保己一生誕の地

大分散策も長かったので気がつけばすでにPM1:00ころ。
この後は塙保己一生誕の地である保木野方面に向かう予定ですが、まずは腹ごしらえと昼食をとることにしました。
今回は予め候補を2ヶ所選んでおいたので、そのときの気分で決めることにしました。
1ヶ所は蕎麦、そしてもう1ヶ所は和食ですが、まあ、なんとなく今回は和食にすることにして向かいました。
このときにはナビのありがたみをひしひしと感じます。
到着したところが何故か蕎麦屋の方に着いてしまいました。どうやら住所を入れ間違いしたようですが、間違っていても連れて行ってくれるナビにちょっと感動している大ばか者は私くらいでしょう。

もう一度入力しなおして到着したのが「いなか茶屋 きんしょう」です。
いなか茶屋 きんしょう
市街地からはちょっと離れているので実に静かです。インプレッションは【美味是好日】にありますが、リーズナブルでなかなか美味な郷土料理「若鶏きじ焼き重・つみっこ膳」をいただくことができました。心身ともに満足とは、このことでしょう。

塙保己一生家

「きんしょう」から塙保己一の生家のある保木野までは車で15分程度でしょうか。
かなり長閑な田園地帯の一角にありました。
生家の門の横には「史跡 塙保己一旧宅」の石柱と「埼玉ふるさと自慢100選」のジャンルDでの1位の木柱が立てられていました。
塙保己一旧宅
また、反対側には生家の案内板が立てられています。

塙保己一旧宅
昭和19年11月13日 国指定史跡
塙保己一は、延享3年(1746年)5月5日武蔵国児玉郡保木野村(現在の児玉町大字保木野)に生まれる。
7歳にして失明し、15歳のときに江戸へ出て、雨富検校の弟子になり、先生の許しを得て学問の勉強をしました。生来の記憶力のよさと努力により、賀茂真淵らのよき学者に指導を受け、国学を研究し、寛政5年(1793)に幕府に申し出て、和学講談所を創立し、安永8年(1779)から40年間かけて群書類従を編さん刊行するなど、学問上多大な貢献をし、文政4年(1821)総検校となり、この年9月12日76歳で亡くなりました。この旧宅は、保己一が生誕し幼時を過ごしたもので、茅葺き二階建てで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、厩(現物置)等があり、後世に若干の増築や補修の箇所があるもののよく当時の姿を残しています。
平成2年3月吉日 埼玉県教育委員会 児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

意外と大きな建物です。
塙保己一旧宅
保己一の生家ですから江戸時代ではかなり豪農だったのではないのでしょうか。失明してしまった不幸は別としても、裕福な暮らしができていたのではと推測されます。現在は一般の方が居住しているそうなので、門からは入らずに塀に沿って畑の方から眺めてみました。
ちょうどそこにも案内板が立てられていました。

国指定史跡 塙保己一旧宅 昭和19年11月13日指定
塙保己一旧宅(母屋)は、保己一の父卯兵衛の代に建てられたと伝えられるところから、その建築年代は保己一が生まれた延享3年(1746)より幾分遡るものと考えられる。この旧宅の古い形態は、桁行7間半、梁行4間の茅葺きの入母屋造りであり、三室広間型の平面形を持つ江戸中期の上層農家の形態を窺うことのできる建造物として貴重である。
(現地案内板説明文より)

母屋の手前門塀寄りには「土蔵」があるので、やはりそれなりに財政的には豊かだったのでしょう。
塙保己一旧宅 塙保己一旧宅
現在は土蔵跡が物置に変わっていますが。
更に間取り図を見ると現在の板の間の一角が「蚕の飼育場」となっているのは、児玉というかこの地方ならではの名残でしょう。
塙保己一旧宅
実に興味深い保己一の生き様の原点として貴重な建造物なのです。

因みに母屋の左側は牛舎のようで、現在お住まいの方の生業のようですが、私たちも含めて年中見物客が来るとなると、本当に落ち着かない日々でしょうね。
塙保己一旧宅
縁側で日向ぼっこというわけにもいかないでしょうから。

龍清寺と保己一墓所

「保己一旧宅」からは「保己一の墓所」への標識がありましたので歩いて行ってみました。
途中「龍清寺」という寺院があったので寄り道をすると、境内はかなり広いようで参道の奥に本堂がありました。
龍清寺
そしてその先の左側には傾いた大きな樹木が立っています。
ピサの斜塔(実物は見たことはないが)より大幅に傾いており、芸人ではありませんが「斜め45度」です、所謂…。

児玉町指定文化財 飛龍の榧
児玉33霊場27番札所真言宗豊山派不動院東方山龍清寺はその歴史は古く約600年前の開山と伝えられ今尚応永年間の石碑が残存する。
宝永の年暴風雨で倒壊、正徳年間当時中興の祖袋算和尚が再建せるもその後災火に遇い寺史寺宝等ことごとく焼失し、今はその手掛かりは無い。現在の伽藍は文政13年檀信徒の厚き護法尊崇の念により再建150有余年の星霜をへたり。
今から300年前上野国新田郡笠懸在に不動寺との寺があり、この寺の修業僧であった袋算はいつしか夢の中で龍神に乗り毎夜極楽世界を飛び交い楽しんでいたが、二十三夜を境に地獄世界の悪夢と変わり恐怖の毎夜となり修業も疎になったその袋算を見て師僧は「夢は誠にあら寸真の誠は己の心、修業なくして聖人になれぬ。是より西南に向かい旅に出よ。己が住む聖地があるその地に留まりこの榧の実を余の形見と思い蒔けよ。霊木となりてその地を救わん」と訓され旅に出る。羊甲の方向えと師僧の教えの通り悪い道をたどりながら7日目の夕刻紫の霧の低くたれた山里のはずれにお堂らしきものが目に入る。
たどりついてみると荒れはてた不動堂。とりあえず一夜を明かすあくる日薬師様を清め御堂を掃除して村人に堂守を乞う可して袋算はこの地を修業の地と定め苦業を重ねる事幾星霜形見の榧も見る見るうちに大木になり大量の実をつけ灯油や薬種となり村人を潤し村も不思議と栄えて本堂も再建。学の道を教えたりして村人と仲良く暮らしたという。
年老いた袋算亭々とそびえる榧にかつての己が夢見た龍神の姿を思いおこして飛龍の榧と名付けたと言う。
文 二十九世 高木正弘
(現地案内板説明文より)

応永年間とあるので1394~1427年の室町時代の開基という歴史を持つ寺院と考えられるようで、明確に判明しているのは江戸時代に再建されたということくらいですが、それにしても歴史は古いようです。
なかなか開基の縁起には興味深いものがあります。
自己の煩悩を払うために苦業に出た僧がたどり着いた土地がこの児玉の地であり、そこで徳を積んで村人ともども幸せに暮らしたとさ、めでたしめでたしと言った具合でしょうか…。
昨年11月に訪れたジャンルAの【名栗湖と鳥居観音】で山形県から般若心経を投げたら埼玉県の飯能市に落ちたのでその場所に「子の権現」を開基したという、スピリチュアルな縁起よりははるかに現実的です。


そしてその龍神に見えた榧の木がこれなのですね。
飛龍の榧
袋算和尚が見たときからすでに斜めになっていたわけではないでしょうが、そのように見えないこともありません。
【いわき散策記 vol.6】で訪れた「住吉神社」にも樹齢600~1000年の横たわった大木が「臥龍銀杏」と呼ばれていましたが、どこでも四神に纏わるエピソードは実に多いものです。
因みに子供のころの保己一は病気がちだったため余り友達と遊ぶことができなかったので、この「龍清寺」の住職から「太平記」などの物語などを呼んで聞かせられたようです。
そんな教育が後の保己一の基本にあったのかもしれません。

本堂で参拝して「保己一の墓所」に向います。
「龍清寺」から大分離れたところに「保己一の墓所」があります。
保己一の墓所
この場所が「龍清寺」の墓地なのかどうかはわかりません。
保己一の墓所は流石に古そうですが、結構大きく立派な墓所です。
現在、保己一の墓は東京・四ッ谷の「愛染院」という寺院にあるのですが、元々は四ッ谷の「安楽寺」という寺院に葬られたのです。しかし「安楽寺」が廃寺となったため明治31年に現在の「愛染院」に移されたということのようです。
そしてこの児玉の地の墓所は、どうやら移されたときにその「安楽寺」の土を持ち帰って営んだ墓のようなので、分骨されたということでしょう。
墓石には「和学院殿心眼智光大居士」の戒名と和歌が刻まれているそうですが、和歌の方は見にくい状態でした。
保己一の墓所
お参りをしてこの地を後にしました。

金鑚神社

今回の散策はこれで一旦終了なのですが、もう1ヶ所別な目的で訪れようと予定していたのが「金鑚神社」です。
「金鑚神社」は本庄市にもあるのですが、これから向うのは前述の木村九蔵所縁の地である神川町の「金鑚神社」です。
2008年ですから早、一昨年の11月22日、ジャンルAの【冬桜の城峯公園】で訪れた際に立ち寄ったのが神川町の「金鑚神社」でしたが、その時に戴いた交通安全のお守りを返すことと、文化財である多宝塔が工事のため見られなかったことの2つの目的で今回訪れることにしていました。

ここ保木野からは車で20~30分でしょうか、再び「金鑚神社」に到着いたしました。
先に訪れたときは紅葉の盛りでしたから紅葉やイチョウが実に綺麗でしたが、今回は冬とあって凛とした空気と、どことなく正月の残り香のような風情があいまって実に心地好い空間です。
まずは境内の入口付近にある「多宝塔」を見てみます。
金鑚神社 多宝塔 多宝塔
多層塔には一般的な五重塔をはじめ様々な多層塔があることは、「ひっぷな旅と歴史」での【2010年、初春風情】で浅草寺の五重塔を訪れたときに知りましたが、浅草寺の豪華絢爛な五重塔に比べ、規模も2層で小さく煌びやかさもあまり無いのですが、なんと言っても歴史的な重厚感を感じることができるのが重要文化財たる所以でしょう。
浅草寺の五重塔がイケメンなら、この「多宝塔」はロマンスグレーといった感じでしょうか…。
このように「多宝塔」は仏塔であり、五重塔や三重塔などの多層塔の一種ではあるのですが、現代の寺院建築用語・文化財用語としては、一般に裳階付き単層塔といわれています。
つまり、「多宝塔」の基本とは平易にいうと1階部分が方形で、2階部分が円形の二層塔ですが、実は1階部分の屋根は”裳階”と呼ばれる2階部分の屋根の飾り屋根なのです。したがって2つの屋根が一組が屋根と言うことですから、実際には単層塔ということになるのです。
この”裳階”がついた有名な塔が「薬師寺東塔」で、三層塔でありながら六層塔に見えるのはこのためなのです。
通常、裳階の上にある亀腹は漆喰で仕上げるそうですが、この金鑚神社「多宝塔」は板張りであることが非常に珍しいといわれている「多宝塔」のようです。
多宝塔

前回訪れたときには単に「重要文化財 金鑚神社多宝塔保存修理工事」としか記載されていなかったのですが、その工事内容を調べてみました。
今回の修理の主目的は、多宝塔の屋根が前回の葺き替え(昭和46年)から37年が経過し、全体的に葺き材の腐朽・劣化が進み、また、屋根の上にある相輪の一部に腐食して穴が開いていたため修理することとなったようです。
神川町の広報誌にその内容が記載されていますので一部抜粋いたします。

多宝塔の修理は、嘉永6年(1853)、大正14年(1925)、昭和46年(1971)に行われたことがわかっています。大正14年に行われた修理は、前年に発生した関東大震災によって多宝塔が傾いたため解体工事を、昭和46年に行われた修理では屋根面の葺替工事を行っています。
今回は、傷んだ上層と下層の屋根面のこけら葺と相輪の修理し、ムササビによる建物の破損箇所の補修を目的として行いました。工事は平成20年6月初めに始まり、同年11月末に終了しました。

こけら葺の修理
屋根のこけら葺の修理は、下層の一部を除いて上下層とも旧材を撤去し、従来のとおり葺き直しました。用いた木材は檜の一種であるサワラで、原木を薄く割って板(厚さ3?6㎜、巾6㎝ 以上、長さ30㎝)にしたものを、3㎝程ずらしながら重ねて葺き、竹釘で打ち付けていきました。板材の間には概ね25㎝間隔で巾6㎝の葺込銅板を葺いています。 修理で上層と下層の屋根面に葺かれたサワラの板は約2万枚に及びます。 ムササビにかじられ破損した屋根の野地は補修し、また傷んだ軒廻りと組物廻りの部材は既存にならって補修した後に、ベンガラを塗っています。

相輪の修理
相輪は屋根面と接する露盤より上の金物を全て取り外しました(写真: 相輪の解体作業、塔の心柱が見えています)。 取り外した金物は、再利用ができないものは既存品にならい新調しました。再利用ができるものは表面の錆を落とし、欠けた部分には溶接補修を施しました。保存のため全ての金物に錆転換剤を塗布した後に黒色塗装を施しています。
(「広報かみかわ」平成21年2月1日より)

約半年をかけた工事ですから、それなりに大変な工事だったのでしょうが、調べてみると少し面白い話題を見つけました。
屋根の修理は昭和46年が最後とあるのですが、実は平成15年に緊急修理が行われていたのです。
その内容は「大熊板金」という会社のウェブサイトにありました。

2003年 埼玉県神川町 「金鑽神社 多宝塔緊急修理」
国指定重要文化財の柿葺きの多宝塔の一部が腐食し雨が漏る状態になってしまったのを、銅板で緊急修理したものです。
全て柿葺きに葺き替えるのには国の予算が付くまで時間が掛かるため、それまでの応急的に且つ美観を考えての作業でした。
尚かつ、野地を痛めないように・全面修理になった場合に撤去しやすいようにも考えて、銅屋根と柿葺きを接合させました。
(「大熊板金」サイトより抜粋)

更に掲載サイトには以下のような笑えるコメントも。

国指定重文 金鑽神社多宝塔 
緊急修理工事
柿葺きの腐食部分を撤去し、国の予算が降りて全面葺き替えまでの間、銅板でそこそこ見栄えも良く数年間?持たせる??
(しかも低予算で!)という 胃の痛くなるような工事でした。
そのかわり柿葺きの納まりを存分に勉強させて貰いました。私だけじゃもったいないので皆さんに公開します。
(「大熊板金」サイトより抜粋)

ということで文化財は文化財なりの大変さがあるということです。

参考:【有限会社大熊板金】 http://ohkumabankin.web.infoseek.co.jp/index.html/index.html

何はともあれ念願の「多宝塔」を見ることができたので実に満足でした。
多宝塔

最後にもう一つの目的であるお札を返しに行きます。
「みくじ納所」にはたくさんのおみくじが付けられていますが、是なども正月の残り香でしょう。
みくじ納所
神橋を渡って社殿に向います。
神橋
相変わらず拝殿も本殿も凛とした空気の中での佇まいが絶妙で、今までに訪れた埼玉県の神社では一番のお気に入りです。
拝殿 本殿

交通安全のお守りはちょうど焚きあげ場所があったので、そこに焚き上げさせてもらいました。
焚きあげ場所
1年何とか無事に過ごせた感謝と共に。
そして今回は新車ということもあって、新しい交通安全のお守りをいただきました。
お守り
これで今年も無事に過ごせるよう念じます。
今回は特に散策もせずこのまま帰宅することにしました。
「木村九蔵」の記念碑を結局見くるのを忘れました。いわゆる後の祭り…。

梅月堂

帰る道すがら、道の看板に「塙保己一最中」なる看板があったので、住所を入れて行ってみました。こう言った時にはナビは実に便利です…、一般的には当たり前ですが。
行ってみれば何と言うことはない「八幡神社」から「競進社」へ歩く途中にあったお店のようです。気がつきませんでしたが。
お店は「梅月堂」です。
梅月堂
”和菓子の店”といった佇まいで、きれいな店舗です。
店舗に入ると壁に屋号額が掛けられていて、何となく歴史を感じさせられます。
梅月堂
それもそのはずで、この「梅月堂」は創業明治期で100年をこえる老舗だそうです。
現在の店主は4代目で、和菓子だけでなく洋菓子も開発しバラエティ豊かな品揃えをしているようです。
店内を見渡すと天井からは「保己一最中」「塙サブレー」のPOPが吊られています。
梅月堂
保己一に関連するのはこのほかに「保己一羊羹」があるようですが、今回は「保己一最中」を買い求めました。
保己一最中
土産としてではなく、あくまで記念ですから、「小倉あん」「白あん」「柚子あん」の3種類があったので一つずつ買ってみました。
この最中は二代目が考案したものだそうです。
昨今の和菓子の流れで甘さ控えめのあんの詰まった最中で、可も無く不可も無くといったところですが、たまにはベタ甘の最中も食べてみたいものです。

児玉には100選で選ばれた地区が多くあり、今年は何回か訪れることになるでしょうが、とりあえず新年に相応しい散策ができたようです。
次回もまた楽しみです。

HONDA「フリード」は当然のことながら快調です。
1500ccという小排気量が高速道路では気になっていたのですが、100Km巡航なら何のストレスも無いことがはっきりしました。
この後もこの「フリード」で埼玉各地を巡ることになるでしょうが、兎にも角にも2010年最初のドライブと散策は大変楽しいものとなりました。

2010.2.22記

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