児玉市街地散策 #1

記念館の係りの方には「保己一の生家」を案内されましたが、一旦市街地を散策してから寄りたい旨を話したところ「天龍寺」「八幡神社」などを勧められたのでそちらに行って見ることにしました。
「雉が岡城址」から車でも10分程度でしょう。こんな時はやはりナビはありがたいです。
天気が良い分今日は非常に寒いですが、気分は上々です。

天龍寺

天龍寺に到着した印象は境内がすべて舗装されている大変整備された寺院という印象です。
その中でも建造物などは歴史を感じさせる近世と現代の融合したような空間です。

天龍寺
所在地 児玉郡児玉町大字金屋
当寺は、曹洞宗の寺で吉祥山天龍寺といい、本尊は釈迦如来で、児玉33霊場第7番になっている。
寺伝によれば、この寺は昔、興龍禅院と称し元亀年間(1570~1573)のころまでは、現在地の西方約3キロメートルの飯倉山にあったが、天正13年(1585)7月に雉岡城主横地左近将監忠春(北条氏邦家臣)が開基となり、現在の地に移して、寺名も天龍寺と改めた。開山は才庵存芸大大尚、中興開基は戸田備後守である。
境内には、県指定文化財の銅鐘がある。この銅鐘は、高さ1.35メートル、外周の口径が76センチメートルあり、当地金屋の鋳物師が作ったもので貴重である。
また、本堂石段の手前にある足形をした踏み石の下には、全国百霊場からもらい受けた土が埋めてあり、その足形上に立てば、百霊場巡礼の功徳が授かるといわれている。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

早速、その銅鐘のある鐘楼を見てみますと、かなり歴史を感じさせる風格ある鐘楼です。
天龍寺鐘楼門
恐らく当時はもっと華やかな色彩だったことと推測します。

埼玉県指定有形文化財(工芸品) 銅鐘
児玉町大字金屋142番地1 昭和39年3月29日 指定
天龍寺は興龍禅寺といって、もとは飯倉村(今の児玉町大字飯倉)に在り、天正年間(1573年~1591年)に、雉岡城主横地左近将監が現在の地へ移したと伝える曹洞宗の寺院である。
この鐘は山門の階上にあり、高さ136cm、口径76cmあって同寺の火災にも焼失を免れた。
金屋地方は鋳物師の代々居住したところとして有名であり、この鐘は金屋鋳物師の代表的な作品として貴重なものである。名文に「宝永8年(1711年)正月吉日 鋳物匠工 倉林太左衛門金貞 同茂左衛門金珍」とある。
平成元年3月 埼玉県教育委員会 児玉町教育委員会 吉祥山天龍寺
(現地案内板説明文より)

「キューポラのある街」で生まれ育った私としては、鋳物に関しては調べないわけにはいかないでしょう(調べないと判らないのが悲しいですが…)。
たとえば埼玉県川口市の鋳物発祥の歴史では、平将門の乱を平定するため下谷の豪族が討伐に赴いた際に、それに従った鋳物師が平定後も留まったといった説等が上げられています。それほど鋳物自体の歴史はかなり古いものなのです。
しかし、一般的な記録で川口市の鋳物が全国的に有名になってくるのは江戸時代で、当時、農閑期の副業として荒川の砂や粘土、そして江戸への水運に恵まれていたことから川口市の鋳物工業が発達したようで、当初は鍋・釜などの日用品が作られていたようです。
その後、江戸時代後期から幕府や諸藩から武器(大砲や砲弾)などの依頼が増え、幕末では勝海舟の指示により大砲が製造されるようになり、日用品から軍需品への移行によって次第に川口市の鋳物の名声もあがり、明治以降、昭和の時代まで川口の主産業として栄えてきたという歴史を持っています。

このように鋳物自体の歴史は古いのですが、鋳物師の歴史というと明確では無いようでが、一説には河内国丹南郡(堺市美原区・東区と松原市の一部)を本拠地としていた「河内鋳物師」という金属鋳造の技術者集団が鋳物師の発祥ではないかと言われています。
そしてこの「河内鋳物師」の影響を受けた鋳物に大久保鋳物(新潟県柏崎市)、佐野天明鋳物(栃木県佐野市)、高岡鋳物(富山県高岡市)などがあり、これによって東日本にもこの「河内鋳物師」が伝わっていることが窺えるのです。
この当時の「鋳物師」というのは朝廷から認可を受けた一つの称号だそうで、現代に残る「鋳物師」としては、鎌倉時代に創業した茨城県桜川市の小田部鋳造株式会社、戦国時代に岐阜城下で創業した株式会社ナベヤが有名だそうです。
特に梵鐘メーカーである小田部鋳造は、全国の14の鋳物師のうち唯一、天皇家から菊の紋の使用を許されて、現在に至っている貴重な鋳物師でもあるようです。
栃木県佐野から茨城県桜川市への影響、あるいは移り住んだとしてもおかしくは無い距離です。
この小田部鋳造のサイトにこう記載されています。

小田部家の歴史
関東の名山、筑波山の麓、真壁町に勅許御鋳物師の称号を持つ小田部家が、河内国(現在の大阪府)から、源頼朝によって開かれた鎌倉幕府の新興武家政治の兵備の一端を担うべく馳せ参じたのは、実に800年の昔、建久年間の事でありました。鋳造には欠くべからざる良質の砂と粘土を、筑波山麓に発見して、真壁の在に居を定めたと言われております。
寺院の梵鐘を鋳るのが家業でしたが、幕末の頃には黒船撃退のための大砲の鋳造を、昼夜兼行で行った事も記録に残っております。戦時中は金属類の強制供出によって、多くの由緒ある梵鐘が地金として徴発融解され、その中には多くの小田部鋳造の梵鐘がありました。戦後 35代目庄右衛門は、梵鐘と共に家庭用品、工業用品等も製造しておりました。
現在では、関東地方唯一の梵鐘、半鐘、天水鉢製造元になり、37代目庄右衛門によって家業が引継がれております。
(小田部鋳造オフィシャルサイトより)

やはり「河内鋳物師」の流れを汲んでいるということになるようです。それにしても37代目とはまた途方も無い系図です。

参考:【小田部鋳造株式会社】http://www.kotabe.sakuragawa.jp/index.htm

このような歴史の中で児玉にもその「鋳物師」が移り住み、当時、鋳造所のことを「金屋」とか「吹屋」とか呼んでいたことから、地名として「金屋」と呼ばれるようになったのでしょう。
ちなみにキュ-ポラで鉄を溶かすことを川口市では「フキ」と呼んでいたのも、この「吹屋」から来ているのかもしれません。

鐘楼には他に「金剛力士」像、所謂「仁王像」が”阿・吽”2体安置されています。
仁王像 仁王像
非常に写実的な像で(個性的な像を見過ぎた結果)、うっすらと残っている色彩から建立当初は非常に極彩色の美しい像ではないかと推測します。
そして本堂で参拝を済ませます。
本堂
火災で再建されたということから比較的新しくきれいな本堂です。本堂の前には案内板にあったように確かに足形をした踏み石がありました。
踏み石
ここでも参拝させていただき、100倍のご利益をいただいて次の「八幡神社」に向かいます。

東石清水八幡神社

車でものの5分ほどで「八幡神社」に到着です。正式には「東石清水八幡神社」といいます。
大きな鳥居の前に高札場があり、そこに神社の由緒沿革が掲載されていました。
高札をイメージした掲示板

児玉町総鎮守 東石清水八幡神社由緒沿革
埼玉県本庄市児玉町白鳩峯に鎮ります八幡神社の御祭神は譽田別尊(応神天皇)、比売大神(応神天皇妃)、息長帯姫命(神功皇后)の三柱に座せり。
今謹みて御鎮座の年月及びその由緒を按するに人皇70代後冷泉天皇の永承6辛卯年に源義家父鎮守府将軍頼義に従い奥賊安部頼時征伐の途次当所に師を駐め斎場を築き石清水八幡宮を遥拝し戦捷を祈願せしが其後13年を経て康平6葵卯年に至り奥州平討の功を奏し凱旋の際頼義は八幡宮を鎌倉に建立し義家は当社を造営し男山八幡宮(京都)の御分霊を移し神田を若干寄進し社頭を東石清水白鳩峯と称せり。
其の後各地の武将守護神として尊崇し児玉党を初め地方の人々は皆鎮守氏神として奉祀しければ同党の一族各地に繁営するに従い当社の基礎暫漸く確立し延徳年中に至りては既に地方数里に渡りて崇敬者非常に多かりき此の時に当り夏目豊後守定基当地方一円を領有し雉岡城を築くや能く領民の意向を察知し当社の由緒を考え八幡山領の総鎮守となし社殿の御改造を営み境内末社を建立し諸般の設備を整え社領を寄進し厚く崇敬しければ当社の規模大いに拡張せられたり。
而して毎年8月15日御祭礼には城中及び知行村々より役人馬を出し厚く祭礼御神事を執行しければ祭儀彌々厳粛に神威遠近に輝けりされは其の後の領主地頭等代わることありしも皆先規に従い厚く奉祀しければ当社は武蔵野国八幡宮又東石清水八幡宮としてその名関東に聞こえたり星移り物変わり幾多の変遷ありて世は王政復古維新の改革となり神仏混淆廃止せられ神威発揮して神社の崇敬発展となり社格は明治5年村社となり同16年11月郷社に列せられ同17年4月9日県社に昇格せられ昭和の御代大東亜戦鎮まりし後宗教法人法に基づき児玉町東石清水八幡神社と称す。
当社御例祭(11月3日)祈年祭(3月15日)新嘗祭(12月10日)の三大祭には近隣地町村より供進参向あり祭事彌々厳粛に御例祭には毎年奮励に従い一社相伝の古式神馬渡御式を執行せり而して2月3日節分祭には近郷近在老若男女参加せられ盛大となる又当日追儺祭には古式による【おにやらい】行事を執行することとなしければ神威益々あがり神徳四方に赫々たり是れ日本の日本たる所以にして盛んに国威万邦に揚がりしこと実に尊き次第なり。
埼玉県本庄市児玉町児玉198番地 八幡神社 宮司 根岸俊雄
※注 【おにやらい】(鬼遺い) 昔、宮中で毎年大みそかに行った行事。疫病に扮した者を殿上人が桃の弓で射たもの。後世、民間に節分の「豆まき」として残る。
(現地案内板説明文より)

若干難しい書き方ですが、概要はつかめますね。
それにしても、いわゆる「児玉まつり」というのはこの神社の例大祭だとは知りませんでした。「児玉まつり」も100選に選ばれていますので、いずれは訪れることになるのですが、よい勉強になりました。
開基は康平6年とあるので、1063年で紛れも無く平安時代です。それから綿々とした歴史を重ねてきている神社で、村社、郷社、県社まで社格を上げてきた由緒正しい神社といえるでしょう。
実に興味深い神社です。

鳥居を抜けて参道を進むと、右側に手水舎、左側に社務所があり、正面に古そうな門があります。
東石清水八幡神社 鳥居
その門の手前に更なる縁起書きがあります。

東石清水八幡神社
所在地 児玉郡児玉町大字児玉
東石清水八幡神社の祭神は誉田別命、姫大神、神功皇后の三神である。
社伝によれば、平安時代の末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐に赴く途中金鑚神社へ参詣したが、そのおりに当地へ斎場を設け、戦勝を祈願し、康平6年(1063)帰陣の際ふたたび当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎え「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりという。
現在の社殿は享保7年(1722)に再建したもので、拝殿は入母屋造りとなっており、屋根は銅葺千鳥破風造りである。拝殿の格天井には狩野直信筆の「飛龍の図」が描かれている。また、建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密な彫に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様の人物や花鳥が彫刻され、その華麗さは県下でも稀な社殿として有名である。
境内にある江戸時代の高札場は、もと本町と連雀町との境いの道路にあったものを昭和5年に現在地へ移したもので、県内に現存している数少ないものの一つであり、町の文化財に指定されている。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

なるほど簡潔で分りやすいと言うと皮肉に聞こえるでしょうか。否、私自身の知的レベルが低いだけです。
義家の八幡神社はいたるところで出会います。東京や福島にもありましたが、確かに八幡神社の数だけ義家の伝承があるということですから。
さて社殿は後ほど見るとしても、先の高札場が江戸時代のものですか。ちょっと戻って再度見てきました。
高札場はジャンルAの【 巾着田の曼珠沙華 】で訪れた日高市にもありましたが、日高市の場合は板札が当時のもので、高札場自体は復元されたものでした。そういった意味ではここにある高札場は本体すべてですから大変貴重であることが理解できます。
それにしても野ざらしに限らず保存状態が良いですね。

鳥居から見た門に戻ると、この門が「随身門」という名の門であることがわかります。
随身門

児玉町指定文化財 随身門 昭和40年3月1日指定
この門は、宝暦6年(1756年)に花房又十郎及び組下久米六右衛門一族と崇敬者の寄進により建立された。
構造は、八柱三間一戸入母屋瓦葺造りで、間口730cm・奥行400cmで、立上がりは、陸梁まで約380cmある。
平成7年9月 児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

更にその隣の「能楽殿」も児玉町指定の文化財です。
能楽殿

児玉町指定文化財 能楽殿 昭和40年3月1日指定
正面は北向きで、間口が約550cm・奥行が約730cm・西及び南面は壁になっている。北及び東面は、板戸で囲い、使用の際は両面とも取り払う。廊下は奥行は約270cm・間口は約730cmで、やや斜めになっており、能楽殿様式を残している。建立年月日は不詳。
平成7年9月 児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

「随身門」と同様に「能楽堂」も歴史を感じさせる重厚感あふれる建造物です。
こちらでは見られませんが、更にもう一つ児玉町指定の文化財として「日清戦争の図」というものがあるようです。

児玉町指定文化財 日清戦争の図 昭和40年3月1日指定
日清戦争に当町より出征した田島巳之吉、鈴木金平の両名が、負傷しながらも帰郷できたのは、八幡神社の加護のよるものと感謝し、明治29年(1896年)に奉納したもので、たて171cm・よこ272cmの大絵馬である。
絵師は、伯耆国会見郡米子紺屋町日野屋嘉十郎の孫、新潟県士 内山武の作である。
平成7年9月 児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

やはり歴史ある神社にはこのような貴重な文化財も豊富なのです。
この「随身門」の先が社殿ですが、その左手前に防火用水の貯水池があり、中央に「二見が浦」の夫婦岩を模した景観がなんとも良い風情です。
防火用水
歴史ある神社には防火用水にも一工夫されているのです。
そして優雅な社殿と、その前には銅製の鳥居が立っています。
銅製の鳥居

埼玉県指定有形文化財 八幡神社社殿・銅製鳥居
児玉町大字児玉198番地 平成2年3月28日指定
社殿は、永承6年(1051年)源義家が、父頼義に従い奥州阿部頼時征討の途中、この地に斎場を設け石清水八幡宮を遥拝して戦勝を祈願、康平6年(1063年)奥州を平定し帰途に再び当地に寄り、八幡様を勧請し白鳩峯東石清水八幡宮と称したといわれている。鎌倉時代には、児玉党の豪族児玉時国が深く当社を崇敬し、社殿を再建し代々信仰した。また、代々の八幡山城主が武運守護の神として崇拝した。
現在の建物は、時国より15代目に当る久米六右衛門が発起人となり、享保3年(1718年)に起工し、同7年(1722年)に完成、棟梁は妻沼伝兵衛、彫刻は獅子の五右衛門と龍の茂右衛門など、当代無双の名人の手によるものである。
鳥居は、明神形青銅造、高さ558cm、幅645cm、地方稀有の青銅造鳥居で、久米清兵衛らが願主となり高名な佐野の鋳物師である井上治兵衛藤原重治、同太郎左衛門重友に造らせたものである。
埼玉県教育委員会 児玉町教育委員会 宗教法人八幡神社
(現地案内板説明文より)

青銅製の鳥居とはかなり珍しいものかと思いましたが、意外とポピュラーなようです。
たとえば東京市ヶ谷の市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮、江ノ島の江島神社、桑名市の春日神社、更に日光東照宮の第二鳥居などが青銅製の鳥居です。
鳥居の材質としては檜やスギなどの木材で造られる「木鳥居」、石で造られる「石鳥居」、銅版で全体を葺いた「銅鳥居・金鳥居」が比較的多く造られている材質で、特に銅鳥居は「唐金の鳥居」と呼ばれて江戸時代には浮世絵の題材にも取り上げられているそうです。
そして、現在日本の三鳥居といわれているのは、吉野・銅の鳥居(重要文化財)、安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木造)(重要文化財、世界遺産)、大阪四天王寺・石の鳥居(重要文化財)といわれており、木・石・銅は極々一般的な鳥居の材質なのでした。
にもかかわらず青銅製の鳥居をあまり見かけないのは、戦時中の物資供給で供出された鳥居が結構あったためとも言われており、様々な形で歴史に戦争の影は常に付きまとっているということです。
上記以外に、現在では鉄パイプや鉄筋コンクリートの鳥居も当たり前のように存在していますが、変わった材質では、佐賀県の陶山神社の鳥居は陶磁器製、京都府の飛行神社の鳥居はジュラルミン製、秋田県の副川神社の鳥居は塩化ビニール製など珍しい鳥居もあるそうです。

一方、社殿の方はと見渡すと、拝殿の上には龍などの見事な彫刻が施されています。
拝殿 彫刻
また、本殿に廻ってみると、本殿の三方にも様々な手の込んだ彫刻があしらわれており、かなり色彩も残っています。
本殿
往時は更に極彩色の本殿だったことが容易に想像できるほど、状態の良い建造物です。
彫刻師一世一代の…、までは大げさでしょうが、やはり名のある彫刻師に頼めるほど由緒ある神社ということでしょう。
しばし、社殿を眺めていると、社殿の周りに摂末社が実に多く建立されているのに気付きます。
摂末社
更に「筆塚」碑や石碑の小山などもあり、住民達に大変信心されていたのではないかと推測されるのです。
筆塚

見所の多い「八幡神社」ですが、これにて散策は終了し、次にすぐ隣の敷地にある「玉蓮寺」へ向かいます。
ちょうど社殿の横から「玉蓮寺」の墓地に入れるようなので、そのまま歩いて行って見ることにしました。

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