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はじめに

グライダー滑空場からホンの5~6分で到着です。
それ程広くは無い敷地ですが、敷地の右半分が「荻野吟子生誕の地史跡公園」で左半分には木造平屋の「荻野吟子記念館」があります。
5,6台止められる駐車場に車を止め、降りてまずは記念館に向かいます。
車から歩き始めると、公園で植木の作業でもされていた方が寄ってこられて、挨拶されたので挨拶を返しながら、「職人の方でも随分丁寧な人だなあ」と思いながら記念館に向かうと、ずっと一緒に記念館に付いて来られました。
荻野吟子記念館
記念館に入るといきなりその職人の方が、記念館の照明を付けていました。
エーーー、記念館の館長だったのですね。お姿から想像するにてっきり職人の方かと…、大変失礼いたしました。
「ゆっくり見ていってください」といわれて反対側の休憩室の方へ向かわれました。
私たちはそのまま、記念館の展示室に入り見学させていただきました。
この記念館は荻野吟子女史の生家の長屋門を模した、瓦葺屋根・漆喰一部下見板の和風建築で、平成18年5月1日にオープンしたそうです。

荻野吟子 荻野吟子女史については、記念館にあったパンフレットに判り易く解説されていますので、引用します。

関東平野を流れる大河 利根川 
その中流の辺 赤城山を眺望する 
風土が培った 根性と愛の物語

荻野吟子女史は、江戸時代末期の嘉永4年(1851)3月3日、武蔵国幡羅群俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)に生まれ、幼少から聡明にして学問を好みます。
18歳の時近郷の大名主と結婚しますが、不慮の病気を理由に離婚,婦人科治療を受けた経験から女性医師の必要性を痛感,自ら医師になることを決意します。
上京し、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)を卒業、有志の尽力を得て女人禁制を誇りとする私立医学校”好寿院”に入学、抜群の成績で卒業します。
当時、女性に医術開業試験の受験は認められず、女性が医師になる道は全く閉ざされていましたが、荻野吟子女史は持ち前の根性で制度改正に奔走、多くの師友の協力により、ようやく受験の運びとなります。
明治18年(1885)第1回医術開業試験に女性として初めて合格”日本公許登録女医第1号”の偉業を見事に達成、本郷湯島三組町に荻野医院を開業、医療に力を尽くします。
再婚後、理想郷建設をめざす夫とともに北海道今金町に渡り、後に瀬棚町に移り医院を開業、開拓民の医療に従事します。 医師としての一方、医療・婦人解放運動の先駆者として活躍、女性の地位向上や衛生知識の普及に大きな貢献をしました。
夫の病没を機に東京へ戻り、本所区小梅町に医院を開業、大正2年(1913)6月23日、病気により63歳で永眠、栄光と波乱に満ちた生涯を閉じました。
(パンフレットより)

前述した”楠本イネ”はシーボルトの娘で「オランダおいね」としても有名ですが、イネが2歳の時にシーボルトが国外追放となったのですが、その後、シーボルトの門下生の二宮敬作や石井宗謙らから医学を、そして大村益次郎からオランダ語を学びました。その後再来日したシーボルトから西洋医学を学び医師としての道を進みます。
楠本イネは生涯独身ながら、恩師の石井宗謙から半レイプ的な扱いで子供を残すのですが、この時のことから産婦人科を志したそうです。
明治4年(1871)に東京で開業するのですが、明治8年(1875)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったため、東京の医院を閉鎖、郷里・長崎に帰郷しました。
その後、上記のとおり明治18年(1885)医術開業試験の門戸が女性にも開かれるのですが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、以後は産婆として開業したそうです。
荻野吟子の場合も前夫から淋病をうつされて離婚、治療となったそうで、やはりイネと同じように女性には女性の医師が必要だとの体験から来ているのは偶然ではないでしょう。
そして、もしイネが試験を受けていれば、そこで出たったのかもしれませんし、また、両方とも合格していたならどちらが第1号なんでしょうか。歴史の面白さが現れていると思います。

展示室は荻野吟子の生涯を主軸に、それに関する説明や資料が展示されています。
荻野吟子記念館
中央には、舞台の時の衣装が飾られており、当時の写真そのままが目を見張らせます。
荻野吟子記念館
さて、この「命燃えて」の舞台について興味深い記事があったので引用します。

去る(注:平成12年)2月4日から12日間にわたって、荻野吟子の生涯を描いた「命燃えて」が上演されました。この上演に当たっては、財政の厳しい折、埼玉公演に向けて約1億円が予算化されておりましたので、県民の尊い税金で公演するのであるから、赤字を出すなよと担当者を叱咤激励いたしました。その後、知事をはじめ職員が一丸となって広報を展開し、切符販売にも努力して、赤字は出さないようにと頑張ったため、予約状況も良いという話を聞きましたので、私もその場で予約をいたしました。
2月10日、私は、家内と友人を誘い埼玉会館に出かけましたところ、会場は満席でありました。荻野吟子が日本女性として数々の障害を乗り越え女医1号になる過程の親子愛、兄弟愛、友情、吟子の根性と三田佳子の熱演に、高校生はじめ、老若男女の観客が涙ぐみ、感動しておりました。
公演の結果を聞いてみると、観客動員数は、高校生2,542人を含めて総計14,888人、入場率で94.95パーセント、売上金額8,002万円で、松竹への委託料や「命燃えて」の総経費等を差し引いても、県の主催事業としては開びゃく以来の収支率であったそうです。
この大成功は、県立芸術劇場やその他で行う自主事業でも、やればできるという確信と勇気を与えたと思います。県民の一人として、担当職員の努力に惜しみない拍手と感謝をさせていただきます。
(埼玉県議会定例会より)

これは平成12年2月、埼玉県議会定例会での渡辺利昭議員の一般質問です。(注:現在の渡辺利昭議員の消息はわかりません)
個人的には、この公演があったことは全く知りませんでした。いつもの如くのモノ知らずですが。
それ程告知されたわけでもなさそうなのですが、1億円も予算計上したとなれば、滅多なことでは赤字になど出来ませんからね。
そして蓋を開ければ、開びゃく以来…、とまで言われる収支という成功裡に終わったようです。それにしても、それ程告知がされた様子も無い中で、公演を成功させるのはかなりのパワーが必要です。県庁職員含めて関係者一丸となったローラー作戦でのチケット販売、などなどの努力をされたのでしょう。
しかし、一方では、仕方なくまとめて購入させられた企業が必ずあることは、業界では当たり前のことで、一応こういった業界の隅っこにいる私でも知っている話です。そういった陰の努力も当然あって然りです。
ともあれ公演の成功と埼玉県のイメージアップに繋がれば御の字でしょう。
因みに、この後の答弁でこの公演内容に関する質疑応答があり、こちらも興味深いので続きを掲載しておきます。

質問

(前略・続き)
 しかし、私は、この上演を見ながら大きな疑問が沸き上がりました。
 まず、第2幕に入って、インマヌエルの開拓現場と山小屋での場面で、おや、おかしいなと思いました。続いて第3幕となり、「おう、内地から出稼ぎの連中、酒盛りのあとは、メノコだろうがなんだろうが、このアイヌの女どもはより取り見取りだ、どこへなりともひっかついで思う存分に楽しめ。」この台詞は、要するに、吟子が開業した瀬棚町の先人であり日本人の先人がアイヌの女性を慰みものにしたという場面であります。この場面に直面して、私は、今までの舞台に感動していただけに頭から汚物をかけられたような気持ちになり、強い憤りから、思わず席を蹴って退出しました。吟子の感動的な生き方を描きながら、なぜこんな不愉快な場面を挿入するのだろうか、そう感じたのです。観客を心から感動させておいて、いかにも我々日本人の先祖や瀬棚町の先人がアイヌの人たちを虐待し、非人間的な扱いをしたかのように誤解をさせる描き方をするりと差し込んだのです。これこそ反日運動家のよくやる手口なのであります。翌日は、原作である渡辺淳一の「花埋み」を読んでみましたが、どこを捜してもそういう記述はありませんでした。
 確かに、舞台のシナリオはそれを作る人の自由でしょうが、瀬棚町の皆様にすれば、先祖が非人間的な行為をしたように取られ、この上ない不名誉なことであり、恥をかかされたことになります。名誉を重んじる武士の時代ならば、祖先がいわれのないことで名誉を傷つけられれば、名誉を守るために果たし合いになったであろうと思ったところです。

 そこで、私は、2月25日瀬棚町役場を訪ね、企画調整課長、社会教育課課長補佐にお会いをし、話を聞いてまいりました。
 荻野吟子は、明治30年から10年間瀬棚町に住み、医療活動などに携わりました。そのため、町では顕彰碑や医院跡碑を建立し、郷土館には、女史の遺品や資料などが常設展示をされており、町おこしの一環として特産純米酒の「吟子物語」や「吟子のロマン」と名付けられたアイスクリームが販売されておりました。また、荻野吟子記念病院や吟子の里づくりも計画中だそうであります。
 それらを見聞きしてきて、吟子は今でも瀬棚町の人々の心にしっかりと生き続けているのだなと感じた次第であります。第3幕で演じられたような歴史的な事実はないというのが社会教育課の調査結果であり、職員の方も非常に憤慨をされておりました。さらに、もしこの公演を地元でやるとしたら、絶対に第3幕は変えてもらわなければ上演はさせないとも述べておられました。これが私が現地に行っての調査結果です。
 親が子を思い、子は親を思う、これは親子の情であります。人間としてこれを守るのが人の道であります。親が子供の恥をさらすわけがなく、また、子供は親の恥や先祖を悪く言わないのが人の道であります。
 たとえ悪意はないにしても、日本の先祖を自虐的に表現されている演劇を主催して、吟子を愛する瀬棚町や瀬棚町民の名誉や心情を傷つけてしまったことは事実であります。埼玉県がこの上演を主催したことは大きな問題を引き起こしたものと考えざるを得ないのです。

 そこで、文化行政を所管する齋賀副知事にお伺いいたします。
 事実でないことでもし齋賀副知事の祖先の名誉が傷つけれらたとしたら、どういうお気持ちになりますか。歴史的事実に基づかないことで瀬棚町の名誉を傷つけ、反日的で自虐的な脚本で純粋な高校生の心にも傷をつけてしまった演劇に対して、副知事の率直な評価と感想をお伺いいたします。今後、県が主催する事業については内容を慎重に精査するよう求めます。
 さらに、社会に悪影響を及ぼすような事業は二度と主催しないでください。その決意についてお伺いいたします。

回答

齋賀 富美子副知事
命燃えての舞台公演は、数々の障害を乗り越え日本における女医第1号となりました本県出身の荻野吟子女史の波乱に満ちた生涯を題材としており、その情熱を失わない前向きな生き方を県民の皆様に知っていただくため、実施したものございます。お陰をもちまして、12日間の公演のチケットも完売することができ、多くの県民の皆様から、大変感動したとの感想をいただいております。
 まず、事実でないことで祖先の名誉が傷つけられた場合の私の気持ちについてのお尋ねでございますが、私も、親をはじめ、祖先を大切に考えております。したがいまして、祖先の名誉を傷つけないように努力をするのは当然でございますし、傷つけられるようなことがあれば抗議するのも当然であると考えております。

 次に、歴史的事実に基づかないことで瀬棚町の名誉を傷つけ、高校生の心も傷つけたとのことでございますが、私は、アイヌの人々が差別され貧困を余儀なくされていたことは、残念ながら事実であると認識しております。だからといって、そのことをいかに表現してもよいというわけではございません。演劇等におきまして、脚本家の立場として、分かりやすい、また感動を与える場面を設定するために様々な工夫をすることは多々あると考えますが、歴史を踏まえての場面設定である場合は、祖先の名誉を含め配慮されてしかるべきこともあろうかと存じます。御指摘の場面につきましては、高校生の中にも、あるいは不愉快な印象を持たれた方もいるかもしれませんが、私はむしろ、アイヌの人々に対する差別や偏見に立ち向かい、救いの手を差し伸べる吟子女史の優しさと情熱に強く感動いたしました。

 次に、今後県が主催する事業については、内容を慎重に精査し、社会に悪影響を与えるような事業は主催しないこととの御指摘についてでございますが、舞台公演では、先ほども申し上げましたように、ある程度の脚色がなされることがありますが、事実を必要以上に変えて誤解を与えるようなことは避けるべきと考えております。今後、御指摘の趣旨を十分に踏まえながら、偉人や伝統芸能など、県内各地域の文化資源を生かした特色ある彩の国文化の創造に向けて積極的に取り組み、知事が目指す彩り豊かな文化の薫り高い彩の国づくりに努力してまいりますので、御理解を賜りたいと存じます。

記念館を出て史跡公園に向かいます、といっても隣ですが。
その前に気になる幟が立っています。幟には”川の駅”と書かれています。”川の駅”とは、一体?
ということでこれもパンフレットに説明があります。

川の駅とは・・・
川の駅の定義・説明
「川の駅」とは、川の近くにある、もしくは川の活動に関係した施設で、地域住民や来訪者にトイレや休憩の場所を提供するとともに、来訪者が求める地域の情報を提供する機能を備え人と人の出会いと交流を促進する空間施設である。
川は長い距離空間を持っており、川の上・中・下流の駅同士は、お互いに協力・連携することが重要であり、そのために川の駅が拠点となり、<川及び川辺を活用した多様なまちつくり活動><防災活動><市民活動(コミュニティ形成活動)>などを促進する場所」である。
〔1〕概ね次のものがあれば「川の駅」になれると考えています。
①トイレ・休憩 ②看板・誘導板 ③駅長・案内人 ④情報の受発信
〔2〕「川の駅」の設置条件は、緩やかに決めてあります。あまりガチガチに決めてしまうと、それぞれの「川の駅」の個性を失う危険性があるからです。
〔3〕新たな施設を整備するのではなく、既存の施設の一部スペースを活用して各種情報を置いたり、休憩スペースを設けています。
〔4〕「川の駅」同士の連携意識
川の上流・中流・下流の人が、連携をすすめるためには、川の駅の運営者同士が協力連携のための行動をすることが重要です。そのためには、川の駅の運営者同士が協力・連携する意思を持っていることが不可欠です。
〔5〕船着場について
「川に駅」には船着場があることが理想的です。しかしながら、船着場の設置は簡単に出来ることではありませんので、必ずしも無くてもいいと考えます。
川沿いの船着場に関する情報を持っていることは必要です。
問い合わせ先:地域交流センター企画

まあ、あまり厳しい規則は作らずにまずは皆さん参加しましょう、というところでしょうか。
問い合わせにある地域交流センター企画とは、”NPO法人地域交流センター”という正式名称の特定非営利活動法人です。
これから徐々に全国的に広がって、我々訪問者にとってありがたい施設となれば、それこそありがたい話です。

参考:【NPO法人 地域交流センター】 http://www.jrec.or.jp/jrec/

そして最後に「荻野吟子生誕の地史跡公園」を見て回りました。
荻野吟子生誕之地史跡公園と銅像 荻野吟子生誕之地史跡公園と銅像
”生誕の地碑”と”荻野吟子銅像”が整備された中で配置されています。横に説明板があります。

熊谷市指定文化財
1.種別 史跡
1.名称 荻野吟子生誕之地
1.指定年月日 昭和四十六年十一月三日
日本女医第一号の荻野吟子は嘉永四年(1851)三月三日幡羅郡俵瀬村の名主荻野綾三郎の五女として、この地に誕生した。幼くして妻沼両宣塾の松本万年に師事し優れた才能を開花させた。
十八歳で結婚後病により離婚、女医の必要性痛感幾多の困難を経て明治十八年(1885)開業試験に合格しわが国最初の女医となり、湯島に開業した。
その後、キリスト教に入信し医業とともに婦人運動に参画し、明治二十九年(1896)渡道、瀬棚町で医院を開業するが夫の死去により、明治四十一年(1908)帰京。
大正二年(1913)その生涯を閉じた。
熊谷市教育委員会 荻野吟子史跡保存会
(現地案内板説明文より)

説明板の奥には東屋があり、東屋の中に吟子の写真や資料が若干設置されているので、かつては記念館が出来るまでは、ここが展示兼休憩所だったのでしょうね。
荻野吟子生誕之地史跡公園
東屋の周りには”吟子さくら”と呼んでいる桜の木が数本あります。
吟子さくら
これは河津桜で、荻野吟子の誕生日が3月3日でその頃に咲くサクラということで「吟子桜」と親しまれているようですが、もう散ってしまったのでしょうか。花びらは1枚もありませんでした。
そのかわり、公園裏の利根川堤には満開の菜の花が咲き誇っています。
公園の裏の菜の花
吟子の生まれた時代にも、この菜の花が咲いていたのでしょうか。

埼玉県民でありながら、恥ずかしくも初めて聞いた「荻野吟子」女史ですが、こういった機会で知ることが出来ました。
記念館での内容の様に、様々な痛みや悲しみのなかで根性と努力で勝ち取ったある種の栄光は素晴らしいことだと思います。そして現在、その業績を顕彰することはとても良いことです。
だが、現実問題として栄光を勝ち取った後の現実をどう考えるかは、現代人の我々にも耳の痛い話ではないのでしょうか。

開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、当時は中産階級以下の者は医者にかかることなく祈祷師や民間療法に頼る時代で、また保険医療もなく、たとえ患者として受診した者に対しても、高額になる医療費を全ての者に全部支払ってもらうことなど出来ない時代であった。その上、女性医師は信頼できないという者が多く、医業では成功しなかったとされる。

勿論、埼玉県として誇るにふさわしい偉人だと思います。だからこそ多くの県民にも知ってもらい、また県外の人にも認知してもらうための活動としては結構なことだと思います。

参考:【せたな町OS】http://www.town.setana.lg.jp/modules/tinycontents/index.php?id=40

こうして【妻沼聖天堂】【日本一のグライダー滑空場】、そして「荻野吟子生誕之地公園」を巡り終わり、最後に訪れたのが 蕎麦処「藍」です。

ここは聖天堂の方に戻った方面の”中奈良”という住所にあるお店です。
蕎麦「藍」
埼玉そば75選に入っているので訪れる予定でした。
昼頃”聖天寿し”を味見した関係で、今まで特に空腹ではなかったのですが、さすがにPM2:00を過ぎると空腹感が訪れました。そして2:30少し前くらいでしょうか、この店に到着しました。
まだ、新しいのでしょうかシンプルながら綺麗な建物です。
蕎麦「藍」
中に入るとまるで中庭のような通路があり、正面には蕎麦を打つ部屋がガラス張りで見えます。中々の風情と演出で凝らされています。
そして戸を開ると奥に座敷が、手前にテーブル席があります。それぞれ15~6人づつかけられるでしょうか。
蕎麦「藍」
店舗としては大きい方ですね。
座敷には過ぎたとはいえ、つるし雛と着物の置物で演出され綺麗な和室ともに、落ち着いた感じです。
蕎麦「藍」
テーブル席にも富士山でしょうか、多少デフォルメしたイラストタッチの額がかかげられ、こちらは和洋折衷の感じが良い雰囲気です。
もう2:30頃でしたので、他にお客はいませんでした。
早速オーダーをしました。
今回は「二種変わり」を家内共々たのみました。極端に空腹でもないので「桜海老かき揚げ」を単品で、そして「そば団子のぜんざい」を1品食後にお願いしました。
生桜海老を食べたかったのですが、まだ入荷していないとのことで残念でした。因みに生桜海老は伊豆半島の西伊豆しかないので、中々東京や関東には廻らないのだそうです。会社の部下がそう言ってました。
そうこうしているうちに3~4人のお客が入っていました。こんな時間でもやはり人気があるのですね。

それ程またされもせずにかき揚げと蕎麦がやってきました。
「二種変わり」の一つ目は”せいろ”です。十割蕎麦だそうです。
二種変わり「せいろ」 《二種変わり「せいろ」》
細麺ながらしっかりしたコシがあるので、実に食感がいいです。汁は私にしては辛口ですが、薬味の辛口大根おろしが実にパンチが効いていて相乗効果をあげています。ピリッとした中にそば粉の香りは七味とはまた違った美味しさです。
桜海老のから揚げは、軽い上げでサクサクと実に歯ごたえがいいです。
油っぽくなく実にサッパリしているのですが、若干私にはサッパリしすぎで、荒塩では若干物足らないので汁につけて食べるといい感じでした。
桜海老かき揚げ 《桜海老かき揚げ》
「二種変わり」のニつ目は”レモン切り”です。
蕎麦は二割繋ぎだそうですが、レモンとは生まれて初めてです。
二種変わり「レモン切り」 《二種変わり「レモン切り」》
愛媛産の有機栽培レモンを使用しているそうです。
まずは香りをと、まさしくレモンです。実に爽やかな蕎麦です。
食べてみると”せいろ”とはまた違った感触のコシです。”せいろ”は始めやわらかく、それから強烈な粘り腰的なコシに比べて、始めやわらかいのですが、ピンと張り詰めた強靭な腰という感じです。 ちょっとの違いが実に面白いです。
味の方はというと、ちょっと難しい組み合わせです。先に入れた薬味のおろし大根がどうしても立ってしまうのですね。強烈な辛味のなかでは、折角のレモンの爽やかさが上手く伝わらないという感じです。
大根が無ければまた違った感じで美味しいかもしれませんが、所詮素人で評論家ではないので、汁をまた別に戴いて・・・などとあつかましいことは出来ません。
ま、特に不味い訳ではありませんので、レモンの風味はしっかり堪能できました。

最後に「そば団子ぜんざい」。
そば団子ぜんざい
家内のデザートとして1つ頼んで味見だけしました。
これはかなり美味。そば団子の香りと味が小豆と実にマッチしています。さらにぜんざいに塩が加味されているので、意外とサッパリ。
そばの渋みとぜんざいの甘さ、そして隠し味の塩、久々のハーモニーでしょうか。結構甘いのもダメな人もいけるかもしれませんね。
今回は実に満足してお店を後にしました。
若いご夫婦でなさっているお店ですが、味、接客、風情、それぞれが生かされているお店です。
多分どなたが行っても満足されるタイプのお店でしょう。

こうして妻沼めぐりがすべて終了しました。
来年はグライダーフェスタを見て、再来年は聖天堂本殿を是非見たいものです。

2009.3.27記

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