大凧会館

宝珠花神社境内の裏門から戻ると目の前が江戸川土手です。
ちょうど富士塚から見えた大凧がブルーシートがかぶせられ、事件現場のように保持されています。
ブルーシートに包まれた大凧
隙間から覗くと確かに大凧です。この大きさを目の当たりにすると、さすがに驚嘆せざるを得ません。
河川敷に陣取っている家族の下に戻ると、今日のスケジュールが変更となって12:30から小凧あげ、13:00から大凧飛楊の予定に繰り上がったことを知らされました。
やはり天候の問題で、この日は確実に午後からは雨が降り出すようなので、その前に終わらせようというところでしょうか。
現在11:30ころで、ポツリポツリと時折降り始めていますので、大会本部としては適切な判断でしょう
とはいっても大凧飛楊までは1時間以上も時間があります。ボケッーっとよく見えない凧を見ていても仕方がないですし、GWと言いながら結構気温も下がっていることもあり、折角なので近くの大凧会館へ行くことにしました。
肌寒く若干のどの渇きもあってちょうど休憩にも良いだろうと向かいました。ゆっくり歩いても10分も掛からないところです。
間際に親戚と遭遇。親戚は庄和の隣の杉戸町に在住しているので割りと近くで、毎年のように見に来てるようです。
とりあえず一旦別れて大凧会館に向かいます。

広い敷地に随分と立派な建物です。
立派な大凧会館
もう少し貧弱なものを想像していましたが、なんとも立派なものです。
さすがに文化財に関する資料館として恥ずかしくはない体裁です。資料館一つないどこぞの市より遥かに恵まれた環境です。
会館の前ではフリマ?でしょうか、地域住民によって物販がされています。
会館に入って入館料の300円を支払います。
チケット
ちょうどチケットの裏面に大凧会館の目的が書かれています。

大凧会館
-5つの目的を持っています-
1.大凧(縦15m、横11m、重さ800Kg)が4張展示してあります。
2.世界の凧・日本の凧(約450点)が展示してあります。
3.大凧あげまつり(5月3日・5日)の映画が観賞でき、祭りの臨場感があじわえます。
4.会館では、手作り凧の体験ができ、江戸川堤にて凧あげができます。
5.庄和地域から出土した遺物・農具・民具などを展示し、歴史を知ることができます。
(チケットより)

多目的資料館といったところでしょうか。
それでは何はさて置き最初に目指すは…、トイレです。朝から1度も行ってませんでしたし。
エントランスホールのギャラリーには凧が展示されています。
エントランス
形の変わった凧などプロローグとしての展示でしょうか。
1階の凧展示ホールに入ります。目に前に大凧が現れました。
大凧4張 大凧4張
ホールの左側から「飛翔」、「庄和」、「大凧」、「彩の国」という4張の大凧が掲げられていました。かつて使用された本物の大凧です。
見るものを圧倒する大凧4張に驚愕されます。ある意味ではホール自体が大凧に合わせて作られた大きさであるといっても過言ではないでしょう。まざまざと百畳敷の大きさを実感します。
パンフレットに大凧の歴史や由来が書かれています。

さわやかな薫風にのって大空に舞上がる  日本一の大凧
歴史
庄和の大凧あげ祭りは埼玉を代表する観光行事で、期日は毎年5月3日と5日、場所は西宝珠花地先江戸川河川敷広場で行われます。凧の大きさは縦15m、横11m、重さ800Kgで、赤は太陽を、緑は大地を表現しており、江戸時代後期より伝わる伝統行事です。その巨大な凧を称して”百畳敷の大凧”と呼ばれ、大きさ、伝統ともに各地の大凧あげ行事の中では日本一を誇ります。祭りの主役は地元大凧文化保存会の若衆たち、彼らは白地に赤と緑で染めた揃いの半てんに鉢巻き姿のいでたちで、軽やかな鈴の音が聞こえると,勇ましい掛け声とともに一斉に綱を引っ張り,大凧をあげます。
(パンフレットより)

江戸時代後期から伝わる伝統行事ですから、当然のように文化財となっているようです。
正式には「関東の大凧揚げ習俗」として国選択無形民俗文化財に指定されていて、全国的にも大凧の習慣は多いようで、このほかにも3件が登録されています。
●東海地方の大凧揚げ習俗(静岡,愛知) ●近江八日市の大凧揚げ習俗(滋賀県) ●山陰の大凧揚げ習俗(鳥取,島根)
そこで「関東の大凧揚げ習俗」の国選択無形民俗文化財としての指定内容を見てみます。

名称: 関東の大凧揚げ習俗
種別1: 風俗習慣
選択年月日: 1991.02.02(平成3.02.02)
都道府県(列記): 埼玉,千葉,神奈川
代表都道府県: 埼玉県
備考: 所在地が二都道府県以上にわたるもの

解説文: 凧は、東アジアおよび東南アジアに伝播の中心をもつ遊具とされ、世界の各地に広く分布している。しかし凧は単なる遊具にとどまらず、それぞれの地域の伝統的な行事や生活習俗の中で重要な位置を占めている。
我が国の凧揚げの習俗は江戸時代の中期以降に広く盛行し、正月の風物詩として親しまれてきたが、各地には正月以外の季節に凧揚げをする例が多く、むしろこのほうが本来の姿ではなかったかと考えられる。このなかで、五月の端午の節供に子どもの初誕生を祝って大きな凧を揚げる習俗が、我が国の各地に見られる。この習俗は子どもの成長祈願を主とするものであるが、同時にいわゆる凧合戦と呼ばれる競技の要素を伴うことでも知られている。
関東地方では、埼玉県や千葉県、神奈川県の一部に、五月五日に大凧を揚げる習俗が見られる。このなかでも、埼玉県東北部の江戸川に沿った一帯や神奈川県の相模川流域に、現在も大凧を揚げる習俗が残っており、また千葉県の上総地方では、このときに揚げられる上総トンビや長岡トンビと呼ばれるこの地方独特の大きな袖凧が現在も作られている。
これらの地域は伝統的な習俗と共に地域的な特色をも豊富に残しており、これらを含めて大凧揚げの習俗や製作技術等について記録保存の措置を講ずるものである。
(文化財オンラインより)

やはり凧あげは正月だけの風物詩ではなく、全国的にも端午の節句に大凧をあげる風習があったということです。最初は子供の成長を願う行事が徐々に形を変えて競技性の強いものに変化したというのも全国同じようです。
しかしながら、現在のように凧あげ自体が衰退し始めていることから、かつての歴史や伝統を伝承していこうと、官民一体の取り組みがなされているのです。
その代表的な一つが関東の大凧上げで、更に関東でも代表的な例がこの庄和の大凧あげ祭りであるということになるわけです。
因みに千葉はわかりませんが、神奈川県には「相模の大凧」というものがあるようで、いずれにしても大凧は各地の凧揚げ風習のシンボルといった意味合いなのでしょう。

参考:【相模の大凧】 http://www.sagami-oodako.com/

そこでもう少しこの庄和の「大凧あげ祭り」の由来を掘り下げてみますと、パンフレットに以下のように解説されていました。

「大凧あげ祭り」の由来
大凧に関する史料の初出は小流寺の過去帳である。この過去帳によれば、天保12年(1841年)9月11日に出羽の国の僧「浄信」が、各地巡礼の折小流寺に宿泊し、土地の人々を集めて養蚕の豊作占いとして凧あげを伝えたことが記されている。人々は喜び合って、その翌年より繭の収穫時期に凧を揚げるようになったと伝えられている。
当時の流通手段は、舟運が主流であり、東北地方や関東一円から江戸(東京)への舟運交通として江戸川が大きな役割を果たしていた。その舟運の要所として、宝珠花は大いに賑わい、この地方の文化経済の中心として繁栄していた。
そこで人寄せのため、繭の収穫前に行っていた凧あげを旧5月の端午節句に男子出生のお祝いとして行うようになった。各戸で子供の名前や紋章を書いた凧を作り,凧あげ祭りを行うようになった。一部において、凧合戦も行われたようである。各戸で揚げていた凧が、いつの頃からか共同で揚げるようになり、凧の大きさも徐々に大きくなり、明治の初期には現在の半分の大きさに、明治中頃には現在の大きさになったと伝えられている。これまで、戦争や河川改修による宝珠花の移転等で中止された年もあったが、大凧の歴史と伝統は、多くの人々によって継承されこの地に息づいている。
(パンフレットより)

今まで各地で様々な縁起や由来を見てきましたが、古の人々にとっての最大の願いことは「疫病退散」と「万年豊作」の様な気がします。この大凧もやはり元は豊作祈願なんですね。
そしていつしかそれが人寄せ、現在で言うところのPRのためのイベントとして発展したということでしょう。
埼玉県でも私の住む上尾市や、今まで散策した北本市や草加市などにもあった「○○河岸」は、一つの町の発展の中心となっていて、ここ宝珠花も同じ発展形態を持ってきたことが、海無し県である埼玉県の一つの発展経過であることが良くわかり、そこで花開いた文化であることに興味深さを覚えます。

この展示ホールは大凧だけではありません。
凧ワールド
日本だけでなく世界の凧も所狭しと展示されています。
まさに“凧ワールド”とでもいえる展示ですが、特にショーケースに入っている年代物のような凧に目が惹かれます。
1つは「壇の浦の合戦」と言うタイトルの凧です。
「壇の浦の合戦」

壇の浦の合戦
凧の大きさ 約 縦3mx横2m
この凧は、「東京兜町の絹凧」といわれ、和紙の張った上をさらに絹の布で覆うという、一般的に他に例をみない非常に豪華な作りです。竹の骨は、漆塗り。ネジ止めの縦骨は着脱できるようになっているので、凧は巻物のようにして持ち運び出来る仕組み。また、骨の端々には、飾り金具がおごられているという具合です。
「戦前の大凧あげ祭りのとき、兜町から絹凧を持ってきて揚げ、帰りに宝珠花に置いていってくれたもの。」と言っています。
実際に下若組の記録帳には、「当日は、兜町よりタクシー貸切などにて数十台/東京方面より3万余の人出あり/上町・下町内は割れんばかりの騒ぎなり」と記述があります。
(現地キャプションより)

2つめは「森蘭丸と武者?」とあります。
「森蘭丸と武者?」

森蘭丸と武者?
凧の大きさ 約 縦2.4mx横1.6m
この凧は、「壇の浦の合戦」と同じく「東京兜町の絹凧」といわれ、和紙の張った上をさらに絹の布で覆う手法で非常に豪華な作りです。
この2張の凧の由来については、「東京兜町凧揚げ会」の会員百数十名が、昭和10年6月2日(第1日曜日)の江戸川堤防上で「大凧飛揚大会」に参加したと、当時の読売新聞に掲載されています。翌11年にも参加している。「東京兜町凧揚げ会」の実態については不詳である。
この「東京兜町凧揚げ会」の関係者所有と思われる絹凧2張については、空襲が激しくなり始めた頃、西宝珠花に疎開していてその後、保存会が頂いたとの説と、戦前の「大凧飛揚大会」に参加した帰りに置いて行ったとの説がある。現在、ここに展示しているものです。
(現地キャプションより)

年代物というよりは、古くもあるが非常に高価な珍しい大凧であるということのようです。
それにしても兜町の凧揚げとは、相場の高騰のげん担ぎで大凧揚げなんでしょうか。100人以上の会員がいるのですからそれもまたすごいことです。
それにもまして現在ここに存在する理由がまた面白いです。 まあ、当時としても高価だったのでしょうが、さすが兜町、金に糸目も付けずに凧を作るところなどはバブルさながらです。
兜町からタクシーですから、今ならいくらか掛かるでしょうかね。たしかに当時の庄和町の人々なら大騒ぎでしょう。
戦争のドサクサで凧どころではなかったのか、あるいは太っ腹だったのか、いずれにしても何気に置いて行ってしまったのでしょう。
実に適当な、そしてなんとも豪気な話です。

この豪華な2張の「東京兜町の絹凧」の間に、歴代(抜粋された)の大凧の名前一覧の凧が展示されています。
歴代大凧メーミング展示
少し興味深いネーミングをピックアップしてみます。

・明治41年・・・上大凧:上若、下大凧:忠孝 “最初の大凧のネーミングです”
・大正14年・・・上大凧:奉祝、下大凧:祝賀 “皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のご成婚だと思われるが、実際は大正13年の1月にご成婚されている”
・昭和02年・・・上大凧:改元、下大凧:昭和 “云うまでもなく昭和のはじまり”
・昭和15年・・・上大凧:八絋、下大凧:一宇、上小凧:― 、下小凧:軍勝 “戦時色が濃くなった頃”
・昭和22年・・・上大凧:民主、下大凧:平和 “終戦後の第1回目大会”
・昭和31年・・・上大凧:文化、下大凧:日本一、上小凧:国家、下小凧:庄宝 “特に深い意味はなく私の生まれた年”
・昭和34年・・・上大凧:成婚、下大凧:慶祝、上小凧:寿、下小凧:(寿) “日本中が注目した皇太子(現在の今上天皇)と美智子妃(現在の皇后)のご成婚”
・昭和35年・・・上大凧:皇孫、下大凧:宝寿、上小凧:誕生、下小凧:万歳 “皇太子徳仁親王誕生”
・昭和42年・・・上大凧:歓迎、下大凧:国体 “埼玉県で最初の国体開催”
・平成01年・・・上大凧:文化、下大凧:国民、上小凧:平成、下小凧:元年 “文字通り平成元年”
・平成05年・・・上大凧:祝福殿下、下大凧:彩の国埼玉、上小凧:大切、下小凧:自然 “現皇太子と雅子妃ご成婚と埼玉で2回目の国体開催が重なった年”
・平成14年・・・上大凧:新宮、下大凧:誕生、上小凧:世界、下小凧:平和  “祝賀、愛子様を大凧に、そして世界同時テロの戒めを小凧に”

そして、本年選ばれたのがこちらです。
・平成21年・・・上大凧:活力、下大凧:地域、上小凧:親切、下小凧:真心
何につけても実に世相を反映したネーミングで、それだけでも歴史を感じることができます。

また、大凧製作の縮尺模型も置いてありました。
大凧製作の縮尺模型
大凧と人間の比率を比べると改めて大凧の大きさを実感できます。さらに大凧の製作過程も説明されています。

大凧の製作
1.小貼り・大貼り:半紙大の和紙を1500枚貼り合わせる。横に貼り合わせたものと縦に貼りあわせたものを交互に貼り、糊代を含めて16X12mの大きな凧紙を作る。
2.文字書き:凧紙にチョークで文字や線を引き色を塗る。赤は太陽、緑は大地を表現している。
3.骨巻き:1本1本の骨を製作すること。竹のしなやかさを生かし、骨の強度を増すために男竹と女竹を組み合わせてテープで巻きつけ骨を作る。
4.骨組み:骨を組んで凧の骨格を作る。縦15本・横17本を等間隔で結び、対角線上に親骨を結び、最後に菱形のマス骨を結び凧骨が完成。
5.紙貼り:骨組みされた凧骨と文字書きされた凧紙を貼り合わせる。回りの糊代部分(50cm)を貼り合わせ、中心部分は糸目で凧紙を通して骨を縛ることで凧紙が凧骨に合わせられる。
6.糸目とり:上若組166本、下若組122本の糸目を凧に結び約40m先の台に集められ、その日の天候を見極め中心を決めて、揚げ綱に結んで完成。揚げ綱は、長さ500mを用意。
(現地キャプションより)

揚げ綱の長さだけでも500mですから相当なものです。これをその年の1月から準備・製作されるそうです。

大凧の製作日程
1月:凧文字の一般公募(2月中旬まで)
2月:上旬-小貼り、下旬-凧文字の決定
3月:第1.2日曜日-大貼・骨巻き、第3.4日曜日-文字書き・骨巻き
4月:第1日曜日-大凧足場つくり、第2日曜日-小凧作り、第3日曜日-CM凧作り
(現地キャプションより)

日曜日だけで手弁当で製作するのでしょうから保存会の人たちや関係者の努力も半端ないでしょう。
そして3日の午前中には最後の仕上げの大凧の製作が河川敷で行われるのです。5日に行った私たちは残念ながらみることはできませんでした。

盛りだくさんの凧展示コーナーを出て2階の庄和地域歴史コーナーへ向かいます。
様々な出土品が展示されていますが、目をひいたのは板石塔婆でしょうか。
板石塔婆
不動堂の板石塔婆を初め市内の板石塔婆が展示されていました(レプリカですが)。
< さらに4階に上がると喫茶コーナーがあるのですが、大凧展示室を眺めることもできますし、河川敷を眺めることもできるよう、眺望の良い場所です。
宝珠花橋を望む
遠く井宝珠花橋を望むことができます。
こうして大凧会館を一渡り見学して12:00も少し過ぎた頃でしたので、河川敷にもどることにしました。
結構色々な知識をあられました。
いよいよ大凧あげ祭りの本番のようです。

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