七福神めぐり -大黒天- #1

いよいよ七福神めぐりの開始です。
もう既にAM11:00近くとなっています。少し気温は低いようですが、天候はよいことから気持ちよい散策が期待できそうです。

鬼子母神 

ここで江戸名所図会で描かれている鬼子母神の挿絵を見てみます。
江戸名所図会 鬼子母神
右下にある一の鳥居辺りが案内処のあるところでしょうか。
鳥居の右手に並んでいるのが“茶や”で、そこには「大門」と書かれており、参道の当時の賑わい振りを感じることができます。
江戸名所図会 鬼子母神 江戸名所図会 鬼子母神
江戸情緒を味わえる瞬間です。
そして参道は突き当たって左に曲がっていて、その先が二の鳥居のある「鬼子母神」となっています。
案内処を出ると現在でも同じように突き当たり、左に曲がると「鬼子母神」の境内となっていて、現在も江戸時代とほぼロケーションは変わっていないことが判ります。
境内入口には“初詣”と書かれた大きな札が正月風情を醸し出していますが、二の鳥居はすでに無いようです。
鬼子母神境内入口
境内に入って直ぐ左手に朱の鳥居が並んでおり、境内に彩を添えているかのようです。
朱の鳥居
右側には円柱の石碑があり、「百度石」と刻まれています。
百度石
恐らくお百度参りに関連するものであろうと思われますが、江戸名所図会にそれに関する記述があります。

百度参り
寄願あるもの、その社前を往返して百度参拝す。これを俗に百度詣りと号す。ある人云く、このことは当社鬼子母神をもつて権輿(はじめ)とす。そのゆゑは、十羅刹女を始めとし千人の御子にねぎたてまつる意にして、十と千との間を取り、百度詣りするといへり。千団子、千疋猿のたぐひ、みなこのゆゑなりとぞ。
(江戸名所図会より)

これによればお百度参りの発祥がこの鬼子母神であるということになるようです。
十羅刹女とは、仏教における10人の女性の鬼神のことで、日蓮は鬼子母神と十羅刹女を母子の関係としていることから、十羅刹女の10と、鬼子母神の子供1000の間を取って100とはいかにもでき過ぎの感は否めません。興味深い話ではあるのですが…。

境内の参道の石畳の両脇には一対の仁王像が置かれています。
仁王像
この仁王像は、二像の丈と幅が同寸といわれる珍しい形で、盛南山という寺の観音堂にあったものが寄進されたと伝えられているそうです。江戸名所図会にも記載があり、「石像二王尊:和田戸山盛南山といふ寺より、自証院殿(自昌院。前田綱紀の女、浅野吉長の室)ここにうつされしとなり」と記載されていますので、少なくとも2~300年は経過した仁王像なのです。
江戸名所図会の挿絵にも“石仁王”の記載があり、この仁王像の前に二の鳥居があったことになるのです。
江戸名所図会 仁王像 江戸名所図会 仁王像
そしてその左手に神木であるイチョウがあります。
雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
文化財でもあるイチョウの巨木です。

東京都指定天然記念物 雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
所在地:豊島区雑司ヶ谷3丁目15番20号 法明寺鬼子母神境内 指定:昭和31年8月21日
イチョウ(銀杏・公孫樹)は、一属一種のイチョウ科に属する、裸子植物の落葉高木である。耐寒耐暑性があり、寺社の境内樹・庭園樹・公園樹・街路樹などに広く植栽されている。中国原産といわれ日本へは、遣唐使の帰国によってもたらされたという説もある。雌雄異株で、4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し、黄葉する。
樹高30メートル、幹回8メートルの雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(1394~1428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」と言われ、戸張苗堅の「櫨楓」によると、婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは、文政年間(1818~29)の頃という。
平成2年12月27日 建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

イチョウは雌雄異株であることから、このように子宝祈願や縁結祈願などのご神木となっていたり、東京都の木を始めとした各地区の木としても指定され、紅葉とともに日本では非常に親しまれている樹木の一つです。
伝承から言えば約600年、文献として確認できてからでも約200年の樹齢を誇っているわけです。その上で樹勢も盛んであることは、根の周りに柵をして根元が踏みつけられないようにしてあるのも、樹勢を維持するひとつであるようです。
雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
ちなみに記載のある戸張苗堅とは、全くプロフィールは判りませんでした。

イチョウの先にもう一列朱の鳥居が並んでいます。
丁度、イチョウの木を“コ”の字型に鳥居が囲んでいることになります。
武芳稲荷堂
そしてこの鳥居には「武芳稲荷堂」の扁額が掲出されています。

武芳稲荷縁起
武芳稲荷と称したるは、何時の頃よりか不明なるも寺説によれば弘治年中(400年前)勧請の旦社にて、鬼子母神の地主の神なり。又、鎮座伝記には宇賀美多麻神(稲荷大明神)三狐の神と同座なりと、現在の尊像は貞亨3年卯月吉日開眼の銘あり。
開運出世の霊験あらたかにして万人の尊崇するところなり。
(現地案内板縁起より)

尊像開眼が1686年ですので、少なくとも300年の歴史を持っていることになります。
先の江戸名所図会の挿絵にも「いなり」と記載されており、「稲荷明神祠(堂前右の方にあり。天照太神宮と八幡太神宮とを相殿に合祭す。地主の神なり)」と図会では説明されています。
江戸名所図会 武芳稲荷堂 江戸名所図会 武芳稲荷堂
更に図会では「ひとつの草堂を営まんとて、往古より稲荷の社跡といひ伝へたる叢林を開き…」と記載されているように、もともと地主神としてこの稲荷社があり、ここを切り開いて鬼子母神を祀ったということになるわけです。したがって鬼子母神より歴史を持っている稲荷社といえるのです。

参道に戻って先に進むと左側には前述した「川口屋」あります。
上川口屋
江戸時代当時は飴屋だったようですが、現在は駄菓子屋になっています。流石に正月だけあって多くの参拝客が詰掛けています。
看板には「創業一七八一年 上川口屋」と書かれています。
上川口屋
江戸時代の川口屋なのでしょうが、何故に“上”をつけたのかが良く判りません。確かに江戸名所図会の挿絵内のキャプションにも「門前両側に酒肉店多し。飴をもてこの地の産とし、川口屋と称するものを本元とし、その屋号を称ふるもの、いと多し。」と記載されています。
さらに挿絵にも“あめや”と記載があるので、江戸時代から相当に有名だったのでしょう。
江戸名所図会 上川口屋 江戸名所図会 上川口屋
当時の飴は「ゆず飴」というものだったそうで、現在は材料の入手が困難なため昭和30年代に製造を止めてしまったのだそうです。是非こういったものも復活するとまた観光資源に一つとなるのでしょう。
このような200年以上の歴史を持つ飴屋(駄菓子屋)は日本でも最古クラスでしょう。現在の当主は13代目だそうで、定休日が雨・雪・台風などの日ということなので、訪れてみたい方は晴の日に行きましょう。
ちなみにこの上川口屋は、ジブリ作品の「おもひでぽろぽろ」に描かれた店のモデルだったそうです。
おもひでぽろぽろ 上川口屋 《写真:「マンガ、アニメ、のオススメ!~ガンダムさんのブログ~ 」より》

駄菓子屋とは参道を挟んで右側にあるのが「大黒堂」です。
大黒堂大黒堂
ここもまた大勢の七福神めぐりの方が詰掛けています。
ここでスタンプの朱印を自分で押していくシステムのようです。まずは最初の朱印をいただきました。
朱印
大黒堂の中には当然“大黒天”が祀られています(当然!)。
大黒天像
冒頭にもあったように、今回の七福神のうちこの鬼子母神の大黒天と清立院の毘沙門天だけが、古くから祀られていたのでそれなりの由緒はあるのでしょうが、特に江戸名所図会等での記載はありませんので、それとなく片隅に祀られていたといった程度のことかもしれません。そして今回の七福神創立時に、この大黒堂も建立されたのではないでしょうか。大黒堂の右並び文字が何となくわざとらしい雰囲気ですので。しかし、これから1年ずつ時を重ねて、いずれ歴史、伝統ある七福神めぐりとなるのでしょう。
更にこの大黒堂が新しいのは、堂宇の一画に「おせんだんご」なる売り場があることです。
おせんだんご
“名代”と書かれているので由緒のある団子屋のようです。

おせん団子の名前は、鬼子母神に千人の子供がいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるよにという願いに由来しています。江戸時代には参詣の人々が境内で休むとき、また鬼子母神詣での土産として親しまれました。
このたび、羽二重団子本舗澤野修一社長のご尽力によりおせん団子が復活しました。毎週日曜日と縁日(8日、18日、28日)鬼子母神境内の大黒堂でご用意しています。境内でお団子などいかがでしょうか。
(鬼子母神オフィシャルサイトより)

こちらも復活組ですね。まあ、羽二重団子ですから不味いわけは無いでしょうが、特別当時の味というわけでもなさそうです。
おせんだんご
ということで今回は見ただけで終わらせますが、それでも江戸の香りは漂ってきそうな大黒堂でした。
大黒天を参拝してから鬼子母神堂を参拝します。
鬼子母神堂参道 鬼子母神堂
社殿は彩色が薄くなってしまっていますが、その分歴史を感じさせ、見る者に素朴な親近感と、有無を言わせぬ圧倒的な存在感を示しているかのようです。

東京都指定有形文化財 法明寺鬼子母神堂
所在地:豊島区雑司ヶ谷3丁目15番20号 指定:昭和35年2月13日
「新編武蔵風土記稿」によると建立は天正6年(1578)5月3日であるが、そののち寛文4年(1664)松平安芸守光晟の室、法名自昌院英心日妙大姉が寄進して、今の本殿を造営した。
拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されたことが、昭和51年におこなわれた昭和大修理において発見された墨書や銘文によって確認されている。
本殿は桁行6.04メートル、梁間5.77メートル、一重、流造、桧皮葺形銅板葺。相の間は桁行6.06メートル、梁間6.04メートル、一重、両下造、とち葺形銅板葺。拝殿は桁行17.86メートル、梁間11.816メートル、一重、入母屋造。厨子は一間厨子、入母屋造、軒唐破風附本瓦形板葺。
平成2年12月27日建設 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

自昌院英心日妙大姉とは、加賀藩の第2代藩主・前田利常の三女・満姫のことです。父方の祖父が加賀藩主始祖のあの前田利家で、母は徳川秀忠の次女・珠姫ですから、母方の祖父が2代将軍徳川秀忠で祖母があの江となり、当然曽祖父が徳川家康という超セレブなのです。
寛永12(1635)年、徳川家光の養女として浅野光晟に嫁ぎ三男三女を儲けたそうです。日蓮宗に帰依し、浅野光晟が広島藩主であったことから、現在の広島県広島市の暁忍寺を国前寺と改名し本堂を建立し浅野家の菩提寺としたのだそうですが、そうなると何故に広島藩の自昌院が鬼子母神本殿を寄進したことになるのでしょうか。
もう少し由緒を遡ってみます。

鬼子母神堂の由来と歴史
当山におまつりする鬼子母神のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。
(中略)
日蓮聖人は御書のなかで「十羅刹女と申すは10人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母なり、鬼子母神これなり」と述べられ鬼子母神を重視されています。
もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが、法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。
(鬼子母神オフィシャルサイトより)

これで武芳稲荷との関連などの辻褄があうわけです。となると、やはり自昌院寄進は日蓮宗関係と考えるのが、一番筋道が立つようです。そこで法明寺の由来を確認しておきます。

由来と歴史
当山は嵯峨天皇の代の弘仁元年(西暦810年)、真言宗の旧跡で威光寺として開創されました。
『東鑑』第1巻に「武蔵国威光寺者。依為源家数代御祈祷所。院主僧増円相承之僧坊寺領。如元被奉免之」云々とあり、その古い歴史を物語っています。
後の正和元年(1312年)、宗祖日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。以来、伝灯48世、約700年の歴史を刻んできました。
その間、徳川3代将軍・家光公より御朱印を受け、代々将軍家の尊崇を受け、折りごとに多くの寄進を受けています。
24世日宏上人の代には、内大臣西園寺公晃卿より、緋紋白袈裟と乗輿等の寄進を受け、宗門弘通の道場として耳目を集めました。
近年に至り関東大震災で本堂が倒壊、46世一妙院日龍上人が昭和7年に再興しています。しかし昭和20年戦災により全山焼失、47世一味院日厚上人が昭和34年に本堂を再建、さらに昭和37年客殿庫裡を竣工しました。
昭和43年現山主一厚院日悠上人を中心に、鐘楼ならびに山門の復興も完了、ほぼ寺内の偉容を旧に復しました。
(法明寺オフィシャルサイトより)

やはり徳川3代将軍・家光公より御朱印を受け、代々将軍家の尊崇を受け、折りごとに多くの寄進を受けているとあるので、家光の養女として浅野家に嫁いだ満姫(自昌院)ですから、徳川家一族としての満姫の寄進があるのも極自然な流れであることが理解できるところです。
それにしても威光寺としては1200年、法明寺としても約700年の歴史を誇っているのですから、法明寺はまさに江戸の古刹といえるでしょう。このあと法明寺を散策するのが楽しみになってきましたが、ここでは一旦その辺りは置いといて、鬼子母神の由来にも随分と興味深いところがあるようです。尊像の縁起などは、浅草の浅草寺の観音像が隅田川から引き上げられた縁起と似たようなところがあります。
当然、同じような内容ですが、江戸名所図会の時代には「大行院」として記載されています。

縁起に云く、この本尊は永禄四年辛酉(1561)五月十六日、この地山本氏・田口氏なる者(その子孫いまなは連綿たり)池水に星の現ずるを見て、後その地を穿ち、鍬下にこれを得奉りしとなり(いま、護国寺の西にその出現の旧跡あり。星の清水と称す)。よつて東陽坊第五世日性師に贈る(東陽坊はいまの大行院のことなり)。すなはち仏殿に安じすゑて、十有余年を歴たり。しかるに安房国の沙門某(その名知るべからず)目性師に仕へけるが、いかに思ひけん、密かにこの霊像を盗み、故郷に帰るに(その年天正五年〔一五七七〕なり)、たちまち病を発し、一日みづから口ばしりていへらく、「われはもと武州雑司ケ谷にあり。かの地の衆生機縁すでに熟す。まさに済度すべきときを得て泥土より出現せしを、ここに移すことわが意にあらず。すぐにもとの地に帰すべし」となり。ときに村人おほいに怖れ畏み、再び東陽坊に遷し奉る。よつて諸人霊威なることを知つて、ひとつの草堂を営まんとて、往古より稲荷の社跡といひ伝へたる叢林を開き、つひに天正六年戊寅(1578)四月十日にはじめて斧を下し、同五月朔日経営落成し、ここに安置す。その後寛文六年(1666)に至り、自昌院殿新たに宝殿を造立せらる(いまの本殿これなり。白昌院殿は加州黄門の息女にして、安芸の大守の令室なり)。
(江戸名所図会より)

更に「大行院」についての由緒も記載されています。

大行院 
鬼子母神の別当なり。往古は東陽坊といふ。天正年間(1573-92)加州侯の始祖前田利家朝臣(1538-99。大名)建立せられけるといへり。堂内に、日蓮上人(1222-82)の徒弟六老僧の影像を安置す(日像・日照・日朗・日興・日向・日頂、以上六老僧なり。ある人云く、この像は、始め谷中感応寺にありしが、かの寺改宗の頃一体紛失しければ、残りを当寺へ収むるとぞ)。小畑勘兵衛尉景憲(小幡景憲、1572-1663。兵学者)、檀那寺なるゆゑに彫刻して納むるとなり。また、みづからの肖像もあり(牌堂に安ず)。当院に、宗祖歴代の真筆ならびに上古の調度等を収蔵す(その余、深草不可思儀(深草元政、1623-68)。漢詩人)の筆せる経題等あり)。
(江戸名所図会より)

根本的に鬼子母神は江戸時代では神社ですから、その別当寺として大行院が存在していたのです。
そこでこの大行院の掲載されている図がありました。
雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図 《雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図:(C)がらくた置場》
この図は寛政年中(1789-1801)刊行の金子直徳著「若葉の梢」に掲載されていたものを、昭和33年、海老澤了之介著「新編若葉の梢」の再写したものだそうです。
いつまで大行院があったのかは不明ですが、大行院は少なくとも法明寺の寺中と考えてよいようです。
谷中感応寺は現在の谷中・天王寺のことで昨年の正月の【「谷中七福神」彷徨】での七福神めぐりで訪れました。もともと日蓮宗だった感応寺が幕府の命令で天台宗に改宗され、更に天王寺と改名された為に六尊像が移されたということですので、現在でも残されているのでしょう。
安政4(1857)年の「江戸切絵図」雑司ヶ谷音羽絵図では、「東養坊」と記載されていて、その右側には「九老僧」と書かれています。
「江戸切絵図」雑司ヶ谷音羽絵図 《「江戸切絵図」雑司ヶ谷音羽絵図:雑司ヶ谷七福神の会パンフレットより》
先の「若葉の梢」の年代と比べると「東陽坊」と「大行院」の時期が逆転してしてしまっていますが、これ以上突き詰めると長くなるので、この話題はここまでとしておきましょう。
最後に1点だけの疑問、なぜこの尊像がこの法明寺に移されたかという理由は、どうやら法明寺の歴史に関係するようです。

日蓮上人と法明寺
寛文2年(1662年)刊行、浅井了意の著と伝えられる『江戸名所記』に、豊島郡曹司谷法明寺として、日源上人と日蓮聖人との逸話が紹介されています。
以下に、簡単にダイジェストしてみました。
『法明寺を開山したのは日源上人です。上人自身は、元々は天台宗を伝える学業の高い、 知徳の広い名僧として知られていました。
あるとき駿河の岩本で日蓮聖人と行き会い、お互いに方論に負けたら弟子になるという約束をかわし、問答を行うことになりました。
舌鋒鋭く理を説き合い、妙理の剣はしのぎを削り、遂に日蓮聖人の説く法理に帰伏しました。
以来、日源上人は弟子となり、威光山法明寺で布教を始められました。伝々』
以上からもわかるように、当寺は武蔵国では日蓮宗の布教活動をいちばん初めに行った寺としても有名です。
(法明寺オフィシャルサイトより)

日蓮宗にとっての武蔵国の拠点とも言ってもよい寺院だったことから、事あれば法明寺で処理をしていたといった体制だったのかもしれません。
鬼子母神のみならず、実に奥の深い歴史を持っている法明寺といえそうです。

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