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学者・保己一

盲目の生い立ちから、一時は絶望の果てで自殺まで図ろうとした保己一でしたが、よき理解者の検校・雨富須賀一と松平織部正乗尹を得て、やっと自分の夢である学問の道へと進むことになりました。
保己一16歳の頃です。


盲目の学者

検校・雨富須賀一と松平織部正乗尹によって「萩原宋固」の門人となったのが宝暦11(1761)年、「千弥」16歳のときでした。
そして萩原宋固から国学と和歌を学び、漢学・神道を川島貴林に学び、法律を山岡浚明、医学を品川の東禅寺に、そして和歌を閑院宮に学びました。
当然ながら「千弥」は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問をすすめたのです。 こうした努力が実り始めて宝暦13(1763)年、18歳のときに”衆分”となったのでした。

前述した「当道座」の官位をもう少し詳しく調べてみると、基本的な官位は”四官・十六階・七十三刻”という等級になっています。
”四官”は先ほども記載した「検校」「別当」「勾当」「座頭」で、この四官がそれぞれ十六階に分類され、更にこの十六階が七十三刻に分けられているのです。
この衆分の位置を見ると、
四官:「検校」>「別当」>「勾当」>「座頭」
十六階「座頭」:「四度の座頭」>「三度の座頭」>「二度の座頭」>「一度の座頭」
七十三刻「四度の座頭」:「五刻」>「四刻」>「三刻」>「二刻」>「一刻」
同「三度の座頭」:「三刻」>「二刻」>「一刻」
同「二度の座頭」:「三刻」>「二刻」>「一刻」
同「一度の座頭」:「四刻」>「三刻」>「二刻」>「一刻」
そしてそれぞれに通称があり、「三度の座頭」~「一度の座頭」までを”衆分”と呼んでいます。勿論、「一度の座頭」の下には四刻あるので、結構な出世なのかもしれません。そしてこれを機に名前を「保木野一」と改めたのでした。

このように学問をはじめとした心の部分は大層たくましくなったようですが、未だに身体は脆弱だったようです。
これを心配した検校・雨富須賀一は、旅によって身体が丈夫になるのではないかと、「保木野一」に旅費を与え父と共に伊勢神宮詣でをさせたのでした。明和3(1766)年、21歳の時です。
旅は伊勢神宮にはじまり、ついで京都・大阪・須磨・明石・紀伊高野山などを60日かけて巡ったそうです。途中京都の北野天満宮では892年に完成した歴史書「類聚国史」を編さんした菅原道真に感銘を受け、その偉業を尊敬し、以降菅原道真を守護神と決めたそうです。
もともと松平織部正乗尹に学問を習い始めたときに、保己一は、一番好きな学問は歴史で、国の故事に暗くてはならないと考えていたようなので、このような道真の偉業をなおさら高く評価したのでしょう。

この伊勢神宮詣で心身ともに丈夫になった「保木野一」は明和6(1769)年、宗固の勧めにより晩年の賀茂真淵に入門し、「六国史」などを学びました。
しかし、その年の10月に真淵が死去したため教えを受けたのは僅か半年でしたが、受けた学問や研究仲間は生涯貴重な財産となったようです。というのも当時の賀茂真淵が、荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人とされるほどの大家であったことと、県居学派と呼ばれる真淵の門下生に人材が豊富だったことに起因します。
因みに真淵の高名な弟子としては7人が特に高名で、そのうちの優れた女性、進藤茂子、油谷倭文子、鵜殿余野子の三人を「県門の三才女」と称し、特に優れた男性、橘千蔭、村田春海、楫取魚彦、加藤美樹の4人を「県門の四天王」と称したそうです。

与えられた天命

その後、保木野一は学問は勿論のこと、本業の修業も欠かさず努力し、その結果、宝暦13年(1763)には衆分に昇格、安永4年(1755)正月には勾当の位に昇進したのでした。
保木野一はこの勾当に昇進したのを機として名を「塙保己一」と改めました。
塙姓は師匠・雨富検校の本姓からもらい、名は「己を保ち百年を安ず」という中国の書『文選』に出典されていた百歳までも生きていこうという意味の古語から保己一と改めたそうです。保己一30歳のときでした。

この頃の保己一の生活は、日々の暮らしは学問第一で、粗末な食事に冬でも足袋なしで過ごして、少しでも蓄えができると書物を購入する日々だったようです。 こうした努力のおかげで様々な書物について詳しくなった保己一の噂を聞いて、大名家から藩で秘蔵している書物が正統な典籍であるかどうか調べてほしいという、一種の鑑定を依頼されるようになったのです。
そうなると次第に保己一のもとにはあちこちに埋もれていた貴重な書物が集まってくるようになるのです。この時保己一は、かつて学んだ村田晴海の「和学大概」に古書古本の研究の大切さが説かれているのを思い出したのです。
それはこのように書かれていたそうです。
「すべて学問をするには古からの日本の国体を知らねばならない。国体を知るには古書の研究が必要であるが、そうしたことを好む人びとが少ないために古書が失われて、百年もたったら全く跡形もなくなってしまうだろう。これは太平の世の恥である。誰かこれを研究して後の世に残したなら、それこそ国の宝となるであろう」と。
これを思い出した保己一は、古書や古本の保存研究こそが前人未到の事業で、これを進めることが私に課せられた仕事ではないかと思うようになり、あちらこちらに散らばっている古書古本を集め、これらを叢書としてまとめ新たな版で出版することにより、後世の研究者に貴重な資料となりうるであろう、これこそが天命であると考えたのが安永7(1778)年、保己一33歳の時でした。

保己一はこの天命に従い、この事業を進めたのでした。
まず行ったのは叢書のタイトルです。
もとよりタイトルは保己一の崇敬する菅原道真の『類聚国史』を参考にしており、中国の歴史書の一文にある「五経群書、以類相従」という価値ある古書の群れを類に分け系統的に位置つけるといった意味で「群書類従」としたのでした。
類としては、「神祇」、「律令」、「物語」など25に分類されているのです。
例えば類の一つである「物語」には「伊勢物語」「竹とりの翁の物語」、「日記」の類では「和泉式部日記」「紫式部日記」、さらに「雑」の類では「枕草子」「方丈記」から聖徳太子の「十七条憲法」といった具合に現代でもお馴染みの古典資料が収められているのです。

結果からいえば収集して、分類し、まとめて出版するといった現在では極々当たり前のような作業ですが、電話や当然ネットの無い時代では集めるだけでも相当な労力が必要だったようです。
例えば平安時代にまとめられた「日本後紀」50巻があったのですが、当時は行方不明となっていた書物だったのです。
それが京都にあるらしいと伝え聞いた保己一は門人を京都に派遣し探させた結果、京都の伏見宮家に飛び飛びの10巻を探し当てました。 しかし伏見宮家ではそれを外部のものには見せようとはしません。門人は策を練り、まず伏見宮家の家人と飲み友達となり、親交を温めてようやく家に泊まれるようになり、その泊まった晩に書物を借りてこっそり10巻を書き写したそうです。
現在、この「日本後紀」は「日本書紀」に始まる日本の6つの代表的な国史である「六国史」の一つである大変貴重なもので、この時の門人や保己一の熱意が無ければ現代に残されていたかどうかは不明です。
このように大変な労力をかけて「群書類従」出版事業の第1歩が記されたのでした。

群書類従刊行開始

安永8(1779)年、「群書類従」の出版を決心し天満宮に祈願して後、地味ながらこつこつと努力を重ね、ついに天明3(1783)年38歳で検校となったのでした。これにて保己一は当道座のトップになったわけです。 このような地位と、当然ながら学問修得のレベルの高さから、天明5年(1785)には水戸藩の彰考館に招かれて『源平盛衰記』の校正を行い、続いて寛政元(1789)年には「大日本史」の校正にも携わりました。
この「大日本史」は水戸光圀によって260年の歳月と数千人の協力によって敢行された一大事業でしたが、その事業に抜擢された保己一の力量がここで窺えます。
そして寛政3(1791)年には寛政の改革の一環として寺社奉行より座中取締役(一座取締役)に任命されました。これは「当道座」の改革に幕府が乗り出し、その長として保己一を抜擢したのです。
このように各方面で名声・力量が高まっていく中、当然ながら「群書類従」の刊行も着々と進められたのです。

収集を始めた古書は単にそのまま印刷するのではなく、それが後世に残す価値があるものかどうか吟味した上で、更に厳正な校訂を重ねていたようです。
そして印刷は板木で行います。専門の板木師が一枚の板に20字10行を1ページとして、左右2ページを逆向きに彫っていくのですが、これが現在の400字詰めの原稿用紙の基となったものです。
彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木するという大変な労力をかけなければならなかったようです。 この板木は両面を彫り、板木1枚で原稿用紙2枚分となるのです。これを版木と呼んでいます。
印刷はこの版木に墨をしみ込ませ、2回目の墨をぬった上に和紙をのせ、竹の皮ですべりをよくしたバレンという用具でこするのですが、字の大きさや文字数により、力の加減を微妙に調整しなければならないようでこすれば良いといった代物ではないのです。

最終的に17000枚以上になる版木ですが、この版木を作るのには莫大な費用がかかるのです。 この費用を捻出したのが保己一で、すべて借金でまかなっています。
当時の豪商の鴻池家などから借金をしているのですが、判る限りの借用書の合計、つまり版木料は総額5,619両かかっており、現在の貨幣価値に換算するとおよそ4億5000万円となる莫大な金額です。
単なる私用(認められるまでは当然私用ですが)ではなく国家的プロジェクトとしての借金ですから有意義な借金とでもいうべきでしょうか。
現在これらの借用書は前述した本庄市の「塙保己一記念館」に展示されていますが、一部は県の文化財に指定されているほどですから、借金する人によって借用書の価値も代わってくるということです。
借用書
これだけでもいかに大変な事業であるかかが理解できます。

このようにして古書の収集・選択・校訂、そして版木作成とプロジェクトは順調に進み、まずは仮スタートを始めます。
天明6(1786)年2月、平安時代から鎌倉時代にかけての説話集である「今物語」を刊行し、そこそこの評価を得たことにより、この「今物語」を見本として群書類従の広告文を作成し予約募集を開始したのです。
その告知内容は、「今物語」と同じ仕様で、1200余種の文献を25の類に分けて600冊余りの叢書で、毎月1~2冊づつ刊行し、刊行部数は200部で価格は紙10枚で6分2厘、仕立て4分5厘…などなどでした。
群書類従版木
現在でいうところの定期購読の類といってよいでしょう。毎号おまけはつきませんが…。
こうして兎にも角にも「群書類従」の刊行を発表し、実行に移したのでした。保己一41歳の時で、刊行を決心してから7年以上の年月が経過していました。

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