七福神めぐり -大黒天- #2

法明寺や鬼子母神などの由来を知り、改めて、歴史の必然や偶然の楽しさを実感しました。
まずは参拝を済ませます。

鬼子母神

拝殿の社額には当然の如く“ノ”の無い「鬼子母神」が書かれています。
鬼子母神堂 鬼子母神堂扁額
この書は江戸時代寛永の三筆の一人と称された本阿弥光悦の門人であった日光上人が書いたものだと伝えられているようです。
また、提灯の「鬼子母神」もまた“ノ”の無い書です。
鬼子母神堂堂内
さらに目の前にある金網には“ザクロ”の描かれた絵馬が奉納されています。流石に鬼子母神のシンボルであるので、このような絵柄の絵馬になったのでしょう。
ザクロの絵馬
目を転じて拝殿の中の壁の辺りに絵画のようなものがうっすらと見て取れます。
堂内の奉納絵馬
これが参道のアーケードに記載されていた文化財の絵馬のようです。 堂内には江戸時代に奉納された絵馬が20点以上あり、明治時代に奉納された絵馬と合わせて50点以上の絵馬を掲出しているのだそうです。そのうち文化財に指定されているのが前述した「大森彦七之図」と「三人歌舞図」の2点です。
三人歌舞図 《三人歌舞図:(C)法明寺鬼子母神》
鳥居清満作 天地230cm X 左右150cm:
天保10年、三代目板東三津五郎の養子玉三郎が、“しうか”改名披露の時に奉額されたと推察される。作者は芝居絵の宗家鳥居氏の五代目。 (オフィシャルサイトより)
大森彦七の図 《大森彦七の図:(C)法明寺鬼子母神》
鳥山石燕作 天地150cm X 左右200cm
太平記第二十三巻の一場面で、大森彦七が美女に出会い、その女を背負って行くうちに鬼女となって襲われるという図。作者は通称豊房、狩野周信に師事し、喜多川歌磨の師としても知られる。 (オフィシャルサイトより)
参拝も済ませたので、次の七福神に移るところですが、もう少し境内を散策することにします。

拝殿の手前にはテント張りの出店があります。
すすきみみずく すすきみみずく
「すすきみみずく」と書かれた看板が立っており、この時期だけの授与所になっているようです。
この「すすきみみずく」も鬼子母神の名物だそうで、その由来がオフィシャルサイトで語られていますのでまとめてみます。
すすきみみずく
むかし「おくめ」という女の子がおり、おくめは母親と二人暮しの貧乏ながら幸せな生活を送っていたのです。しかしあるとき母親が病気となり薬を買いに出たおくめの手には、薬を買えるような金は無く、途方にくれて鬼子母神に祈り、参道入口の百度石と鬼子母神堂とのお百度参りを毎日行ったそうです。
するとあるときススキを刈り取ってミミズクをつくり、参詣客に分けてあげなさいと蝶から告げられたそうです。その通りにすると「ススキミミズク」は鬼子母神のお守りとばかりに、飛ぶように売れて、そのお金で薬を買って、以来母子は幸せに暮らしたということです。
まあ、目出度し目出度しなのですが、これってどこかで聞いたような…、と思い起こせば「雑司ヶ谷 案内処」での“麦藁細工の角兵衛獅子”の由来と同じような内容です。
江戸名所図会では「風車・麦藁細工の角兵衛獅子・川口屋の飴」を鬼子母神の名物としていますが、ススキミミズクは、歌川広重の「雑司ヶ谷之図」の描かれているようです。
歌川広重「雑司ヶ谷之図」のすすきみみずく
「川口の飴は照り降りなしに売れ」「風車子持ちの神が売り始め」「木兎になってぶらぶら枯尾花」などの川柳が詠まれたそうですので、やはり「風車・麦藁細工の角兵衛獅子・川口屋の飴・すすきみみずく」は江戸時代の名物といわざるを得ないでしょう。

社殿の左手の境内には、先ほどの武芳稲荷の隣にもう一つ堂宇があります。
法不動堂
「法不動堂」といい金剛不動尊が祀られているのだそうです。
江戸名所図会の挿絵にもその堂宇らしきものが描かれているのですが、キャプションが読めないので確かではありません。
江戸名所図会 法不動堂 江戸名所図会 法不動堂
本来密教の不動尊を祀るのも不可思議なことですが、かつて法明寺が真言宗だったことの名残なのか、或いは、日蓮宗系各派の本尊、いわゆる十界曼荼羅にも不動明王が描かれていることから、合わせ技的に祀られているといえば間違いないかもしれません。
また、江戸名所図会にも法不動堂の隣に描かれているのですが、実際にも法不動堂の隣に「一字一石妙経塔」と石碑に記載された石塔が立っています。
一字一石妙経塔
オフィシャルサイトによれば、寛政3年(1791年)に茶・俳諧をよくした川上不白自筆の六万九千三百八十四の一字一石の法華経が納められたとあります。
この川上不白とは、茶道の流派である“江戸千家”の始祖で、家元は台東区池之端にあるそうです。
川上不白 《川上不白肖像:(C)江戸千家事務局》
また不白を祖と仰ぐ流派として文京区弥生に家元がある“江戸千家宗家蓮華菴”や杉並区高円寺に家元のある“表千家不白流”がありそうです。不白のプロフィールは、オフィシャルサイトにありますが、それぞれのサイトがあるので全て掲載しておきます。

参考:
江戸千家】(江戸千家事務局)http://www.edosenke.jp/
江戸千家】(江戸千家宗家蓮華菴)http://www.edosenke.or.jp/index.html
表千家不白流】http://www.fuhakuryu.or.jp/

そしてその右手の境内にはまだまだ様々な石碑等が配置されています。
木の根元に並べられている丸い石は「力石」のようです。
力石
30貫~45貫等記載されていますので、凡そ100Kg~170Kg程度の力石ですから、比較的重い部類の力石であったようです。
また、その右側奥に見える石碑には「御神木石榴」と刻まれていて、この石塔の傍らにあるのが、神木の“ザクロ”の木のようです。
ご神木
これも鬼子母神らしい神木といえます。

次には社殿の右手に移動します。
先ほどは人が多くて気が付きませんでしたが、大黒堂の傍にはミミズクの人形のついたベンチがありました。
ベンチ
名物ミミズクをモチーフとするところは当然といえば当然でしょう。
そして丁度社殿の真横に「鬼子母神」石像が立っています。
鬼子母神像 鬼子母神像
こちらの鬼子母神石像の表情は中々難しい表情をしていますね。口元は僅かながらに微笑んでいるのですが、どうも眼が笑っていません。それでも天女型の鬼子母神と考えておきましょう。それでないと“角”を生やさなければならなくなりますので…。
ちなみに鬼子母神堂に安置されている鬼子母神像がこちらです。
本尊 《写真:(C)鬼子母神オフィシャルサイトより》
やはりこちらは正真正銘の天女型鬼子母神です。

石像の左手にある石碑が「彰義隊顕彰の碑」です。
彰義隊顕彰の碑
意味は良く判りませんが“衆生の心水清く菩薩の影中に現れる”と記されており、山岡鉄舟の筆跡なのだそうです。山岡鉄舟は、勝海舟・高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される幕臣であり政治家です。
山岡鉄舟の功績はここで述べる必要もないでしょうが、当時の新聞には鉄舟の功績が7日間にわたり掲載され、葬儀の際には大雨の中を5000人ものの人が押し寄せたというから、多くの人に慕われていたことが判ります。
ケヤキ並木の辺りに幕末当時「茗荷屋」という酒楼があり、一橋家ゆかりの士が集まり、新政府に強い反感を共有する旧幕臣らが終結し、後に彰義隊に発展していったことから、この鬼子母神境内に顕彰碑が建立されたのでしょう。

顕彰碑の反対側が鬼子母神の本殿です。
本殿 本殿
比較的簡素な造りですが、重厚感が滲み出ているようです。流石に徳川家由縁の寄進によるものです。
現在は法明寺鬼子母神堂と呼ばれているのですが、元々は鬼子母神を祀った神社であったことから、拝殿、相の間、本殿といった造りとなっているのでしょう。一般的に神社建築では、幣殿の造りが多く、どちらも拝殿と本殿の間にあるのですが、幣殿は参詣人が幣帛を供進するための建物で、相の間は拝本殿の間にあるつなぎの部屋のことなので、違う目的の建造物なのだそうです。

さてここで、神社と寺院の関係を歴史的に見るとやはり“神仏習合思想”について、どうしても知っておかなければならないようです。
日本では古来より八百万の神を崇める神道が存在していました。
そこへ6世紀、日本列島に仏教が伝来しました。この時、朝廷においては仏教の受け入れの是非について非常にもめたのです。それは仏教の教義そのものを云々するのではなく、既存の神道の中で一柱として仏を祀って大丈夫かという争点だったようです。この争点は蘇我氏(神仏派)と物部氏(排仏派)の政治闘争となり、蘇我氏の勝利によって物部氏は粛清され、これ以降仏教が日本全国に広まっていく出発点となるのです。そして仏教の広がりと同時に日本古来の神道との習合が図られるのですが、その習合の形態は大きく3つに分類されるのです。

1番目が奈良時代初頭より見られるようになる「解脱を求める神」という考え方です。
これは日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れたい願望から、神が仏の救済を求め解脱を欲しているというもので、神の言葉である“御宣託”と称して、神社の最大氏子である地方豪族が仏に近づきたい為の方便として駆使されたものなのです。
そしてこの「神身離脱思想」の基に各地の神社境内に寺が建てられるようになり、この建てられた寺を“神宮寺”といい、神前で読経などが営まれたのです。

2番目は奈良時代中頃から見られるようになる「護法の神」という考え方です。
こちらは神道の神々が仏教における帝釈天や毘沙門天などの一種であるから、神は仏法の守護神であるというものです。これは仏教側が神道を取り込む理屈で、守護神であるなら寺院に神社があるのは当然だという考え方なのです。
そしてこの「護法善神思想」の基に各地の寺院に“鎮守社”という神社が建てられるようになったのです。
このように「神身離脱思想」は神社側からの発想で、基本的には神社が寺院(神宮寺)を管理する(全てではなく逆もあったようですが)というシステムに対して、「護法善神思想」は寺院側からの発想で、流石に神社(鎮守社)が寺院を管理することは無かったようですが、全く異なった形のアプローチで、神仏の習合が加速していったのです。

そして3番目が平安時代から鎌倉時代における「本地垂迹」という考え方です。
これまでの考え方はあくまで神と仏は別物なのですが、ここでは仏は神の本体であり、神は仏が仮の姿でこの世に現れたものという神と仏を同一視する考え方で、要するに“本地”は本来の仏で、“垂迹”とは仮の姿という意味合いなのです。
そしてこの「本地垂迹説」を基に、神話の神を“垂迹神”、それに対する仏教の仏を“本地仏”と呼んでいるのです。
その例としては、天照大神 = 大日如来、八幡神 = 阿弥陀如来、素箋鳴尊=牛頭天王、大国主 = 大黒天、東照大権現(徳川家康) = 薬師如来などが挙げられるのですが、これがどのような基準で設定されたのかといえば、専門分野が同じ、色が似ている、声が同じ、本人がそう言ったから、などと実に単純明快ながら、かなりファジーな設定だったようです。更に宗派や地域、時代によってもその対応する関係が違うこともあったので、明確な理論より、とにかく納得させればよいという適当さがあったのは否めないところでしょう。
いずれにしても、この「本地垂迹説」によって江戸時代までの長い期間にわたって神仏習合が続けられた訳なのです。
ちなみに「本地垂迹説」は仏教優位な説なのですが、鎌倉時代中期になると神道が優位な「神本仏迹説」(反本地垂迹説)も出現したそうです。一部では受け入れられたようですが、庶民からすればご利益さえあれば良いわけで、どちらが本源であるかは、ある意味どうでもよいことで、結局、先に提唱された「本地垂迹説」が主体として存在し続けたようです。

このように6世紀から18世紀までの1000年以上も続いた神仏習合も終焉を迎えます。
江戸時代後半になると、四大国学者である荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などに代表される国学が隆盛します。これは日本独自の文化、思想、精神を日本の古典や古代史の中に見出そうという学問です。
このような時代背景のなかで、それまで思想的にもシステム的にも仏教優位の神仏習合が気に入らない神道関係者や国学者などにより、神仏分離思想が時代の趨勢となってきたのです。
そして明治新政府により出された「神仏分離令」(正式には神仏判然令)によって、神仏分離思想は一気に加速したのです。当事者としては神道色を廃して寺になるか、仏教色を捨てて神社として生きるかの二者択一を迫られたことになるのです。
その後、廃藩置県にともない寺社領は全て没収され多くの寺院が廃寺となる一方、国家祭祀の施設となった神社は政府の管理下となったのですが、政府の財政にも限りのあることから、やはり多くの神社が整理統合され、長く続いた神仏習合は終焉をむかえたのです。
このような歴史を振り返れば、この鬼子母神や鬼子母神堂の現在の存在もよく理解できるところで、鳥居のある寺院、祭神の不可思議な組み合わせの神社などは、この神仏習合の名残といえるのです。
鬼子母神堂をグルッと回って裏手に来ると、鬼子母神堂に張り付いたように小さな社があります。
北辰妙見大菩薩
「北辰妙見堂」です。

北辰妙見大菩薩縁起
妙見さまはまたの名を北辰菩薩尊星王などといい、本来北斗七星を神格化したものであります。妙見さまの御利益は国土を守り、長寿延命をはじめとする除災招福とされ、またその名称の”妙見”から眼病平癒の菩薩として尊崇されています。
そのお姿には童子像のものや 国土擁護の威神力を示すための武神像のものもありますが、一般には美しい天女像で、雲または亀に乗り、左手に蓮華を持ち、その蓮華の上には北斗七星が形づくられ、右手では説法印(教えを説く姿を示すもの)を作るもの、また四臂でそれぞれの手に日輪と月輪、筆と紙を持つお姿などがあります。
この筆と紙は妙見さまが、空の星のように人びとの生活を見おろし、その善悪の生活を記録されているさまを示すものであります。妙見信仰は本来真言宗からはじまりましたが、日蓮宗でもこの信仰は盛んで、大阪能勢の妙見さまとその別院の東京墨田区本所の妙見さま、または墨田区柳島の妙見さまなどは有名です。当堂に安置する尊像は天女像で亀に乗っておられます。亀に乗った妙見さまは池上本門寺妙見堂にお祀りする尊像など数多くみられますが、この亀は北の空を守る玄武神の化身とされています。当堂の尊像が何時建立されたのかは不明ですが昭和51年から4年間にわたって行われた鬼子母神堂の大改修の折に発見された棟札によって、この妙見堂が天明8年(1788)徳川11代将軍家斉の時代で 鬼子母神堂の本殿建立の122年後であることが明らかになりました。
(現地石碑碑文より)

妙見菩薩については昨年暮の【秩父夜祭】で訪れた秩父市の秩父神社で知りました。
まさにこの妙見菩薩は、秩父神社では神仏習合のシンボルのようなものでした。もともとの秩父神社の主祭神は“八意思兼命”、“知知夫彦命”だったのですが、神仏習合によって“妙見菩薩”が加わって3神となり、その後、“妙見菩薩”だけが主祭神となり、神社名称も「秩父大宮妙見宮」と呼ばれるようになってしまったのです。
そして神仏分離により、名称も秩父神社に戻され、主祭神も八意思兼命、知知夫彦命、そして天之御中主神の3神(現在は4神)となったのです。ここで突如現れた“天之御中主神”ですが、これは何を隠そう本地垂迹説による妙見菩薩の仮の姿だったのです。従って仮の姿が本源に戻ったということになるわけです。
更に秩父夜祭では、御旅所に亀の子石があり、武甲山と秩父神社の延長線上が北極星という配置になっていて、まさに上記縁起の通りでした。
そこでこの妙見堂を眺めると、堂宇の前に鳥居がありますが、これはあくまで鬼子母神の玉垣の鳥居という事で、ここでも鬼子母神の神仏習合の名残と考えるべきなのでしょう。
北辰妙見大菩薩
鬼子母神に比べれば実に小さな堂宇ですが、歴史的には見るべきものの一つといえるでしょう。眼病によいのですから、当然参拝を済ませて鬼子母神を後にします。
七福神めぐりの一つとして訪れた鬼子母神ですが、ほぼ江戸時代のままのロケーションを感じることが出来るという、思わぬ歴史的風情に満足した散策でした。

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