越生梅林 #2

園内を進むと井戸らしきものがありました。
復元井戸


明治三十年代に入り観梅客も漸時増加して来たので地元の有志相計り、同三十三年一小亭「魁雪亭」を建設して之に対応し大いに賑わった。(昭和五十八年末老朽のため取毀し)
その時の附属建物であった「井戸やかた」を天皇在位六十年を記念して復元したものである。
昭和六十一年三月 越生梅林保勝会
(現地案内板説明文より)

確かに井戸の割には立派な屋根が付いています。当時としては梅林に相応しい趣向を凝らしたたてものだったのでしょうね。
ちょっと先に行きますと石碑が立っています。
佐佐木信綱句碑
石碑の裏面に説明があります。

明治三十四年先生は東京から十六里の道を辿ってこの地に来遊され表記三首を詠まれた。時に二十九才。 明治、大正、昭和三代に渉る我国歌壇の●斗文学博士佐佐木信綱先生惜しくも今は鬼籍に入らせられたが、その御遺作に寄せる追慕の念禁じ難く、御来訪八十周年を記念して歌碑建設を計画し御嫡子文綱氏、御嫡孫幸綱氏の賛同を得て故博士の高弟、現朝日新聞歌壇選者前川佐美雄氏の揮毫を賜はり本懐達成を見るに到った。 その意義は寔に深く且篤く以て記して●世に傳ヘるものとする。 昭和五十八年二月十一日 越生梅林保勝会(以下省略)
※●部分は判読不能
(現地石碑碑文より)

そして、詠まれた三首が表面に刻まれています。
「入間川高麗川こえて都より 来しかひありき梅園のさと」 「秩父嶺は霞に消えて水車 おとしづかなる梅の下かげ」 「梅園の千本の梢見おろして 岩根にいこふ琴平の山」
佐佐木信綱博士は日本の歌人、国文学者だそうで、更級日記の藤原定家写本の綴じ違えの発見などに業績を残されたそうです。
昭和12年(1937年)には文化勲章を受章されていて、苗字は本来「佐々木」と記していたそうですが、訪中の折、中国には「々」の字が存在しないことを知ったため、それ以後は「佐佐木」と改めたという逸話が残っています。
明治時代から賑わうとともに全国的にも知れ渡っていたことを窺うことができます。

その先には一際あざやかな”しだれ梅”が囲われています。
越生町観光協会創立50周年記念の”しだれ梅”
濃いピンクの鮮やかな梅の花があざやかな、枝垂れ桜ならぬ”しだれ梅”です。
これも「越生町観光協会創立50周年記念梅」とあるので、あえてこういった品種を作られたのか、これをあえて選んだかしたのでしょうが、記念には相応しい華やかさがあります。
その後もいくつか石碑がありましたが、もう良くわかりませんでした。
良く分からない石碑 良く分からない石碑
推測するに本書の説明で田山花袋や野口雨情らも訪れたということなので、それらに纏わる記念碑的なものかもしれませんね。

梅林の中心辺りでしょうか、梅の古木・・・『魁雪』という名木があります。
古木『魁雪』 古木『魁雪』

古木「魁雪」
越生の梅は、南北朝時代の観応元年(一三五〇)に九州大宰府から小杉天満宮(現梅園神社)を分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であると伝えられている。魁雪はそのころの梅(越生野梅)が、ここまで生き長らえたものと推定される。
大田道灌の父、太田道真は退隠後、越生に居館自得軒を構えていた。歌人としても名をなした道真は川越(河越)城で主催した連歌会「川越千句」では、

梅さきぬ なお山里を おもふ哉

と詠んでいる。この会にも同席した当代一流の連歌師心敬や宗祇も、越生の梅を讃えた句をのこしている。
文明一八年(一四八六)六月、道灌は詩友万里集九とともに自得軒に父を訪ね、詩歌会を開いた。道灌が謀殺されるのは翌七月のことである。父子最後の対面となったのはこの折に、万里が詠じた漢詩「郭公稀」は万里の漢詩文集『梅花無尽蔵』に収められている。
道真道灌父子が、あるいは、中世の雅人たちが、この梅の花を愛で、その実を手に取ったかも知れない。
梅の木は樹齢二百年にもなると、ねじれが始まってくるという。人の世の栄枯を見つめ、六百五十年を経てなお可憐な花を咲かせ続ける貴重な名木である。
平成十九年二月吉日  越生町観光協会
(現地案内板説明文より)

まさに名木といえるでしょう。
人間と同じように老人ともなれば腰も曲がるは、体もねじれます。まさに同じことなのでしょうが、今だ現役でいるとは老人の域を超えた仙人の世界でしょうか。
かえって捩れた塩梅が神秘的な色合いを醸し出しているようです。

この木に代表されるように、越生の梅林にも古くからの歴史がある様です。
埼玉県指定名勝碑
現在は埼玉県指定名勝の越生梅林ですが、650年前に起源を持つ梅林ですから、当然町自体が梅林そのものの歴史といっても過言ではないようです。
事実、1955年(昭和30年)に越生町に編入されるまでの66年間、越生梅林の周辺は梅園村(うめそのむら)という名前の村だったそうで、まさに梅林あっての村といえるでしょう。
越生梅林の起源について説明書では菅原道真にちなんだ植林を伝えていますが、乱暴者の鶴千代(幼少の太田道灌)を心配した父・太田道真公が、文武両道に優れるように祈念して植えたという説もあるそうです。どちらにしても”道真”が関わっているのも歴史の面白さかもしれません。
ただし、この頃(江戸時代)までは、あくまで梅の生産が盛んであったそうで、”新編武蔵国風土記稿”に「土地梅に宜しく梅の樹多く植ゆ、実を取って梅干として江戸に送る。比辺皆同じけれど殊に当村に多しといふ」と記載されています。
そして、観梅として有名になったのは明治以降で、奈良の月ヶ瀬に対して「新月ヶ瀬豊楽園梅林」といわれ、多くの文人・墨客を魅了し観光地化され、現在では水戸偕楽園、熱海梅園と共に「関東三大梅林」の一つになったそうです。

参考:【奈良市観光協会】 http://narashikanko.jp/kan_spot/kan_spot_data/w_si200.html

ちょうど売店や屋台が出ていますが、平日の天気が悪い日とあってお客も少なく、屋台なども開けていない屋台も見受けられました。
花見櫓に上がって梅林を眺めると、また違った景色で梅の美しさを堪能できます。
花見櫓からの景観
ここから先に進むと越辺川沿いに梅が咲いています。
越辺川沿いの梅 越辺川沿いの梅
天気が良ければ風情も良いのでしょうが、あいにくの天気で残念です。
一渡り梅園を眺めて戻って来ると、SLが走っていました。
ミニSL休憩中
ミニSLですが、この日は客も少ないのでミニSLも手持ちぶたさのようです。因みにこのミニSLは、嘗てJR八高線で走っていた国鉄9600形蒸気機関車の10分の1モデルだそうで、子供達には当然人気のようです。
越生梅林グルッと一周で1時間くらいでしょうか、美しい光景と春近しの香り、そして興味深い歴史と、たっぷりと梅林を堪能して後にしました。

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