御中主神に改め、再び社名も「秩父神社」に戻され、主祭神も“八意思兼命”“知知夫彦命”“天之御中主神”の3神に戻ったのでした。
そして昭和28年に昭和天皇の弟である“秩父宮雍仁親王”を合祀して現在に至っているのです。

下境内

一の鳥居を抜けると広い境内となりますが、ここは下境内という神域のようです。
下境内
参道の直ぐ左手には手水舎があり、その右斜め先に人だかりがしている建物があります。
「神馬舎」で秩父夜祭の神幸行列される神馬の為の社で、この神馬は毎年、鎌倉時代の「宮本地頭」の役割を受け継ぐ秩父神社の大総代である井上家が毎年奉納しているのだそうです。
神馬舎 神馬舎
この宮本地頭とは、かつて秩父中村郷の領主であった丹党中村氏が秩父神社の造営を差配していた役職のようなもので、恐らくかつての中村郷が現在の中村町で、井上家が丹党中村氏の縁の方(子孫?)であることから代々継いでいるのではないかと推測されます。
そもそもはかつて秩父領を支配した忍藩の城主の代参が、秩父神社に参詣して御神馬を奉納したことに由来しているのだそうです。
12月3日の夜明け前、秩父市中村町にある井上家に2頭の馬が到着し、ここで神馬になる為の装束が付けられます。午前8時過ぎに神馬となった2頭の馬は井上家を出発し秩父神社に世話人に引かれて行き、神社に到着すると神官からお祓いを受け、夜の神幸行列出発まで神馬舎で待つのだそうです。
そして夜神幸行列が終了し、再び秩父神社に戻ってくるのが翌日の午前3時過ぎだそうですから、神馬にとても長い長い大変な1日になるようです。

今回の神馬は、向って右が「マロン・ド・ソレイユ号」で、左が「ディアドラ号」です。
ディアドラ号 マロン・ド・ソレイユ号
秩父夜祭は豊作祈願のお祭りなので、神馬の毛並みの良さで占うそうでうすが、額(!?)の白い毛の部分が多いほうが、本殿に近い側(向って左)になるそうで、神幸行列の際も前を歩くそうです。したがって「ディアドラ号」が先を歩き、「マロン・ド・ソレイユ号」が後となるそうで、なかなか細かい伝統があるようです。
ちなみに右の「マロン・ド・ソレイユ号」は、秩父の鉄砲まつりや、児玉の秋祭りに神馬を出した、あの“クリオステーブル”の馬だそうです。もう、すっかりお馴染みとなりました。
本来ならこの時点では神馬は白い装束に身を包んでいるのですが、この日は生憎の雨だったので、神幸行列の始まる直前に身に付けたそうです。
夜祭も徐々に盛り上がってくることでしょう。

神馬舎の反対側には「神楽殿」があります。
神楽殿
脇には「国指定無形民俗文化財 神代神楽泰奏」と案内されています。

秩父神社神楽保存会
埼玉県秩父市番場の秩父神社に付属する神楽であるが、秩父地方の中央部に広く分派しても伝えられている神楽で、二月節分、四月四日の田植祭、七月十九、二十日の川瀬祭、十二月三、四、五日の例大祭に演じられる。
 関東一円に分布している江戸神楽とは異なる構成をもっている面があり、独自の芸統を有する神楽であるところに顕著な地方的特色がうかがわれる。古くは七十五座の曲があったと伝えられているが、いまは三十五座である。「岩戸開」、「湯笹」、「大参宮」、「大蛇退治」等の曲がそれで、三方吹抜けの常設神楽殿で演じられる。囃子は、大太鼓、小太鼓、靭鼓、笛である。神楽舞の主体は神舞であるが、演劇的構成内容を持った曲も伝えられている。
(文化財データベースオンラインより)

残念ながら丁度昼時なので、神楽を見ることはできませんでしたが、今までに幾つかの神楽を見てきたので、おおよそのイメージはつきます。
それよりもこの文化財を調べていて、面白いことを知りました。
この「神代神楽泰奏」は確かに文化財ではあるのですが、正式には「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」という範疇となるのです。で、この「記録作成等の…」とは一体何?、ということになるのですが、通称「選択無形文化財」と言われるものなのだそうです。
これは重要無形文化財以外の無形文化財のうち、記録・保存・公開に関する経費の一部に公費による補助を充てることができるもので、文化庁長官によって選択されるものなのです。
そしてその選択基準には大きく分けて2つあります。

1.芸能関係:音楽、舞踊、演劇その他の芸能及びこれらの芸能の成立、構成上重要な要素をなす技法のうち我が国の芸能の変遷の過程を知る上に貴重なもの
2.工芸技術関係:陶芸、染織、漆芸、金工その他の工芸技術のうち我が国の工芸技術の変遷の過程を知る上に貴重なもの
ということのようです。

何となく訳が解ったような解からないような内容ですが、しいて言えば重要無形文化財は文部科学大臣が指定し、選択無形文化財は文化庁長官が選ぶということの違いでしょう。
だからといって、この“神代神楽泰奏”の価値が下がるわけではなく、貴重な神楽であることは間違いないのです。
最後にこの下境内の片隅に夜祭に関する説明がありました。

秩父夜祭
秩父市の中央柞の森に鎮座する秩父神社は秩父地方の総社延喜式神名帳にのっている関東屈指の古い社である。創立は、遠く崇神天皇(約2000年前)の御代、知知夫国造りとして来任された知知夫彦命とその祖神の八意思兼命、それに天之御中主命の三柱を祀ったと言う。神仏習合の時代には、秩父妙見宮として栄え、毎年12月3日、この社の例大祭が秩父夜祭である。また、寛延年間以来、絹織物の絹大市がたち、諸国から商人が多く入り、取引が盛んに行われたため、別名「お蚕祭り」ともいわれ、秩父織物産地の基盤が出来たのもこの頃からである。
この祭りに曳かれる笠鉾と屋台は、寛文年間(約300年前)にはほぼ現在の形が整ったようである。中近と下郷の2基は笠鉾で、他の屋台4基は、いずれも芸能屋台で、江戸の歌舞伎舞台が祭礼曳山に仕組まれた発達過程をそのまま物語るものであり、祭礼曳山によって庶民劇場を街中に短時間で組み上げることは、劇場発達史的見地からも極めて貴重な存在である。
夜祭というと夜だけの祭りと思われがちだが、朝9時ごろから各町内を始め、神社で屋台芝居、曳き踊りが見物できる。祭りのクライマックスは、3日夜、お旅所下の急坂を豪快な屋台ばやしで1台1台曳き上げるときで、まさに動く不夜城の絵巻であり、折から打ち上げられる大仕掛け花火との競演は、祭りを見る人々の心を興奮のるつぼへ誘い込むのである。
寛政、天保の改革等その都度禁止の圧力を受けながらも、夜祭の灯は秩父の人々の生命の灯となって護りつづけられ、現在は20万余の観光客で賑わっている。
また、この笠鉾、屋台の6基、屋台芝居、曳き踊りと屋台ばやし、神社の神楽と一連の祭行事が国の文化財に指定されており、秩父夜祭、が日本三大曳山祭として知られている。
昭和56年3月 秩父市
(現地案内板説明文より)

秩父神社の由緒については先に調べた通りですし、秩父夜祭についてはこれからの予習としておいて、ここでは少しだけ「日本三大曳山祭」について調べてみました。
一般的には、飛騨高山祭、京都祇園祭、そして秩父夜祭の3つの祭りが「日本三大曳山祭」といわれているようですが、一部、長浜曳山祭(滋賀県長浜市)を取る説もあるようです。その場合は、飛騨高山祭、京都祇園祭、長浜曳山祭となるようです。まあ、この手の三大○○は正式に誰が決めたわけでもないので、諸説あるのが逆に一般的です。それよりもこの三大曳山祭にはもう一つの称号があり、それは日本三大美祭と言う名称のものです。
この説明にも“動く不夜城”とあり、別名“動く陽明門”とも言われているように、煌びやかな屋台の祭りであることは間違いないようです。何か気品のある風雅な祭りのような気がしてきます。
「日本三大美祭」、その美しさを後ほどたっぷり堪能することにしましょう。

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