竹林に囲まれた静寂空間に数々の市指定文化財を伝える

概要

山門は鍾楼(しょうろう)門で、上尾市周辺では余り見かけない珍しい建造様式である。山門をくぐり本堂に参拝すると、多くの市指定文化財を伝える寺院は、竹林と大樹に囲まれた静寂空間の中にある。
相頓寺は浄土宗の寺院で、草創は永徳2(1382)年、円蓮社聖満良順が開山といわれている。「永徳」の年号は北朝年号で、南朝と北朝が激しく争っていた時代の創立である。本尊の阿弥陀如来は市指定の文化財であるが、観音・勢至(せいし)の両脇侍(きょうじ)を従えた寄せ木造りの立像(りゅうぞう)である。像高は93.5センチメートル、宋風の服制を示し、鎌倉時代後半から末期にかけての作と推定されている。万治3(1660)年に、京仏師(ぶっし)が修理したという墨書銘が残されている(『上尾市史』第9巻)。

本堂の南東に地蔵堂があるが、ここに安置されている相頓寺三仏も市の指定になっている。中尊は木造延命地蔵菩薩半跏(はんか)像、右に木造閻魔(えんま)王座像、左に木造奪衣婆(だつえば)座像が配されている。この大型の三仏は、元は廃寺になった地蔵院にあり、明治2(1869)年に移されたといわれる。地蔵菩薩の像内に、この地の領主西尾小左衛門尉(こざえもんのじょう)(西尾隠岐守吉次)が文禄5(1596)年3月24日に開眼したとの書き付けが残されていると、幕末期編さんの『新編武蔵風土記稿』にも記されている。像の作風やこの書き付けから、地蔵菩薩は桃山時代の作と見られるが、閻魔王や奪衣婆は江戸時代前期の作といわれている。なお、この地蔵堂には15点の絵馬が奉納されているが、これも市指定の文化財である。延宝8(1680)年銘の市内最古のものもあり、見るべきものの多い絵馬群である(前掲書)。

本堂の裏側に歴代住職の墓所があるが、その一角に「六字名号(ろくじみょうごう)板石塔婆(ばんせきとうば)」が立っている。これも市指定の文化財であるが、「南無阿弥陀仏」と六字名号が大きく彫られ、紀年銘の永徳2(1382)年も下部に読みとることができる。寺伝によると、この文字は開山の良順上人の書といわれ、永徳2年は相頓寺草創の年でもある。市内には六字名号の板碑は10基あるが、この塔婆は寺院の草創年と結び付く大変珍しいものである(前掲書)。
(上尾市webサイトより)

相頓寺・山門

sotonji006.jpg sotonji005.jpg 山門は鍾楼門で、上尾市周辺では余り見かけない珍しい建造様式だそうです。
また、相頓寺には4つの指定文化財があります。
【相頓寺山門と山門前の文化財標柱】


相頓寺・本堂

sotonji002.jpg sotonji001.jpg sotonji011.jpg 【本堂全景と木造阿弥陀如来立像】


『上尾市指定有形文化財 木造阿弥陀如来立像
上尾市五番町一四-二 相頓寺
昭和四十一年三月三十一日指定
ここ相頓寺は「快楽山安養院」と号する浄土宗の寺院で、「木造阿弥陀如来立像」はこの寺の本尊です。脇侍に観音、勢至の両菩薩を配した三尊として安置されています。木造阿弥陀如来立像は上品下生の来迎印を結び、蓮華座上に立っています。また阿弥陀来迎の動きのある様を示し、光背も雲の流れる様子を示しています。中国の宋風の服制を示し、鎌倉様の装飾的な写実描写をみせる美作です。
この木造阿弥陀如来立像は像高九十三.五センチメートル、寄木造です。江戸時代後期に編さんされた『新編武蔵国風土紀稿』では、平安時代中期の僧・源信(恵心僧都)の作と伝えていますが、その作風から本体は鎌倉時代のものと考えられます。面部に手直しの痕跡が認められ、両手先は後補のものであるなど、後世の修理による彩色が厚く、構造の詳細は不明です。頭内部の墨書銘から、万治三年(一六六〇)に京仏師某によって修理されたことが分かり、さらに明治二年(一八六九)にも彩色修理が施されています。また、近年再び傷んできたため、平成十一年に本体、光背、台座が修復されました。
平成十二年六月三十日 上尾市教育委員会』(寺院内案内板より)

相頓寺・地蔵堂

sotonji004.jpg sotonji02.jpg 【地蔵堂全景と相頓寺三仏】


『上尾市指定有形文化財 相頓寺三仏
上尾市五番町一四-二 相頓寺
昭和三十五年一月一日指定
相頓寺地蔵堂に安置された三仏は、当初から相頓寺にあったのではなく、明治二年(一八六九)に廃寺になった近くの地蔵院から移されたものである。 中央の延命地蔵菩薩は半跏趺坐、つまり坐して左足だけを下にさげた形である。胎内に再建立の銘には、西尾小左衛門尉(隠岐守。原市の妙厳寺に墓がある)が文禄五年(一五九六)に開眼した旨が記され、作り方から見ても室町時代の作といえる。
向かって右の閻魔大王の坐像は法身の高さ一・一三メートル、江戸時代初期の作である。奪衣姿は一名葬頭河姿と呼ばれ、訛ってショウツカババとよく言われている。亡者が三途の川を渡る時その者の衣をはぎとるものとされている。
三仏はともに寄木造りに彩色が施されている。
昭和五十六年八月二十五日 上尾市教育委員会』(寺院内案内板より)

sotonji14.jpg 【相頓寺絵馬群(遊女書見)】


『上尾市指定有形民俗文化財  相頓寺絵馬群
上尾市五番町一四-二 相頓寺
昭和六十一年三月三十一日指定
相頓寺の絵馬群は、埼玉県内はもとより関東地方においても有数の古い紀年銘を持っている。特に、大絵馬には元禄時代以前の絵馬も二面含まれるなど極めて貴重なものといえる。また材質的にも板・ガラス・穴あき銭と特色があり、さらに「桜に繋馬」や「遊女書見」など風俗画、美術画としても優れた作品をみることができる。これらの絵馬の奉納年代は江戸時代初期から明治時代にわたっており、その間二百数十年に及んでいる。

大絵馬(寸法はcm)
●合戦図 138X123 延宝8年(1680)筆者名:不詳
●桜に繋馬 81.3X91.5 元禄7年(1694)筆者名:森氏文常
●遊女書見 65X86 享保、寛延(1716-1750)筆者名:森有信
●延命地蔵 50.5X27.7 明和5年(1768)筆者名:不詳
●高砂 38.5X58 安永9年(1780)筆者名:清水正並
●延命地蔵 56.9X26 天明6年(1786)筆者名:不詳
●関羽と張飛 54X73.2 天保6年(1835)筆者名:不詳
●延命地蔵 75.1X47.8 天保8年(1837)筆者名:不詳
●五重の塔 90.8X29.1 明治17年(1884)筆者名:不詳

小絵馬
●拝み(男)二面・拝み(女)二面・地蔵 三面
昭和六十一年三月三十一日 上尾市教育委員会』(寺院内案内板より)

相頓寺・墓地内

相頓寺歴代住職墓地と相頓寺六字名号板石塔婆

sotonji007.jpg sotonji008.jpg 【相頓寺歴代住職墓地と相頓寺六字名号板石塔婆】


『上尾市指定有形文化財  相頓寺六字名号板石塔婆
上尾市五番町一四-二 相頓寺
昭和五十五年三月三十一日指定
六字名号板石塔婆とは「南無阿弥陀仏」という六字の名号を刻んだ板石塔婆のことである。この種のものは、市内に十基発見されているが、この相頓寺の一基は、同寺開基に深く関係のあるものと伝えられ、そのような歴史的な価値を持つものとして注目される。
本塔婆は、中央に六字名号を刻み、その両側に僧俗の名を刻んであるが、すべては読みがたい。ただ、これを土中もしくは台石に差し込むための基部に、永徳二年の銘がある。これは西暦一三八二年で、南北朝時代、当地方での板石塔婆造立最盛期にあたるもので、永徳は北朝年号である。
当寺の伝えるところによると、この六字名号の文字は、相頓寺開山良順上人の筆になるもので、永徳二年は、同寺開基の年であるという。『新編武蔵国風土紀稿』も永徳二年、良順開山としている。
高さ一三七センチメートル、幅は上部で三六センチメートル、下部で三七センチメートル、厚さ四・五センチメートルである。
昭和五十七年九月十日 上尾市教育委員会』(寺院内案内板より)

虎御石

sotonji009.jpg 【虎御石】


虎御石伝説

原市の長者に大変美しい”おとら”という娘がおりました。
14歳の春を迎える頃に、その評判は遠方にまで知れ渡り、大勢の若者が結婚を申し込みにおとずれました。
誰にしたらよいか決めかね悩んでいるうちに、痩せ衰えてそのまま”おとら”は死んでしまいました。
悲しみにくれながらも父親は若者たちをもてなし、”おとら”の亡くなったことと、”おとら”の切ない気持ちをつたえた、これが虎御石伝説といわれるもので、この”おとら”の心を弔うために碑(塔婆)を建て、その碑が「虎御石」と呼ばれているものだそうです。
この伝説は埼玉県の他の地にも残っています。
埼玉県蓮田市では、”寅子”と言う娘が求婚に悩み訪れた若者に自らの体を切り刻んだ「なます」を振舞って自殺したという伝説で、この”寅子”を供養するために「寅子石」という碑(塔婆)という埼玉県で二番目に大きい板石塔婆が立っています。
また、埼玉県さいたま市見沼区(旧浦和地区)では、亡くなった”寅子”の身体を切り刻んでもてなしたのは実は両親で、この”寅子”の霊を慰めるために子膾(こなます)明神社という祠を建てたという伝説になっています。

長島竹四郎墓地

sotonji010.jpg 【長島竹四郎墓地】


竹橋事件

竹橋事件とは、1878年(明治11年)8月23日、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊の兵卒、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助・近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵・同第二小隊馭卒長島竹四郎・同じく小島万助らを中心に約260名が西南戦争の行賞について不平を懐き、週番士官深沢巳吉大尉らを殺害、行賞削減を企図したと言われた大蔵卿大隈重信公邸に砲撃を加え、周辺住居数軒に放火、さらに天皇のいる赤坂仮皇居に進軍し集まる参議を捕らえようとしたが、近衛歩兵隊、鎮台兵により鎮定されるという日本軍によるはじめての反乱事件です。
反乱に加わった者のうち53名は同年10月15日銃殺刑に処せられ、そのなかの長島竹四郎は原市出身で銃殺刑後、相頓寺に葬られたそうです。
●長島竹四郎 嘉永6年?明治11年(1853-1878) 

2009.2.11記
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