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茶畑のある景観 #1

入間市博物館・ALITからは通称「いちょう通り」と呼ばれる道路を北上します。
この道の両側はずっと工場が続いています。工業団地でしょうか、あまり茶畑のイメージはありません。
10分ほど進んで圏央道を越えた辺りから風景は一変します。待望の茶畑が見えてきました。

そして左側の左折路の間に大きな道標があります。
日本一の道標
これが日本一の道標と言われるものだそうで、入間市景観50選のNo.21として説明があります。

日本一の道標といちょう通り
沿道は走るごとに工場、茶畑、住宅地と風景が変化していきます。通り沿いの銀杏も四季それぞれに表情を変え、特に秋の紅葉は絶景。道標は、「狭山茶場碑入道」と示され、高さが日本一の道標(4.1m)としてギネスブックに記載されています。
(現地案内板説明文より)

ギネスブックに登録されていると言うことは、一応、世界一ということ…、ですよね。世界一って言ってはいけないのでしょうか。
さてこの道標、入道とあるので誰か人を著すのか(三好青海入道とか)と思えばさにあらず、文字通り「入る道」を意味して、北へ1キロほどのところにある龍円寺境内に佇む「北狭山茶場碑」の場所を示すために建てられたものだそうです。
市内には茶の歴史や隆盛を記した茶道碑がいくつもあり、「北狭山茶場碑」もその一つで、昭和11年に道標と合わせて建設されたそうです。
実際の大きさは高さ4.1mX幅0.9mX厚さ0.8mで重さが9,930Kgだそうで、台石を含めると高さが5.2m、重さ20,620Kgになります。
この石は山梨県の御影石で、この道標を山梨県から運ぶには、当時の発達していなかった運搬技術では相当大変な作業だったようです。
まず山梨県の塩山駅から八高線金子駅までは汽車による貨車で運搬され、金子駅から寺までは道路に板を置き、丸太を並べ、途中の橋は補強して、約3キロの道を12日半もかけてころがして運んだのだそうです。
こうした大作業で建設された道標は、元々龍円寺の山門の近くにあったそうですが、都市計画道路拡張工事のため、昭和59年に現在の地に移設されました。そして、その2年後の昭和61年に、ギネスブックに認定されたものなのです。
そう言われると、本体の碑より道標の方が大きいのもうなずけます。
因みにこの龍円寺の創建は、建仁年間(1201~04)と言われて寂蓮法師がこの地に観音像を安置した事に始まるとされています。江戸時代には徳川家より15石の寺領を拝領していた名刹でしたが、火災や戦災で様々な施設を失ったようですが、現在は再建されています。
それだけの名刹ゆえの碑と道標なのかもしれません。

日本一の道標を見られたのはよいのですが、ここは当所の目的地へは行き過ぎたところのようです。
この道標の少し手前の左折(道標から見ると右折)した道が「茶どころ通り」と呼ばれる、茶畑のメインストリートらしいので、 少し戻って「茶どころ通り」を進みます。
この「茶どころ通り」は茶畑の間を東西に走る約6Kmの農道で、昭和61年、市制施行20周年記念事業の一環として市民より愛称の募集を行い付けられたそうです。
茶畑の緑と遠くの山々のグレイ、そして空の青色のコントラストが綺麗です。のんびり歩くのも良いかもしれません。
そういえばALITでもらったパンフレットに「元気な入間ふれあい茶ん歩道(さんぽみち)」というハイキングルートがありましたから、もってこいのロケーションかもしれません。

茶どころ通りを少し先に進むと小さな丘があり「入間市茶業公園」と記載されていました。
入間市茶業公園
ここにも入間市景観50選のNo.26として説明があります。

茶畑と周辺風景
狭山茶の主産地いるま。約400haの一面に広がる茶畑は全国的にも珍しく、八十八夜を過ぎる頃は一斉に一番茶の茶摘み光景が随所に見られ,晩秋には赤富士と茶畑のコントラストが目をひきます。なお、「茶の花」は市の花として指定されています。(現地案内板説明文より)

前出のパンフレットに茶摘時期が記載されていましたが、一番茶は4月下旬から5月下旬で、二番茶は6月下旬~7月中旬だそうです。
ちょうどこれからが茶摘みの光景が見られる絶好の季節なのでしょうが、茶業史によれば今や走行式の茶刈機があるとの事で、近い将来茶摘みの風景も変わり、手摘みも観光用となるのかもしれません。それも仕方が無いことでしょうが…。

ちょうどこの二番茶について面白い記事が日経プラスワンに掲載されていましたので抜粋します。
その言い伝え、気にしていますか? という記事で、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」という言い伝えを気にする人は7割を超えているそうです。これは釈迦が亡くなった時、枕元に茶碗山盛りのご飯に本人が使っていた箸を立てた枕飯を現しているからなのです。また、このとき釈迦を北側に寝かせたことから「北枕で寝てはいけない」という言い伝えもうまれたのです。これらはあくまで伝承ではあるのですが、釈迦の死という現実的な事象から死を連想させるので、今でも気にする人が多いのだと言っているのです。
そのような言い伝え、伝承の中に「茶柱が立つと良いことがある」についてもコメントがありますが、これは決して教訓めいたことではなく、静岡近辺の商人が売れ残った二番茶を売りやすくするために触れ回った、所謂キャッチコピーのようなものだったそうです。
「土用の丑の日のうなぎ」と同じような意味合いだったのですね。
因みに「恵方巻き」も戦後ノリ業者が消費喚起のために広めたと言う説があるそうですが、いずれにしても「うなぎの丑の日」や「バレンタインデー」など古くからの言い伝えのように考えていたことが、元をただせばビジネスから端を発していたと言うことになるわけです。
ブームを作るのが広告業界の一つの戦術でもあるのですが、それが伝承される程になると言うことは広告に携わる人の冥利に尽きるのかもしれません。

横には大きな案内板があり、入間の茶畑:21世紀に残したい、埼玉・ふるさと自慢100選の第1位に選ばれましたと記載されています。
入間市茶業公園
当時はよっぽど大層なことで、町のPRとしてはこの上ない宣材だったのでしょう。早速、この小さな小さな茶業公園に上がってみます。
上には狭山茶についての説明板が立てられています。

狭山茶の沿革
狭山茶とは、埼玉県下全般で生産される茶の総称で「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす。」と狭山茶作りの中でも歌われる銘茶の一つです。
今から八百余年前、栄西禅師が中国から持ち帰った茶種子を、明恵上人が、武蔵河越(現在の川越)の野に裁植したものが始まりで、鎌倉、室町時代に盛んになり入間郡一帯で生産されるようになりました。当時においても山城、大和、伊勢、駿河と並んで銘園五場の一つに数えられていました。
その後、応仁の乱の余波を受けて一時は停滞しましたが、安土桃山時代に武家の茶道とともに復興し、江戸に徳川幕府がおかれ、市内二本木村(当時)吉川温恭、宮寺坊村(当時)村野盛政らによって、蒸し製煎茶法の確立により需要の増大が図られ、狭山茶は他産地にも増して繁栄し、横浜開港と同時にいち早く海外へ輸出されました。
現在は、埼玉県の特産品として自他共に認められ、入間市は銘茶産地としての評価を得ています。
ここから望む茶畑は、武蔵野台地北西部に位置し、ひとまとまりの茶畑としては関東以北最大のものです。土質は関東ローム層と呼ばれる水はけのよいもので茶の栽培に適しています。
しかし、気候的には茶栽培の北限地域として寒さの厳しい環境にあり、新茶の時季でも晩霜(おそじも)の心配があります。それを防ぐために、柱上に防霜ファン(上層の暖かい空気を下層に送り、晩霜を防ぐ)を設置して,より品質の良い茶を生産することに努めています。
入間市
(現地案内板説明文より)

入間市の茶業の歴史をコンパクトに判り易くまとめると、このような説明になるのでしょう。ALITで憶えた知識そのものですね。
防霜ファンについては今やTVのクイズ問題にもなるようですので、比較的多くの人が知っているようですね。
防霜ファン
遠くから見ると一見無粋な電柱にも見えますが、今やこの防霜ファンが茶畑の風物詩ともなっていますね。

この小高い丘の公園には見晴台もあり、それぞれの方角を現す矢印がついています。
これは秩父・武甲山方面と記載されています。
見晴台
この方角を撮影するとこんな感じです。
秩父・武甲山方面
残念ながら私のカメラではこの程度ですが…。
他にも埼玉県茶業試験場・奥多摩方面、入間市役所・筑波山方面などという矢印がありました。
眺望 眺望
《左:埼玉県茶業試験場・奥多摩方面の茶畑、右;入間市役所・筑波山方面の茶畑》
確かにこの茶業公園から見る風景は埼玉県では滅多に見られる光景ではないようです。
雄大にして精緻、しかも緑と青のコントラストが気持ちを和らげる、そのような感じを受ける正に風光明媚ともいえる光景であったことをはじめて知りました。
入間の茶畑が何故100選に選定されたかは、実際に見ると初めて判るような気がします。
そこでもう少し突っ込んで、この独特な茶畑の形状について調べてみました。

まずは茶園の基本ですが、これは特に茶園だから特別と言うことではなく一般的な菜園と基本は一緒のようです。
茶園の中にそれぞれ「畝」を設けてそこに茶樹木(株)を植えるという事です。但し注意しなければならない点がいくつかあるようです。
1.畝の幅は作業の機械化の関係上、現在180cmが一般的。
2.弧状仕立ての場合の樹高は45~90cmが一般的で、あまり高くなると作業がしづらくなる。
3.うねとうねの間がうね間と呼ばれ、農作業の通路となり、かつ肥料もこの位置に施用。
4.1うねに1列で植えてあるものを1条植え、2列で植えてあるものを2条植えというが、乗用型摘採機を使う場合は条間45~60cm、株間50~80cmの2条植えが好ましいと言ったところが茶園の基本のようです。



2011年6月26日、かつて入間郡金子村大字中神に在住されていた吉田様よりメールをいただきました。
本題は上記におけるサイズの単位間違いのご指摘で、早速修正させていただきました。一度作成するとなかなか見直しができないので、こう言ったご指摘は大変ありがたいことです。

同時に、そのメールで吉田様の在住当時のご様子の情報も合わせていただきました。
以下にメールの一部をそのまま引用させていただきます。

ご紹介していただいた地区は終戦までは旧陸軍の飛行場だったそうで、私の幼少時には現在の大妻女子大狭山校周辺から東に伸びた平地は滑走路で、大学の北側には弾薬庫・格納庫跡が残っていて、戦後に満州から引き上げて来られた家族が小集落を成し開墾していました。
記事で紹介された博物館や工場がある地域には、施設群ができる前は茶畑、養鶏場、牛舎などもありました。

飛行場があったとは驚きです。どのような目的でこの地に飛行場が建設されたのかはわかりませんが、非常に興味深い内容です。
場所的には丁度上記の2枚の写真の中間あたりでしょう。またまた調べてみたい気分になりました。

吉田様、ご指摘と情報を有難うございました。
2011年6月27日記 



そして今回の茶畑の美しい景観の根本が前述した「弧状仕立て」でしょう。あのかまぼこ型に揃ったうねが茶畑の最大の特徴といえるからです。
そもそもこの「弧状仕立て」が生まれた背景が茶園摘みとりの機械化にあるようなのです。
根本的に茶摘みは新芽(葉)を摘むことです。秋までに伸びた古い葉は品質が低下しています。そこでかつて手摘みの場合ならば、新芽と古葉をより分けて新芽だけを摘むことが可能だったわけです。
しかし現在、日本の茶園の90%以上は機械刈りと言われている中での摘採機は多くの場合、バリカン式ですから摘採する時に新芽と秋までに伸びた古葉をより分けて刈る事はできないのです。
そこで新芽の出る前に高さを揃えておいて、一定の高さ以上のところに新芽が出るようすることによって、新芽だけを摘採機で刈り取ることができるようにしたのです。
その為の“かまぼこ型”なのだそうです。そしてこの形を「弧状仕立て」というのです。
一方、先の手摘みの場合は、新芽だけを選別して摘むことができますから、敢えて枝の高さを揃える必要はありません。 このため手摘みの茶園では、春の摘採後に一旦、番茶を刈り落とすものの、その後は次年度の摘採まで、伸ばしたままの"自然仕立て"が用いられるのだそうです。

このような機械化による結果が、この景観を生み出しているのです。
現在では単に機械化といっても様々な方法があり、携帯型・可搬型・自走型・乗用型・レール式などがあるようです。
例えば機械化の主流であった可搬型摘採機ですと半径1150mmの弧状仕立ての茶園が中心なのだそうですが、この場合の樹形は凍霜害など低温の影響を受けると、摘採面の傾斜の山側と谷側で生育差が生じて、収量、品質低下が起きるのだそうです。
半径1150mmの弧状仕立て 《半径1150mmの弧状仕立て…?》
一方、乗用型摘採機を導入すると水平に近い弧状仕立て(半径3000mm)茶園が必要となるそうです。
半径3000mmの弧状仕立て
そしてこの半径3000mmの弧状仕立ては、茶株面の日平均気温の差が小さいために一番茶収量の増加に結びつくのだそうです。そして更に品質が向上し、市場評価が高くなるという研究成果も出されているようです。
このように、現在では「弧状仕立て」一つとっても様々な実験・改良がなされ、茶業の活性化が図られているのです。
そして、こうした結果があの独特な景観を生み出す茶園の理由なのです。
私たちにとっては確かに茶畑の景観を喜んでいますが、常に自然と対峙する茶園を営む方たちには、やはりいつの世でも厳しい現実があることを感じました。

こういった日々の努力で現在の狭山茶があるわけですが、現実の認知度って言うのはどうなんでしょうか。
ネット上の「Yahoo!知恵袋」で“お茶といえば何県が有名ですか?”とう質問に回答がありましたので引用します。

回答一覧
・「静岡。。。。。。。。」
・「嬉野(佐賀)、八女(福岡)、知覧(鹿児島)伊勢(三重)、宇治(京都)。静岡はブレンド茶が多いと聞いたので除外しました。
・「やはり静岡でしょうか?」
・「静岡県・鹿児島県・京都府・三重県など。」
・「静岡、宇治。。。。。 宇治じゃなくて京都(^^;)」
・「お茶といえば・・・静岡県かなぁ?」
・「や~っぱり静岡。。。。。。。。でしょう。。。誰でも最初に頭に出てくる産地です。」(「Yahoo!知恵袋」より)

たった7人の回答ですから統計的にも何ら根拠はありませんが、やはり静岡というイメージが一番定着しているのでしょう。
若干仕方ないことかもしれませんが、実際にこのような歴史や研究、そして光景を知れば少しはイメージも変わってくるかもしれません。
そのような意味で「夫婦道」などは確かにPRとしては渡りに舟で、私自身の入間の茶畑を観る眼も若干変わったような気がします。
美しい光景を単に楽しむのも悪いことではありませんが、その裏にある地道な努力(私の性格では絶対できない)も見落としてはいけないのかもしれません。
50選の説明にあった茶摘み光景は今日はGWなので見られませんが、GW明けからは茶摘みの光景が見られるのでしょう。 まさか実際の茶摘みはあの市役所のような茶摘み娘が、例の衣装でするわけではないでしょう。やはりここも機械でしょうね。

ちょっと学んだ経験をもう少し掘り下げようと、次は入間の頭脳とも言うべき「農林総合研究センター」へ向かうことにしました。
一旦、「茶どころ通り」を進み途中左折して「農林総合研究センター」へ向かう予定でしたが、ホンの少し進むと「茶どころ通り」の左手にお堂らしきものがありましたので立ち寄ってみました。
このお堂は「はら野子育地蔵」というものでした。
はら野子育地蔵
説明板があります。

この地蔵尊は、以前、ここより東側に安置されていたが、昭和45年ごろ、道路改良工事を行った際、現在地に移転された。御堂は昭和50年に建てられたものである。
地蔵尊の背には、宝永5年霜月吉日(1708年)廿六夜待供養と刻まれており、当時中神村(現在入間市大字中神)の念仏講の信者により設置されたものと伝えられている。
現在は子育地蔵尊として、諸祈願、大願成就と信仰され、近郷にまで伝わり、参詣者も多い。
また、この地蔵尊のわきの道標は、寛政5年(1793年)に村の安泰と道行く人の安全を願うためにたてられたもので、緑豊かな茶畑道の案内役をつとめている。
入間市
(現地案内板説明文より)

確かに御堂自体はそれ程古い感じはありません。と言うより、何気に塗られた青塗料が茶畑の癒される緑色から突出したキッチュ感を醸し出してるのはどうでしょうか。
道標
あえてそんな色に塗らなくてもよさそうなものですが。
さてこの説明板にある道標は左横にあり、そこにも解説板がありました。

中神の百万遍供養塔道標
市指定史跡 指定年月日 平成3年8月1日
中神の旧青梅街道ぞいに建てられた道標をかねた供養塔である。近世における入間市は、八王子から二本木、扇町屋を通り黒須から東松山へぬける日光脇往還が通り、扇町屋はその宿場町、市場町として発展してきた。この道標は青梅と扇町屋宿を結ぶ青梅街道のちょうど中間に位置し、それぞれへの実距離が記されている。根通り道のほかに青梅と扇町屋を結ぶバイパスのような直通道路があり、また南北の道が何本か交差していたことがわかり、当時の交通を知る上で貴重である。
銘文によれば、寛政5年(1793)に中神の人々が村中の安全を祈って建てたものであることがわかる。
平成3年12月 入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会
(現地案内板説明文より)

道標となっていることは理解できますが、そもそも百万遍と言うのが何を意味するものか調べてみました。
百万遍とは、人々が円陣を組んで座り大きな数珠を送りながら、念仏を百万遍唱えて疫病退散などを祈る百万遍念仏のことだそうです。
村の安全を祈願とあるので、やはり疫病などの祈願だったのでしょうか。まさか道標だからといって交通安全ってわけでもないでしょう…。

更に供養塔道標の左隣には「狭山茶どころ」という碑が建っています。
狭山茶どころ碑
横に今は無き政治家で元・総理、安倍晋三氏の父「安倍晋太郎」著とありますので、かつて農林大臣であった時に書かれたものなのでしょうか。ゆくゆくは総理に、との立場に居た方ですからこういった碑も当時は大騒ぎだったのかもしれません。
ちょっと寄り道も実に面白いものを見させてもらいました。

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