秩父夜祭 #3

こうして秩父夜祭の神幸行列のルートを辿ってきました。
地図上ではそれ程距離があるようには思わなかったのですが、歩いてみると混雑もあってでしょうか、意外と長く感じました。
これを20トン近くの山車を曳き回すのですから、大変な労力でしょうが、それもまた1年に1回の秩父っ子の意気込みなのでしょう。歴史と伝統をさせる一人ひとりの誇りが、その力を引き出しているのではないでしょうか。

番場通り

時刻はそれでもまだPM3:00前です。
一旦、ここは秩父駅に戻って帰りのバスの予約手続き済ませなければなりません。帰りはPM11:00発の秩父鉄道バスの「東京カエルライナー」の予約をしてあったので、代金の支払いをしに戻ります。
秩父駅へは、本町通ではなく「番場通り」を通っていきます。

この「番場通り」は秩父神社の鳥居に続く表参道で、門前町として賑わった面影の残る通りなのです。
番場通り
歴史ある通りなのでそれ自体が狭い通りですが、今日は露店も出ているので更に狭く、人がごった返しています。
かつてはここを神幸行列で山車が曳かれていったそうですが、当然すれ違いなどは出来ませんので、常にどちらかの一方通行だったのでしょう。
本来であれば昭和レトロな街並みが見られるのですが、余り立ち止まることもできず、更に人と露店しか見えない感じです。まあ、これもお祭ならではの光景と言えるでしょう。
しばらく進むと店舗の駐車場でしょうか、ここでも秩父屋台囃子が行われていました。
ここでは「杉山社中」という団体が屋台囃子を繰り広げています。
屋台囃子 杉山社中 屋台囃子 杉山社中
ステージ前には特設のテーブルセットで各々が一杯引っ掛けながら楽しそうに観覧しています。こういう雰囲気もまた祭ならではでしょう。
先にも「秩父しののめ会」がありましたが、こちらの「杉山社中」はおぼろげながらプロフィールが確認できました。
昭和63(1988)年、小鹿野新原太鼓大会でデビューし、3町村11チームの参加中でいきなる最優秀賞(第1位)に輝いて以来20年以上の歴史を誇る秩父屋台囃子会です。
2003年日本太鼓秩父祭り、国宝松本城太鼓祭りに出演し、2004年には東京国際和太鼓コンテストの本選に出場し、見事敢闘賞(全国第3位)を受賞した実力派の囃子会のようです。この秩父夜祭にも15年以上出演している老舗団体とも言える「杉山社中」なのです。

番場通りを先に進むと左手の一角の店舗にたくさんの人だかりがありました。
安田屋というお肉屋のようですが、店頭に吊られた猪が迫力です。
安田屋
この安田屋は大正6年の創業で、猪肉、牛肉、豚肉などの味噌漬けを扱っているのだそうで、秩父ではかなり老舗のようです。
その先に進み路地の先の駐車場の一画に何やら屋台のようなものがあり、人だかりがあったので寄って見ました。
諏訪渡り神事 諏訪社
屋台ではなく小さな社でした。

諏訪渡り神事
俗説には、当諏訪本宮にお祀りされていますお諏訪様は武甲山の男神の「本妻さん」と呼ばれています。
妙見祭礼(秩父夜祭)は、俗に秩父神社の女神の妙見様と武甲山の男神の龍神様が年に一度の逢瀬する祭りといわれています。
お諏訪様がこのお忍びに気を悪くなさらないようにと、祭礼の前日の2日夜に諏訪本宮にお参りして、「諏訪渡り神事」が執行されます。(江戸時代は祭礼の当日の朝に神事が執行されたことが記されています)
「諏訪渡り神事」は、2日午後7時宮司宅前を高張を先頭に祭員(神職)、番場町会役員・関係者、市場関係者会代表者などが参列し、諏訪本宮に向かって太鼓・笛奉奏しながら進行します。
諏訪本宮にて参列、舗設の後、神職の修祓献饌・祝詞、祭員・代表者の玉串拝礼、徹饌、清めが行われ、行列をなし神社へ引き返し、神事が終了します。
また、3日の夜、屋台と笠鉾がこの番場町のお諏訪様の前を巡幸する際は、一旦停止し、屋台囃子は休めるという風習が残っています。
巡幸が番場通りから現在の本町通りの巡幸コースに変更されてからもこの風習は残されています。
番場町祭事部
(現地案内板説明文より)

現代で言えば不倫、浮気といったところでしょう。但し江戸時代あたりまでは側室は当たり前のことでしたから、太古にあっては極当然のことかもしれません。ただ、もし極当然のこととすれば「諏訪渡り神事」をして許しを受けなくても良いようなものですが、いかがなものでしょうか。
それはともかくとして、先に参拝した秩父神社の境内社にも諏訪社があり、御柱祭まで行われているとのことでした。2つの諏訪社の関係と秩父神社の関係はどういったものなのでしょうか。
当然、ここにある説明のように番場町の諏訪社のお諏訪様とは女神であるわけです。そこから考えれば本社の諏訪大社の祭神が「建御名方命」と「八坂刀売命」であることから、ここには女神である「八坂刀売命」が祀られていると考えるべきなのでしょう。そしてこの番場町の諏訪社から秩父神社の諏訪社へ勧請されたといわれていることから、秩父神社の諏訪社の祭神は「建御名方命」となるのでしょう。
これで何となく立場関係が理解できたのですが、一つよくよく考えてみれば、八坂刀売命は建御名方命の妃神なんですね。ということは番場町と秩父神社にそれぞれ別居、あるいは離婚して祀られているわけです。まあ、本妻さんと呼ばれるくらいですから離婚しているのでしょう。でなければ三角関係ならぬ三角不倫ということで、かわいそうなのが建御名方命と言うことになってしまいます。
実に面倒な話となってきましたが、まあ、神話の世界が現代でも繰り広げられていると言う、実にロマンあふれる夜祭としておきましょう。

再び番場通りに戻って北上します。
先にも増してものすごい人の数となってきました。これも時間も徐々に迫り、天気も完全に回復したことにもよるでしょう。
そして秩父神社の鳥居が見え始め、秩父神社前交差点の左側にお囃子の奏でられているスペースがありました。
番場通り 妙見の森公園
ここは「妙見の森公園」というそうで、平成17年に消防署跡地を利用して整備された市の公園だそうです。
奥にある立派な建物は番場町の屋台収蔵庫で、その一部に秩父市が管理するステージが設えてあります。随時イベント等で使用されているようですが、この日は当然屋台囃子が奏でられていました。
屋台囃子 蓼の実会
たて看板には「無形文化財秩父屋台囃子 蓼の実会 秩父市諏訪町」と書かれています。
こちらの会のプロフィールは良く判りませんが、やはり伝統を守り受け継いでいく保存会の一つということなのでしょう。一体秩父には屋台囃子の保存会がいくつあるのでしょうか。まあ、それだけ多くの方が秩父屋台囃子と秩父の祭りを誇り守っていることになるわけで、次第に後継者が少なくなっている各地の民俗芸能関係者からはうらやましい限りかもしれません。

やっと秩父神社にたどりつき、ここから再び秩父駅に向います。
秩父神社
秩父駅の「地場産センター」の夜祭壁画を見ながら、秩父鉄道窓口に向かい帰りのバスの手続きを行いました。
地場産業センター 夜祭壁画
この時点で時刻はまだ3:00過ぎですが、秩父鉄道から吐き出された多くの観光客で駅前もごった返しています。
秩父駅前ロータリー 秩父駅前
駅の横にあるバスがその「カエルライナー」ですが、その隣の「秩鉄タクシー」の事務所は、流石に夜祭の町・秩父に相応しいような屋台の形になっていないでしょうか。
秩父鉄道バス

おねり(歌舞伎道中)

ここからは再度お花畑駅近くの東町会館に戻って一休みすることにします。
今までの祭り見学からすると、パワーと持続力のない我々は、大抵このあたりで帰路につくのですが、流石にこれからが本番の夜祭では帰るわけにもいきません…。
再び戻るのに今度はまた本町通りを戻ることにしました。
通りの右側に古そうな建物があったので寄って見ました。
ほっとすぽっと秩父館
「ほっとすぽっと秩父館」と書かれています。
ここは明治時代初期に建築された「秩父館」という宿を、“みやのかわ商店街振興組合”が借り受けて観光拠点とした建物だそうです。
中に入ってみると様々な物産などが展示・販売されていますが、完全に休憩所と化しており、足の踏み場もないといった風情なので早々と退散しました。
ほっとすぽっと秩父館
普段であればもう少しゆっくりみられるのでしょうが仕方ないことです。

本町通を南下すると昼過ぎに屋台のすれ違いを見た本町の屋台が待機していました。
本町屋台 本町屋台
出発は4:50分と書かれていたので、まだ大分時間がありそうです。
屋台を見ると夜に備えてでしょう、昼の曳き回しの際には見られなかった提灯が巡らされていました。これが一斉に灯が燈されるのですから、さぞ美しい光景が見られることでしょう。
屋台の向こう側には大変な人だかりがあるので、屋台の先に行って見ると何やら歌舞伎役者が大勢出ていました。
おねり(歌舞伎道中)
どうやらこれが「おねり(歌舞伎道中)」と言うものだそうで、ここから秩父地方庁舎交差点辺りまで歩いてから歌舞伎を行うようです。
おねり(歌舞伎道中) おねり(歌舞伎道中) おねり(歌舞伎道中)
老若男女が入り組んだ歌舞伎役者が、そのままの舞台衣装で練り歩くのですから目立たないわけがありません。

この秩父夜祭では、屋台・笠鉾の山車、秩父屋台囃子とともに歌舞伎も重要なファクターのようです。
以前から秩父地方では「小鹿野歌舞伎」が知られていますが、今回、屋台芝居でも行われた「秩父歌舞伎」について少し知っておく必要があるようです。
日本には民俗芸能に関する全国組織として「(社)全日本郷土芸能協会」という唯一の団体があり、民俗芸能の育成・振興を図り、文化の発展を目的として設立された組織です。 そしてこの協会に加盟している埼玉県内の団体は8団体ありました。
秩父市:秩父屋台囃子(高野右吉社中)保存会(囃子)、秩父祭屋台囃子保存会(囃子)、秩父歌舞伎正和会(地芝居)
秩父郡:小鹿野歌舞伎保存会(地芝居)、小森祭りと文化を守る会(地芝居)
熊谷市:熊谷うちわ祭協賛会(祭り)、熊谷山車屋台祭保存会(囃子・祭り)
新座市:武州里神楽(神楽)
これらの団体が、各地の民俗芸能を代表する団体ということではなく、あくまで一つの例としての団体と認識しておきましょう。
そしてこの中に「秩父歌舞伎正和会」というのがあるので、今度はこの正和会について調べてみました。

秩父歌舞伎正和会
手づくりの農村歌舞伎を継承し、他地域の地芝居も支援
代表:坂本 三男 氏 (2007年8月更新)
秩父夜祭での公演
秩父地方には江戸時代から300年続く地芝居の伝統があり、庶民が歌舞伎に親しんでいた。この地域で太平洋戦争中「出征遺家族慰問の夕べ」という催しで歌舞伎を上演していた有志が中心となり、1947年に秩父歌舞伎正和会を結成。戦時中途絶えていた秩父夜祭での屋台芝居を復活させ、ここでの歌舞伎披露を軸として活動を行っていた。
1970~80年代には会員が4~5人にまで減少し、会の存続が危ぶまれたこともあった。しかし秩父の住民によって「『秩父歌舞伎正和会』保存会」が結成され、地域ぐるみの後援が得られるようになって、危機を乗り越えた。以来、地域に根差した活動を心がけ、屋台芝居以外にも市民会館などで定期的に公演を行うようになり、秩父の人々に昔ながらの地芝居に触れる機会を提供している。
また、茅葺の農村舞台である「萩平歌舞伎舞台」で60年ぶりに復活公演を行い、秩父地域の伝統文化の再興にも力を尽くしてしてきた。1999年からは市内3ケ所の小中学校の歌舞伎クラブに出かけ、歌舞伎の演技指導や子ども歌舞伎の公演も行っており、こうした積極的な取り組みが、地域づくりにも寄与している。
正和会のメンバーは20名ほどで、秩父に暮らす20代から60代の歌舞伎の愛好者たちが、仕事を終えた平日の夜、週に2回の稽古に集まる。稽古にきちんと参加できることを条件として、会員数を大幅に増やすことはないので、公演の際は役者はもちろん、舞台設営から当日の裏方まで一人何役もこなすことになる。衣装や鬘、大道具等は全て手作りで、様々な演目に対応できるものを揃えている。豊富な持ち道具は正和会の財産であり、公演のたびに自分たちで手直しや新調を行う。
また正和会では江戸時代に活躍した喜熨斗屋坂東彦五郎の名跡を継承していて、今年2月には12代目の襲名披露を行った。襲名はリーダー的な人物によって代々行われ、12代目を継承したのは30代の若手である。伝統芸能の団体としては大胆な若返りにも見えるが、稽古を重ねた実力が認められての襲名であり、後継者の育成に成功していることが正和会の大きな強みだと言える。
さらに、関東各地に出かけて歌舞伎の演技指導を行うなど、地芝居の復興にも積極的に取り組んできた。埼玉県外からの公演の依頼も多く、定期的な公演とあわせると年10回以上もの公演数になる。稽古のほか、これらの準備なども含めるとほぼ毎日が活動日と言っても過言ではなく、その熱心な活動ぶりは他団体からも一目置かれている。
秩父歌舞伎正和会は地域に密着した伝統芸能の姿を自ら体現すると同時に、次世代や他地域にまで目を配り、地芝居そのものの振興に大きく貢献してきた。今後もその着実な活動を通して、地芝居の手作りの味わいを多くの人々に伝える役割が期待される。
(サントリー文化財団ウェブサイトより)

これは2007年に「サントリー地域文化賞」を受賞した際の概要です。
そもそもは、明治初年に結成された「和泉座」という歌舞伎劇団の座員であった“関口正”という人を指導者にして、昭和22(1947)年に結成されたもので、“関口正”の「正」の一文字を取って正和会と名付けたそうです。
そして上記のような地道な努力によって昭和44(1969)年、秩父市指定無形民俗文化財に指定され、平成8(1996)年には「秩父歌舞伎正和会歌舞伎衣裳・用具及び台本241点」が秩父市指定有形民俗文化財に指定されているのです。
煌びやかな伝統と由緒をもった秩父夜祭山車や屋台囃子の重要文化財とは違う、いぶし銀のような歌舞伎もまた秩父の宝といえるのでしょう。
といいながらも、じっくり歌舞伎を見てきたわけではないので、あまり偉そうなことはいえませんが、来年は行きそびれていた100選の小鹿野歌舞伎をじっくり見てきたいものです。

本町通の途中、こんな蔵造りの家の前に「歓迎 中近笠鉾 中町会・中町屋台保存会」とたて看板がありましたが、エールの交換といったところなのでしょうか。
中町会・中町屋台保存会
そういえば屋台4基はみられましたが、笠鉾2基をまだ見ていませんでした。
夜の神幸行列で見られると良いのですが…。

こうして昼の散策を終へ、東町会館で休憩としました。まだ4:30ころなので神幸行列出発の7時までにはまだ、2時間以上あり、また、この会館付近に来るのは8時ごろだそうなので、まだまだ時間はたっぷりあるのです。
しかし、会館に入って人口密度の高さに思わず驚愕しました。一体何人に販売したのでしょうか、と思えるくらいすし詰め状態です。
東町会館内
それでも畳1条に2名といったところでしょうか。何とか私のところでは横になって休めるくらいのスペースを確保できましたので、夫婦共々約1時間ほどの昼寝により体力の回復を図りました。
目が覚めたときにはPM6:00ころで、露店などで中途半端にお菓子などを食べてしまったのでお腹もすかず、かといって今更場所取りも億劫なので、もしばらくここで休んでいることにしました。
丁度、この頃になると部屋にいた方々も場所取りに出て行くので、随分部屋が広く感じてきました。元々は20~30畳くらいある座敷ですから人が少し減れば随分と快適です。部屋も暑いくらい暖房で温かくなっていますので。
もうしばらく待つことにしましょう。

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