さきたま史跡の博物館

ひとしきり古墳巡りも堪能し、古墳の出土品を展示してある《さきたま史跡の博物館》へ向かう。
途中、移築民家が2棟あるので見学していく。
一棟は江戸時代の地主の稲作農家であった旧遠藤家住宅(右)、もう一棟は明治時代の農家の旧山崎家住宅(左)である。
移築民家
それぞれ市内外から移築したもので、オート説明機材も据えつけられて内容的には非常に興味深いものであった。と言うのもこれほど古くは無かったが嘗て生まれ育った実家の匂いがする気がしたので懐古的心情を醸し出されたのであった。
それはそれで結構なことであったが、素朴な疑問として「何故の移築民家」なのかである。
古代ロマンに浸った後に江戸や明治の民家というアンバランス・・・それともミスマッチ。かなり理解に苦しむところではある。せめて移築は無理としても模型とか復元とかの竪穴式住居とかの方が良いのではないかと思うのは私だけかな。

閑話休題
移築民家をひとしきり見学してから《さきたま史跡の博物館》に入場料タ200-を払って入場する。
チケット
博物館自体は昭和51年8月に正式登録されたそうである。その後、昭和52年9月 礼宮文仁親王殿下、紀宮清子内親王殿下、昭和53年5月 浩宮徳仁親王殿下、昭和55年12月 皇太子殿下・皇太子妃殿下(現在の天皇・皇后)、昭和58年5月 天皇陛下が行幸された。

展示に関しては大まかに2つの展示がある。
一つは常設展示、もう一つは企画展示である。この日の企画展は「地中からのメッセージ」と題された最新出土品展が開催されていた。
まずは、企画展を見学する。
この企画は、平成19年度の埼玉県内の発掘調査出土品並びに整理作業の終了したもののなかから、新聞発表されたものや注目される考古資料を紹介する企画である。

埼玉県の18遺跡から出土されたもの、特に個人的に興味を引いたものを紹介します。
◆和同開珎発見〔弁天西遺跡、川越市・川越市教育委員会〕
所謂、和同開珎です。あの教科書にも載っていた和同開珎なのです。結構本物を見れるって感動的。

◆空に叫ぶ(?)不思議な土偶〔小林八束1遺跡、菖蒲町・財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団〕
空に叫ぶ(?)不思議な土偶
一時期宇宙服を着ている土偶とかがはやったのですが、まあ、それっぽい近似値的展示。若干無理あり。
そのくらいですかね。他の出土品もそれなりに見る人が見れば価値のあるものなんでしょうが、私的には一杯一杯でした。

企画展を見終わって常設展示を見学する。
ここは《さきたま古墳群》の出土品が見られる。印象的には埴輪が以外に大きいのが印象的でした。一つ一つのカケラを集めてジグソーパズルの様に復元していく作業は好きなものしか出来ないだろうな・・・と、つくずく考えさせられました。逆に考古学に嵌った人は確かに寝食を忘れて事に当たるんだろうと。
やはり興味深いものばかりではありますが、メインはやはり国宝「金錯銘鉄剣」です。
国宝「金錯銘鉄剣」 《チケットからスキャニングした「金錯銘鉄剣」》
そのもの自体が持つスピリチュアルがそうさせるのか、単に演出としてのディスプレイ(窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている)がそうさせるのか、とにかくオーラがある。まさに、”国宝”の持つ重み、輝きが現れているのである。

参考サイト:埼玉県立さきたま史跡の博物館  http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp

このページで写真を見ることができるが、これだけは実物を見に行った方が断然良い。これだけの為に¥200-払ってもお釣が来る、それほど見事である。
確かに鉄剣だから錆で形状はボロボロではあるが、金のエンボス加工のような文字が実に美しく、威厳に満ちているかの様である。
刻まれた文字の書体が何なのかは判らないが、非常にいい感じの書体で、タイポグラフィにしても趣があるのではないかな・・・などと、素人の考えを思いめぐらせてしまうのである。

発掘の経緯は、1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。
1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する。
その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定されたそうである。

銘文の内容は次の通りである。
[表]
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
「口語訳」
西暦471年の7月中旬に、私、ヲワケの臣は記しておく。私の遠い祖先の名はオオヒコ。その児(の名)はタカリのスクネ。その児の名はテヨカリワケ。その児の名はタカヒシワケ。その児の名はタサキワケ。その児の名はハテヒ。
[裏]
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
「口語訳」
その児の名はカサヒヨ。その児の名は私、ヲワケの臣である。私の家は代々杖刀人の首(じょうとうじんしゅ=親衛隊の長)として、大王にお仕えして今に至った。ワカタケル大王(雄略天皇)の朝廷がシキの宮におかれていた時、私は大王の天下を治める事業を補佐した。そこで、この鍛えに鍛えたよく切れる刀を作らせて、私が大王にお仕えしたこれまでの輝かしい功績をを書き残しておくものである。

これから読み取れることは、銘文における辛亥年は471年説が有力視されているが、一部では531年説もあるが、471年説を採るとするならば獲加多支鹵(ワカタケル)大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち雄略天皇となるので、この場合遅くても5世紀後半には大和朝廷の権力が北関東にまで及んでいたと言うことを表している。
このことにより我々は、古代国家成立を理解する上での貴重な出土品であることを理解する必要があり、その様な意味で国宝として指定されたのであろう。

これをもって《さきたま古墳群》を後にすることになるが、教訓が一つ。
こういった所に行く前には若干の予習が必要である。予備知識があればより楽しめよう。もし予習をしていなくても、この場に行くならまず、博物館を先に訪ねよう。
実際に将軍山古墳に古墳内展示室があることを、こちらの展示室で初めてわかったが、それから将軍山古墳までまた歩いて行こうとは思えないのである・・・体力的に余裕のある方なら大丈夫ですが。
それと、行くなら春とか秋・・・何といっても季節のいい日が一番です。

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