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越生梅林周辺散策 #5

石碑を抜けると比較的広い通りに出ますが、そこは「建康寺」の参道でした。
参道入口附近には三体の地蔵と石碑があります。
建康寺参道口の地蔵・石碑と本堂 建康寺参道口の地蔵・石碑と本堂
参道を進み境内に入ると説明書があります。

建康寺
所在地 越生町大字小杉
太田道灌の父道真は、龍ヶ谷の三枝庵に砦を築き、鉢形城主長尾影春に対抗したが、道灌が勢力を回復するとそこを出て、この地に隠居所自得軒を築き隠棲した。
文明一八年(一四八六)の夏、相国寺の詩僧万里は道灌と共に、川越城から道真を訪ねた。万里はその一夜のようすを著作「梅花無尽蔵」の中で次のような絶句で残している。

稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(たとへ千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(況や今一度枝をへだてて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)

翌朝、万里は道灌父子と別れ、故郷岐阜へ去った。その年の秋、道灌は相模国糟谷で暗殺され、これが道灌父子最後の対面となった。
道灌の死を悼んだ父道真が道灌の菩提をとむらうために、この地に建康寺を建立したもので龍穏寺三世泰そう和尚が 開山した。
そして、今でもこの辺には、越辺川に架かる道灌橋を始め、陣屋、馬場跡、砦などの地名が残されている。
昭和五十八年三月  埼玉県
(現地案内板説明文より)

自得軒の所在は正確にはハッキリしていないようです。特に遺構などが無いようですので。
ここにも陣屋や馬場跡と書かれていますが、”砦”という地名は判らないらしく、”砦”=”山の上”=”自得軒”、という若干無理な三段論法で”自得軒”が建康寺の裏の山の上ではないかと考えられている説もあるとか、無いとか。
まあ、この寺の近くに”太田道真退隠の地”碑があったようなので(知りませんでしたが・・・)やはりこの辺りと言っておけば良いのでしょう。
因みにこの対面とその後を小説に書かれているサイトがありましたので参考に。

参考:【酔雲庵】 http://www.geocities.jp/suiun_an/newpage624.html

建康寺を出て、左方面を歩いて最勝寺に向かいます。
この辺りから結構雪が降ってきました。雨ではないので雪の中の寺社巡りもオツなものです。
通りを歩いていると越辺川沿いを歩く恰好になります。町に歴史がある分、石碑などが数多くあります。
石碑
越辺川沿いにも石碑があり、小さく丸い石碑には”水天宮”と刻まれていて、角型の大き目の石碑と、小さめの石碑は道路と離れた所にあるのでよく読めません。
越辺川沿いを更に歩くと橋があり、”しんつきがせはし”(新月ヶ瀬橋)が架かっています。
新月ヶ瀬橋
明治のころ越生梅林周辺が「「新月ヶ瀬豊楽園梅林」といわれたことにちなんで付けられたのでしょう。
この橋のたもとに有る梅林が明治の文人たちを魅了した当時のたたずまいを残すといわれているところらしいです。

新月ヶ瀬橋から先に進むと最勝寺に到着します。
参道入口附近には多くの石柱・石碑がありなかなか立派そうな寺院です。
最勝寺参道六地蔵
参道をほんの少し歩くと「六地蔵が」並んでいます。
そして更に参道を歩くと山門前に縁起書が立ててあります。

「最勝寺縁起」
当山は建久三年(一一九三)源頼朝公が則使大名であった家来の児玉雲太夫に命じて創建し領地を与え祈願所とした。第一世住職は高僧頼栄和上で佛法興隆に尽くし、その後天文年間に戦禍にあい、堂塔伽藍が灰となった。しかし現存の表門と大御堂は火災を免れて、四天王尊、持国天、増長天、広目天、多聞天が祭られ鎮護国家の道場として栄えたと伝わる。
大御堂の名称は当時将軍直創のお堂のことを言ったのである。又、表門の正面見込みの龍の彫刻は左甚五郎の作と言われ浄麗荘厳を極めたといわれ、後に第十六世登観和上が伽藍を再興(弘治二年・一五五六)したが、明治四十一年四月二十一日に又々火災に遭い、本堂、庫裏等焦土と化したが大正十二年中興開山第二十八世隆全和上が伽藍その他を再興し現存に至っている。
本尊は十一面観世音で修羅界(争いのある世の中)を済度(救う)する佛様である。又、弁慶の引き鐘(現存西国三井寺)の元存の寺とも伝承され、昭和五十一年六月に当山第二十九世隆聖並び檀信徒各位の協力により往時をしのび古来より伝承される地名入り童歌を梵鐘に刻み鐘楼及び梵鐘を再興し夕べの鐘の音を告げている。
(現地案内板説明文より)

山門横には鐘楼があります。
最勝寺山門と鐘楼
確かに歴史を感じることはありませんが、出すぎずに存在感はしっかり示している感じです。
どこの寺社にも云えるのですが、歴史有る寺社を災害(人災も多いようですが)から守り続けるのは、実に難しいことですね。現在だから文化財として保護することも多いのですが、その当時はあくまで信仰の拠点としての位置づけですから無理もなかったのでしょう。
こういう縁起を聞くたびに惜しいものだと思うのですが、でも、これから又歴史を作っていくのですから後世の人々には喜ばれて行くことと思います(・・・などど、勝手なことを言ってますが、結局信仰心に関しての興味が薄いことが明白なことがバレバレですね)。

境内に入るとすぐ本堂があります。
最勝寺本堂
参拝をしてから珍しくおみくじを引いてみました。二人は”吉”でしたが、私は”半吉”でした。
勿論、”ピョン吉”とは違いますが、”半吉”って言うのは初めて見ました。文字通り「半分の吉」ですから”吉”よりは悪いのですが、所謂”小吉”と比べるとどうなんでしょうか。イメージとしては”小吉”よりは良い、という身勝手な判断です。
いづれにしても”あんまり”良くないということでしょうか…。

境内にも梅の花が咲いています。
最勝寺境内のしだれ梅
ピンクの梅も綺麗ですが、本堂の横にあるシダレウメは梅林や梅園神社のシダレウメとはまた違った木で、非常に整った形をしています。
本堂の脇に最勝寺の案内書が立っています。

清龍山最勝寺
所在地 越生町大字堂山
清龍山最勝寺は、元は西照寺とも呼ばれ、建久四年(一一九三)に源頼朝の命により、児玉雲太夫が創建したと言われている。
ここは慈光寺への参詣路上にあり、後年、慈光寺道と子の権現参詣路の分岐点となった。 山門横にある六地蔵は、もと山門前の三差路にあったものである。
明治四十一年には火災で本堂を焼失し、上谷の常願寺を移築している。本堂左手の大御堂には釈迦如来、阿弥陀仏、四天王像が安置され、町指定文化財の「笈(おい)」も納められている。
毎年、十二月の冬至には翌年の吉凶を占う星祭りが催される。
昭和五十八年三月 埼玉県
(現地案内板説明文より)

鎌倉時代に将軍・源頼朝が慈光寺を奥州平定の祈願寺としたことから、慈光寺道が造られ、道中の祈願所として建立されたので、おそらく頼朝もこの最勝寺へも何度か訪れたと言われているそうです。
古の鎌倉街道が埼玉県には3本あるそうなので、こういった慈光寺道等も含めて埼玉県には鎌倉時代の興味深い歴史が多く残っているのでしょうね。
それにしても、”もと山門前の三差路”とは「梅林三差路・・・」のことですかね。とすれば元の山門は現在の梅林の入口附近にあったということでしょうか、謎は深まるばかりです。
ここに記されている通り、本堂の左手奥には「大御堂」があります。
最勝寺境内大御堂
樹木や灯篭など綺麗に整備されていて、お堂自体は歴史を感じさせます。大御堂は結構古くから建立されたものなのかもしれませんね。中は見ることは出来ませんでしたが。
そして「大御堂」の左手に碑があります。
田代三喜碑

医聖 田代三喜
田代三喜は、寛正六年(一四六五)四月八日、現在の越生町大字池田代に生まれた。祖先は、伊豆の田代信綱といわれ、その子孫は代々医術を業とし、父兼綱の代になり武蔵に移った。
十五歳の時、臨済宗の寺に入って僧となり学問を修め、長享元年(一四八七)二十三歳で明国に渡り、李・朱医学など、当時の進んだ医学を修得した。その間十二年、その頃すでに日本から明国に渡り、名医として知られていた月湖について学んだ。明応七年(一四九八)多くの医学書を携えて帰国した。
初め鎌倉の円覚寺内江春庵に居を定めたが後に足利成氏(古河公方)の招きにより、永正六年(一五〇九)古河に移り成氏の主治医となった。古河にいること数年にして、武蔵に帰り、以来関東一円を従来して医療を行い多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。
享禄四年(一五三一)二十五歳の曲直瀬道三は、三喜に会って医学を志し、その門下に入った。三喜は、道三をよき後継者として一切を傾けて指導し、死期近い病床でなお口述を続けた。道三は感動し、硯に落ちる涙で墨をすって記録したという「涙墨紙」が残っている。
本邦後世派医学の開祖であり、医聖と仰がれていたが、天文十三年(一五四四)四月十五日に病を得て没した。年七十九。
(現地案内板説明文より)

つくづく思いますが本当に私もモノを知りませんね。”田代三喜”…全く知りませんでした。聞いたこともありませんでした。
調べてみて簡単に言うと、現在に繋がる医療の祖(的)にあたる医師ということです。
当時明の時代の中国医学では、病気の原因は”体外”にあるという考え方で、気候とか環境とかが原因とした「外邪説」と、消化器(内臓)が衰えることで百病が生じると考えた「内傷説」があり、田代三喜はこの2案の折衷案を持ち帰り、それが後の後世(ごせい)派の流れとなり、三喜じはその祖となるのです。
茨城県古河市の一向寺本堂に「三喜様」と呼ばれ尊ばれている木彫りの坐像が安置されているそうですが、前時代の医者では鑑真と、この三喜しか像が祀られていないそうです。
ここ最勝寺では、その様な田代三喜の故郷であるということと、医聖としての功績を讃えて碑を建立したのです。
この近くには田代三喜の出生地があるそうですが、雪も結構強くなったので今回は行きませんでした。

こうして最勝寺を後にして一旦梅林に停めてあった車に戻ってから、土産を買いに自然村休養センターに向かいました。
土産各種
梅ジャム・柚ジャム、柚羊羹に寒天、さらに梅の粕漬けなどなど。
一押しは”柚羊羹”。羊羹が嫌いな人は無理ですが、特に嫌いでなければ美味、これお勧め。”梅ジャム”は一長一短。
私的には結構すっぱいので無理。以外と色がヤダという人が居るかもしれませんね。 なんだかんだと楽しめるお土産です。
ただ、ここでてっきり梅の木(盆栽)が買えるのかと思っていたら、それが無かったため急遽梅林に戻ることにしました。

もう4時前くらいで、さらに雪も結構降っていたので当然、入園の祭の係員もいないため勝手ながら再入園いたしました。(これは問題ないですよね。)
私だけ車で待っていると、娘が梅の盆栽を買ってきました。
「酔心梅」という品種です。
酔心梅 酔心梅
「酔心梅」は、八重咲きで花びらの中に行くにしたがって色が白くなっていくタイプだそうで、蕾から開花までの色といい開花した時の花の輪郭といい実に見事で心から酔うほどであることからこの名前が付けられたそうです。
枝振りが良いと娘が決めました。翌々日見事に自宅で開花しました。 綺麗な花と良い香りで部屋中春がやってきたようです。
観梅の越生は見所も一杯ですが、”梅”の風情をじっくり味わうのも結構ではないでしょうか。

最後に、
「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」…。

2009.3.14記

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