江戸期には上尾宿・上尾村の商家でにぎわう

概要

現在の上尾駅東口広場前から、再び中山道を北上する。
この辺りは上尾宿の上宿になるが、地番は上尾宿分と上尾村分が入り乱れた地域である。江戸時代に市内随一の朱印高20石を与えられた遍照院は上尾村分で、その門前町とも言える商家の家並みもすべて上尾村分である。地元の古老に聞かないと、正確な地番が判らないと言う複雑さである。
文政11(1828)年の上尾村農間渡世覚書によると、総戸数101(寺院は除く)、うち専業農家62戸、諸職人12戸、農間商い渡世30戸である。この商い渡世の中で多いものは居酒・飯・うどん・そば屋7軒、餅・だんご・水菓子屋7軒、旅籠屋6軒である。ほかに穀屋・荒物屋・豆腐屋・たばこ屋があり、湯屋も1軒ある。覚書には営業開始年が記されているが、開業後100年もたつ古い店は3軒で、旅籠屋・荒物屋・居酒屋の各1軒である。これら30件の商家は上尾村分であるが、上尾宿分も宿場のはずれの家並みなので旅籠屋・居酒屋・だんご屋などが多かったと思われる。なおここで記された「とうふ屋さん」の中に、現在も営業している店も見られる(「上尾宿上尾村関係小川家文書」)。
上尾駅前から500m歩くと図書館西の交差点となる。この交差点に面したたばこ店の軒先に、庚申塔が建てられている。側面をみると延享2(1745)年3月の建立で、左側面には「上尾上町講中」と刻まれている。庚申塔は「邪気・悪霊」の侵入を防ぐため村はずれに建てられることが多いので、当時この辺りが上尾宿の家並みの最北端であったとみられる。天保9(1838)年の宿絵図をみると、この交差点より北側は一面に畑となっている。庚申塔から400mほど北上すると、現緑丘1丁目となるが、この辺りから北方は絵図では広大な山林となっている。この山林は入会地で上尾宿・上尾村分と共に、門前村・久保村の山林に続いている。
沖の上ノ村の東端も中山道に接しており、村絵図に野銭場(年貢課税山林)の記入がある(「上尾市史」第3巻)。
現北上尾駅入口から200mも歩くと県道上尾環状線の交差点となるが、この辺りは久保村分で「立場」とも俗称されている。「立場」は江戸時代の街道の宿駅の中間点で、人馬の休息するところである。この久保村に続く地が上村の小字「町谷」で、立場から1km余り歩くとようやく「桶川宿」の南端に到着することになる。

中山道を上る #2

後半はその上尾宿の転機となったJR上尾駅からのスタートです。

JR上尾駅 遠くに見える白亜の駅舎が上尾駅です。

この上尾駅は橋上駅舎完成から37年が経過し、老朽化と共にバリアフリーなどの要求に応えるために駅舎の近代化改修が2007年6月に着工され、改修は2011年1月に完了したものです。
この改修により東西自由通路の拡幅と全面バリアフリー化がなされ、駅外観も一新された新しい駅舎なのです。
現在、上尾駅は1日平均乗車人員は40,591人でJR東日本の駅の中では101番目、高崎線においては大宮駅、上野駅、赤羽駅、浦和駅に次ぐ5位というように、ベッドタウン上尾の一端をうかがわせる数字です。
上尾宿=上尾ベッドタウンですから、文字通りの発展をしてきたともいえるかもしれません。
このような慎ましい上尾駅を全国的に知らしめた上尾事件があったことを覚えている方ももう少ないかもしれません。

上尾事件とは1973年3月13日に上尾駅で旅客が起こした暴動事件です。
当時はストライキが禁じられていたため国鉄の組合側は、運行安全規範を遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆手に取った遵法闘争という労働闘争を繰り返し行なっていました。
その一つのピークがこの上尾事件で、当日は通常上尾?上野間が37分のところ、3時間程度かかったといわれる遵法闘争がおこなわれ、これによって上尾駅のホームにいた乗客約5000人の大半が乗車できず職員との小競り合いが発生し、怒れる乗客が電車の窓ガラスや駅長室を荒し、駅長と助役が負傷するといった暴動となったものです。
当時、学生だった私は上尾市に在住していませんでしたが、電車通学していたのでこのニュースは良く覚えています。
それだけ当時の住民のパワーが凄かったということもあるでしょうが、当時国鉄の姿勢に問題があったのだと思われます。今と違って決して乗客第一の姿勢では無かったですから、無理も無いことかもしれませんね。

参考:【JollyRogers】 上尾事件http://www.ne.jp/asahi/junta/h.p/ageo.index.htm

上尾駅前交差点 上宿 上尾駅前から駅前交差点を左折して進んだところが「上宿」です。

少し進んだところの交差点を右に進むと【遍照院】となります。

遍照院表参道 現在はこのように参道の先に山門や本堂が見えるのですが、元々の表参道は現在の表参道より少し手前のこの路地だったそうです。

遍照院旧表参道 遍照院旧表参道 中山道沿いの開発により旧表参道沿いに建物などができてしまい参道も狭くなったことから現在の市道が表参道となったために、表参道から本堂が見えなくなったことから、本堂改修の際に本堂を現在の表参道の前に移したそうです。

こんなところも嘗ての上尾宿の名残を留めようとする努力なのでしょう。

現在の上宿周辺 上尾宿の中心は先に見てきた「中宿」ですが、このあたりは宿場のはずれで、しかも門前とあって旅籠屋や居酒屋・だんご屋などの商店が多かったのですね。残念ながら説明にあるとうふ屋さんはさすがにもう無いようですが・・・。

15年後の天保14(1843)年の中山道宿村大概帳という天保の頃の宿場の概要がわかる資料によると、上尾宿には本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒と変らずも旅籠が6軒から41軒と旅籠が異常に増えているのです。
この理由は、上尾宿が江戸を出てから凡そ10里の地点にあり、旅人が1日で歩く距離に最も近く、明け方近くの七つ(5時頃)頃に日本橋を出発すると、時間的に上尾宿で最初の宿を探すことになるため、周辺の宿場より旅籠が飛躍的に増加したと考えられているようです。しかし、この上尾宿は後北条時代にすでに宿駅として成立していて、江戸時代以降の宿場は慶長8(1603)年に指定されていますので、文政時代以降に突如として日本橋からの距離の問題で旅籠屋が増えるというのも納得がいく話しではありません。

そこでもう少し詳細を追ってみると、その理由は旅籠屋自体にも理由があるようです。
街道の交通量が多くなると当然旅籠屋も増加するのですが、宿場間の競争もそれにつれて激化していきます。その競争に勝ち残るために考え出されたのが飯盛旅籠という旅籠で、平旅籠と呼ばれた普通の旅籠とは区別されていた旅籠です。
ではこの飯盛旅籠とは一体どのような旅籠だったかと言えば、飯盛旅籠とは、ただ客を泊めるだけでなく、所謂女性のサービス付きの旅籠のことなのです。江戸時代の風俗産業の一つです。
そしてそこで働く女性達は、幕府での正式な名称は「食売女」といわれましたが、表向きは旅人の給仕をすることから通称「飯盛女」と呼ばれていたそうです。
その様な意味で、この「飯盛女」とは遊女に他ならないのですが、1600年代初期頃においては、幕府は公娼制度を敷き吉原などの遊郭を定め、私娼を厳格に取り締まっていたために考え出されたのが「飯盛女」だったのです。所謂幕府の禁止令をすり抜けるための苦肉の策といったところでしょう。
そして当然の如くこの「飯盛女」のいる旅籠は人気となり、宿場町に宿泊料金以外の金が落ちることにより、宿場町の繁栄に欠かせない存在となったようです。幕府としては本来飯盛旅籠を取り締まるべきところなのですが、取締りによって宿場町が衰退し無償の公役など藩や幕府への差障りを案じて黙認せざるを得ない状況となっていたのでした。

その様な背景の中でも、さすがに幕府も無秩序に飯盛旅籠を黙認するわけにもいかず、8代将軍吉宗の時代には飯盛女を置けるのは旅籠1軒につき2人までと規定され、しかも木綿の着物で相手をするという規則が施行されたのです。しかしながらいつの世でもそうですが、これについても表に木綿の着物を着た飯盛女を2人並べながら、裏では以前と同じことをしていたといったように、殆ど守られてはいませんでした。例えば東海道品川宿の旅籠93軒には、天保14(1843)年には1,348人の飯盛女がいたそうですから殆ど形骸化していたといえるでしょう。
この品川宿とは比べ物にはなりませんが、やはり中山道宿村大概帳によると、上尾宿の飯盛女は49人いたそうで、中山道の宿場町では多いほうで、これを目当てに川越や岩槻あたりからやってくる遊び客も少なくなかったといわれているそうです。このような理由で上尾宿での旅籠が増加したと考えれば理解できるでしょう。
先の遍照院にもこの状況を端的に表す「遊女お玉の墓」がありますので、いかに飯盛旅籠の宿として繁栄していた一端が窺えます。

庚申塔 「上宿」から更に北上した道の右手に立てられているのがタバコ店の軒先の庚申塔です。

嘗て【見沼田んぼと見沼通船堀】で浦和を訪れた際に庚申塔の意味を知りました。庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いようです。

上尾宿の家並みの最北端 この庚申塔が当時の上尾宿の家並みの最北端であったようですが、当然ながら現代ではその名残は皆無です。

特に交差点を過ぎた道沿いの右手にはなかなかクールな建物があります。
酒蔵・文楽 「酒蔵・文楽」という造り酒屋で、明治27年創業でこの地に移転して来たのが明治37年だそうです。まさに明治以降の開発の一端とも言える建造物でしょう。

北上すると説明にある緑丘1丁目周辺となり、緑丘地下横断道という交差点に到着します。

緑丘周辺 この交差点の右側が緑丘地区です。

上尾宿ポケットパーク 交差点の角には「彩の国平成の道標」と刻まれた道標と、前掲した「鶴亀松」の写真などが掲出された掲示板が置かれているポケットパークがあります。

「鶴亀松」の写真の他には、屋根の上の鍾馗様の写真や「五海道中細見記」での上尾宿の絵図があり、渓斎英泉によって江戸時代描かれた例の「木曽街道六十九次」の中の上尾宿の絵もありました。

上尾宿ポケットパーク 掲示板の屋根には上尾宿特有の鍾馗様像が載せられています。

江戸時代の上尾宿の名残の一端を残したモニュメントといっても良いかもしれませんね。

久保西交差点 緑丘地下横断道交差点から北上を続けると、途中北上尾入口交差点を通過し「久保西」交差点となります。

当時の久保村の名残を感じる交差点名で、この交差点の先が現在でも「久保」地名なのです。

県道上尾環状線 この交差点の左右を走っているのが県道上尾環状線ですが、この交差点から右方向が桶川市へ向かう通称「べにばな通り」で、左方向へ向かうのが通称「BS通り」です。

BSとは「ブリジストン」の略でこの先にブリジストン上尾工場があることに由来しているのですが、所謂ネーミングライツなのでしょう。上尾市にはもうひとつ「ニッサン通り」がありますが、文字通りのニッサンではありますが、日産ディーゼル社のほうです。
先ほどの「木曾街道 上尾宿 加茂之社」は上尾宿と大宮宿の間の立場でしたが、こちらは上尾宿と桶川宿の間の立場ということになり、実に分りやすい立地なのです。

須田家 この「久保西」交差点の角にある木塀の広い敷地のお宅が須田家です。

須田家は,武州紅花仲買いで財を成した名家です。
川越までを含めたこの辺り一帯は1700年代の終わり頃から山形最上地方より温暖で1ヶ月近く早く収穫できることと、米の数倍儲かること等から紅花の生産が盛んになり「桶川臙脂」の名で全国ブランドとなり品質の良さで最上産を凌ぎ、最盛期には1000戸以上の農家が栽培していたそうです。
明治以降は科学染料に押され、現在は観賞用、菓子、染色などに僅かに使われる程度で、専らべにばな祭りなどの観光資源として活用されています。
確かに以前【桶川べに花まつり】で桶川市を散策しましたが、まんまと乗せられたわけですが、それはそれで有意義でしたから良しとしましょう。
ということで、紅花仲買い商の名家である須田家では、古文書、紅花仕入帳などべにばな関係資料が多く残っていて、上尾市の指定文化財となっているそうです。

市指定有形文化財(古文書)  文化財名:須田家文書
指定番号:第47号、種別:有形文化財・古文書
員数:1578点
指定年月日:昭和54年3月31日、所在地:上尾市教育委員会

概要
須田家文書の特色の一つは、県内に珍しく紅花関係文書が多いことで、約400点ほどにもなります。紅花は、江戸末期から明治初年にかけて約100年近く上尾・桶川近在で栽培され江戸や京都へ出荷されていましたが、現在ではそれらの実状を知る資料が少なく、大変貴重な史料といえます。
須田家は南村(現在上尾市南)の名主須田治兵衛家からの分家です。
(上尾市オフィシャルサイトより)

須田家 塀の中は窺い知ることはできませんが、広さや屋敷林など眺めてみれば、やはり名家らしい佇まいを感じます。

上周辺 久保西交差点から先に進むと「上村」周辺となりますが、このあたりもまた現在は「上町」ですからそのままの名残を留めています。

街道の右手に約240年前の庚申塔があり、通称「富士見町庚申塔」といわれている覆い屋のある庚申塔です。
富士見町庚申塔 富士見町庚申塔 庚申塔の横には「上村 海道町谷」と刻まれていて、まさしくこの辺りが上村の町谷だったことがわかります。

もともとの桶川宿があったことから、やはり邪気を払歌芽に庚申塔が建てられたのでしょう。

桶川市境 庚申塔の先が現在の上尾市と桶川市の市境で、桶川市のプレートが掲げられており、ここで今回の散策は終了となります。

江戸時代の上尾宿の名残は殆ど無い現在の上尾市域の中山道ですが、古に思いを馳せて現代と対比すればそれはそれで興味深い歴史も窺えた中山道です。

2011.04.01記

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