青年期

生涯をたどる最初は当然ながら誕生です。先に訪れた生家のある本庄市が舞台となります。

保己一誕生

「塙保己一」は延享3(1746)年5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市児玉町)で、父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として、寅年に生まれたので寅之助と名付けられました。
父方の荻野氏は、平安時代の文学者・小野篁を祖先とする旧家です。この小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、孫に書道で有名な小野道風がいることから由緒正しき家系です。 そしてこの小野篁の7代後の小野孝泰は、武蔵国の国司(現在で言う県知事のようなもの)となって以来、子孫が武蔵国に居住し武蔵7党の横山党を作った創始者だそうです。
そしてこの子孫が鎌倉時代に荻野氏を名乗り、以来脈々と家系がつながってきたようですが、近世になって帰農し農家となった百姓の家系です。
一方、母・きよは、加美郡木戸村(現在の宮城県)の名主・斎藤理左衛門の娘で、やはり農家でした。このように生家・母方共に農家ではあるのですが、共に家系の良さからか、後に苗字・帯刀を許されたようで、保己一の誕生したころも非常に裕福な家庭だったようです。
それが現在も児玉町に残る「保己一の生家」です。
生家 生家

塙保己一旧宅
昭和19年11月13日 国指定史跡
塙保己一は、延享3年(1746年)5月5日武蔵国児玉郡保木野村(現在の児玉町大字保木野)に生まれる。
7歳にして失明し、15歳のときに江戸へ出て、雨富検校の弟子になり、先生の許しを得て学問の勉強をしました。生来の記憶力のよさと努力により、賀茂真淵らのよき学者に指導を受け、国学を研究し、寛政5年(1793)に幕府に申し出て、和学講談所を創立し、安永8年(1779)から40年間かけて群書類従を編さん刊行するなど、学問上多大な貢献をし、文政4年(1821)総検校となり、この年9月12日76歳で亡くなりました。この旧宅は、保己一が生誕し幼時を過ごしたもので、茅葺き二階建てで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、厩(現物置)等があり、後世に若干の増築や補修の箇所があるもののよく当時の姿を残しています。
平成2年3月吉日 埼玉県教育委員会 児玉町教育委員会
(現地案内板説明文より)

当時でも上層の農家であったことがその大きさからも窺えます。
そんな裕福な農家に生まれた「寅之助」でしたが、生まれつき丈夫ではなかったようです。
少年「寅之助」は病気がちで子供同士では遊ぶことができなかったため、生家の近くにある「龍清寺」の住職から本などを読んでもらっていたようです。 しかし、病弱な「寅之助」は5歳のときに疳の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、7歳の春に失明しました。修験者の勧めで「辰之助」と名を変えたそうですが、結局、光が戻ることは無かったのです。
この当時の伝承が幾つかあります。
「辰之助」は大変記憶力が良かったので、大人に本を読んでもらうとすべて記憶して忘れなかったという伝承があります。これは当時「太平記」を暗記してそれを読み聞かせて名を成した盲目の人がいることを聞いた「辰之助」は「わずか四十巻の本を暗記することで生活ができるなら、自分にも不可能なことではない」と言ったとか言わなかったとか…、といった話です。
こう言った伝承がいくつも絡まって、「保己一」が「辰之助」の頃、小さなときから遊んでいた「龍清寺」の住職から「太平記」を読んでもらって子供時代をすごしていたという伝承になったようです。
いづれにしてもある意味子どもながらに失意のどん底だったにもかかわらず、さらに追い討ちをかけるように宝暦7(1757年)年、「保己一」12歳のときに病気で母を失ったのです。
最愛の母を失った「保己一」は更なる失意の中で、今後盲目の自分が身を立てるにはどうしたらよいかを真剣に考えたようです。

江戸へ向かう

今後の生活を考える上で決め手になったのが当時の労働システムでした。
当時、江戸では幕府の庇護の下、盲人だけの按摩や鍼、三味線、金貸しなどの職業組合があり、厳格な徒弟制度が敷かれていたのです。
盲人として一人で生きていくためには、この様なシステムのある江戸で修業をするのが良いのではないかと考え生地を離れる決心をし、宝暦10(1760)年、「辰之助」13歳の時、江戸に向けて出立したのでした。
その時「辰之助」は以前、母が作ってくれた巾着に23文を入れ、着替えなどを入れた箱を背負って江戸に向かったようで、この時持っていた巾着と箱(お宝箱と呼ばれている)が現在、児玉町の【雉が岡城址の塙記念館】で訪れた「塙保己一記念館」に展示・保管されています。
巾着 お宝箱
特に巾着は母・きよの帯地で作ったものといわれていて、生涯大切に持っていたそうです。
また、江戸に向かう「辰之助」を描いた絵が「温故学会」にあり、絹商人に手を引かれて江戸に向かう二人は出世比べの話をしていたと言われ、後年この絹商人は根岸肥前守と名乗るようになったというエピソードが伝わっています。
江戸に向かう「辰之助」 《写真:(c)財団法人温故学会》

こうして江戸にでた「辰之助」は2.3年の間、盲人としての一般的な修業をしていたようです。修業を終えた「辰之助」は当初の通りの盲人の職業組合である「当道座」と呼ばれる組織のトップである検校「雨富須賀一」に入門し、名前も「千弥」と改め按摩・音曲などの修行を始めたのが15歳の時でした。
この「当道座」とは前述したとり、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織で、平安時代の仁明天皇の子である人康親王が盲目で、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えたのが始まりのようです。
鎌倉時代になって「平家物語」が流行し多くの盲人がそれを演奏し、当時の村上源氏の庇護・管理下に置かれました。更に室町時代には検校・明石覚一が「平家物語」のスタンダードとなる覚一本をまとめ、室町幕府から庇護を受け、「当道座」を開いたそうです。
そして江戸時代には幕府から公認され寺社奉行の管理下に置かれました。
江戸時代の「当道座」の本部は「職屋敷」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにありました。「当道座」の官位には最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれは更に細分化されており合計73個の位があったそうです。入門して業績を挙げれば官位は上がっていくのですが、非常に長い年月がかかることから現実的ではないということで官位を金銀で売ることを公認したのでした。
これによって幾分昇進は早くなったようですが、最下位から検校までの73階級をすべて金銀で購入すると総額719両かかったそうで、単純に江戸中期の1両の価値を約50,000円とすると約3600万円かかる計算になるのですが、検校ともなると将軍への拝謁も許されるくらいの社会的地位が高いので無理をしてでも金銀で買い求めていたようです。
このため元禄期以降では音楽家や鍼灸医の他に金銭貸付業としても高い金利が特別に許されたため、御家人や旗本をはじめ町人からたちから暴利をむさぼっていた検校・勾当もいたそうです。時代劇などでしばしば描かれる悪徳検校などは、このことから来ているそうです。
基本的に悪徳検校などはレアケースで、「当道座」によって江戸時代の音楽や鍼灸医学が発展したのは間違いの無い事実ですから、盲人への保護政策と共に重要なシステムであったことは否めませんが、江戸幕府の崩壊後1871(明治4)年に「当道座」は解体され消滅したのです。

そして、このころの「当道座」のトップである検校「雨富須賀一」は四ツ谷西念寺横町(現在四ツ谷若葉町)に住んでいたことより必然的に「千弥」もこの界隈に居住していたことになるのです。
因みに、この四ツ谷西念寺横町の地名ともなった西念寺は服部半蔵の墓所や徳川信康(松平信康)の供養塔があることでも知られている有名な寺院で、後の「保己一」の墓所からもすぐ近くにあります。
服部半蔵の墓所 徳川信康(松平信康)の供養塔

こうして「雨富須賀一」に入門し師匠や兄弟子から鍼・按摩・灸、琴・三味線などの手ほどきを受けたのですが、生来の不器用さゆえなのか全く上達しなかったそうです。
身が入らなかったことも原因でしょうが、いずれにしても上達しないことで検校に迷惑がかかるのではないかと悩んだ挙句、九段坂近くの牛ケ淵に身を投げようとしたところ、危うく家の下男に救われたのでした。
牛ケ淵 牛ケ淵
現在の「牛ケ淵」は「田安門」~「清水門」の間の皇居の濠で、九段坂から見ると左側に九段会館、右側に日本武道館があります。
そして「田安門」から西側にある濠が桜で有名な千鳥が淵というロケーションとなります。
現在なら「さくら」で煌びやかな場所ですが、当時は江戸城の裏側にあたる濠ということで、当時は妖気の漂うような場所だったのでしょうか…。

学問への道

連れ戻された「千弥」は当然ながら叱責を受けたのですが、師匠である検校・雨富須賀一は「千弥」に何をしたいのかを尋ね、泣きじゃくりながら「千弥」は”学問がしたい”と言ったそうです。
それに対して検校・雨富須賀一は、医学書を一度聞いたら一字一句覚えてしまう「千弥」の学才にそれとなく気付いていたようで、盲人でも歌人や学者になったものも居るということで学問を許したのです。
しかしながら検校が学問を教えることはできないので、3年間は生活の面倒をみるので、その間に自分なりに学問に励むようにとの激励の言葉をうけると同時に、3年後に見込みが無ければ故郷に帰すという約束もさせられたのでした。

それからの「千弥」はまず本を貸してくれるという人の噂を聞いては尋ね、読んでくれるという人を探す日々だったようです。
そのような日々を続けていくといつしか「書物好きの珍しい按摩」という噂が広がり、書物を読んでくれた人には按摩を無料にしたそうです。そしていつしかこの「書物好きの珍しい按摩」を贔屓にする人が様々な書物を読んで聞かせてくれ、また、そうして読んでもらう時の全神経を集中して聞いている「千弥」の姿に人々は感動する有様だったそうです。
このような噂が広がったある日、検校・雨富須賀一の隣屋敷に住んでいる松平織部正乗尹という旗本が、自ら本を読んであげると申し出てくれました。
乗尹はたくさんの書物を持ち大変な勉強家であったそうですが、公務が忙しいため1日おきに朝4時~8時までという約束で読み聞かせすることとなり、薄暗い時分から「千弥」は微動だにせず聞き入り、時間が来ると御礼の意味で乗尹の肩を揉んだそうです。
そのような日々が「千弥」にとっては待ち遠しい日々だったようです。

そんな日々が続いている中、乗尹から「萩原宋固」という先生を紹介されました。「萩原宋固」は毎月源氏物語や和歌を乗尹宅を訪れ講義をしているのだそうで、「千弥」はこの講義に参加することになったのです。
講義の日に座敷の隅でじっと聞き入る「千弥」の姿に多少なりとも疑問を覚えた宋固は講義についての内容を尋ねてみると、「千弥」は的確に答えただけでなく、難解箇所について宋固に意見を求めるほどだったようです。
このような「千弥」をみた乗尹は、「千弥」を宋固の門人に加えてやりたいと願い、検校・雨富須賀一に「千弥」の比類ない才能について話し、系統的な学問をさせる必要性を説いたのでした。
もとより「千弥」の学問習得に依存の無い検校によって、「千弥」は宋固の門人として学者への道を進むことになったのでした。

「千弥」の気持ち、夢を理解した検校・雨富須賀一、そして「千弥」の進むべき道を助けた松平織部正乗尹。
この二人によって後の「塙保己一」が生まれるきっかけとなった時代なのでした。

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