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総検校

順調と思えた「群書類従」の刊行でしたが思わぬところで大きな問題を抱えることとなりました。
寛政4(1792)年7月、麻布あたりで出火した火の手は瞬く間に広がり、保己一の家も全焼したのでした。かなりの書物は運び出せたようですが、版木の多くは焼失したようです。

和学講談所

これで「群書類従」の発行も絶望視されたのですが、保己一は次の手を打ちます。
時の老中・松平定信は文武両道に秀でた人で、寛政の改革に当たっては学問を特に奨励していました。そこで保己一は現在の、そして未来の学問にとって「群書類従」がどれだけ重要なものなのかを説き、寛政5(1793)年、和学講談所および文庫を建設する用地の拝借願いを幕府に提出したのでした。
この和学講談所の願いでは本庄市の「塙保己一記念館」に「和学講談所借地関係書類」として残されています。
和学講談所借地関係書類
説明によると、講談所建築のために裏六番町で300坪の土地の借用を願い出て認められたのですが、幕府の都合により文化2(1805)年には一旦この土地を返却し変わりに表六番町で840坪あまりの土地を借用したそうです。
その表六番町が現在の千代田区三番町で、現在ではその名残もありませんが、交差点の角に標柱と案内板がたっています。
塙検校和学講談所跡 塙検校和学講談所跡

東京都指定旧跡 塙検校和学講談所跡
所在 千代田区三番町24
指定 大正7年4月
塙検校(1746~1821)は江戸時代の国学者。
幼名寅之助のち保己一と改名。武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、幼くして失明したが、江戸に出て賀茂真淵らに国学を学ぶ。和漢の額に通暁し、天明3年(1783)検校、文政4年(1821)に総検校となる。
この間、寛政5年(1793)江戸麹町に和学講談所を設立し、講義・会読のほか京都・名古屋などにも史料を採訪して「群書類従」「武家名目妙稿」「史料」などの編纂事業を行った。これらの編纂は明治以降の国史・国文学研究に大きな影響を及ぼした。
昭和52年3月31日 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

そして土地借用と同時に講談所の建設費用350両も借受し講談所を建設、そしてここを拠点として「群書類従」の編纂に従事すのですが、当時ここに建設された和学講談所がこちらです。
講談所の絵図
これもまた「塙保己一記念館」の書類にあった講談所の絵図で、大層広く立派な講談所だったようです。
更に記念館には講談所で使用された印鑑などが残されています。
印鑑
当時の旗本や御家人などは暮らし向きが苦しかったので、設立された講談所には優れた人材が集まり写本や筆耕などの仕事に加わり、講談所は常に活気にあふれ、多くの門弟を育てたそうです。
この当時の講談所の機能には、学校的機能、研究的機能、そして幕府の要求に対処する行政機関的機能、更に独立採算制の公益事業を行う公社的機能を併せ持っていたようです。
そして寛政7(1795)年になると和学講談所に幕府より毎年50両の資金援助が支給されるようになり、寺社奉行管轄から林大学頭の支配に置かれる、謂わば幕府の機関に準じる機関の位置づけとなったのです。
これによってそれまで売上が上がってから次の出版資金とする自転車操業での「群書類従」が8年間に43冊しか発行できなかったものが、この後は毎月4冊刊行できる見通しがたったといわれ、いよいよ「群書類従」の刊行が軌道に乗ってきたことをあらわしています。
その後寛政10(1798)年には品川御殿山下に版木置場として1000坪あまりの土地を拝借しているそうです。
因みに「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一」と詠われた川柳は、まさこの麹町番町に和学講談所があった名残のようです。

総検校

和学講談所の運営が軌道に乗るとともに、保己一の度量も広く認められるところとなります。
その現れの一つが享和3(1803)年、盲人一座総録職となったことです。
この総録職とは関八州の目の不自由な人たちを総管する役で、京都にいる総検校に諸事を取り次ぐ役で、これにより保己一は惣録屋敷に移り住むことになったのです。
前述した「和学講談所」が表六番町に移った享和3(1803)年には盲人一座十老となります。この役職がどの程度のものなのかは判りませんが、総検校に挨拶するために上京していますからそれなりに高い地位なのでしょう。
ただ通常十老職になると京都在住が慣例だったのですが、和学講談所勤務のため特例に江戸在住が認められたようです。それだけ和学講談所の重要度が高かったことが窺われます。
更に享和12(1815)年には将軍家斉に拝謁し、以降毎年正月には拝謁することとなり、文政元(1818)年、盲人一座二老となったそうですが、盲人一座十老同様にどの程度の地位なのかはよくわかりませんが、盲人の階級のみならず社会組織の中でもかなり高い地位になったものと推測されます。

そしてその翌年の文政2(1819)年、ついに「群書類従」全670冊が完成したのです。現在の冊数では本文665冊・目録1冊の計666冊となります。実に出版を決意してから41年目にあたり、40数年にわたった大事業がここに完結したのです。
この「群書類従」666冊もまた記念館に展示されていて、かなりのボリュームなのが見て取れます。
群書類従
現在の印刷技術ならたいしたことはないでしょうが、当時の技術ですから時間、金もさることながら、強固な意志がなければとてもなしえないことだったのかもしれません。

このような努力と結果が認められ、保己一は文政4(1821)年2月、ついに総検校に登りつめたのです。76歳の時でした。
そのときの任命書(告文という)がやはり本庄市の記念館に残されており展示されています。
任命書
また、そこには総検校相続の為に上京した際の日記「上京日々記」が同様に展示されています。
上京日々記
どちらも貴重な資料です。

最高の名声と栄誉を受けた直後の文政4(1821)年9月12日、江戸において保己一は没しました。享年76歳。この時、幕府はこれら保己一の学業と人徳を讃えて、生家に荻野姓を与え、苗字帯刀を許可したのです。
体の弱い盲目の一少年が、世紀の大偉業を成し遂げ、最高の地位に登った絶頂期はまさにつかの間でしたが、偉人としての評価は未来永劫変わらないものでしょう。
翌年の文政5年(1822)年7月、四谷(東京都)内寺町の安楽寺に埋葬されました。墓碑銘は「前総検校塙先生之墓」、戒名は「和学院殿心眼智光大居士」です。
そして時代が移った明治19(1886)年、安楽寺の墓地の土をわけて、生家から徒歩で5.6分の子供時代に住職から本を読んでもらったという龍清寺の近くの保木野村(本庄市)に分骨されたのです。
龍清寺 塙保己一墓所 塙保己一墓石
墓石には「和学院殿心眼智光大居士」の戒名と和歌が刻まれているそうですが、和歌の方は見にくい状態でした。

その後、保己一の墓所である安楽寺が廃寺となったため、明治31(1898)年5月、同じ四谷の愛染院に改葬されました。
愛染院

愛染院案内
山号:獨鈷山 光明寺  本尊:大日如来  宗派:真言宗 豊山派  総本山:長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師:宗祖・弘法大師(空海)、中興祖・興教大師(覚絆)、派祖・専誉僧正
沿革:
文政寺社書上に拠れば「当時開闢之儀は人王52代嵯峨天皇御宇弘仁年中弘法大師関東弘法之為当国に一宇御建立今之麻布善福寺之地也然に当院は右奥之院にて御守本尊五指量愛染尊を安置し大日如来よりは祖相承の獨鈷を納め給故に山号を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて不能住職之僧も拝其後星霜相移り年月相知れ不申候」と伝えて、その由来することの頗る古きを語て、慶長当時の開山正斎(寛永15年12月5日寂)はその中興と称して居る(昭和9年発行の四谷区史より)
(現地案内板説明文より)

創建年は不詳のようですが、平安時代をその開創とする由緒ある寺院のようです。
ここにある保己一の墓は現在文化財として指定されています。

新宿区指定史跡 塙保己一の墓 指定年月日昭和59年11月2日
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生まれた。
姓は萩野、幼名は辰之助といった。
5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。
優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。
天明3年(1783)検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけた。寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
文政2年(1819)群書類従を寛政させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳であった。
墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。
平成3年1月 東京都新宿区教育委員会
(現地案内板説明文より)

余談ながら、この愛染院には新宿の生みの親とも言われる高松喜六の墓もあります。

新宿区指定史跡 高松喜六の墓 指定年月日昭和59年7月6日
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。
喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。
翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。
正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。
(現地案内板説明文より)

早速境内に入ってみます。
参道の両側は駐車場で、生垣に囲まれた落ち着いた雰囲気の寺院です。
突き当たった左手が本堂で、比較的新しく綺麗でいながら素朴な本堂でまずは参拝を済ませます。
愛染院 愛染院
境内には鐘楼や石塔、石碑など由緒ありそうなものが配置されています。
愛染院
本堂の右手側が墓地ですが、墓地の前にはここに保己一の墓があることを示す石碑がありました。
石碑

墓地内のどの辺りにあるかわからないので、くまなく墓地内を探す羽目に陥ります。
途中にあったこの墓が「高松喜六の墓」です。新しくされた墓石のようです。
高松喜六の墓
保己一の墓所は何処にと探すと、どうやら一番奥の一段高くなって囲われている一角が保己一の墓所で、「塙保己一先生墓」と刻まれた石碑がありました。
塙保己一先生墓
中央のあたりにある墓石が保己一の墓石です。
塙保己一先生墓 塙保己一先生墓
墓石には「前総検校塙先生之墓」と刻まれていて、とてもシンプルな墓石です。質素を心情とした保己一を表しているのかも知れません。
保己一の墓石の右斜め後ろにある墓石は「雨富検校」の墓石だそうです。
「雨富検校」の墓石
また、保己一の墓石の左側は一族の墓石が立ち並んでいます。3つ隣の墓石は保己一の四男、塙忠宝の墓が見て取れます。
一族の墓石
このように現在、保己一の墓所では一族や師匠に囲まれて静かに眠っているのです。

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