秩父夜祭 #4

これからが夜祭のクライマックス神幸行列です。
PM7:00頃に秩父神社を発ち、凡そPM10:00位には御旅所での神事が始まる程度のスケジュールだそうです。
したがって丁度この東町会館辺りに到着するのはPM8:00頃ではないかと、常連さんが言っているので、まあ、大体そんなものなのでしょう。

神幸行列

丁度、PM7:30過ぎ頃に外に出て、東町会館から見た行列の曲がる交差点周辺です。
東町会館前 東町会館前
当然のことながら多くの人たちが詰掛けています。警察の警備も大変厳重です。
この東町会館の前の通りは、向こうから来る山車の曳き手が一旦この会館前くらいまで山車を曳き、交差点で止まった山車はこちらから見て右に方向転換をして、右手のほうに曳かれていくのです。
したがってこの前の通りの半分は常に観客の滞留禁止区域となるのです。

この頃には既に花火もいくつか打ち上げられています。
花火
確かに冬の花火というのもそれはそれで風情のあるものです。
さてそうこうしている内に、いよいよ神幸行列の先頭がやっとこの辺りに到着したようです。
宮地と書かれた2つの提灯を先頭にして交差点に到着です。
神幸行列先頭 宮地提灯 神社提灯
写真では判りませんが、先頭部の列は、道をお払いしながら歩く「先導大麻」、田植祭で使用した「大榊」、道案内の神様「猿田彦」、歩きながら演奏する「楽人」、神社の象徴である「錦旗」、化粧道具を女性が持つ「御手箱」、御神刀である「太刀箱」と続き、その両脇には神社、宮地の高張提灯、日月万燈などが並ぶのです。

その後に続くのが、各町会の高張り提灯です。
高張提灯
これは高張提灯と供物を各町会が奉仕するという意味なのだそうです。
秩父夜祭の場合はどうしても華麗な山車(笠鉾・屋台)に目が奪われ、これらの山車を曳く6町会がクローズアップされがちなのですが、実際には多くの町会(地域)が支えているのです。
一つの例としては、山車と同じように夜祭で有名な花火ですが、では一体この花火は誰が打ち上げているのでしょう。答えは「花火師」…、オイオイ、江戸城を建てたのが大工さんの喩えではなく、実際には日野田、東町、番場などの11町会が担当しているのです。このように当たり前のことなのですが、秩父神社氏子地域全体でこの夜祭を支えているということなのです。
昭和30年頃において、この高張提灯・供物を奉仕する町会は30以上の町会があったそうです。
秩父市(旧市内):別所、相生、日野田、野坂、熊木、上野町、東町、宮側、番場、中近、道生、下郷、桜木、宮地、上町、中町、本町
秩父市(新市内):黒谷、大野原、田村、上蒔田、中蒔田、下蒔田、上寺尾、中寺尾、下寺尾、久那、大田、高篠、影森、浦山
皆野町:日野沢、金崎、大淵、三沢
横瀬町:横瀬
といったように、この当時は31の町会が奉仕していたようです。
では現在はというと平成20(2008)年の時点では26の町会に減少しているのだそうです。これは皆野町の金崎と大淵、秩父市の浦山が奉仕を休止し、秩父市の田村、上蒔田、中蒔田、下蒔田、上寺尾、中寺尾、下寺尾の7地区は合同で“尾田蒔”として奉仕するようになったためのようです。
その「尾田蒔」の提灯も丁度見られました。
高張提灯
この奉仕はいわゆる、ヒト・カネ・モノなどを提供することですから、高齢化の進む町会や財力の乏しい町会など、昨今の地方自治体の置かれている状況のミニチュア版といえる世相を反映しているのです。様々な厳しい状況、問題を抱えながらも歴史と伝統を守る為に各町会の方々の奮闘努力が感じさせられる高張提灯なのです。

高張提灯の一団が過ぎ「大幣」の後に、御霊が遷された「神輿」が続きます。
神幸行列 神幸行列神輿
20数人によって担がれた「神輿」は一旦この交差点で休憩をとるようです。
神輿
流石に人力で担いでいるのですから休憩は必要でしょう。
この神輿が渡御する為の神幸祭に山車を含めた壮麗・豪華な行列をなすのですから、秩父夜祭の伝統を改めて感じさせてくれる行列なのです。しかし、その渡御が浮気の為となると、不謹慎ながら実に不可思議な神幸祭とも思えてきます。
秩父夜祭の説明では、年に一度の逢瀬を楽しむ七夕伝説の織姫と彦星になぞられて解説されているケースを見かけます。例えば秩父まつり会館の説明では、「秩父神社のご祭神である妙見様(女神)と武甲山に鎮まる龍神様(男神様)との年に一度の逢瀬の祭りとして語られる秩父夜祭は、さながら“冬版七夕伝説”とも呼べるものです。(オフィシャルサイトより)」と実に美しい物語のように思わされるのです。
しかしながら、七夕伝説の主役はあくまで夫婦間のことですから美しくもありますが、こちらの場合は不倫・浮気ですから同一視してよいものやら…。
そういった意味で神の浮気の為に300年以上も多くの人たちの金と労力を使って行われてきたと考えると、実にユニークで微笑ましい祭りとも言えるでしょう。まあ、あくまで笑い話としての意味ですが、最も本家・七夕伝説が美しい話かというと、これも?マークで、ある意味自業自得的な要素もあるので偉そうにはいえませんが、いずれにしても神話や伝説は実にユニークな話題を提供してくれるものです。
神輿が出発し最後にあの「神馬」が歩みます。マロン・ド・ソレイユ号とディアドラ号です。
御神馬
後にクリオステーブルのブログによると、今年の神幸行列は例年より歩みが遅く、神馬7回目のベテラン神馬・マロン号も、流石にいらついて3回も跳ねたそうです。流石に長丁場は馬にとっても過酷なのでしょう。
こうして神幸行列は無事に進み、いよいよ待ちに待った山車の巡行です。

山車巡行

待ちに待ったとは言え、殆ど場所取りもせず居眠りなどしていたのですから気楽なものです。
さて最初に来たのが「中近笠鉾」です。
山車行列
“中”“近”と書かれた2つの提灯が、こちらの東町会館前まで曳き手を連れて進んできます。
中近笠鉾
笠鉾が交差点に来るまでこの通り前を曳いてくるのです。
この時、曳き手からも沿道からも「ワッショイ」の掛け声がかけられ、非常な盛り上がりをみせています。
そして所定の位置に止まった笠鉾です。
中近笠鉾
実に壮麗、美しい笠鉾です。上には御幣が供えられていますが、本来ならここに文字通り“笠鉾”が付いているのでしょう。
流石に提灯のついた山車は、昼間とはまた違った華麗さと神秘性を感じさせてくれます。

この「中近笠鉾」は高さ約5.4mほどだそうですが、笠をつけると凡そ15mほどにもなるそうです。
当然歴史も古く、初代は享保年間(1741~1744)頃に建造されたようですが、この時は屋台だったそうです。その後、安永4(1775)年に2代目が建造され、この時に笠鉾となったようです。そして明治13(1880)年に現在の3代目笠鉾が完成したという歴史をもった笠鉾なのです。
最大の特徴はなんと言ってもその笠鉾です。
比較的小振りと言われている中近の笠鉾ですが、真骨頂はやはりその笠鉾をつけた姿にあるようで、更に華麗で有名な彫刻と相まって優美の極みともなったようです。
その余りの美しさに笠鉾が完成した披露された年の祭りでは賽銭が大量に投げ込まれて、その彫刻が破損したと言うエピソードが残っているようです。
明治期の中近笠鉾 《明治時代の中近笠鉾:(C)宮本卯之助商店》
当時のモノクロの写真ですが、確かに、この高さと美しさは見るものの言葉を失わせる魅力を感じます。

さて、交差点で所定の位置に付いた笠鉾はここで方向転換をします。
この方向転換は、京都の祇園祭りでは辻回しと呼ばれているようですが、秩父夜祭では「ギリ回し」と呼んでいるそうです。
方法はまず、山車の後に“てこ”の支点となる「馬」と呼ばれる台を置き、長さ約7m、幅20cmの2本の角材を山車の下に差し入れて、てこの原理で山車の後輪を上げます。そしてこの間に山車土台下の中心部のくぼみの位置に「ギリ棒」と呼ばれる台の付いた棒を地面と垂直にしてセットし、静かに後輪を下ろすと4つの車輪が地面から僅かに浮き上がります。
ここでてこの角材を外し、山車の腰辺りに20人前後の曳き手が取り付き、「ギリ棒」を軸にしてグルッと山車を回して方向転換するのです。方向転換した後は、同じ手順で「ギリ棒」を外して進むわけです。
この方向転換が何回かあるのですから、巡行に時間がかかるのももっともなことです。但し、上町だけは「キリン」と呼ばれるジャッキで屋台を持ち上げて回転させるため、比較的短時間で楽に方向転換ができるようです。
他の山車もこうすれば良いのでしょうが、やはり歴史と伝統にこだわるとなかなか変えられないのも頷けます。

早速、その「ギリ回し」がはじまりました。
混雑しているので土台部分は見えませんが、てこを差し入れているのでしょう、後輪部分が持ち上がりました。
最初の写真と比べると山車の後ろ部分が上がっているのがわかります。
ギリ回し ギリ回し
しばらくすると回転し始めました。
ギリ回し ギリ回し
かなり早い回転で一気に90度方向転換するとともに、大きな歓声が沸きあがりました。
そして方向転換の終わった山車は再び後輪部分が持ち上げられ、「ギリ棒」がはずされるのです。
ギリ回し
こうして約10分弱の「ギリ回し」がおわり、山車は御旅所を目指して進みます。
中近笠鉾
そしてこちらが御花畑駅の踏み切りに向かう中近笠鉾です。
団子坂に向かう中近笠鉾
ここから踏み切りを渡り団子坂を登って終着するのです。

さてこれからは場所を移して東町会館の屋上に上がってみます。
ここからは御花畑駅前の踏み切りの様子がよく判ります。
御花畑駅踏切
秩父鉄道ではこの時間帯毎年電車を止めて、秩父夜祭に協力しているそうです。まあ、最もツアーなどでビジネスとして成り立つのですから協力しないことはありませんでしょう。
丁度、聖人通りにあるもう一つの踏み切りは、踏み切内自体が観覧場所となっています。
聖人通り踏切
このような光景は1年でこの日だけで、特別な1日に特別な体験のプレゼントです。
それにしてもどのビルもヒト、ヒト、ヒトで溢れています。
そうしていると先ほどの中近の笠鉾が御旅所に到着したのでしょうか、花火があがっています。
踏切と御旅所周辺 花火 花火

しばらくすると踏切付近が慌ただしくなってきました。
御花畑駅前踏切の下郷笠鉾
どうやら次の山車が近づいてくるようです。
花火とともに現れた山車は一際大きな山車です。
その特徴である2重の屋根をもつ大きな山車は、「下郷笠鉾」のようです。
下郷笠鉾 下郷笠鉾
下郷笠鉾は、秩父地方最大の鉾で高さ7m、重さ約20トンの重量級山車です。
中近笠鉾と同じように本来は三重の笠をつけたものだったのですが、大正期の電線架設とともに現在の形に変わったもので、中近と同じように現在のものは3代目だそうです。
そもそも「下郷笠鉾」は高さ16mほどの笠鉾で、元々は三層の笠をたてたシンプルなつくりの笠鉾だったのですが、先の改装により二層屋根を新調し、三層笠の代わりに屋根を乗せる現在の形となったようです。その後、昭和40年代の大改修において現在の屋根の上に三層の笠を乗せることができる山車として、大正以前の形と以降の形を合体させたのだそうです。
いずれにしても秩父夜祭に2基ある笠鉾は華麗な「中近笠鉾」、荘厳な「下郷笠鉾」といった風情で、屋台とはまた違った趣を醸し出しています。
現在、以前の形での三層の笠を付けた状態では巡行されていませんが、下郷笠鉾は平成7(1995)年、中近笠鉾は平成12(2000)年に三層の花笠を付けた完成形での市内牽引が行われたそうです。
こちらはそれぞれの笠鉾の完成形です。
中近笠鉾 下郷笠鉾 《左「中近笠鉾」、右「下郷笠鉾」:(C)関東山車コレクション》
それぞれ非常に華やかで美しい笠鉾ですが、是非完成形で6基揃ったところで見たいものです。美の極致といっても過言ではないかもしれませんね。
これで辛うじて秩父夜祭の6基の山車を見ることができましたが、流石に重文だけあってどれも歴史と伝統を背負って誇り輝いているような素晴らしい山車でした。

一応全ての山車を見たことで、この東町会館を出て他の場所から引き続き夜祭を見ることにします。
先ほどの会館前の交差点には「上町」の屋台が到着していました。
上町屋台
相変わらずの見事な屋台で、昼間の屋台とは違った美しいシルエットを見ることができます。
また、囃子手の方々の元気な姿もまだまだ衰えを知らないかのようです。
囃子手
そしてまた「ギリ回し」の瞬間です。
ギリ回し
見事に方向転換して再び御旅所を目指します。

今度は御花畑駅前の踏み切りでの見学です。
下で見るのもまた迫力のある光景で、丁度「宮地」の屋台が踏み切りを通過するところです。
踏み切宮地屋台
そして踏み切りを渡って御旅所のほうへ向ってみました。 ものすごい人の数ですが、団子坂方面が辛うじて見え、丁度団子坂に差し掛かってきた「宮地」の屋台を捉えました。
団子坂
そして力をためて団子坂を上がってきます。
団子坂登坂 団子坂登坂
この屋台の角度を見れば、いかに団子坂が急坂であるかが良く判ります。
一気に上がってくるかと思っていたのですが、意外と徐々に上がってくるようでした。
御旅所の宮地屋台
多分200人近くの曳き手ですから、一気に駆け出したりすると非常に危険だからでしょう。
足元も暗いですから。

団子坂を登りきった屋台はそのまま観覧席の前を通って、あの亀の子石のある御旅所に向います。
御旅所の宮地屋台 御旅所の宮地屋台
観覧席の前に屋台が来ると、まるでゴルフの最終ホールに最終組が上がってくる何やら誇らしげなプレーヤーと、それを迎えるギャラリーのようなイメージです。
こうして御旅所に到着して神幸行列の半分が終了するのです。

この「宮地」の屋台が到着したのが丁度PM10:00をすぎたあたりで、山車の順番は中近・下郷・宮地・上町・中町・本町のはずですから、全て揃うにはまだ20~30分かかるのではないでしょうか。
帰りのバスの出発も11:00で、間食ばかりしていたので夕食も取っていなかったこともあり、残念ながらこれで引き揚げることにしました。
最後に御旅所に着いた神輿を垣間見て、御旅所を後にしました。
御旅所の神輿
華麗で熱気ある、噂どおりの素晴らしい祭りでした。

この後はこのまま国道140号線に一旦でて、北上して秩父駅へ向いますが、やはりその前に夕食をという事で、祭りらしく屋台のジャンクフードで余韻を楽しみました。
屋台 ジャンクフード
国道140号線は、この日ばかりは花火街道と言ってもよいように、何所からでも花火を見ることができます。
国道140号線での花火 国道140号線での花火
そしてしばらく花火を眺めながら国道を歩くと道沿いでまだ屋台囃子が行われていました。
ここは「上野町会所」で、“上野町太鼓会”の皆さんが既にPM10:30過ぎだというのにお囃子を演奏されています。
上野町太鼓会
「まだまだ祭りは終わりじゃないよ」とでも言っているかのように、熱い演奏と心意気が伝わってくるようで、花火もまた一緒にそれを著しているかのように上がり続けています。
国道140号線での花火
名残惜しいのですが時間も無いことなので秩父駅方面に向かい、最後に秩父神社を通って駅に到着しました。
秩父神社 秩父神社
駅前も大分人も少なくなっていますが、それでもまだ余韻を楽しむかのように大勢の人たちが残っています。
秩父駅前 秩父駅前
PM11:00少し前に予定通り帰りのバスに乗り込んで、秩父の地を後にしました。
帰るライナー

秩父夜祭

帰りのバスのなかで、非常に興味深いアナウンスを聞きました。
帰るライナー
地元の観光業者である秩父鉄道バスでは、来年の秩父夜祭で秩父鉄道バス関連のツアーに参加する方に、山車が曳けるツアーを企画しているそうです。現時点ではあくまで計画中で、現在どこかの町会(といっても6町会しかないのですが…)と折衝中とのことなのです。
観光客にとっては非常に魅力的なツアーとなるのでしょうが、やはり祭りも神事となるわけで単純に企画できるものでもないようです。
この神事と観光について書かれた興味深いブログがあったので、引用・抜粋させていただきます。

秩父夜祭 -観光と伝統の狭間で-
今年の秩父夜祭(2008年時点)は例年にない暖かさであった。朝方山車を見ていた観光客の方が、ため息混じりに「凄い山車だよな。何でこんな田舎町にこんなすごいのがあるんだよ。」と、おっしゃっておられた。こうおっしゃるのも無理はない。秩父市の人口は7万人あまりであるが、それは市の広大な面積を踏まえたうえでのもの。秩父夜祭の舞台となる旧市街の中心部の人口は5千人足らずだ。それだけの街になぜ日本を代表する豪華絢爛な山車があるのか。それを、現代の経済感覚で考えると答えが出なくなる。結局、秩父地方は昔は養蚕と織物で相当に栄えていたということに尽きるのであろう。そうでなければ、街の規模と山車がつりあわないのである。 今年の人出は19万3千人。祭り見物が堪能できる限界の数値である。上述のとおり、秩父市の中心部は人口の割りに意外と狭い。秩父神社から牽引される屋台が目指す「お旅所」と呼ばれるところまでは凡そ1キロ。通常5千人程度しか生活しないその場所に一気に40倍あまりの人が流入するのである。街の中は、電車のラッシュアワー並みの混雑となる。今年は、水曜日開催であるのでこの程度の人出であったが、土日に重なるとこれが30万人規模の人出となる。
このレベルになると、ほとんど身動きが取れない状況に陥る。路地裏まで観光客であふれかえり、祭りを楽しむ余裕はなくなる。秩父夜祭を心から楽しみたいと思われる方は、無理をしてでも平日にお越しになられたほうが良い。
秩父夜祭は、観光化に対してある程度の距離を置いている。たとえば、頑なに「冬祭り」の伝統を守っている。秩父は内陸性気候で冷え込みが厳しい。12月ともなれば、例年氷点下に気温が下がるわけで、そんな冬の夜に長時間祭り見物をすることは、観光客の方々には過酷といってよい。もしこれが11月開催であればぐっと観光客の方々にとっては楽になる。また、上述のとおり毎年土日の開催にすれば、経常的な観光客の来訪増が見込めるが、それも一切しない。秩父神社は大祭を12月3日と決めて一歩も譲らない。観光のために神事を行っているわけではなく、その伝統は守るべきというのが一貫したスタンスである。
この決断はある意味潔い。そうであれば、逆にそれを活用すればよい。秩父夜祭は、実はもう一つの顔を持っている。秩父夜祭は、関東最大の「冬の花火大会」でもあるのだ。花火大会といえば、夏を連想するのが普通だが、冬は空気が乾燥している分、空がきれいに澄み渡る。したがって花火はとてもきれいに映える。今年も、キャノングループが協賛する日本芸術花火大会が行われ、日本全国選りすぐりの花火職人の方々が、競って花火を打ち上げた。19時30分に始まる花火大会は22時まで行われ、その圧倒的な打ち上げ量に感嘆の声をあげる観光客の方も多い。質、量ともに日本有数の花火大会であることは間違いないであろう。「冬の花火大会」は、「冬祭り」を生かした逆転の発想と言ってよい。花火好きの方であれば、花火だけを見に秩父夜祭にこられても後悔のないレベルではないだろうか。
12月3日開催を頑なに守る秩父夜祭だが、安全面の配慮からの変更は行われている。たとえば、屋台・笠鉾はもともと秩父神社前の番場通りという狭い通りを通って「お旅所」に向かっていたが、観光客の増加により牽引が危険になったため、旧国道の2車線道路(通称「大通り」)を牽引したり、一部の屋台の牽引ルートを変更したりしてより安全に祭りが行えるような配慮が行われた。番場通りから、大通りに牽引ルートが変わった年は、ずいぶん祭りが見やすくなったと感じたものだが、その感覚はすぐに慣れてしまった。
また、昔は山車の牽引は男性のみであったが、最近は女性が半分程度占めるようになった。男女同権の時代の反映や、市内の人口高齢化の影響もあるのだろうが、女性が入った分、以前よりも牽引の仕方に荒さがなくなったとも言われている。ただし、囃し手は未だに男性のみであり、そこはやはり伝統を守っているのだろう。
秩父市は、高齢化が急速に進んでおり、この大きな祭りを守るためには、観光との並存は必須の課題といわざるを得ない。その点に関してはうまく折り合いをつけながら、伝統を守っているという印象を持っている。
(「秩父 ノスタルジー」ブログより)

今までいくつかの祭りを見てきましたが、確かに祭りの開催日が固定の土日に変更されているケースが非常に多くなっているのは実感できるところです。また、それによって我々一般観光客が行き易いのも事実です。一方で秩父夜祭クラスになれば、サラリーマンなら有給を取ってでもと考える人も少なくは無いでしょう。
このブログの冒頭にこのようなことも書かれていました。

秩父夜祭は、秩父の人にとって語りつくせないほどの思い入れがあるものであろう。正月よりも、クリスマスよりも、秩父夜祭は待ち遠しい。報道によれば、秩父市は秩父夜祭をユネスコの無形文化遺産に登録することをを目指して動き始めたと言う。今後、間違いなく秩父市の人口は減る。現在の人口構成を見れば、特別な行政上の手段を講じない限り、20年後の姿はもう見えていると言ってよい。その中でこの大きな祭りを守るためにはどうしたらよいのか。もしも、秩父市がそうした長期的なスパンから申請を目指したとすれば、英断だと言ってよいだろう。
(「秩父 ノスタルジー」ブログより)

様々な問題・課題は山積しているのでしょうが、今回の散策で秩父夜祭の魅力を充分知ることができました。そんな2011年の秩父夜祭の人出は、雨の影響もあったのでしょうか土曜日としては少ない26万5千人だったそうです。翌日のAM2:00に上尾に到着しましたが、この晩は異様な位温かで、バスを下車してから自宅までの徒歩での帰宅中はダウンも要らないと思えるくらいの気候でした。
次の例大祭の3日が土曜日になるのは5年後です。
その時は、気温も世の中も寒いのでしょうか、温かいのでしょうか…。

2011.12.25記

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