宝登山神社

ロープウェイの山麓駅からは歩いて「宝登山神社」にいける距離らしいので、テクテクと歩いてみましたが、結構急な下り坂なので帰りの上り坂が思いやられます。
10分ほど歩くと間もなく「宝登山神社」境内に到着です。
割と多くの参拝者が居ますが、「蝋梅」観光客=「宝登山神社」参拝者なのでしょうかね。

宝登山神社本社

境内に入ると目の前に大きな鳥居があります。
宝登山神社鳥居
この鳥居は二の鳥居だそうで、一の鳥居は「長瀞駅前」交差点にあった大きな鳥居だったそうです。
車で来たので写真を撮れませんでしたが。
その鳥居をくぐると石段があり、石段を登ると極彩色の社殿が煌びやかに見ることができます。
宝登山神社

寶登山神社畧記
御祭神
大山祇神:山を掌り山の幸を恵み給う
神日本磐余彦尊:我が国を肇め給いし神武天皇
火産霊神:火を掌り火の幸を恵み給う
御由緒
第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国地方を平定し、御凱旋の閉じ、寶登山山頂で御産柱の神をお祀り申し上げたのを以って、創始となす。
登山に先立ち、尊が心身を清めた「玉の泉」は今なお御本社玉垣内に残る。登嶺の途中、山火事に遇われた時、神使いの巨犬が火を消し止め、尊を頂上まで導いた。此の為古くは「火止山」と称し、後に「寶登山」と改称す。この巨犬は、大口真神(御眷属)で、火防盗賊除・諸難除の霊験あらたかである。
御例祭
4月3日 献幣使参向・神楽奉奏・奉祝煙火等1年1度の最高の厳儀
(現地案内板説明文より)

よくよく見れば当然ながら奥宮にも同じことが書かれていました。
ただここで違うのは、奥宮は5月2日に「つつじ祭り」が行われ、本社は4月3日に例祭が行われるということです。
何はさておき参拝しましたが、近づいてみると細かい彫刻の煌びやかな拝殿が見て取れます。
宝登山神社
この社殿はそもそも江戸時代末期に再建され明治7年に完成以来の社殿だったそうですが、老朽化によることと、平成22(2010)年が「宝登山神社鎮座1900年」にあたることから、1900年記念事業として平成20年から改修がはじめられたそうです。
改修の内容は、1.社殿改修及び彫刻の彩色、2.神札所・儀式殿の新築、3.記念館の改修(仮殿として使用)の3点ですので、社殿がこれほど煌びやかなのが理解できますし、もともとの造りは江戸末期の建造物ですから歴史も併せもった社殿といえるでしょう。

社殿の右側には新築された神札所・儀式殿がありますが、何となく木の香りがしそうな自然とマッチした建造物です。
神札所・儀式殿
更に左側には「神楽殿」があり、「神楽殿」には「神人和楽」という額が掲げられています。
神楽殿 神人和楽

これは、「神楽」の本来の意義が神を招いてなぐさめるために舞楽を奏すことを言うことで、言い換えれば「神楽」とは神と人とが共に享楽することによって神の力を得る神事で、神座に神を招き神の力を招き鎮めることによって、生命力を高めようとするものが「神楽」であるということを表した言葉、それが「神人和楽」という言葉なのだそうです。
今まで見てきた「神楽殿」には無かったような気がしますが…、見落としてきたのでしょうか、それとも宝登山神社神楽殿特有のものなのでしょうか?

この「神楽殿」から先に社殿を囲むようにして摂末社があります。
「神楽殿」の奥に「御神水」とかかれた小さな社がありますが、これでも立派な末社で「水神社」というそうです。
水神社
神楽殿脇から湧き出る神の水を祀った宮で、常に清い水が流れていて、御神水として受けていく参拝者もいるようです。
ちょっと珍しいお宮です。
その隣には「長瀞町招魂社」があります。
長瀞町招魂社

長瀞町招魂社のいわれ
この招魂社は明治、大正、昭和の三代に亘り各戦役等に従い国家のために生命を捧げて平和の礎となられた長瀞町出身の英霊311柱をお祀り致します。
大正13年12月、旧樋口村有志により小学校校庭に創設せられ町村合併後野上町招魂社となり昭和38年5月19日この神域にお遷し致しました。なお、同47年11月1日町名が変り長瀞町招魂社と改称されました。
皆様共々に御社前に額ずいて英霊の御冥福を祈り、感謝の誠を捧げ平和の誓いを新たに致しましょう。
明治天皇御製
世ととしに語りつたへよ国のため 命をすてし人のいさをを
(現地石碑文より)

各地に慰霊の地がありますが、一般的には忠魂碑が多いでしょう。各地で見かけることができますが、ここは忠魂社としてお祀りされているということで比較的珍しいのかもしれません。毎年彼岸には慰霊祭が行われているそうです。
隣には突如として「大黒天」が祀られています。
大黒天
この「大黒天」は実にマルチな神で、もともとは密教の神でありながら、この密教の大黒天(マハーカーラ)が元になって仏教の大黒天となり、大黒の読みが「だいこく」から、「大国」の読みとして大黒天(大国天)として神道の大国主と神仏習合した神なのです。
神道で有名な大黒天は神田明神だそうですが、神田明神の大黒天はこことは違い、2つの米俵の上に乗っているそうです。
実はこの神田明神の大黒天は男性器を表しているといわれていて、具体的には頭巾が男性器の先端部分で、体が男性器本体、そして米俵が陰嚢であるという俗説があり、子宝や子作り信仰に結びついたといわれているようです。
これはこの大黒天像を後ろから見るとそのように見えるそうなのです。とすると、さしずめここの大黒天は爆笑問題の田中でしょうか…。となると米俵一つのこの大黒天は珍しいということになるのでしょうか。
ちょっと不謹慎な話ですが…。

その横には「藤谷淵神社」があります。
藤谷淵神社

藤谷淵神社
御祭神
伊勢大神(天照大神/あまてらすおおかみ・豊受大神/とようけのおおかみ)、八坂大神(素戔嗚命/すさのおのみこと)、 野栗大神(野栗大神/のぐりのおおかみ)、 諏訪大神(建御名方神/たけみなかたのかみ)、 琴平大神(大国主命/おおくにぬしのみこと)、 熊野大神(伊弉冉命/いざなぎのみこと)、 榛名大神(埴山毘売命/はにやまひめのみこと)、 竃三柱大神(奥津比古命/おくつひこのみこと・奥津比売命/おくつひめのみこと・火産霊命/ほむすびのみこと)
御祭礼 春祭2月18日、夏祭7月20日、秋祭10月18日
由緒
寶登山の麓、荒川の清流に沿う大字長瀞(旧称藤谷淵)の人々が、昔から身近にまつっていた、上の八神は、明治政府の方針により次々にこの境内に集められたが、その後、昭和37年に至って、明社(みょうしゃ)の飛地境内処分の浄財をもって新たに社殿を造営し、同年7月8日遷座合祀し、大字の旧称をとって「ふじやぶち神社」と号した。
ここに後世のためにそのいわれを誌すものである。
昭和52年2月春祭の日
宮司 横田茂 誌す  総代 小見山磯吉 建碑寄進
(現地石碑文より)

明治時代まで藤谷淵村にあった8社の神社を、この地に集めたということです。ですからここだけで3つの祭が行われるのです。
いわゆる一年中祭り状態ってことでしょうか。
そして「藤谷淵神社」のちょうど反対側が「宝登山神社」の本殿になります。
宝登山神社本殿
本殿も控えめながら数々の彫刻と色彩が施されています。
その本殿の玉垣に「日本武尊みそぎの泉」という額が掲げられており、その下には「投銭禁止」の告知が出されています。
日本武尊みそぎの泉
どうやら、この泉に賽銭を入れる人がいるようで、金属反応で水が濁るために投銭はやめてほしい旨の内容が記載されています。まあ、両者共に気持ちは判らないこともありませんがね。
ということで玉垣越しに除いてみると割と小さな泉です。
日本武尊みそぎの泉
現状でも結構濁っていますが、涸れないところを見ると一応湧き水のように湧き出ているのでしょうね。「神楽殿」の横に神水もありましたから。
そして、この横にあるのが「日本武尊社」です。
日本武尊社

日本武尊社のいわれ
このお宮には第12代景行天皇の皇子の日本武尊がお祀りされています。東国平定の折、この山の神秘な雰囲気と美しい姿に心ひかれた尊は、艱難辛苦の末山頂に立たれ、この地を神を祀るに相応しいところとされ、寶登山神社の礎とされました。
尊の恩徳を偲ぶ人々は、尊が登山の際、身をお清めになった泉近くに、このお宮を奉斎しました。
日本武尊社のお祭りは八十八夜(5月2日)に行われ、尊の登頂の故事に倣い、ここに奉遷された御神霊は奥宮に赴き祭典が斎行され、神楽が奉奏されます。
この祭りは別名「つつじ祭り」と呼ばれ、秩父地方の農耕始めの目安となっているほか、宝登山の山開きとなる当日の山頂は参拝者やハイカーで大いに賑わいます。
(現地案内板説明文より)

結局何度も同じような内容のことを見聞したわけですが、ちょうどいい機会なので、断片的にしか知らなかった「日本武尊」について調べてみることにします。
「日本武尊」と書く「ヤマトタケル」は記述にあるとおり第12代景行天皇の第二皇子、つまり次男として生まれたのです。そもそも古事記とか日本書紀とかに記述されているものですから、存在自体が当然ながら伝承なのですが、存在しているとすれば凡そ4世紀前半ころではないかと言われているようです。
幼名は「小碓命」といわれ、長男の兄は「大碓命」といい、双子だったという説もあるようです。
「ヤマトタケル」がこの「小碓命」と呼ばれていた幼少期のある日、景行天皇は、美濃の国にいる兄比売と弟比売の姉妹を略奪するようにと兄の「大碓命」に命令したのです。
美濃に出かけた「大碓命」はこの姉妹の略奪に成功したのですが、あまりの美しさに父に渡さず自分のものにしてしまい、父には別の娘を差し出してごまかしたものの、いつしかこのことは父の知るところとなり、父の前には出られなくなった長男だったのでした。
怒った父は次男の「ヤマトタケル」である「小碓命」に「大碓命」を連れ出すよう命じました。
それでも父の前に出ない「大碓命」を不思議に思い「小碓命」にどのように説得したのかを問いただしたところ、あまりに兄が言うことを聞かないので、朝兄がトイレに入ったときに手足をもぎ取りむしろで包んで投げ捨ててきたという、頭は良いのだが実に気性が激しいことから「小碓命」も父から疎まれるようになったということです。めでたしめでたし…。って、天皇家にあってよいことなのでしょうか。
娘を奪って来いという父も父なら、奪った娘をちゃっかり自分のものにしてしまう長男、そしてその長男が言うことを聞かないので殺してしまった次男。
このストーリーを聞くだけで、本当は怖いグリム童話より、もっと怖い天皇家…という話になってしまいますがね。(天皇家批判しているわけではなく、あくまで神話としての解釈、と断っておかないと…)

さて、このように頭脳明晰ながら気性の激しいまま成長した「小碓命」が16歳のとき、父である景行天皇から九州の熊襲を平定するように命じられました。
この当時、熊襲を支配していたのは熊襲建(たける)兄弟で、武勇に秀でた兄弟ゆえに、景行天皇の命令に従おうとしないため征伐することになったのです。征伐には正面からの攻撃ではなく「小碓命」は策略を用いることにしました。
そのころ九州の熊襲建は大きな家を新築したばかりなので、そこでは祝いの宴が催されていました。「小碓命」は少女のように髪を結い小袖を着てこの宴に忍び込みました。
酒に酔って上機嫌の熊襲建の兄弟は色白で美しい「小碓命」を呼び、側に座らせたのでした。そして熊襲建の兄が「小碓命」を自分の膝に抱きかかえようとしたとき、「小碓命」は持っていた短刀で兄を一気に斬り殺しました。驚いて外に逃げ出した熊襲建の弟を追い背中を斬ったのでした。この時、熊襲建の弟は自分達兄弟より強いものは西方にはいないが、倭(倭の国)には居たのだと悟り、自分達の名前である「建」を貰ってほしいと願い、「小碓命」を「倭建命」(ヤマトタケルノミコト)と称えるといって息を引き取ったそうです。
この願いを聞き入れ「小碓命」は以降、「倭建命」(ヤマトタケル)と名乗ることとしたそうです。
因みに「建」の文字は勇敢な者という意味があるそうです。

こうして無事、熊襲を平定した後も、大和への帰路の際、天皇に従わない神々を征伐しながら戻ったということです。
休む暇も無く「ヤマトタケル」は東国平定へと向かわされたのでした。これは東国の12ヶ国(伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥)が天皇の命に従わないという理由からでした。現在で言う三重・愛知県から静岡・神奈川・山梨・埼玉・千葉・茨城・福島・仙台・宮城までのほぼ東日本一円です。
東国征伐へ出発前、「ヤマトタケル」は叔母から,須佐之男命が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとされ、天照大神に献上した神剣「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)を受け取り、東国に出立したのです。

東征では数々の伝承(エピソード)が残されています。
尾張では、村人から塩漬けの野菜を献上されると、それを「藪二神物(やぶにこうのもの)」と呼び、以降、塩漬けの野菜を「香の物」と呼ぶようになった起源となる萱津神社に立ち寄っていたようです。
この萱津神社は現在でも愛知県にあり日本で唯一の漬物の神社として有名なのだそうです。
遠江・駿河付近では、土地の役人が「ヤマトタケル」を迎え、草原の神が従わないから成敗してほしいと沼に案内されました。しかしこれは罠でいつの間にか火がつけられ炎に囲まれてしまったのです。危うし「ヤマトタケル」…、と思いきや持っていた「天叢雲剣」で草を刈り、運よく風向きも味方して難を逃れた「ヤマトタケル」は、罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いたそうで、この地が現在の静岡県静岡市とも焼津市とも言われているようです。
「天叢雲剣」によって難を逃れた「ヤマトタケル」はこの剣を「草薙の剣」と改名しました。これが現在名古屋市の熱田神宮の祀られている「三種の神器」の一つ「草薙の剣」なのです。
また、このあたりの小高い丘に登り周りの平原を見渡していた「ヤマトタケル」の姿を土地の人々が見ていて、この地を「日本平」と名付けたそうですが…。

相模の国ではちょうど現在の三浦半島から房総半島へ渡ろうとした時に嵐に襲われました。嘗て大和で出合い、同行してきた娘・弟橘比売はこれを海神の祟りと、その怒りを静めるため海に身を投げたのでした。これによって嵐は収まり無事房総半島に渡ったのです。
このとき「ヤマトタケル」がこの海を見て「水走る」と称えたことから、現在の横須賀市の走水の地名はここから起こったと伝えられているのです。
また、「ヤマトタケル」は、わが身を犠牲にして嵐を鎮めた弟橘比売を偲んで、7日後に見つかった櫛を御所ヶ崎に祀り、村人の敬慕に対して冠を与えたそうです。そして村人はこの冠を石棺に納め,その上に社殿を建立して「ヤマトタケル」を祀ったそうです。
前者の弟橘比売を祀った神社が橘神社で、「ヤマトタケル」を祀ったのが現在の走水神社だそうで、橘神社は後の明治になってから土地が政府に買い上げられたため、現在は走水神社に合祀されているのです。

無事に上総国木更津に上陸すると、その後陸奥国に進み艱難辛苦の末陸奥国を平定し、蝦夷もその勢いに従い東国の平定がなされたのでした。
見事東征が済むと「ヤマトタケル」一行は帰路に着きます。
その行程は常陸国(現在の茨城県)から甲斐国(現在の山梨県)に行ったようなのですが、ここからのコースが「古事記」と「日本書紀」では違うようです。
「古事記」では甲斐国から信濃国を抜けて尾張に向かっているのに対して、「日本書紀」では甲斐国から一旦、武蔵・上野国を通って西碓日坂(現在の碓氷峠)から尾張に至っていると記載されているようです。
伝承ですからどちらでも良いようなものですが、もし「古事記」の通りであれば武蔵国を通ることは無いということになり、埼玉県や東京都にとっては頭の痛い問題になるわけです。勿論、宝登山神社にとっても大きな問題となることは必然です。

ここで埼玉県や東京都の「ヤマトタケル」に纏わる伝承のある場所を挙げてみます。
埼玉県では特に秩父地方に伝承が残っています。
●三峯神社:「ヤマトタケル」の創建
●武甲山:「武甲山」の名称は、日本武尊が東征の際、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説に由来
●猪狩山と猪鼻:「ヤマトタケル」の猪退治と猪狩山で退治され切り落とされた猪の鼻が落ちたところ
●小鹿野神社:「ヤマトタケル」一行を案内した小鹿の塚と地名伝説
●両神山と両神神社:「ヤマトタケル」が山をめがけ歩いた八日間「八日見山」とイザナギ尊イザナミ尊を山頂に祀る
●吉田町椋神社:「ヤマトタケル」一行を案内した猿田彦尊を祭神として祀る
●皆野町出牛:突如現われた牛が「ヤマトタケル」を対岸に案内する
●二本木峠:「ヤマトタケル」が食事に使った箸を差しておいたところ、その後二本の杉になった
●日本水:「ヤマトタケル」が釜伏山からの下り道、喉の渇きを癒すため、水を求め剣を岩に刺したところ清水が岩から湧き出す

また、都内・都下では以下のような言い伝えがあるようです。
●鷲神社(台東区千束):「ヤマトタケル」が東征の折に戦勝を祈願
●五条天神社(台東区上野公園):「ヤマトタケル」が東夷征伐の為、上野忍が岡を通った際に薬祖神の御加護に感謝し、当地に祀ったのが創始といわれている
●榊神社(台東区蔵前):「ヤマトタケル」が東夷征伐の折に創祀した
●根津神社(文京区):「ヤマトタケル」が千駄木の地に創祀した
●御嶽神社(青梅市):祭神が「ヤマトタケル」
以上のような伝承が残されているようです。

いずれにしても全く通ることが考えられないわけでもないのですから、ここは素直に伝承を信じても良いのでしょう。
この後も各地で伝説は残っているようで掻い摘んで羅列してみます。
●内々(うつつ)神社(愛知県春日井市):「ヤマトタケル」が亡き戦友に「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しんだことから
●居醒の清水(滋賀県米原町醒ヶ井):「ヤマトタケル」が傷をいやしたと言われ、醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われている。
●当芸野(たぎの)(岐阜県養老町周辺):「ヤマトタケル」が休憩した場所で、足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった」と言ったことからついた地名。
●杖衝坂(三重県四日市市):「ヤマトタケル」が目の前の急坂を上るために,杖をつきながら歩いたという故事からつけられた坂名。また、その体力が衰えた時に語った「わが足三重の匂(りなして,いと疲れたり」といったことからこのあたりを三重(三重県)というようになった。
と言ったことが数々残されているようです。

そして「ヤマトタケル」は終焉の地となる能褒野(三重県亀山市)に着き、ここで力尽きたようです。
「ヤマトタケル」の死後、陵墓を築きその周りを這い回り歌を詠うと、「ヤマトタケル」は白鳥となって大和を目指して飛んだそうです。
このような伝承のもと能褒野の地とされる三重県北部には「ヤマトタケル」の墓とされる古墳(白鳥陵)が幾つかあります。
鈴鹿市加佐登「白鳥塚」、鈴鹿市長沢「武備塚」、鈴鹿市長沢「双児塚」、鈴鹿市国府「王塚」、亀山市田村町「丁子塚」などがあり、「白鳥塚」という円墳が最有力とされていたのですが、明治12年、時の内務省は亀山市田村町の「丁字塚」と呼ばれる前方後円墳を
「ヤマトタケル」の墓と認定し「能褒野陵」と命名したそうです。

これが「ヤマトタケル」の概要です。
神話の世界には数々のヒーローがいますが、やはりこのようなハードボイルド…、ほどクールではないが、「倭建命」を「日本武尊」と置き換えるくらいに日本のシンボルとして、これからも伝えられていくのでしょう。
一つ伝説で忘れていましたが、昨年“ひっぷな旅と歴史”の【草津温泉家族旅行】で訪れた草津開湯伝説も、「ヤマトタケル」の東征の際の逸話が残されていました。

先に進むと「天満天神社」があり、ここがちょうど社殿の裏手にあたります。
天満天神社

天満天神社のいわれ
当初、別当・玉泉寺を開基した僧によって菅原道真公が勧請されましたが、その後、他所に祀られる2社を合祀、「天満天神社」と号し、学問・書道の神さま、また農業守護の神さまとして慕われ、信仰されています。
祭日は、古くは1月25日を「初天神」と定め、子供たちがお宮に参拝し、書初めを神前に納め、宿になる家に集まり、歌留多、双六、食事におやつと、楽しい一日を遊び過ごしたものでした。
今は1月25日に近い土曜日を「初天神」と称し、進学、受験をひかえた子供と親が参列し、学業成就と進学達成を願う、「勧学祭」が行われます。昔ながらの書初めや志望校への進学を願う、願掛け絵馬が社前に納められます。
(現地案内板説明文より)

別当とは本部とかの意味があり、「宝登山神社」の方が歴史がありながら、神仏習合により1113年開基の「玉泉寺」の管理下とも言うべき位置に「宝登山神社」が「寶登山大権現」の霊場として置かれていたようです。
そうして江戸時代末期の弘化4(1847)年、当時の住職であった「榮乗」なる住職が「寶登山大権現」の社殿再建を始めたのでした。途中「榮乗」は本所の覚王寺住職となりますが、明治7(1874)年5月、社殿の再建が近づくと「榮乗」住職は東京芝神明の神主小泉大内蔵へ入門し神祇道を修め「小菅式部是道」として寶登山の初代神主となり社殿再建の日となるのでした。
このときはすでに明治でしたので神仏分離により別当も廃止されたことから「宝登山神社」と「玉泉寺」が隣り合わせで立地しているのです。
残念ながら「玉泉寺」には寄りませんでしたが、機会があれば是非訪れてみたいです。先の「小菅式部是道」である「榮乗」住職の墓があるそうです。

「天満天神社」の先にある小さい橋を渡ると「宝玉稲荷神社」があります。
宝玉稲荷神社 宝玉稲荷神社
稲荷社というように真っ赤な幟が並んでいます。

宝玉稲荷神社のいわれ
このお宮は文政5年(1822)12月14日、伏見稲荷社から倉稲魂神(うかのみたまのかみ)をを勧請しお祀りしました。
五穀豊穣、商売繁盛、家内安全など福徳をもたらす御神徳の高さから、長瀞町内外多くの方々に崇敬されています。
また、紛失物があるときにお参りすると、失せ物が戻りご利益が得られると信心されています。
宝玉稲荷神社のお祭は、初午祭(2月初午)のほか、毎月15日「御炊上祭」と呼ぶ特別な神事があります。
「御炊上祭」は午後3時、福徳を祈ったのち、神使の「御白狐」(オビャッコ)御饌津(倉稲魂神)に先立ち、力強く御神徳を発揮するようにと、アズキ飯と御神酒を山中の磐座に、お供えします。
(現地案内板説明文より)

この神社には多くの祭礼があるのは前述したとおりですが、その中でもこの「御炊上祭」とは特殊な神事のようで、この神社特有の祭礼です。
創立に深く関連するいわゆる「お犬様」に扶持(エサ)を与える神事なのです。「宝玉稲荷神社」では毎月15日にアズキ飯をお供えするようですが、本社では毎月7日に行われ白飯をお供えするそうです。
この秩父地方ではオオカミ信仰が盛んだったようです。
三峯神社では神使いの狼が「ヤマトタケル」に道案内をし、武蔵御嶽神社では白狼に助けられたという伝説が残っています。このようにオオカミ信仰とは、姿の無い神が目に見える形で動物などを遣わせる「眷属」を崇拝するといった信仰なのです。
一般的に「眷属」として有名なのは、
「キツネ」(各地の稲荷神社)、「オオカミ」(三峯神社)、「ニワトリ」(伊勢神宮)、「サル」(日枝神社)、「ウシ」(北野天満宮)、「ウサギ」(調神社)、「シカ」(春日大社)、「ウナギ」(三島大社)、「ヘビ」(出雲大社)、「ハト」(石清水八幡宮)、「イノシシ」(愛宕神社)などがあるようです。
ここでは「イヌ」と「キツネ」は同一と考えられているのかもしれませんし、或いは本社は「イヌ」と分けているのかもしれませんが、いずれにしても「眷属」として祀られているということでしょう。
社の中には小さなたくさんの「白狐」が祀られていました。

「宝玉稲荷神社」で参拝して本殿へもどります。これで社殿をグルッと一周したわけですが、途中に「日本みつばち、近寄らないでください」とかかれた札が吊り下げられている大木がありました。
日本みつばち
確かに西洋みつばちと比べると圧倒的に数の少ない日本みつばちだそうですが、それほど貴重種ということではないようです。ただ、何処が巣なのかが良く分かりませんでしたが…。
「宝登山神社」も大変見所の多い神社で、歴史ある神社で様々な知識を吸収することができました。

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