大宮氷川神社 境内

「三の鳥居」を潜るとそこからは境内となります。
三の鳥居
境内に入る前に素朴な疑問が一つ。
どこまでが事実かは別として、とにかく歴史のある神社であることは間違いありません。そして参道を2Kmに渡って歩いてきて大層立派なことも理解できるのですが、なぜ、古いものがないのでしょうか。例えば創業ウン百年の老舗菓子屋とか…。
所謂、これだけ歴史と由緒のある神社があるということは、当然門前町として栄えたはずです。それゆえに門前町としての古い店舗とか住宅とかが名残をとどめていて、古くからの土着民は常に祭りの雰囲気が常にあるような、何か浮き立つような雰囲気がないのですよね、ここには
。町と神社の一体感が無いというか、そんな感じなのです。

そこで大宮市の成り立ちをザックリ調べてみました。
結論から言うと、どうやら大宮は門前町ではなく宿場町として栄えた町のようです。
1590年頃、このあたりは中山道の宿駅に指定されたそうです。当時の中山道は、現在の旧中山道である浦和方面から北上して来て一の鳥居から参道を通過し、三の鳥居前から左折し再び現在の旧中山道と合流し北上していくルートだったようです。現在の旧中山道より湾曲していたということです。
この結果当時は参道ではなく中山道沿いと言うことで農家が集まっていたそうなのですが、この参道を通る中山道では大きく迂回しているので非常に不便でもあり、さらに神社の神域を通ることに抵抗もあり、関東郡代伊奈忠治に街道の新設を申し出た結果、1628年、当時原野であった参道の西側に新たな街道が作られると同時に新しい街道の両側に参道沿いの農家・民家を移転させ宿場町大宮としての基礎が造られたのだそうです。
当時埼玉県内の中山道には蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄の9つの宿がありました。大宮宿は本陣1軒、脇本陣9軒を持ち、本陣そのものは浦和宿や、上尾宿に比べて大きくはなかったそうですが、このような経緯で大宮は門前町ではなく宿場町として発展したのです。ですから、情緒風情のある門前町の雰囲気がなかったのですね。

それでは、これから境内に入ります。まだ正月気分も残り、今日はもう1月11日ですが初詣でしょうか参拝者も多くそれなりの人出です。
以前1月1日に初詣に来た時はこの辺りから並んでいたような記憶があり、やはり三が日は相当参拝客でごった返すのでしょう。改めて驚いています。
因みに今年2009年の初詣参拝者数を調べてみました。
埼玉県内では氷川神社がやはりトップのようで205万人だそうです。勿論3ヶ日です。
2位以下は次の通りです。

2 鷲宮神社 42万人
2 喜多院 42万人
4 箭弓稲荷神社 23.5万人
5 調神社 18万人
5 高麗神社 18万人
7 川越氷川神社 17万人

鷲宮神社はコミックの影響によって参拝客が増加したそうです。確かに例年の如く氷川神社は多いでしょうがまさに一社集中です。それにしても桁違いとはこのことです。
後は当然のことながら人口密集地域が埼玉県南部に偏っていると言うことも理由にあるのでしょう。
更にこれを全国ベースで見るとこうなります。

1 明治神宮 東京都 319万人
2 成田山新勝寺 千葉県 298万人
3 川崎大師 神奈川県 296万人
4 伏見稲荷大社 京都府 277万人
5 鶴岡八幡宮 神奈川県 251万人
6 浅草寺 東京都 239万人
7 住吉大社 大阪府 235万人
7 熱田神宮 愛知県 235万人
9 大宮氷川神社 埼玉県 205万人
10 太宰府天満宮 福岡県 204万人

全国でも9番目の多さです。まあ、ランキングされているところが大都市圏ですから、これも当然と言えば当然でしょう。
しかし埼玉にずっと住んでいても大宮氷川神社には2回しか初詣には行ってませんので、以外と遠いところから来ている人が多かったりするのではないでしょうか、まあ単なる推測ですが。
因みに氷川神社の分社、あるいは関連社は武蔵全域に多くあり、特に埼玉県には、氷川神社が160社以上存在するそうです。私も川口にいたころは川口の氷川神社へは良く行きましたから。

境内を入ってすぐ境内の配置図、由緒などの書かれた大きな案内板があり、こう書かれています。
案内板

由緒 
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っています。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。
 明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。次いで明治四年には官幣大社に列せられました。
 昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。
(現地案内板説明文より)

ここでは参道の由緒書と同じような内容ですが(当たり前)、ポイントを整理すると、皇室(天皇)や時の権力者から常に重んじられて来たと言う事でしょう。ザックリとした歴史を時系列でまとめると以下の通りです。
●聖武天皇(724~49年)から武蔵国一の宮と定められる。
●称徳天皇(766年)に朝廷から武蔵国ではここだけに封戸(所謂、俸禄)が寄進される。
●醍醐天皇(927年)「延喜式神名帳」で名神大社、さらに月次新嘗の社格を付与。
●源頼朝(1180年)によって社殿の再建と社領三千貫が寄進。
●幕府(1604年)より徳川家康、三百石の朱印下付社領が寄進され社殿の造営。文禄5年(1596)と寛文七年(1667)にも社頭の整備と社殿の造営。
●明治元年10月17日、武蔵国大宮氷川神社を武蔵国の鎮守とし、親幸してこれを祭る鎮守「勅祭の社」とする勅書を受ける
●明治3年、明治11年にも天皇行幸
●明治4年には官幣大社
●昭和9年昭和天皇御親拝
●昭和38年今上陛下が皇太子時に御参拝
●昭和42年明治天皇御親祭百年大祭、昭和天皇・皇后両陛下御参拝
●昭和62年天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)御参拝
というように皇室や権力者に加護されているということでしょうか。まあ、こういった由緒をどう捕らえるかは個人の自由ですが。

さて境内を奥に進みます。
やがて朱色の欄干が見えてきます。神橋という名でその下の池が神池だそうです。
神橋 神池
やや安直さは否めませんが良しとしておきましょう。折角だからと神橋を撮影しようとしましたが結構な人出で、この程度がやっとです。
さて、この神池は見沼の名残だそうで、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと言われていて、このあたりはかつて見沼原と呼ばれていたそうです。
そして、かつての見沼の畔にはこの大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現在の中山神社)、そして三室の氷川女体神社が一直線に並んでいて、この三社が男体社・女体社・簸王子社としてこのあたり一体の氷川神社を象っており、この三社を総称して氷川神社と考える説もあるようです。
自然のままがいいのかも知れませんが、もう少し整備されても良いのではないかなと思えました。もっとも緑の季節になれば見え方も違うのかも知れませんね。

神橋を渡ると立派な楼門です。
楼門
朱の色があざやかで美しい門です。昭和15年に作られたとありますので特に由緒的なものはなさそうです。
楼門をくぐり内側から見た楼門はまた違った色合いで、まるでライトアップされたかのような華麗さです。
楼門

拝殿前には舞殿が中央にあります。大きな丑の絵馬が掲げられているのも正月ならではでしょう。
舞殿 絵馬
この舞殿ではやはり例大祭などで神楽などが演じられるのですかね。
いよいよ拝殿に向かいます。
拝殿
楼門、舞殿と同時期に造営されたのですが、それぞれが趣を異にしています。 華麗なる楼門、躍動感の舞殿、そして重量感の拝殿(本殿)です。
参拝客も多いですが、まずは参拝です。
拝殿
前出の由緒にもあったのですが、社殿の造営に関しての歴史をまとめてみます。
はっきりしているのは鎌倉時代の源頼朝からで1180年社殿の再建とあります。その後江戸初期の1596年、1604年、1667年に整備と社殿の造営が行われています。因みに1667年の改築の時の本殿は、当時買い取られて大間木氷川神社(さいたま市緑区)の本殿として残されているそうです。私事ですが、大間木には10年住んでいましたが一度も大間木氷川神社に行ったことがありませんでした。(ほぼ毎日前を通っていたのですが)一度行ってみようかと思います。
その後、明治13、14年の大修理により女体社・簸王子社は撤去され本社(男体社)に合祀されました。これは前出の三社とは別の話です。
そして、大正6年神苑拡張が行われ、昭和7年~15年に本殿、拝殿、回廊、舞殿、楼門等が造営され現在の形になったそうです。
因みに氷川神社領は、明治17年に県内初の公園とすべく16万坪が寄付されたため(現在の大宮公園)、現在境内地は約3万坪となっているのです。
やはり桁違いのスケールなのかもしれませんね。

拝殿・本殿の作りは”流造”といわれる神社建築様式だそうです。
ウィキペディアの解説です。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)に代表される流造は、伊勢神宮に代表される神明造から発展し、屋根が反り、屋根が前に曲線形に長く伸びて向拝(こうはい、庇)となったもの。全国で最も多い神社建築である。
流造の構造は、切妻造・平入であり、屋根には大社造同様の優美な曲線が与えられる。この点で直線的な外観の神明造と異なる。
屋根は、神明造と異なり、萱葺に限らず柿葺や檜皮葺など幅広い。 側面の破風は懸魚などで修飾され、優美な曲線を描く。 屋根の勾配はきつくなく、前面に長く流れるように伸びる蓑甲(みのこう)から向拝にかけての曲線を強調する。
柱は、神明造同様、左右対称で、左右方向には偶数本の柱が配される。 母屋の柱は丸柱、向拝は面取角柱で上に舟肘木を載せる。
桁行(横に並んだ柱の間)が1間であれば(柱が2本)一間社流造、3間であれば(柱が4本)三間社流造という。
壁には正面中央の1か所に観音開きの御扉による開口部が設けられる。

それで屋根が異様に大きく感じるのですね。
まあ、全国で最も多い神社建築であるから見栄えはいいのでしょうが、若干面白みに欠ける帰来はありますね。
何にしても武蔵の一の宮としての威厳と格式を感じる大宮氷川神社は、やはり埼玉の自慢できる一つであることは間違いないですね。
このような大社が身近にあると言う事をある意味今までは気にしていなかったといえそうです。ま、また事あれば参拝したいものです、と思いながら氷川神社を後にしたのですが、最後の最後に素朴な疑問です。
別に有れば良いって言うものではないけれど、何故これだけの歴史と格式のある神社に文化財が無いのでしょうか。
所謂、~指定有形(無形)文化財というのが全くないのです。建造物は当然昭和の建築ですからあり得ないとして、そのほかに何も無いということ自体実に不可思議です。一体何故なんでしょうか、どこかに隠しているのでしょうか…。

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