児玉市街地散策 #2

「八幡神社」の社殿横から「玉蓮寺」に行ってみますが、実際のところは「八幡神社」の左右に寺院があります。
「八幡神社」の社殿に向かって右側が「玉蓮寺」で、左側が「玉蔵寺」の一時違いの寺院です。何故3寺社が隣接しているのか分りません。
しかしながら神社の隣が寺院というのは特に珍しくはありませんが、3つ並んでいるというのは珍しいのではないでしょうか。
まずは右側の「玉蓮寺」に向かいます。

玉蓮寺

「八幡神社」から「玉蓮寺」の墓地を抜けると参道につきあたり、その参道の正面に本堂があります。
玉蓮寺
本堂の右側には「鐘楼」が、左側には石碑が幾つか並び、その後ろに建物があります。庫裏でしょうか。
ちょうど「鐘楼」前に案内板がありました。

玉蓮寺
所在地 児玉郡児玉町大字児玉
当寺は、日蓮宗の東光山玉蓮寺といい、児玉党の領主児玉六郎時国の開基で、境内は時国の館跡である。
寺伝に寄れば、日蓮聖人が文永8年(1271)佐渡流罪の途中と、その後、文永11年(1274)3月、佐渡流罪の赦免を得て鎌倉に帰るときも、ここ時国の館に泊まったと伝えられている。
弘安9年(1286)日蓮聖人没後、時国は、家のかたわらに草堂を建て、自ら聖人の肖像を彫刻し安置した。その後、館に代えて一寺としたのが、現在の玉蓮寺である。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

以前、ジャンルBの【猪俣百八燈行事】で児玉郡美里町を訪ねたときには、この猪俣百八燈行事がかつての武蔵7党の”猪俣党”の流れを汲むものと知りました。
今回は武蔵7党の内の”児玉党”を紐解かなねばならないようです。
武蔵七党とは、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称で、横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などがあるのですが、特に7党と限られていたわけではないようです。
さて、その中の「児玉党」ですが、その始祖は藤原北家の流れの藤原伊周の家政の事務の責任者である「有道惟能」という人が、藤原伊周の失脚により武蔵国に逃げのび、その息子の「有道惟行」が児玉党の祖となったようです。
この児玉党の「児玉」本宗家は児玉惟行→児玉弘行→児玉家行→児玉家弘と平安時代後期から末期まで続きますが、この後は家弘を祖とする「庄」氏となり、庄(旧・児玉)家弘→庄弘高→庄家長と鎌倉時代初期まで続きます。
そしてこの庄家長が「本庄」氏となり、本庄家長として「本庄」氏を鎌倉時代前期から室町時代まで本宗家として存続したようです。
勿論、この間3氏族ともに存続し、特に「庄」氏は戦国時代の備中国で華々しい活躍をしたそうですが、南北朝以降弱体化し本宗家の「本庄」氏も小田原の役で没落し解体したそうです。
その間「児玉」氏は「庄」氏の時代になると北方へ移り児玉庄(現・埼玉県本庄市栗崎)を本拠地としたそうですが、後に「本庄」氏が引き継いだようです。
それでは「時国」とは一体どういった系図かを調べてみましたが、残念ながら分りませんでした。
因みに「塙保己一」の群書類従の”武蔵七党系図 有道”によると、(三郎)時国、(太郎・左衛門尉)時国、(新左衛門尉・法名本空)時国と、時国と付く名前は系図の中に3名しかおらず、しかも六郎と付く人はいませんでした。

参考:【坂東千年王国】http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/data/keiz/kodama1.htm

鎌倉時代に亡くなっていますので本宗家ではなかったのでしょうが、領主とあるのでまだそれなりに権力を持っていたことは窺えます。
はたしてこの「時国」なる人物はいったい系図のどこに当たるのでしょうか。
考えてみても判るわけもないので先に進みます。

境内の右手には歴史のありそうな「鐘楼」があります。
鐘楼
特に由緒などはなさそうですが、どっしりとしていながら嘗ては華麗な鐘楼だったかのような印象を受けました。
左側には件の日蓮聖人の像が置かれています。
日蓮聖人の像
日蓮聖人縁の寺院といっても過言ではないのですから、当然のことでしょう。

そして正面の本堂に向かい参拝をいたしました。
本堂
その本堂の前にも沿革の刻まれた石碑があります。

玉蓮寺の沿革
文永8年(1271)10月13日日蓮聖人は鎌倉より佐渡ヶ島御流罪の道すがら当地児玉党の領主児玉六右門尉藤原時国公に乞われて館に泊まり正しい教えの要法を御示しになった同11年3月17日御赦免の折も一泊され時国公は法悦を悟り大聖人の御弟子となり東京都下久米川まで御送りいたし大聖人の仰せにしたがい姓を久米と改め御館後に建立されたのが当山である東の道路が旧鎌倉街道です。
弘安9年9月4日創立(約700年)
本尊 宗祖・尊定十界の曼荼羅、宗祖・御洗足の井戸
(現地石碑碑文より)

碑文によると、当時の日蓮の記した「立正安国論」によって、日蓮は鎌倉幕府からの迫害を受け佐渡ヶ島流罪となったようです。
佐渡ヶ島流罪のため、日蓮は当時の鎌倉街道を下り、ちょうどこの「玉蓮寺」の横にある鎌倉街道を通った折に、時国は日蓮を自宅に招き日蓮の教えを受けたようです。
そして日蓮が佐渡ヶ島流罪を赦免された際にも、この鎌倉街道を上りこの地を通った際に再び立ち寄らせたのです。
そこでも日蓮の教えを受け、日蓮がこの地を去るときに「時国」は久米川宿まで送っていったことでその感謝と信心を表したそうです。明確には判明していないようですが、推定で当時の久米川宿は現在の東村山辺りのようで、埼玉県北部から東京都下ですから、かなりの距離であると同時に、それだけ側にいたいと言う思いがあったのでしょう。
その後もたびたび日蓮の教えを請うために身延山を訪れたりして、後に自宅の一角に草庵を建てて信仰したのが、この寺院の開基ということにつながるようです。

この「玉蓮寺」にはもう一つ見所があり、本堂裏側の墓地内にある「板碑」です。
板碑
釈迦如来を表す梵字が刻まれていることから「釈迦一尊種子板碑」といわれ、嘉元2年(1304)の紀年銘が刻まれており、時国建立とも考えられているものだそうです。
この「板碑」は荒川上流部の秩父周辺で産出される緑泥片岩で造られた武蔵国特有の碑で、高さは2.41メートルもある鎌倉末期の歴史を刻む貴重なものといわれています。
埼玉県には実に「板碑」が多いのですね。

こうして参拝と散策をおえて、一旦「八幡神社」に戻ろうと「玉蓮寺」を出ると、来るときには気がつかなかったものが参道の先にあります。
来る時は参道の途中から入ってしまったので気がつかなかったのです。

近づいてみると、ここが沿革にあった日蓮「御洗足の井戸」のようです。
御洗足の井戸
件の日蓮聖人が、当時の館に泊まられたときに足を洗ったといわれる井戸だそうです。
伝承ですから確かなことは判りませんが、いずれにしても本尊としているにもかかわらず、随分と開けっぴろげなんですね。一応、ブロックで囲われてはいますが、大丈夫なんでしょうか…。
あ、そうですね、こういったものにいたずらすると撥が当たるかもしれないから、意外と悪さをしないのでしょう。塀に書かれた小便厳禁の鳥居の絵と同じでしょうか。いやあ、是も罰当たりか。。。
ちょっと余計な心配をしながら、次は「八幡神社」を通り抜けて「玉蔵寺」に向かいました。

玉蔵寺

「八幡神社」の本殿の裏を通っていくと「玉蔵寺」の山門があります。
玉蔵寺山門

玉蔵寺
所在地 児玉郡児玉町大字児玉
玉蔵寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で、本尊には延命地蔵菩薩(伝運慶作座像)をまつり、児玉三十三霊場第4番寺になっている。
この寺の起こりは、康永年間(1342~1345)、武蔵七党の中の児玉党が、新田義貞及び義宗の挙兵に従った折、僧元弘は戦死したものの霊をなぐさめるため、招魂碑を八幡山雉岡に建て、救世観世音を安置し永く供養の霊場とした。その後、上杉氏が築城に際し、家臣有田定基に命じて霊場を現在地に移すとともに堂宇を再興して僧定山を住職とし、これを雉岡山玉蔵寺と称した。
徳川氏の代に至り、御朱印地として、六石を賜っている。
安永4年(1775)と慶応元年(1865)の2度火災にあい、堂宇、記録など全部焼失している。ただ、表門だけは、上杉氏築城当時のままのものである。この山門は、釘を全く使用しない建築様式で、飛騨の工の作と伝えられている。
昭和58年3月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

当然ながら、建築技術は中国から伝わったものですが、釘を全く使用しない建築様式とは中世ころまで釘が一般的でないことや、「釘で木を殺さない」といった日本独特の風土が生み出した建築様式で、「組子」とか「貫」構造とかいわれているものです。
技術だけでなく日本の伝統美、息吹をも取り込んだ建築とも言えるでしょう。
こちらも本堂で参拝を済ませました。
本堂
玉蓮寺に比べると多少小振りではありますが、落ち着いたしっとりした寺院でした。

玉蔵寺の参道を戻ってくると、来た時には気付かなかった案内板がありました。
高札場

本庄市指定文化財 八幡神社の高札場
江戸時代、幕府は法令を民衆に周知徹底させるために、板に墨で書かれた法令を掲示させた。これが「高札」で、それをかけた場所を高札場と呼んでいる。村の中央や、名主の家の前など、人の目に付きやすい場所を選んで設置された。
この高札場は児玉村の高札場で、従来は連雀町と本児玉(本町)の境あたりの街道上にあったが、交通の障害となったため、現在の八幡神社北西隅に移築したものである。
この高札場は屋根が銅板葺きの切妻形式で、高さは3メートルある。材質は杉材で、柱は3本。これに高札4枚を掛けたカギが残っている。これを囲んで高さ約1メートルの駒寄せを、立ちめぐらしている。
本庄市教育委員会
(現地案内板説明文より)

ということで、市指定の文化財である「高札場」はこちらで、参道の前の高札場は「高札場」風掲示板だったのですね。実際、随分と状態が良いなとは思いましたが、やはり違っていたようです。
こちらは当然ながら年代を感じさせるつくりで、高札板はありませんでした。これなら何となく文化財といわれれば納得できると思います。
それにしても私の見る目も当然ながら、実に適当なものです…。

児玉町旧配水塔~競進社模範蚕室

見所の多い3つの社寺を巡ってから、徒歩で「児玉町旧配水塔」へ向かいました。
歩いても5.6分でしょうか、郵便局の前に目指す「児玉町旧配水塔」がありました。
児玉町旧配水塔
「国登録有形文化財」となっているのですが意外と無防備、というか開けっぴろげ。
特にいたずらもされていないのは住民のマナーの良さでしょう。
この配水塔は昭和3~9年に行われた児玉町水道施設工事の一環で昭和6年に建設され、鉄筋コンクリート造りの外装モルタル塗で、高さは17.5メートルあるそうです。

当然のことながら住民に水道水を供給するわけですから、配水塔の内部には揚水用のポンプ室と、その上に天井をドーム型にした筒の形の水槽が設置されているので、入口と階段室が外に飛び出しています。
当時、この地域では約5,000人の住民が居住していたそうですが、この程度の配水設備でまかなえたのでしょうか。
現在は水道のシンボルとして保存されているようですが、塔の先端部にはサイレンが付けられていて時報塔としても利用されているそうです。設計は当時、埼玉県技手の宮原雄次郎という方の設計だそうです。
確か雉岡城跡には大正期まで市民の水を供給した井戸がありましたが、そこには「…水不足や費用の関係で廃止され、上水道施設は連雀町小中山に移設されました。…」と説明されていましたが、この配水塔から歩いて2,3分の場所に現在も連雀町会館というものがありますので、移設された上水道施設はこの配水塔のことですね、きっと。時代も昭和初期ですから。
妙なところで児玉町の上水の歴史に触れることができました。

近づいてみると意外と大きいのですね。
児玉町旧配水塔 児玉町旧配水塔
ちょうど塔の正面から写真を撮ると逆光で何も見えないくらい良い天気で、青空の下の塔もそれなりの景観を創っているようです。
塔の周りをグルッと一回りしてみると、右後ろに小さな塔…なんと言えばよいのか、とにかく良く分からない建築物があります。
児玉町旧配水塔
何か地下で塔とつながっているとか…、いわゆる機械室とか…、かもしれません。
その手前には塔とおそろいの杭、或いはポールのようなこれも意味不明のものがありますが、いずれにしても歴史を感じさせる風情を増幅しています。
個人的にはそれほど趣味はありませんが、意外とこのような塔を見て廻る趣味の方がいるようですが、そのような方が見るとこの配水塔はどの程度の価値を感じるのでしょうかね。

凡人には、それ以上でも以下でもない(特に深い意味は無い)「旧配水塔」を見てから、次に「競進社模範蚕室」まで歩いて行ってみる事にしました。
何度も言うようですが、天気は非常に良いのですが、実に冷えています(何の伏線でもありません)。
路地のような場所を進むと、呉服屋のまえに井戸があります。
久米六の井戸
「久米六の井戸」と説明されています。

久米六の井戸
一の谷の合戦で平経正を討ち取った庄四郎高家の子、四郎左衛門尉家国が「来目四郎左衛門尉、武州来目何を領」しており、その子太郎左衛門尉時国が文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免された日蓮上人を居宅(後の玉蓮寺)で歓待し翌日久米川までお送りし日蓮上人より久米姓を賜り「久米太郎左衛門尉、文永年中日蓮上人に謁、法華宗と成り、来目を久米と改め、自是子孫久米と伝」これ以降時国の嫡流は久米氏となる。児玉町史 中世資料編(児玉町発行)に天文13年(1544年)11月3日北条氏より久米大膳亮殿、永禄7年(1564年)6月18日北条氏邦より久米大膳殿、天正18年(1590年)6月12日前田利家より児玉久米殿宛ての古文書がある。
さらに徳川家康が関東に封じられると天正18年12月8日松平玄蕃頭清宗より「児玉郷中支配」の下地状が久米氏に与えられている。
この井戸は大正11年に明治大学教授笹川種郎博士により「久米は児玉党の正系にて」と言われた久米家当主の館跡のもので当主が天正年間より六右衛門信光、六右衛門正吉、六右衛門正信、六右衛門吉光、六右衛門信政、六右衛門信英と代々六右衛門を名乗っていたために今日まで「久米六の井戸」と称されており、以来1000年以上の水脈を保っていると云われている。
(現地案内板説明文より)

久米家の祖は「児玉時国」ということで、多少調べてみると意外と面白い事実(伝承)が浮かんできます。
「玉蓮寺」の沿革にもあったとおり「時国」が久米と称したのが1274年の鎌倉時代で、その後久米家は土地(児玉地域)の豪族として栄えたようです。
説明文にある前田利家からの古文書には、雉岡城落城後、戦争を逃れて各地に散らばった農民達を児玉の地に帰るよう命じた内容だそうで、久米家の力を窺える古文書です。
その後も豪族として存続し、代々六右衛門を継承してきたのは説明文どおりですが、意外なところと関係があるらしいのです。
所沢市に現在もある「鳩峰八幡神社」は室町時代以前の神社建築として埼玉県の指定有形文化財に指定されている古刹で、この「鳩峰八幡神社」の本殿には現在ご神体は2体あるのですが、嘗ては3体存在しており、そのうちの1体を久米六右衛門なる者が持ち出し、児玉郡八幡山(現在の本庄市児玉町八幡山)へ鎮座させたという伝説が残っているようなのです。
現在の「東石清水八幡神社」はもともと八幡山にあり、そこから現在地へ移ってきたので鎮座させた神社が現在の「東石清水八幡神社」であることは間違いないようで、因みに、かつてこの「東石清水八幡神社」は「白鳩峯東石清水八幡宮」と呼ばれていたことから符丁は会うようです。
更に、所沢市の「鳩峰八幡神社」のあるあたりの地名は「久米」で、「鳩峰八幡神社」の摂社に「久米水天宮」があるのですが、あながち無関係ではないでしょう。
ちょっと大声ではいえないようなことですが、まあ、伝承ですから真偽のほどはファジーにしておくのが一番でしょう。

さて、時代は下がって江戸時代中ごろの1790(寛政2)年、この久米家に清一郎が生まれました。後の久米逸淵といわれる俳人で、1831(天保2)年には「八幡神社」に芭蕉の句碑を建立した人だそうです(すっかり見逃しましたが)。
また、晩年は本庄宿に移り、雉岡城跡公園の中にある「金毘羅神社」に俳句額を奉納した本庄宿の豪商・戸谷双烏と交遊していたそうです。
このように縦糸横糸、様々な角度でつながっているということに、歴史の醍醐味を感じます。また、このような史実を見つけることが面白いのかもしれません。
ついでに、この久米逸淵の墓は「玉蓮寺」にあったそうですが、それもまた見逃してしまいました。やはり旅には準備が必要です…。
意外なモノを見つけてから、競進社模範蚕室へ向かいます。
建物は見えていながら何故か道が分らぬまま、ものすごく遠回りをして到着しましたが、結局ところ体育館の敷地内ということでした。

写真では何回か見ているので妙にお馴染みの感じもしないわけではないですが、写真で見るよりは大きな建物です。
競進社模範蚕室
「日本三大がっかり」の一つである貧弱な札幌時計台と比べれば、はるかに良心的です。
ただこのアングルが全体を写すには最適なようで、それゆえ同じような写真になるのです。

埼玉県指定有形文化財 競進社模範蚕室 一棟
児玉郡児玉町大字児玉2514 昭和47年3月30日 指定
この蚕室は、養蚕技術の改良に一生を捧げた木村九蔵が、明治27年に、競進社伝習所内に建てたもので、本県に数少ない産業建造物の遺構である。
木村久三は、炭火の火力で蚕室の湿度を排除し、病蚕を防ぐ「一派温暖法」と称する蚕の温暖飼育法を考案した。
この蚕室の構造は、換気に綿密な配慮がなされ、彼の考案した温暖飼育法の効果が、十分発揮できるように設計されている。
すなわち、戸、障子の開口部を広く取り、床下に吸気口と煉瓦積の炉を設け、天井は空気が通り抜けるよう小間返しとし、高窓はロープで開閉できるようにするなどの、数々の工夫がみられる。
この競進社流の蚕室と飼育法は、同社から巣立った多くの卒業生によって、全国に広められ、我が国の養蚕業の発展に大きく貢献した。
なお、明治10年に結成された競進社(当時は養蚕改良競進組)は、幾多の変遷を経たのち、現在の県立児玉農工高校に至っている。
昭和56年3月 埼玉県教育委員会
(現地案内板説明文より)

予約によって内部を見ることもできるようですが、まあ、個人的には内部を見ても構造的なものについては知識も無いことからきっとそれほどの興味が沸いてくるとは思えません。当然ながら専門家やその方面の方にとっては非常に貴重な建造物で、現は2007年度の彩の国景観賞 「たてもの・まちなみ部門」を受賞しているようですので、観光や学習の資源として重要度はますます高まっていくのでしょう。
競進社模範蚕室
ただ、ここでは建造物ではなく「木村九蔵」氏についてクローズアップしてみることにします。

木村九蔵は弘化2(1845)年群馬県藤岡市に生まれで、幼名は高山巳之助と名付けられました。
高山巳之助(九蔵)と養蚕の結びつきは少年時代で、この藤岡市の実家で家事手伝いをしながら蚕を育てることに始まりました。少年の巳之助は近所の人から、蚕の成虫である蛾が卵を生む前に尿をさせておく紙である「ばり紙」と呼ばれるものを貰い、そこについていた卵を孵化させ蚕を育て繭を作るという、中々賢い少年だったようです。
更に巳之助が13歳の時は、雨が多く巳之助の村では繭の出来上がりが良くなかった年だったそうですが、巳之助の育てた蚕からとった繭はなかなか優秀な繭だったそうです。
この当時は、蚕の原種を育てることが多かったため、蚕は弱く、繭も小振り、しかも硬化病(カビが原因)など蚕病も多くなかなか優秀な繭を育てることが難しいため、飼育法と品種改良が求められていた時期でもあったようです。
ここで、またまた話はずれますが、現在の蚕は原種であるクワコ(桑蚕)の蛾を品種改良した飼育種なので野生には存在しないものだそうです。従って蚕は野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物であるといわれ、ヒトの管理なくしては生育することができない生物なのです。
例えば蚕を野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜の内に捕食されるか地面に落ちて全滅します。また、繭を作る際にも人工的な枠に入れないと上手く繭を作れません。そして成虫には翅があるのですが小さく退化していて飛ぶことはできず、成虫はヒトが近づいても逃げようとはせず、逆にヒトに近寄ってくるという摩訶不思議な習性を持っているのです。
こういったように蚕の飼育は当時としては非常に難しかったのにも関わらず、巳之助の育てた蚕が優秀だったのは、この当時から火力を用いて育てたことに基づくようですが、一般的に巳之助の愛情といった言い方で伝えられていて、それは当時の高山家が豪農で巳之助の兄、長五郎が後の養蚕改良結社「高山社」を結成して「清温育」を成立させるという兄の養蚕改良における知識・教育・影響があったのではないかとも推測されているようです。

そんな巳之助の努力が開花するのが慶応3(1867)年でした。
この年23歳になった巳之助は、兄の養子先である児玉郡新宿村(現在の神川町)の木村弥次衛門の2女と結婚し、同族の木村勝五郎の後継者として、名前も木村九蔵と改め独立農家として新たな出発をすることにより、強力な後ろ盾が出来上がったのです。
そして、その以降養蚕業の改良に努め、明治5(1872)年に説明文にあった「一派温暖育」を発表し、明治10(1877)年「一派温暖育」を実行する養蚕改良競進組を結成し、明治17(1884)年には規模を拡大し、競進社と改称して、養蚕伝習所を開設しました。
一方、蚕種の改良にも努め、明治12(1879)年に病気に強い「白玉新撰」を生み出します。
こういった蚕業への貢献が認められ、明治18(1885)年には西郷従道農商務卿から功労賞を送られ、更に明治22(1889)年には明治政府からパリ万国博覧会の蚕糸使節として九蔵を派遣したのでした。
その後も明治24(1891)年、蚕種貯蔵庫の必要性を訴え本庄町(本庄市)に我が国最初の蚕種貯蔵庫を設立、明治29(1896)年には養蚕伝習所の教育内容の改革を行い、名称を競進社蚕業講習所とし所長を務め、一生を養蚕技術の向上、普及に捧げたのでしたが明治31(1898)年54歳で亡くなられました。
ですが、その翌年の明治32(1899)年には競進社蚕業講習所が「競進社蚕業学校」として認可され(後の「現・県立児玉白楊高校」)、多くの後継者を育成することとなるのです。

このように郷土の偉人とし崇敬された木村九蔵は奇しくも昨年の2009年、「木村九蔵翁生誕百六十五年記念碑」が児玉白楊高校同窓会によって神川町二宮の金讃神社に建立されたそうですが、この記念碑は1899年に建立された「木村翁顕徳碑」の脇に建てられたようです。
ちょうど110年を経て新たに木村翁が顕彰されたということになります。

以前、ジャンルBで【越生まつり】で訪れたときに越生には「絹会館」があり、嘗ては大層正絹で繁栄したそうですが、九蔵ののような人々によって埼玉県の絹が繁栄を見たといっても過言ではないのでしょうね。隠れた偉人でしょうか。
これで一旦市街地の散策を終ることにしました。

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