秩父神社 #2

大分雨脚も弱くなり傘を差すか。差さないか迷う程度の雨となってきました。
やはり天気予報どおり午後からは雨も止むような気配となっています。
なかなか精度の高い天気予報です。

秩父神社参拝

下境内を抜けて社殿に参拝にあがります。
多少小さいながらも美しい神門があります。ここからが正式の神域ということでしょうか。
神門
神門の手前の両側にはさすが祭りだけあって、たくさんのお神酒が奉納されています。
まさに祭風情が色濃いところです。

神門を抜けると参道の脇に神輿が奉納されています。神幸行列で神霊の乗る神輿です。
鳳輦 鳳輦
かなり綺麗な神輿で屋根の上に鳳凰が乗せられているので「鳳輦」なのでしょう。
まさに夜祭の主役です。
鳳輦の右手には大きな銀杏の木がありますが、どうやらご神木のようです。
神木イチョウ
樹齢約400年といわれているそうで、秩父神社の社紋が“銀杏の葉”であるくらい、秩父神社を代表するご神木なのです。
イチョウ紋 《秩父神社の銀杏紋》
ご神木の銀杏の反対側、参道の左側にも銀杏の木があります。
乳銀杏

「乳銀杏」について
昭和8年夏に秩父宮両殿下が当社をご親拝された際,夫々に銀杏の苗木をお手植え戴きました。このうち秩父宮勢津子妃殿下がお手植えになられた銀杏は、女性のふくよかな乳房のような形に育ったことから「乳銀杏」とも呼ばれて親しまれています。
銀杏は今から1億5000万年前頃に地球上に繁茂した植物で、その後の氷河期に10種以上あった種類が寒さで滅亡し、ただ1種のみが中国大陸に生き残りました。これが今に伝わる銀杏の原種です。日本には室町時代に渡来し、社寺木や庭木として多く植えられましたが、今では街路樹や公園樹としても重要なものとなっています。
銀杏は原始的な植物のためか、「乳銀杏」のほか「お葉付き銀杏」(葉の上に種子ができる)など、変わった性状のものが表れることがあります。「乳銀杏」の幹の太い枝の付け根付近から、鍾乳洞の鍾乳石のように垂れ下がっている部分には、柔らかい細胞の組織に多量の澱粉が含まれています。これは成長の発育を妨げられた短枝や、その短枝から発生した潜伏性の不定芽のところで栄養分が蓄積されることによって形成されますが、雌雄の株とは関係なく、むしろ雄木に多く雌木に少ない傾向があります。それは雌木が種子を付け栄養分を消耗するからだと言われています。
古く万葉集にも「乳の実の父の命 ははそばの母の命」と謳われている通り、銀杏は乳の実の成る樹木として、また母親のもつ穏やかな印象と重ね合わせて尊ばれてきました。御神霊の鎮まります「柞乃社」の大切な御神木の一樹としてご案内申し上げます。
秩父神社社務所
(現地案内板説明文より)

これがその“乳”と呼ばれる由縁の部分です。
乳銀杏
実に奇妙なといえる光景です。どの程度の確率でこの乳銀杏が発生するのかはわかりませんが、秩父宮勢津子妃殿下のお手植えというところがより貴重なものとされ、秩父神社のご神木である銀杏に彩を添えるものといえるでしょう。
ちなみに“お葉付き銀杏”とは簡単に言えばギンナンに葉が付いたものと考えればわかりやすいです。
お葉付き銀杏 《お葉付き銀杏:(C)山形県鶴岡市観光協会》
それにしても秩父の乳とは何とも目出度いような…。
更にその先には電柱のようなものが立てられていますが、何と罰当たりな諏訪神社の「御柱」だそうです。
御柱

秩父御柱大祭
信州諏訪本宮に倣い、境内諏訪社も番場町民挙がりて例大祭宵宮に「山出し」された「御柱」を、当所、大曽根家前より番場妙見通りを「里曳き」し、同日夕刻「建御柱」をも執行するものなり。
第1回:昭和62年卯歳9月26日、第2回:平成4年申歳9月26日、第3回:平成10年寅歳9月26日、第4回:平成16年申歳9月26日、第5回:平成21年丑歳9月26日
(現地案内板説明文より)

本家よりはずっと細いですが、それでもこれを曳き回してくるのは、それはそれで壮観かもしれません。
参道には多くの方が参拝の順を待っています。
そしてこちらが拝殿です。
拝殿 拝殿
美しい彫刻が施された壮麗な拝殿です。
それもそのはずで、この社殿もまた文化財なのです。

県指定有形文化財(建造物)秩父神社社殿1棟 付 天正20年の棟札1枚・神輿1基
昭和30年11月1日指定 所在地:秩父市番場町1番1号1、所有者:秩父神社
延喜式内で、12月3日の秩父祭は有名。今の社殿は天正20年(1592)3月徳川家康が社領57石を寄進して代官成瀬吉右衛門に建造させたものと伝えられ、権現造の美しさは県下でも代表的なものである。
また、社宝の神輿は県下最古で室町末期の作といわれ、鳳輦輿に由来した古式である。
棟札は武田信玄侵入によって永禄12年(1569)に社殿が焼失し、家康の関東入国をもって天正20年(1592)に再建されるに至った次第を知る貴重な資料である。
(「秩父市の文化財」より)

当初、天正元年に再建を図ったそうですが、そのときは実現できなかったそうです。 しかしながら、天正20年の再建時には妙見宮を中心として、現在の形が再興されたようです。
現在は、明治時代の神仏分離によって「秩父神社」となり、社額もかつての「知知夫神社」と記載されています。
扁額
また、この壮麗な彫刻はそれぞれが意味合いを持ち、現在の秩父神社にとっては社宝ともいえる貴重なものといえるでしょう。
先ずは拝殿の両側にある虎の彫刻ですが、今日は大祭なので、花火を初めとした奉納供物がたくさん並べられたりしており、ちょっと見難くなっています。
奉納供物

「子宝 子育ての虎」について
未だ群雄割拠の戦国時代、当社は甲斐の武田信玄公の手により、永禄12年(1569年)に焼失の後、徳川家康公のお力により現在の社殿が再建されました。
家康公は、寅の年、寅の日、寅の刻生まれということで、虎にまつわる物語が少なくありません。それにちなんでか、当社の拝殿前は四面にわたってすべて虎の彫り物が施されています。
特に拝殿正面左より2つめの、子虎とたわむれる親虎の彫刻は、名工左甚五郎が家康公の威厳とご祭神を守護する神使いとして彫刻したものと伝えられています。当時の狩野派では、虎の群れに中に必ず1匹の豹を描くことが定法とされていたことから、母虎があえて豹として描かれているのが特徴的です。
いずれに致しましても、子育てにちなんだ虎の逸話は数多く、皆様のお子様やお孫様の健やかなご成長を祈り、親の心得を添えてご案内申し上げます。

親の心得
赤子には肌を離すな 幼児には手を離すな 子供には眼を離すな 若者には心を離すな
秩父神社社務所
(現地案内板説明文より)

家康の生母である正室・於大の方は強運な男子の出産を願って、三河の国の鳳来寺に参拝し、通称「峰の薬師」といわれる薬師如来に願をかけたのだそうです。その験あって先の寅、寅、寅(はて、どこかで聞いたような…)に生まれたのが、幼名竹千代である家康だったのです。物語はここからで、その家康が生まれたときに、「峰の薬師」の本尊薬師仏を護る十二神将のうち寅の方角(東北)にある寅童子と呼ばれる神像が消えうせたというのです。このことから竹千代は寅童子の化身と噂されたそうです。
そして遥か後の元和2年4月17日家康が亡くなると同時に鳳来寺には、それまで消えていた寅童子の神像が忽然と現れたのだそうです。当然、寅童子が消えた後に寺では代わりの木像を作ってあったので、本来12の像がこの時13体になってしまったという、嘘のような、本当のような、嘘のような…、といった話が伝わっているのだそうです。
事の真偽は別としてこの鳳来寺は、於大の方の鳳来寺祈願を知った家光により850石の幕府からの庇護を受け、大いに隆盛を極め、現在に至っているといった物語があるのです。

その様な曰くのある寅の彫刻ですが、やはり見事な虎が施されています。
子宝 子育ての虎
幟によってちょっと見づらくなっていますが、確かに子虎が載った母虎をよく見れば毛並みが“豹”の模様になっているのが判ります。何故に豹を描くようになった理由は良く判りませんが、一つ勉強になりましたね。
ライオンはわが子を谷に落とす、という逸話がありますが、虎にはどんな子育て法があるのでしょうか。いずれにしても我が家でもほぼ子育ては終わりに近く、後は“心を離すな”だけでしょうかね。

社殿を時計回りにグルッと廻って見ます。
拝殿の左側には鳳凰が描かれています。
拝殿の左側の彫刻
完成当時は極彩色の美しい輝きを持っていたのだろうと想像されます。
幣殿部には、物語のようにいくつかのシーンが描かれているようですが、中央の上の部分にあるのが「瓢箪から駒」なのだそうです。
幣殿の彫刻 瓢箪から駒
瓢箪を持っているのは仙人だそうですが、何となくアメコミのキャラのようです。
そして本殿の左側にも見事な彫刻が施されているのですが、その下の左側にあるのが「お元気三猿」というものだそうです。
本殿左側の彫刻 お元気三猿

「お元気三猿」について
三猿といえば日光東照宮が有名ですが、同じ徳川家縁の御社であるにも拘らず、当社の三猿は日光とはまったく違った表情をしています。
日光が古来の庚申信仰にちなんで「見ざる・言わざる・聞かざる」なのに対し、当社の三猿は「よく見・よく聞いて・よく話そう」という事で、現代の情報化社会にふさわしく俗に“お元気三猿”として皆様に親しまれています。
当社のご祭神である妙見様は、神仏の中心にあって、人間の元気な命を司る神様として永く信仰されてきたことから、特に不老長寿のご利益があると言われています。
今や人生100年とも言われる高齢化時代 この三猿にあやかって皆様がいつまでもお元気で、笑顔の絶えることのない生活ができますよう、参拝の機に「お元気三猿」の特製絵馬やお守りをお受けになり、従前にも増して見聞を深めつつ、家族友人共共に旅の土産話に興じて戴きますようご案内申し上げます。
縁起物:「お元気三猿 絵馬」初穂料1200円、「お元気三猿 福守り」初穂料600円
秩父神社社務所
(現地案内板説明文より)

なかなか興味深いものですが、その前にこの案内板、先ほどの「子宝 子育ての虎」と微妙に方向性が変わってきていませんか。その何と言うかご利益のおすそ分けというか、PRというか…。
お元気三猿
まっ、よろしいでしょう、皆が幸せになれるのなら。

日光の三猿はとにかく有名で、私自身三猿は日本の起源と思っていたのですが、古くは古代エジプトにもあり、シルクロードを経由して中国から伝わったものなのだそうです。したがってこのような三猿の教えは各地にあるのだそうです。
論語:「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)
中国:「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」妊娠中の女性の胎教に対して。
朝鮮半島:「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」結婚前の女性への教育
マハトマ・ガンジー:「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」3匹の猿の像を身に付けて教えた“ガンジーの三猿”
アメリカ:「猥褻なものを見たり、性的な噂を聴いたり、嘘や卑猥なことを言わないこと」日曜学校の教え。
というように、各地の文化によって意味するところは微妙に異なりますが、教えとしてのスピリッツは同じだといえるでしょう。
それに合わせて三猿の像も世界各地にあるようです。
世界の三猿:(C)国立民族学博物館 《世界の三猿:(C)国立民族学博物館》
更に世界の三猿や日本の庚申信仰、三猿についてのサイトもありました。

参考:【鎌倉の庚申塔の調査報告】http://www.kcn-net.org/koshin/index.html

最後にこの「お元気三猿」はここ秩父神社だけではなく、山口県の秋吉八幡宮にもあるようです。
秋吉八幡宮の三猿:(C)みとう情報ナビ 《秋吉八幡宮の三猿:(C)みとう情報ナビ》
意外と三猿って奥が深いのですね。

次は本殿の後ろ側です。
本殿後の彫刻

「北辰の梟」について
ご本殿北側中央に彫刻された梟は、「北辰の梟」といって、菱川師宣描く有名な浮世絵の「見返り美人」よろしく、体は正面の本殿に向き、頭は正反対の真北を向いて昼夜を問わず祭神をお守りしています。
当社のご祭神である妙見様は、北極星を中心とした北辰北斗の星の信仰で、この梟の見ている方向に妙見様が出現することからも、ご祭神と特に縁の深い瑞鳥であると言えるでしょう。
洋の東西を問わず、梟は知恵のシンボルと考えられており、当社がご祭神 八意思兼命が知恵の神として崇敬の篤いことと重ねて、思慮深い神使として社殿北面に施されたものと思われます。
このご利益にちなんで、机上に置いて学業成就の霊力を得る「梟の置物」をはじめ、「梟=不苦労」に通じることから、開運招福の標とし素焼きの音色が楽しい「梟の福笛」など、参拝の記念にお受け戴きますようご案内申し上げます。
縁起物:「梟の置物」初穂料1200円、「梟の知恵守り」700円、「梟の根付守り」600円
秩父神社社務所
(現地案内板説明文より)

梟はお守りが3種類に増えています。“梟=不苦労”はたしか深谷市の招福大観音の梟像に記載されていました、実に言い得て妙と感心してしまいます。
「昼夜を問わず祭神を…」とあるので、夜行性の梟がどうして昼もお守りできるのだろうとツッコミどこと思いきや、確かに夜行性ではありながら、強風や雨天などが続いた場合などは昼間でも狩りを行ったり、保存した獲物を食べるのだそうで、あくまで活動が人間などと昼夜逆転しているだけで、夜更かしならぬ“昼更かし”や、宵っ張りならぬ“朝っ張り”な梟もいるのでしょう。
日本では梟は死の象徴とされ、梟を見かけることは不吉なこととされていたのですが、現在では先の「不苦労」の様に福を呼ぶものとも言われています。逆にヨーロッパでは「森の賢者」と言われ、学問の神、英知の象徴とされていることから、地域によって随分と扱いが違うものです。
ただ、残念なことに丁度一時雨脚が強くなったので、写真が殆どボケてしまい、見返り梟がはっきり解かりませんでした。
北辰の梟

ちょっとここからは本殿を離れて、社殿の裏にある妙に長い神社を参拝します。
天神地祇社
一見したところ塀のようですが、よくよく見れば一つ一つが社に区分けされているようです。

天神地祇社について
平安時代から中世にかけて、朝廷の「二十二社」奉幣制度と共に、全国の各国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。かつて秩父地方は、知知夫国として独立した存在でありましたが、その当時には既に武蔵国に属しており、現在の東京都府中市に鎮座致します大国魂神社(別称 六所宮)が武蔵国の総社とされ、その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。
古くから当神社の境内社の一つとされて参りましたこの天神地祇社は、全国の一ノ宮(計七十五座)をお祀りしています。これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的にも珍しいものと思います。
何故、このような形でお祀りされたのかは定かではありませんが、一説によると当社のご祭神である八意思兼命が多くの神々の意見を纏められ、折々のご聖断を下される神様として古典神話の中で活躍されていることから、たくさんの一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われています。ともあれ、これも秩父の歴史風土に深く根差した独自の信仰の表れであると云えるかもしれません。
この天神地祇社それぞれのご神前にお参りすることによって、合せて全国の一ノ宮を遥拝することになりますので、ご案内申上げます。
秩父神社社務所
(現地案内板説明文より)

現在も過去においても「一の宮」というものは正式に決まられたわけではありません。そもそもは平安時代から鎌倉時代初期にかけて逐一整った社格で、朝廷や国司が指定したものではなく、各国において由緒の深い神社や信仰の篤い神社が勢力を有することになって、自然と神社の序列が生じて、その最上位にある神社を「一の宮」と呼び、以下二の宮、三の宮、四の宮と順位が付けられたのです。
一般的に「延喜式神名帳」の式内社に掲載されているという権威で一の宮を括る記述がありますが、あくまで諸国の一の宮がそれぞれで決められた後に、その一の宮だけを掲載したのが式内社ですから、今で言うところの“ミシュランガイド”に掲載されたという意味の権威は「延喜式神名帳」にはないのです。

このように一の宮に確固たる拘束力がないために、当然時代の変遷と共に変化も起きたわけです。その変化はある意味の争いとなり、大別すると2つの変化が挙げられます。
1つは一の宮の変遷です。
これについては武蔵国という実に身近に例があります。
南北朝時代の「神道集」の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社を二宮、氷川神社を三宮としていたのですが、室町時代に成立した「大日本国一宮記」では氷川神社が一宮とされていて、室町時代以降、氷川神社が一宮の地位を確立したと考えられているそうです。このような例はほかに、越中国、備中国にもあったようです。
また、一方の争いについても相模国という、ここでも比較的身近なところで起こっています。
7世紀頃、相武と磯長の合併により相模国が成立した際、寒川神社と川勾神社のどちらを一の宮にするかで争い、結局、現在の寒川神社が相模国一の宮となったのです。
これらの争いも、出羽国、越中国、佐渡国、肥前国、薩摩国でおこったようです。
現実として何かの特典などがあるわけではないのですが、やはり権威付けとして各社においては重要だったのでしょう。
その錚々たる一の宮をすべて勧請したのですから、ものすごい労力だったのでしょうが、何故にここまでやる必要があったのでしょうか、たしかに謎です。

最後は本殿の右側です。
本殿左の彫刻
ここには「つなぎの龍」なる彫刻が施されています。

「つなぎの龍」-左甚五郎作-
その昔、秩父札所十五番小林寺近くに「天ヶ池」という池がありました。その池に棲みついた龍が暴れた際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができていたことから、この彫り物の龍を鎖で繋ぎ止めたところ、その後、龍は現れなくなったという不思議な伝説が伝わっています。
ご本殿東側の鎖でつながれた青い龍の彫刻こそ、この伝説に語られた「つなぎの龍」の姿なのです。
昔から日本人は家や地域の四方を青龍、朱雀、百虎、玄武という神使が守っていると信じてきました。この彫刻も、当社の東北(表鬼門)を守護する青龍の姿を、名工左甚五郎が社殿彫刻に施したものなのです。
往古より家の鬼門に神仏を祀り、家内の安全と子孫の繁栄とを祈ることが行われてきました。夫婦や親子といった家族の絆が見直されている現代にあって、多くの庶民の願いは今も昔も変りません。
この「つなぎの龍」の特製絵馬を各ご家庭の居間や東北の角にお祀り戴き、ご家族皆々様のお幸せをどうぞお祈り下さい。
縁起物:「つなぎの龍 絵馬」初穂料1200円
秩父神社社務所
(現地案内板説明文より)

何か最後は“トーカ堂”の通販のようになってしまっていますが、確かに記念としてはうってつけかもしれません。
最後の彫刻はまた見事で、極彩色の絢爛さも伝わってきます。
つなぎの龍
丁度、この部分が鎖に繋がれているところのようです。
つなぎの龍
これまでにも何度か甚五郎の動く彫刻を見てきました。
川越市の喜多院鐘楼門の鳩を襲う“鷹”の彫刻、ときがわ町慈光寺の夜暴れる“名馬”、そしてさいたま市の国昌寺のあばれる“龍”などがありました。
左甚五郎自体が伝説的な彫刻職人と考えられており、実在しない人物と言われているのですが、確かに彫刻は存在しているのですから、当然作者はいるわけです。彫刻の評価としてもそもそも優れたものなのでしょうが、様々な物語が語られるようになったので、左甚五郎という伝説的職人が形成されたといえるのかも知れません。
社殿の右手にはそのお守りなどのある社務所があり、多くの方がそのお守りを受けていました。
社務所
最後に拝殿の右側の虎の彫刻を見ながら参拝を終えます。
拝殿右の彫刻
流石に由緒ある大祭を行う神社だけあって、芸術の宝庫ともいえるべく歴史と文化にあふれる社でした。

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