秩父夜祭 #2

秩父神社参拝に始まり、本町通を散策して屋台の曳き回しや屋台芝居を堪能しながら、気分は嫌が上にも盛り上がってきます。
それと同時に天気の回復を待っていたかのように、観光客もどっと増えつつあります。
まだまだ盛り上がり序の口の秩父夜祭です。

秩父屋台囃子

“秩父地方庁舎(北)”交差点周辺で遭遇した2台の屋台は、手前の屋台が「上町」で、向こう側の屋台が「本町」です。
屋台すれ違い
この辺りは自動車と同じ左側通行なのでしょう、恐らく。
徐々に近づいてくる屋台との間合いを図りながら、屋根の上に乗る方たちの出番です。
亀の歩みのようにゆっくりゆっくりとすれ違います。
でも、良く見れば“もうアカン”といった感じで、既に接触しているのではないかと思われるほどの窮地です。
屋台すれ違い
しかしそこで出た「本町」の伝家の宝刀、一本足蹴りです。
屋台すれ違い 伝家の宝刀
見事、この一蹴りで屋台はすれ違いできるようになったようです。
屋台すれ違い 屋台すれ違い
だが、その懸命なすれ違いを大汗をかきながら(事実かどうかは不明…)舵取りをしている方に対して、今にも屋台から落ちるのではないかと思われるような、全身を使って盛り上げる囃子手の見事なパフォーマンスも見逃せないところです。
囃子手
まさに“人台”一体となった秩父夜祭の見せ場の一つでしょう。

大きな拍手とともに、無事にすれ違って向ってくるのが本町屋台で、囃子手の喜びようが印象的です。
本町屋台 本町屋台
本町には秩父神社の夏祭りである川瀬祭り用と、この秩父夜祭用の2台の屋台を所有しているのだそうです。これは「本町」がかつての秩父・大宮郷の中心であり非常に財力に富んでいたことから、別々の屋台が所有できたのです。
他の町会と同じように凡そ享保年間(1716~1736)辺りに建造されたもので、登り勾欄のない古い形式の屋台です。
本町屋台
かつては2重勾欄という勾欄が2段ある珍しい形式だったようですが、大正3(1914)年の転倒事故以来現在の形となったそうです。
本町の屋台を間近でみると、囃子手の方々は体を屋台に括りつけているようです。
本町屋台
それであのようなパフォーマンスができたのですね。一生に一代の見せ場ですから。
そして屋台の後幕には、ダルマや天狗、凧や太鼓など子供の玩具が船に乗せられた、まるで子供の宝船のような刺繍がされています。
本町屋台 達磨
なかなか愛嬌のある後幕でした。

本町屋台を見送って今度は先に行った上町屋台を追いかけます。
上町の屋台の後幕の刺繍は“鯉の滝登り”という綺羅やかな絵柄です。
上町屋台
この上町屋台は4台の屋台のうちで一番大きな屋根をもつ屋台だそうなので、すれ違いもことのほか気を使わなければならないようです。
こちらは本町の屋台と違い、登り勾欄のついた比較的新しい形の屋台です。
上町屋台
比較的新しいといっても文化年間(1804~1817)の頃だそうなので江戸時代後期といったところです。
豪華絢爛という言葉が似合いそうな屋台で、こちらの囃子手も流石に見事なパフォーマンスを見せてくれます。
上町屋台
上町屋台の先に進んでみると、この辺りが曳き手の先頭のようです。
上町屋台 曳き手
屋台までの距離を考えると相当な人数で曳いている事が窺えます。
こうしてみると昨今の全国的な祭り事情と同様に女性の曳き手も非常に多いようです。
一部の祭りでは未だに残っている女人禁制といった歴史と伝統を守る風潮もわからないことではないのですが、基本的に参加できる方向で考えたほうが、時代に合っている、いわゆるそれも一つの歴史としてとらえられるのではないでしょうかね。祀られている神だって男女いるのですから…。
そういった意味では、歴史と伝統を持った秩父夜祭が女性に門戸を広げているところに非常に好感が持てますよね。

そうこうしている内に上町会所に到着しました。
上町会所
意外と渋い佇まいの会所で、一般的には町会所などと呼ばれるのが多いのですが、この地方では普段は公会堂と呼んでいるようで、ここは上町公会堂ということになるのです。
上町会所の通りを挟んで、お囃子が奏でられています。
ステージ上には「無形文化財 屋台ばやし保存会 秩父しののめ会」と書かれています。
秩父屋台囃子 秩父しののめ会
これは前出した文化財「秩父祭の屋台行事と神楽」によるもので、現在は秩父祭保存委員会がその保護団体となっています。
昭和30年に埼玉県指定無形文化財に指定された際には、秩父屋台囃子の保持者のうちの高野右吉が保持者代表となっていたそうです。しかし、この指定によると秩父屋台囃子の保持者である高野氏が加わって演奏される囃子のみが文化財となることから、改めて埼玉県では昭和52年に埼玉県指定無形民俗文化財と指定し、屋台町である中近、下郷、宮地、上町、中町、本町の屋台囃子保存会をその保護団体としたのです。
その後、昭和54年に国指定重要無形民俗文化財となったときに、その保護団体が秩父祭保存委員会となり、極論すれば「秩父屋台囃子」を演奏するのであれば文化財になりえると言うことになったようです。
その分、秩父市では「秩父屋台囃子」を演奏したいと言う人も増えるでしょうから、底辺も広くなり、一般的に言われている後継者問題にも対応できると言うことになるでしょう。
秩父駅前でも行われていたように、このような街角でもお囃子を聴くことが出来るのも秩父祭りならではと言えるかもしれません。

それでは「秩父屋台囃子」とは一体どのようなものなのでしょう。 この「秩父しののめ会」のステージでは大太鼓1、ちょっと小振りの大太鼓が1、締め太鼓(小太鼓)4、笛1の編成ですが、ステージ外に鉦の方が1人います。
秩父屋台囃子 秩父しののめ会
基本的に山車での編成も大きくは変らず、大太鼓1、締め太鼓(小太鼓)3又は4、鉦1、笛1で、これは山車の中で演奏されるため、そのスペース的な意味からの編成なのですが、いずれにしても山車の場合は外から演奏者は見えないのです。
それではその見えない演奏者たちは一体どのように演奏しているのでしょう。
山車でも笠鉾と屋台では違うようです。
笠鉾の場合は土台内部の前方の登り勾欄下に大太鼓が吊り下げられ、4つの締め太鼓がその後方に縦1列に並ぶのだそうです。屋台の場合は舞台後方の楽屋内に進行方向の後を向いて、右に大太鼓、その左に横1列に3つの小太鼓が並べられているそうです。鉦と笛については笠鉾・屋台ともに適当な場所でという結構アバウトな配置なのです。
かなり大きい山車といいながらも、これだけの物と人が乗ればかなり狭いものではないのかと想像するのですが、実はもっと想像を絶する人口密度なのだそうで、演奏のために一度に乗り込む人数は、笠鉾で20人前後、屋台では15人前後なのだそうです。
これは山車が曳行されている間は常に演奏していなければならないため、特に大太鼓などの場合は2~3分程度で交代しなければならないためです。従ってあの山車の中に15人以上の人が乗っていると考えると息苦しささえ覚えてきそうです。
更にこの山車にのらない交替要員が山車の外に控えているのですから、ある意味ではお囃子も実に過酷な役割ともいえるでしょう。

次に実際の演奏方法はというと、厳密に細かい決まりはないようです。
基本的なリズムは大波小波が打ち寄せる様を表現したものといわれ、山車が前進する際には大太鼓を中心として渾身の力を振り絞ってリズミカルに打ち鳴らし、街角を曲がる際には、小太鼓のみによるテクニカルな叩き方をする「玉入れ」という特殊な奏法を使うようです。
このように大枠だけが決まっていて、リズムにしても各々個性を発揮しながら演奏するようです。つまり鉦や笛はまさにインプロヴィゼーションの世界といえそうで、コルトレーンよりはオーネット・コールマンの「ダンシング・イン・ユア・ヘッド」といったイメージでしょうか。
よくインプロヴィゼーションは魂の叫びなどど形容されるされることがありますが、この秩父屋台囃子は、まさに350年近い歴史と伝統の古からのメッセージと言えるでしょう。

御旅所

ここまで来て本来の神幸行列のルートを外れていることがわかり、先にすれ違いのあった秩父地方庁舎(北)交差点へ戻ります。
交差点から“聖人通り”を東に進みます。
聖人通り
しばらく進むと左手に寺院が見えます。秩父札所13番の「慈眼寺」で、その反対側の白い布で覆われた部分が慈眼寺の用意した夜祭の観覧席のようです。
慈眼寺
さすがに秩父夜祭りだけあって、檀家のためにこのようなサービスをしているようです。 実に大きなご利益といえるかもしれません。
そして神幸行列ルートは、その先に見える信号を左折して御旅所を目指すのですが、その信号先の少し進んだ左手に「東町会館」があり、この日は会館を解放しているようでした。
聖人通り交差点
会館の前を行列が進むわけではないのですが、交差点での光景が見られ、また屋上からは「御花畑駅の踏み切り」も眺められ、また花火も見られ、更に今日1日で入り自由で休憩も可能といううたい文句で、3,000円というスタッフの方いわく実に良心的な価格で提供されている休憩所です。
現在まだ3:00前で、これから少なくとも3、4時間は彷徨うか、どこかで休憩しながらか、場所取りをするかしなければならないと考えると、体力的に軟弱な我々にはうってつけとばかりに、使わせてもらうことにしました。
とりあえず利用券だけ購入して、先に進むことにしました。
東町会館チケット 東町会館チケット

先ほどの信号に戻り迂回するとそこは御花畑駅前の踏切です。
御花畑駅前踏切
丁度、踏み切りの向こう側から団体の方が歩いてきます。やはり多くのツアー客が訪れているようです。
さて、山車はここを超えて御旅所に向うのですが、その最後の難関が踏み切りの先に見える「団子坂」です。
団子坂
もう少し近ずくとその坂の急さが理解できます。 僅か23mしかない坂ですが、その距離が短いからこそ急坂となっているのです。
人が歩く分ではそう苦労はありませんが、いかんせん20トン近いだしを曳き上げるのですから大変なことでしょうが、それだけに見せ場となるわけです。
余談ながら、全国にある「団子坂」のなかで一番有名なのはやはり文京区千駄木の「団子坂」でしょう。これは夏目漱石を初めとして、江戸川乱歩、森鴎外、二葉亭四迷、正岡子規などによって記されたことからであると推測されますが、この千駄木の「団子坂」の由来には坂の下に団子屋があったからという説と、急な坂なので雨降りの日に転ぶと泥まみれの団子のようになるからという説があるそうですが、この秩父の「団子坂」の由来はどういったものなのでしょうか。
その団子坂を上から見るとこのような光景で、より急坂であることがよく判ります。
団子坂

さてその団子坂をあがった御旅所の観覧席がこちらです。
御旅所 御旅所
ここは有料観覧席で、抽選によるものだそうです。以前までは抽選の上、早いもの順だったそうですが、現在では指定席制度に代わったことから、早くから来て場所取りすることはなくなったそうです。
何れにせよ狭き門です。
後の建物の右側が秩父市役所で、左側が秩父市歴史文化伝承館だそうです。
本来なら見逃せないところですが、今回はスルーです。
観覧席の反対側に幟の立っているところが、秩父夜祭の中心地・御旅所で、ここに向って神幸行列が秩父神社から出発するのです。
御旅所

市指定史跡 秩父神社大祭御旅所
秩父神社大祭の神幸祭は、12月3日この御旅所を中心に行われる。国の重要有形民俗文化財に指定される秩父祭の笠鉾・屋台6基が曳き揃えられるのもこの御旅所前である。
山車供奉の起源は詳らかでないが秩父神社の古記録によれば、神幸祭に供奉する屋台の記述は江戸寛文年間(1661年~73年)にあり、その頃と思われる。
なお御旅所中央の亀の子石は、当日神幸の大幣がその背に立てられる神聖なもので江戸末期まで秩父神社が妙見宮と呼ばれていた時代の信仰に由来するものである。
昭和29年11月3日指定 管理者・秩父神社 
秩父市教育委員会
(現地案内板説明文より)

秩父神社のところで記載したのですが、妙見信仰とは一般的には仏教で言うところの北辰妙見菩薩に対する信仰を言うわけで、その原型は道教における星辰信仰、いわゆる北極星や北斗七星に対する信仰なのです。
道教では、北の天(空)にあって動かない北極星を宇宙の全てを支配する最高神・天帝として崇め、その傍で天帝の乗り物とされる北斗七星は、天帝からの命令で人々の行状を監視し、その生死や禍福を支配するものと考えられていたのです。
そこから北極星や北斗七星に祈れば福がもたらされ、長生きできるという信仰が生まれ、これが仏教に入って妙見信仰となったのです。
その表れが位置関係で、秩父神社・亀の子石・武甲山は地図上では一直線に並んでいて、更にその北の延長線上に北極星が位置しているという配置なのです。
知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前からかは定かではないのですが、そもそも武甲山は秩父神社の神が宿る神奈備山として信仰されてきたものですから、秩父夜祭が武甲山への信仰の表れであるのも当然のことなのです。そしてそれが妙見信仰と結びついた時点で、秩父神社と武甲山を結んだ間に亀の子石を置き御旅所としたものだと考えられるのです。武甲山はその当時は別名で妙見山と呼ばれていたようです。
そして亀は四神で言うところの北の象徴“玄武”であり、かつ妙見菩薩の乗り物と考えられている“亀”でもあることから、ここに亀の子石が安置されたと考えるのが妥当でしょう。

御旅所の後ろにある三角形の尖った山が武甲山で、その武甲山と秩父神社の直線上にある亀の子石がこちらです。
武甲山亀の子石
普段は覆い屋があるのだそうですが、この日だけはとり外されるそうです。
かなり崩れかけている亀の子石ですが、これが歴史の重さなのでしょうか。
その後ろにある台座が神幸祭の神輿を安置する社のようです。
神輿台座
そしてここで神事が執り行われて、一応、秩父夜祭のクライマックスとなるはずです。
実際にここでの神事は見られないでしょうが、350年の伝統を感じ取っておきたいものです。

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