七福神めぐり -弁財天-

七福神めぐりのスタートに相応しい鬼子母神を訪ねてから、次なる七福神に向います。
今回の七福神めぐりは比較的にエリアが狭いので、結構早く回れそうです。

観静院 -弁財天-

鬼子母神から弁財天のある「観静院」まで、僅か徒歩でも5分ほどなのですが、情けないことに道に迷ってしまいました。
最初の間違いはまず鬼子母神からの道を1本横の道に間違えたことです。
そのまま進むと実に開放的でモダンな建物が目に映ります。
東京音楽大学
「東京音楽大学」の校舎です。私立の音楽大学としては、国内で唯一創立から100年以上経過している名門大学なのです。
基本的にはクラシック系やコンポーザーに進まれる方が多いようで、我々ミーハーが知る音楽関係者は少ないのですが、意外なところに卒業生がいるようです。
池田理代子(漫画家)、石橋エータロー(ピアニスト・タレント)、大空真弓(女優)、黒柳徹子(タレント・司会者)、松下奈緒(女優)といったところで、やはり一芸に秀でているものは、多芸に才能を発揮できるものなのでしょう。

という事でこの辺りをグルグルと彷徨うことになってしまいました。
途中、「音羽屋」という妙な店舗を見つけました。ベランダにも人、顔、そしてシンバルと摩訶不思議な店舗です。
ZUZUSHII ART LABORATORY ZUZUSHII ART LABORATORY
ZUZUSHII ART LABORATORYというのが正式名称のようで、雑司ヶ谷で生まれ育った造形アーティストのフミコさんとロンドン出身のティムさんカップルが手がけるアートギャラリーなのだそうです。
昨年まで、あの「ススキミミズク」を売る“音羽屋”という民芸品のお店を改装したのです。それで「音羽屋」という名とミミズクの絵が残っていたようです。こういったところはある意味敷居が高いので入りませんでしたが、ちょっと雑司ヶ谷では異空間のようで面白いコントラストでした。

参考:【ZUZUSHII ART LABORATORY】http://www.spooneye.com/index.html

しばし迷ったのですが、何とか「威光山法明寺」と記載された境内に到着したようです。
威光山法明寺 境内
真っ直ぐ来れば本当に近い場所です。
ここはいわゆる法明寺の参道となるのですが、春になると桜並木の名所となるそうです。
江戸名所図会では鬼子母神からの参道になっていて、両側は畑になっています。
江戸名所図会 威光山法明寺
恐らく丁度この辺りに弦巻川が左右に流れており、この門柱の辺りに仁王門があったのだと推測されます。
参道を進むと右側に二番目の七福神“弁財天”のある「観静院」があります。
観静院
比較的小さな寺院で、実に静かな佇まいが落ち着きを感じます。
山門を入った正面が本堂です。
観静院 本堂

弁財天 *学問・芸術
観静院
昔は一面の梅林であった。中に天神堂があり、加藤清正はご神体を供奉し、文禄・慶長の役を全うする。後年尊像はこの地に還るが、元の梅林は拓かれ、当院が創設されていた。
芸事上達祈願の神・弁財天を祀る。
(雑司ヶ谷七福神パンフレットより)

唐突に加藤清正が登場となったのですが、文禄・慶長の役の頃といえば秀吉の天下時で、この頃に江戸にいたとは到底思えません。清正は現在の愛知県中村区に生まれ、以降秀吉の家臣として忠義を尽くすのです。
そこで本能寺の変前後からの秀吉の戦闘の足跡を辿ると、中国-備中高松城-(本能寺の変)-山崎-賤ヶ岳-小牧・長久手-紀州-四国-富山-九州-小田原-奥州仕置-文禄・慶長の役といった経緯によれば、小田原の役によって当時の武蔵国に来たものと考えられないこともないようです。
この頃、清正や紀伊徳川家等が池上本門寺を祈願所としており、当然、日蓮宗に帰依していたことから、直接、間接はともかくとして、当時ここにあった法明寺を参拝したことも充分ありえることです、代参も含めて。いづれにしても清正が一役買っていたことは否めないかもしれません。
そして元禄初期に観静院が法明寺塔頭として創立され天神堂を吸収したのです。代々の住職は池袋御嶽神社の別当を努めていたのですが、神仏分離と戦中の国体法により神社本庁に組み入れられたようです。
本堂も比較的新しい時期に改修されたようで、何気ない寺院ですが由緒ある寺院なんです。

境内の左手に「弁財天」が祀られています。
弁財天 弁財天
石に彫られた弁財天で、非常に綺麗な状態なので、この七福神プロジェクトのために奉納されたものでしょう。
境内の左手にあるスタンプ設置台で、2つ目の朱印を押して観静院を後にします。
朱印台 朱印
余談ながら清正はセロリを日本に持ち込んだ人だそうで、セロリの異名の一つに「清正人参」というのがあるそうです。

法明寺

参道を進むと法明寺の山門に突き当たります。
法明寺中門
由緒と歴史については前述した通りですが、その中に「当山は嵯峨天皇の代の弘仁元年(西暦810年)、真言宗の旧跡で威光寺として開創されました。『東鑑』第1巻に「武蔵国威光寺者。依為源家数代御祈祷所。院主僧増円相承之僧坊寺領。如元被奉免之」云々とあり、その古い歴史を物語っています。」との記述があり、要するに源家数代の祈祷所という由緒を誇っているわけです。
これについて江戸名所図会では、「按ずるに、寺伝に当寺の山号威光といふをもつて、『東鑑』に載するところの威光寺とするは、おはいなる誤りなるべし。同じく第三巻小山田の条下、谷口天神の下に詳らかなり。」と否定しています。
あくまで寺伝ですからその真偽の程は判りませんが、江戸名所図会では「同、北の方にあり。支院八宇あり。もつとも古刹にして、閑寂たる寺院なり(庫裡は鉈作りにて、昔のままなりといへり)。」とも記載されており、威光寺云々が無くても由緒ある古刹には違いなく、些かもその由緒を汚すものではないでしょう。
ちなみにこの威光寺は、現在の稲城市にある威光寺のことといわれているようです。

山門を抜けた右側に石碑があります。「蕣(あさがお)塚」というそうです。
あさがお塚
碑には「舜や くりから竜の やさすがた 富久」と彫られているそうです。“富久”とは文化文政期の「戸張喜惣次」という刀剣の彫師です。さらに江戸では有名な蕎麦屋「雑司ヶ谷そば」の主人でもあり、この蕎麦屋が藪の中にあったことから“藪そば”発祥の地ともいわれているようです。
そしてこの句は、朝顔が竹竿に巻きつく姿を、刀剣の柄に彫られる竜の姿に似ているという、刀剣の彫師らしい句なのです。
勿論、戸張喜惣次が雑司ヶ谷を代表する文化人であったのも事実なのですが、それ以上に、一躍この句碑を有名にしたのが、その句の横に掘られた朝顔の絵なのです。
あさがお塚

江戸時代に有名な芸術流派としては狩野派や円山派等が挙げられますが、その一つとして江戸琳派という派があります。これは桃山時代後期から近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる流派で、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展され、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させたといわれているちょっとややこしい流派なのです。
何故ややこしそうな流派かというと、狩野派などといった他の江戸の流派は模写を通じて直接師匠から画技を学んだのに対して、江戸琳派では時間や場所、身分が遠くはなれた人々によって受け継がれたという大きな特色を持っているからなのです。
その代表的な関係が光琳が宗達に、抱一が光琳をそれぞれ傾倒しその影響を受けているだけで、光琳は宗達に、抱一は光琳に直接手ほどきを受けたわけではないのですが、彼らは一つの作品でつながっているのです。
その作品が俵屋宗達の「風神雷神図屏風」です。
俵屋宗達・風神雷神図屏風 《俵屋宗達・風神雷神図屏風》
そしてこの宗達の「風神雷神図屏風」を模した光琳の「風神雷神図屏風」です。
尾形光琳・風神雷神図屏風 《尾形光琳・風神雷神図屏風》
更に光琳の「風神雷神図屏風」を模した抱一の「風神雷神図屏風」です。
酒井抱一・風神雷神図屏風 《酒井抱一・風神雷神図屏風》
この抱一の風神雷神図は宗達の原画があることを知らなかった為、光琳作を原画としたため模写の模写で評価は今ひとつのようですが、抱一の名を知らしめたのが、光琳の「風神雷神図屏風」の裏に返歌として描いた「夏秋草図屏風」だとされているようです。
夏秋草図屏風 《夏秋草図屏風》
このように琳派としてのリンケージと、その中の酒井抱一の描いた朝顔という事で、この句碑が名碑として存在しているのだそうです。
ちなみにこの酒井抱一は、名門武家である姫路城主酒井家の次男として1761年(宝暦11)に生まれ、多趣味であった大名茶人の兄・酒井忠以の影響で俳諧や能楽、書画、茶、狂歌、浮世絵など様々な文化に親しみながら、20代まで奔放な生活を送り文化人としての素養を身に着けたといわれる、いわゆるボンボンだったようです。
最後にその抱一の描いた“朝顔”がこちらです。
織色紙 朝顔図 《織色紙 朝顔図》
織物ですから句碑の朝顔とは若干タッチが違うようですが、それはそれ、これはこれ、でしょう。

参道の反対側に「818…」という大胆な碑があるので近づいてよく見ると「幽顕之塔」というもののようです。
幽顕之塔
“818”は「幽」の字だったのです。
これは井上有一の書による碑で、井上有一は1916年生まれの現代の書家で、小学校・中学校の教師をしながら書に向う人生を送ったのだそうです。そして34歳のときに亡き父のために書いた「自我偈」とう書が認められてメジャーとなったのです。
美術の抽象表現主義に呼応した実験的な一字書の大作を相次いで発表し、書が芸術であることを示した書家だったようです。それで818だったのです、って…。
ちなみに命日の6月の第2土曜日に「狼涙忌」という法要が行われていて、法要のあと法明寺の書院で作品を鑑賞し、記念の対談や講演などが行われるそうです。
絵は良く判らないのですが、書は結構好きなので、こういったアーティストや書があることを知ってまたひとつ勉強になりました。

正面が本堂です。
本堂 本堂
前述の歴史にもあったとおり、700年の歴史を誇る法明寺ですが、関東大震災で本堂が倒壊し昭和7年に再建されるも、昭和20年の戦災で全山焼失し、昭和34年に再建され現在に至っているのです。
華美な彫刻などは余りありませんが、歴史に違わぬ重厚さを残しつつ往時の威容を静かに誇っているかのようです。
参拝を済ませて戻ると本堂の右手に鐘楼があります。
鐘楼

この梵鐘は銘に依れば寛永22甲申年(1645)12月、当山11世蓮成院日延上人の代に鋳造されたが、その後破損し 享保17壬子年(1732)11月、24世本量院日達上人の代に再鋳されたものと記されている。
その下縁に曲尺・枡・天秤・算盤等の江戸時代の庶民生活を表す用具が図案化されて陽鋳されている為に、昭和19年(1944)7月6日付で文部省より重要美術品の認定を受け、戦時下の金属供出をまぬがれた。
竜頭までの高さ6尺、外径3尺、厚さ2寸、乳数は総計108で、いわゆる百八煩悩を象徴している。
昭和20年(1945)4月13日の戦災によって、境内の諸堂宇と共に墓地にあった鐘楼堂は焼失したが、昭和43年(1968)、現董48世一厚院日悠上人により、中門の再建に伴い、新たにこの地を卜して移築され、その警覚を響かせることとなった。
威光山法明寺
(現地案内板説明文より)

その用具の図案化がこちらです。
梵鐘
確かに曲尺・枡・算盤等を見てとることができます。
江戸名所図会でも記載されています。

鯨鐘
同所にあり。寛永二十一年甲申(1644)鋳せしところの洪鐘なり。銘文はここに略す。その鐘の縁に、曲尺・桝・天秤および算盤等の形を鋳付けたり。諸人見て奇異なりとす。按ずるに、度量衡の意を表したるものにて、時々刻々もまた数に預かるをもて、この形を鋳附けたりしならんか。京師鴨川の東岸、今出川橋の南、日蓮宗法性寺にあるところの鯨鐘、その模様これに同じ。
(江戸名所図会より)

鯨鐘とはクジラのように大きい梵鐘のことをいうそうで、江戸時代でも妙な梵鐘と思われていたようです。
この京都の法性寺は、延長3年(924)、藤原忠平のよって創建された由緒ある寺院で、藤原家の氏寺として栄え、京都21か寺の一つとして数えられた名刹であったようですが、以降の兵火で悉く焼失したそうです。
現在の法性寺は明治維新以降に旧名を継いで再建され、本堂の千手観世音菩薩像は国宝だそうです。どうやらそのときの鯨鐘はもう無いようなので、もしかすると日本で1つの梵鐘なのかもしれません。

参詣を終えて山門から一旦でると、山門、否、中門脇に「安国堂」があります。
安国堂
江戸名所図会では以下のように説明されています。

祖師堂
同釈迦堂の右に並ぶ。中に宗祖日蓮大士(1222-82)の影像を安ず。「立正安国論」(1560)演説の体想なりとぞ。当寺日源上人(智海、?-1315)の手刻にして、第三祖大蔵卿日蔵上人修飾を施す。楠正行の息女は妙典入道其の室にて、その頃夫婦ともに大願ありて当寺の檀越となり、応永十二年乙酉(1405)の年再びこの影像の彩色を加へたりといひ伝ふ。縁起に、この堂宇は弘仁九年戊成(818)飛騨の匠作るところにして、太古当寺真言宗たりしとき、源家累代祈祷の護摩堂なりしとぞ。いまも昔のままに存せり。
(江戸名所図会より)

現在の堂宇は比較的綺麗ですが、図会の刊行された江戸時代末期までのおよそ1000年間も残っていたことになります。こちらも関東大震災あたりで倒壊したのでしょうか、実に惜しい堂宇です。
ちなみに楠正行の息女というと楠木正成の孫ということになるわけです。この辺りも法明寺の歴史を感じさせるものです。
そして、その先に法明寺の墓地があります。
法明寺墓地

法明寺の名墓
所在 豊島区南池袋3丁目18番
小幡景憲の墓
甲州の人。関ヶ原の合戦、大阪冬の陣などに徳川方に功のあった軍学者。
豊島氏の墓
豊島氏は平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけてこの辺り、武蔵の地一帯にかけて勢力をもっていた一族であるが、文明10年(1478) 太田道灌に攻め落とされた。その生き残りの一族の中で後、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次(1643没) を中心にその一族の墓である
橘家円喬の墓
明治時代に活躍した落語の名人。
楠公息女の墓
建武の中興に大功のあった楠正成は戦術家としても名高いが、その息女の墓と言われ別名「姫塚」とも呼ばれる。
昭和49年3月30日 豊島区教育委員会
(現地案内板説明文より)

この中の豊島氏は元々は秩父氏から畠山氏、河越氏、江戸氏などの多くの氏族と同様に武蔵国各地に進出した武士団の一つで、治安3(1023)年に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、豊島氏または葛西氏を称したと考えられているそうです。
現在の東京都北区豊島町が豊島氏発祥の地とされ、“ひっぷな旅と歴史”で訪れた【ミステリーウォーク2009】の北区の平塚神社が豊島館跡と伝承されているようです。
そして、この豊島氏の庶流に、赤塚氏、志村氏、板橋氏、滝野川氏、練馬氏、平塚氏、白子氏というように、まるで地図のような一族がいたのです。
一方、楠公息女の墓とは前述された図会の楠正行の息女のことでしょうか。そうであれば図会の記述が間違っていることになるのですが…。
今回はお参りはせずに知識だけ吸収して先に進むことにしました。まだまだ先は長いようですので。

威光稲荷堂

安国堂と墓地入口の間にある路地を北に進み次の七福神に向います。法明寺の境内と墓地の間を進むことになります。
すると法明寺境内のの一番北側にあたる右側に「威光稲荷堂尊天」なる稲荷社があったので、寄り道してみました。
威光稲荷堂
狭い参道ながら朱の鳥居がずっと続いているのが印象的です。
威光稲荷堂
途中から“コ”の字型に参道が続いていますが、なにか由来のある樹木なのでしょうか、参道の中央にあえて残されています。
そして行き着いた先が「威光稲荷堂」です。
威光稲荷堂 威光稲荷堂

開運 威光稲荷尊天
当山総鎮守開運威光稲荷尊天は西暦800余年、慈覚大師の当地行脚の途中、武蔵野の地雑司ヶ谷の森より一条の光を見つけ、辿りついた所に素晴らしいお姿をした稲荷尊神が現れ、その光明の強いことから威光稲荷大明神と銘名し堂宇を建立し御安置したのが始まりです。
その後星霜数百年を経て日蓮上人の孫弟子の日源上人に依って法明寺が日蓮宗に改宗されると同時に法華経の御題目が唱題され、その御威光益々輝き、爾来今日まで大願をかけて救われた善男善女数知れません。
その後、戦災にて本殿が焼失、仮宮にて御祀りしていましたが、御尊躰も時機を得て東京都板橋区大原町の石川常作氏を選んで一基建立し、堂内荘厳具は開元講はじめ一般信徒に託して、内に威光を秘めた荘厳なる本殿に変り、今日の隆盛を見るに至りました。
(境内石碑碑文より)

当然、京都伏見稲荷大社と同じ倉稲魂尊が本尊です。
ここも法見寺の一宇となっている由緒ある稲荷社のようです。驚いたことに、小さな社務所に住職の方が手持ちぶたさそうに、お守りを授与されていました。てっきりひと気が無いものと思い込んでいた私は思わず「わっ」と声をあげながら「おはようございます」とごまかしてしまいました。何かこういったところで1体1になるのもどぎまぎするものです。
そういえばここは一応稲荷社ですが、やはり法明寺の一宇となっていたこともあり、法明寺の方がいらしたのでしょう。
これにて法明寺の参詣を終えて、次の七福神である「布袋尊」に向います。

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