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雉岡城址の記念館 #1

自宅を出発する前にナビで目的地を入力すると、「雉が岡城址」は無かったのですが「塙記念館」のデータがありました。
塙保己一といえば歴史の教科書にも載っているメジャーな偉人(偉人にメジャーとマイナーが居るという発想が結構気に入っている)で、いわば全国区ですからナビに登録されているのは当然のことであろうと思います。
一発検索で目的地を指定し、途中わざとナビの道順を変えて、如何対応するのか確認しながら「雉が岡城址」に到着したのはAM10:00少し前でした。
3台ほど止められる駐車場に車を止め散策を始めます。結構、気温は低いですが天気も上々で散策日和のようです。

雉が岡城址

駐車場付近に看板と案内板があります。
雉岡城跡

雉岡城跡
所在地 児玉郡児玉町大字八幡山
雉岡城跡は、別名八幡山城跡とも呼ばれ、戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭いので、山内上杉氏は上州平井城に移り、当城には家臣の夏目豊後守定基をおいて守備させた。永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形北条の属城となったが、天正18年(1590)に豊臣方小田原攻めの際、前田利家によって攻囲され落城した。その後天正18年8月徳川氏の関東入国後、松平家清が一万石の格式を受けて領主となり居城としたが、慶長6年(1601)三河国吉田城に転封されるや廃城となった。
現在、二の郭は児玉中学校、三の郭は県立児玉高等学校の敷地となっており、本郭の一部は公園として残されている。本郭は他の郭より一段と高く、中央に幅10メートルをこえる空堀があり、南側は断崖をなしている。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

JR八高線・児玉駅から南へ3つ先の寄居駅にその「鉢形城址」があります。
その「鉢形城址」へはジャンルBの【鉢形城跡と寄居北條まつり】で昨年の4月12日に訪れています。
「鉢形城址」は大変大きな城跡で、かなり整備もされていて全国的にも歴史ファンにとっては知られた存在のようでした。
それに比べるとやはり属城ゆえの悲哀からか、綺麗に整備されているとはいえ、観光資源としては若干寂しそうな一面が垣間見えますが、歴史は鎌倉時代から始まっているようでもあり、「鉢形城址」と関連ある城跡として多少なりとも興味を引かれる史跡です。
それにしても、郭とか空堀とか城マニアは別として言葉で説明されても理解しにくいのですね、一般人には。理解出来ようが出来まいが、城跡を訪ねるのが主目的ではないので、いつものように何となく理解できれば良いという実にファジーな散策ではあるのですが、いただいたパンフレットに「雉岡城跡」についての歴史と構造が詳しく説明されていますので、もう少し理解を深めたいと思います。

埼玉県指定史跡 雉岡城跡について
はじめに
雉岡城は本庄市児玉町八幡山、児玉の市街地の北西部にあり、旧字雉岡の地名をとって付けられた城です。別名を八幡山城ともいい、城の南側を東西に鎌倉街道上杉道が通り、東側は鎌倉街道の本道の上道が南北に通り、その二つの街道の分岐する内側に立地する北武蔵の交通の要衝に築かれました。関東の戦国の動乱期に築かれ、山内上杉家・後北条家・松平家と城主を替えて近世初頭期まで使用されました。城の概要について紹介します。

城の築城と歴代城主、城の役割
この地には古くは古代末期に勢力を持っていた武蔵七党児玉党一族の館があったのではないかと思われます。そして雉岡城が記録上に登場するのはだいぶ後のことで、江戸時代の後半頃に編さんされた地誌「新編武蔵風土記稿」に、「山内上杉氏が築いたが地形が狭いために上州の平井城に移り、家臣の有田(後に夏目姓)豊後守定基を置いて守らせた」と書かれています。
関東管領山内上杉氏は上野国の守護であり、平井城を本拠とし、対立した武蔵国守護の扇谷上杉氏に対抗するために、雉岡城は武蔵国北部の拠点としての役割がありました。
夏目豊後守定基とその子の定盛の二代にわたって雉岡城主でした。そして夏目定盛は小田原北条氏(後北条氏)に備えて相模国長尾城に移りました。その後、小田原北条氏が武蔵国に進出するに及び、関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃げ、雉岡城も後北条氏の城となりました。
鉢形城(寄居町)主北条氏邦は家臣の横地左近将監忠晴を雉岡城の城主として派遣しました。北条氏邦は北武蔵と上野国の経営を任され、雉岡城は上野国方面の押さえの役割を持ちました。つまりこの段階で築造当初の南方に向けた押さえから、北方に向けた押さえと城の役割が大きく変化しました。
天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めると、雉岡城は豊臣方の前田利家・上杉景勝軍の侵攻を受け落城したようです。豊臣秀吉は関東を徳川家康に与え、家康は江戸城に入りました。
徳川家康は新領地の関東の地盤を整えるために有力な家臣を関東各地に配置しました。児玉の地には一族の松平清宗に雉岡城(この頃は八幡山城)一万石を与えました。清宗は領地の支配を始めましたが数年で死去し、嫡男の玄蕃頭家清が跡を継ぎました。しかし関が原合戦の翌年の慶長6年(1601)に、家清は合戦の勲功により三河国(愛知県)吉田で三万石に加増して転封となり、児玉の地を離れました。この松平家清が雉岡城(八幡山城)最後の城主であり、以降、城は廃城となりました。建造物や施設の一部が取り壊されたようですが、城の土塁や堀などは残されたようで、御林として城は残されました。
江戸時代後半には城内は開墾され堀は田になり、曲輪などは畑になったようです。

雉岡城をめぐる攻防
天正18年に豊臣秀吉が小田原城に侵攻したとき、豊臣軍の北国勢(前田・上杉軍)により包囲され落城しましたが、この様子について「天正18年4月18日に上杉景勝の大軍が生野山に陣を張ると、城代の横地左近は恐れをなして鉢形城に退去した。上州沼田城主であった猪俣能登守も雉岡城にあって情勢をみたところ、この大軍ではとても防戦出来ないとして、敵軍にあった難波田氏を頼んで降参したため、城を守っていた武士たちは逃げ去ったという」。また、金屋村の真福寺の阿弥陀如来像台座には、「当寺には金銅鋳物の本尊があったが、天正18年の天下が乱れ小田原が滅亡したときに、越後国上杉景勝が生野山に陣を敷き、数日(この間不明)して本尊が退転した」と記録されています。これは上杉景勝軍によって城下周辺で小規模な戦闘か、放火・掠奪があり、真福寺も焼かれ本尊が失われたことを記録したものです。しかしながら短期間で落ち着きを取り戻したようです。この間、農民は皆避難していたようで、前田利家は児玉の豪族久米氏に農民がもとの地に戻るよう命じています。

城の縄張り・構造と現在の状況
城は小丘陵上に築かれたと思われ、曲輪は本丸・二の丸・三の丸・伯耆曲輪及び幾つかの曲輪で構成され、更に馬出しや虎口などの遺構が残されています。
雉岡城の構成は最後の城主松平氏時代のもので、北条氏時代の城郭を一部手直しした程度のものと思われます。(右の図は近世に作成された絵図をもとにしていますので、縄張りの名称は近世の城郭のものです)。
江戸時代に城を観察した様子が「新編武蔵風土記稿」に見えます。
「城は山により南を首とし、北を尾とする。東西北の三方はすべて堀を構え、南の一方のみ平地に続き、この所に大手口あり。大手の前に馬出し跡あり。
大手を入り山を登り本丸に至る。この所は山上に平地なり。ここより乾(北西)の方に行ってから堀あり、その西に二の丸曲輪あり、それより北へ降りて三の丸へ至れり。この二・三の丸の隅に丸馬出しの跡あり。すべて城中構え構えの土手(土塁)今に依然たり。これより東へまわりて大池あり。城中の固めとせり」
以上のように記録されています。
現在ではかなり状況が変わっており、城地の多くが失われていますが、大規模な土塁や空堀が残され城の雰囲気を今に伝えています。本庄市教育委員会文化財保護課 2009.9作成
(現地での説明パンフレット文より)

といった歴史及び城の構造です。
ここまで説明されると凡その歴史、城の構造などなど素人にも理解しやすいものです。
現在各地に現存する城は少なく、きちんと整備されている城跡もそれほど多くないようです。それでも城マニアたちはそのような城の構造を調べたり眺めたりしながら、当時の武将や武士達の生き様や歴史にロマンを見出しているのでしょう。

とにかく入ってみることにします。
この先が入口のようですが、そこに100選で選定された記念の碑が立っています。
100選で選定された記念の碑
もうすでに選ばれてから10年が経過しており、多くの人が忘れかけて(そのうちの多くの人がもともと知らなかった)いることでしょう。
いただいたパンフレットの地図をもとにすると、この入口は当時は土塁で出入り口ではなかったようです。
雉岡城跡
公園(城跡)に入るとと左手に土塁がずっと続いていますが、この土塁辺りが雉岡城の一番南端です。
雉岡城の一番南端

正面に小高い丘があります。
南の曲輪 南の曲輪
ここを中心としてこの周辺が「南の曲輪」と呼ばれるエリアです。
この丘のところにも「雉岡城跡」というこちらはコンクリート製のがっしりした看板がありますが、左右の支柱の長さが違うのは何か意味があるのでしょうか。プチ不思議です。
その丘に上がってみると先ほどの入口から北に向かって土塁が築かれているのが分ります。
南の曲輪 石碑
この「南の曲輪」だけを見てもそれなりの広さを実感することができます。
また、丘の前には何の石碑なのかは判りませんが、石柱の柵に囲まれた大きな石碑がありました。

丘から入口と反対側を見渡すと池が見えますが、これはかつての水堀だったようです。
かつての水堀
現在は公園の池として存在しており季節がら寒々しい限りです。
その先にうっすらと見えるのがどうやら県立高校で、あの辺りが三の丸・伯耆曲輪があったところです。ここからの距離を考えると属城といえどもかなり大きな規模であったのが改めて窺えます。

丘から水堀のほうへ降りてみると、ちょうど階段の下にコンクリート製の四角い建造物があります。
水道の井戸

水道の井戸
児玉町は長い間、水不足のために苦労を繰り返してきました。
この井戸は大正期に児玉町の上水道用につくられた、源泉の井戸です。きれいな湧き水を利用した上水道であったといわれていますが、その後水量不足や費用の関係で廃止され、上水道施設は連雀町小中山に移設されました。
児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

当然ながら、このような湧き水が取水できたからこそ城郭も作られたのでしょう。そういった意味では鎌倉時代から大正時代までずっと児玉町を潤してきたといっても過言ではない重要な井戸だったのだと思います。
ここで見る眺めは、先ほど上からの眺めとは違ったきれいな水面が見られます。
桜の名所
地元では桜の名所のようですから、春になれば華やかな光景が見られることでしょう。
その反対側にも水堀があるのですが、こちらはかなり水が減っているようです。春から夏には増えるのでしょうかね。
この場所自体3方向が小高い丘に囲まれている(というよりはもともとすべて水堀だったのかもしれません)ところで、右奥には上に登れる階段があります。
堀
階段を上る前に、水掘の先には何やら看板が立っているので行ってみました。
夜なき石
近づいてみると「夜なき石」と書かれていますが、特に説明がありません。
夜なき石
果てさて、一体どのような由縁をもった石なのでしょうか。

水堀にもどって先ほど見た階段をあがってみます。
上まであがるとそこには小さな「金毘羅神社」がありました。
金毘羅神社 金毘羅神社
詳しい縁起についてはついては良く分かりませんが、寛政11年に勧請記念の俳句額を奉納したとの記録があるようなので、その頃に創建されたものと考えられます。
この俳句額は俳人としても地元で著名な豪商であった「戸谷双烏」という人物が奉納したようです。
この人は本庄宿の豪商・中屋の三代目当主で、多くの文化事業を行ったそうですが、とりわけ俳人として活躍し、当代の春秋庵常世田長翠を自宅に招き小蓑庵を開かせるなどし、本庄・児玉地域の俳諧の隆盛に大きな役割を果たした人だそうです。
これがそのまま寛政のものとは思えませんが、やはり歴史ある神社だったのです。
小さいからといって侮ってはいけませんね。

その先の木に『芭蕉句碑・(造立年不詳)「むざんやな 甲の下の きりぎりす」はせお』と書かれた道標が下げられています。
芭蕉句碑
その矢印の方向を見れば確かに句碑らしきものがあります。それほど大きくも無いので、道標でもなければきっと誰も見向きもしないかもしれません。
児玉中学校
そのさきにはフェンスで仕切られた学校があります。中学校のようで、かつてここに本丸が置かれ、この右側に二の丸があったようです。ここでもまた雉岡城の大きさに驚きます。
そのフェンスの横に金毘羅神社の鳥居と社号標がありました。
金毘羅神社
社殿の規模の割には鳥居と社号標は随分と立派ですが、よくよく考えればこちらが本丸側ですから、参道の入口に鳥居があるのです。

道なりに進むとちょうど先ほど「夜なき石」のあった崖の上に出ます。崖の下に「夜なき石」が小さく見えます。
夜なき石
そしてここに「夜なき石」の案内板がありました。

夜泣き石(親子石)
この石には、次のような伝説があります。
昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

まあ、それにしてもかなりおぞましい話ではありますが、この手の民話は当時の道徳や修身の意味合いがあったから、返って強烈な内容となるのではないでしょうか。ある意味海外の童話が実はおぞましい話だったのと本質は同じなのかもしれません。

ここをそのまま進むと最初の小高い丘に戻りますが、その反対側に「塙記念館」があります。
虎口
この辺りが大手口から入ってきた「虎口」にあたります。「虎口」とは入口のことで、ここから本丸に向かう訳です。
ちょうど「塙記念館」の周りが空堀となっているのは、所謂まっすぐ入れない仕組みのためのようです。
この辺りにも地蔵や石碑などが幾つか見られますが、どのようなものなのかは不明です。
石碑

こうして公園入口からグルッと巡ってきたのが「南の曲輪」です。少なくともこう言った曲輪が二の丸・三の丸・伯耆曲輪・東の曲輪・北の曲輪、そして本丸とあるのですから雉岡城の大きさに改めて驚きを隠しえません。
今見てきたように残念ながら現在はこの「南の曲輪」と「東の曲輪(一部)」だけしか公園として残っていませんが、まあ、これで古の戦国武将に思いを馳せる気持ちも分らないことではありませんね。

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