はじめに

「塙保己一」はジャンルDの”県ゆかりの人物”で2位の「荻野吟子」の得票数10,936票の倍以上の22,962票という断トツで第1位にランクされました。

児玉町出身の江戸時代中期の盲目の国文学者。塙保己一は、1746(延享3)年現在の児玉町保木野に生まれた。7歳の時に眼病を患い失明したが、15歳の時に江戸に出て雨富検校須賀一の門人になった。18歳の時に名を保木野一に改め、30歳で勾当に就くと同時に保己一と改名した。
保己一はその後、萩原宗固について和学・歌学を、川島源八郎に神道を、山岡明阿に律令を、品川東禅寺僧考首座に医学を、それぞれ学び、24歳の時に賀茂真淵の門に入った。本居宣長らととも親交を結んだという。
38歳の若さで検校となった保己一は、水戸藩の依頼で「大日本史」を校正、また、中世以降の日本の文献を集めて校訂、分類し、約40年かけて大編さん史「群書類従」(全665冊)を完成させた。
48歳の時には、幕府に願い出て国学の研究の場である「和学講談所」を開設。わが国の国学の発展に大きな影響を与え、のちに盲人の最高位である「総検校」になった。
1821(文政4)年76歳で死去。江戸四谷安楽寺に葬られた。
現在、児玉町には国指定の史跡にもなっている塙保己一生家や、保己一が生涯大切に持っていたとされる母手縫いのきんちゃくなどを集めた記念館などもあり今でも郷土の偉人として親しまれている。
(「埼玉ふるさと自慢100選」より)

同じ100選のジャンルAの【雉が岡城址の塙記念館】 で新年も明けた2010年1月16日に本庄市児玉を訪れ、児玉は「塙保己一生誕の地」とあって様々な興味深い見聞をしました。
こちらのジャンルDに関しては保己一個人をクローズアップし、本庄市児玉以外の縁の地へも訪れたものを含めて散策しています。

学生の頃の歴史の教科では恐らく多くの人が「塙保己一」=「群書類従」というパブロフの犬状態でしょうが、それ以上の知識を持ち合わせている人は極々限られた人たちだけだと考えます。そういう私自身もその程度での知識しかなく、埼玉県出身ですら知りませんでしたから。
折角、本庄市を訪れて多少なりとも「塙保己一」の一端に触たのですから、これを機にもう少し掘り下げてみたいと思います。
今回、本庄市は勿論、四ツ谷、九段、渋谷を廻って保己一の生涯を辿ってみました。

map本庄市オフィシャルサイト】 http://www.city.honjo.lg.jp/

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