七福神めぐり -布袋尊・福禄寿-

七福神めぐりもまだ2つの朱印をいただいただけですが、時刻は丁度昼になろうとしています。
昼食をというところですが、このペースで行くと最後のほうは結構寒い中を回らなくてはなりそうなので、昼食はもう少し後回しにして先を急ぐことにします。

中野ビル -布袋尊-

法明寺の路地を出ると左右に通りが走っており、ここが「南池袋東通り商店会」のある“東通り”です。
あまり商店街らしくありませんが、この辺りの左手が法明寺の墓地だからでしょう。
南池袋東通り商店会
この道を池袋駅方面に向って西に進みます。
1~2分も進むと右側の歩道に七福神の赤い幟が立っています。
南池袋東通り商店会 中野ビル 布袋尊
丁度サンクスの手前で、そこが目指す3ヶ所目の七福神である布袋尊が祀られているところのようです。
近寄ってみると、とにかく寺社はなく、祠のようにビルの狭間にあり、布袋尊の親子のような大小の布袋尊が祀られています。
中野ビル 布袋尊

布袋尊の由来と七福神
布袋尊は、
中国の契此(かいし)という禅僧で、その名の由来ともなる布製の袋を持ち諸国を遊行し、常に笑顔で、洒脱、楽天的な布袋和尚として親しまれ、弥勒菩薩の化身と言われ数多くの人々から信仰されました。
また人々の吉凶、時の晴雨を予知したとも言われています。
※契此は明州(現在の中国浙江省)出身
唐代末期から後梁にかけて活躍した実在した人物と伝わっています。
日本では、
七福神の中で唯一実在した人物として、清廉潔白、大気度量を人々に授ける福の神として信仰されています。
ご利益…円満・福徳・度量・大量・子宝
七福神以外にも十八羅漢の一人としても数えられています。

七福神ご利益紹介
恵比寿神:商売繁盛・大漁の神様、大黒神:豊作の神様、弁財天:学問・財福の神様、布袋尊:福徳・開運・良縁の神様、福禄寿:福徳長寿の神様、寿老人:長寿・幸福の神様
(現地案内板説明文より)

七福神めぐりも3、4回目となると、凡そ七福神の由来などについては頭に刻まれていますが、それより何故ここに祀られているのかに興味が引かれます。

雑司ヶ谷 七福神めぐり
東通り 有限会社中野ビル 布袋尊像・社
有限会社中野ビル 布袋尊像は、大正6年(1917)7代当主、中野岩雄の弟により親子像として建立された後、中野岩雄による株式会社中野石材商店の店頭に祀られて以来92年間、池袋の歴史を見守り続けています。
株式会社中野石材商店では、昭和10年9月(1935)大塚天祖神社に狛犬一対をお納めしており現存しております。
親の布袋尊像の右肩は、東京大空襲(昭和20年3月10日)、城北大空襲(昭和20年4月13日)の2度の空襲により破損、戦禍の生き証人でもあります。
昭和62年7月7日(1987)8代当主・中野馨により第6・7中野ビルが落成した際に、当ビル前に布袋尊像を安置致しました。
平成22年1月(2010)、地元渡邊隆男氏・菅原光生氏・戸張真克氏の、神仏に対する畏敬の心を醸成し、地域の活性化と地域のコミュニティーの向上を目的とした雑司ヶ谷七福神の設置趣意に賛同し、9代当主・中野正人が社造営に着手、同年10月竣工致しました。
平成22年10月吉日 中野家9代当主 中野正人
(現地案内板説明文より)

以前どこかの七福神で、七福神像があることすら知らなかった寺院があったという話を聞いたことがありますが、それに比べると寺院でなくても100年近くの由緒を持った七福神ですから、いかに敬虔な信仰者であったかが窺えます。まして、2度の空襲にも耐えたとあってはこれぞご神徳といわずして…、といった霊験新たかな布袋尊です。
中野ビル 布袋尊
右肩からの右腕の白い部分が破損した部分でしょう。このような像も珍しいでしょうが、布袋尊の親子というのも珍しいのではないでしょうか。
中野家について詳しいプロフィールは判りませんでしたが、簡単な紹介があります。

中野ビル
中野家は大阪城の石材供給地小豆島の出身である。7代目は布袋尊を護持し、皇居の二重橋や国会議事堂等の石像建築を手掛けた。尊像は戦火を被ったが、今は池袋復興のシンボルとして地域に親しまれている。
(七福神パンフレットより)

中野家は池袋の石材商として地元の名士だったと推測され、そこからおそらく現在は不動産業を営んでいるのではないかと思われます。
石材店のシンボルであった布袋像が、現在では布袋尊像として崇敬されるようになり、池袋のシンボルとなったのですからさぞ喜んでいることでしょう。
新たにできた七福神めぐりらしい七福神像で、3つ目の朱印をいただいて次に移ります。
朱印

次の七福神に移る際に、丁度通りの反対側に妙に派手派手しいお店があったので、つい立ち寄ってしまいました。
何とも「老眼めがね博物館」という名の店舗です。
老眼めがね博物館
思わず笑ってしまう絶妙なブランディングです。
歩道にこれでもかと置かれた老眼鏡の種類と安さに驚きますが、更に驚いたのが店内にディスプレイされたキッチュなサングラスの数々です。
老眼めがね博物館
これはどう見ても販売商品というよりはディスプレイでしょう。このセンスにはただただ脱帽でした。

仙行寺 -福禄寿-

中野ビルの布袋尊から北に向って50~60メートルも歩くと突き当たりとなります。
その突き当たった左右の通りが“シアターグリーン通り”というそうで、通り沿いにシアターグリーンという舞台劇場があることから名付けられたようです。この更に北にこの道路と並行するように“グリーン大通り”があるのですが、これは明治の末頃にこの辺りに「根津山」という森があったことに由来するようです。更に驚くべきことには、この辺りには「宇佐美牧場」という牧場があったそうで、巣鴨から池袋一帯は小規模ながら明治中期から大正期までは東京を代表する「牛乳生産地」だったようです。緑濃いエリアだったことが嘘のようです。
そうしたことから劇場もグリーンの名がつけられたのでしょう。

その“シアターグリーン通り”を東に10メートルほど進むと左側に「仙行寺」があります。
仙行寺 仙行寺
まさにビルに囲まれた都会の寺院といった表情です。
それ程大きな本堂ではありませんが、それでもビル群の中というロケーションもあって、結構存在感を放っています。

仙行寺
江戸時代初期創立、小石川・白山にあった善行院と隣接の仙応院が合併して仙行寺と改称、今日に至る。戦災により全堂宇を焼失したが、石像浄行菩薩像のみが残る。
木彫妙法福禄寿像を安置する。
(七福神パンフレットより)

創立年月は不祥のようですが、合併したのが明治41(1908)年だそうなので、仙行寺としてはこの年が中興年とでもいうべきでしょう。そして明治45年に道路改修の為、小石川から前述した“グリーン大通り”より更に北側の池袋蟹窪に移転し、昭和20年の戦災で堂宇が焼失し、昭和25年の区画整理により墓地が移転となり現在地に再移転したようです。

境内の右側に目指す4つ目の七福神が安置されています。まずは4つ目の朱印をいただきます。
朱印
さてその福禄寿は実にオシャレな堂宇に祀られています。
華の福禄寿 華の福禄寿
さらに本尊自体は実に小さな本尊なのですが、「華の福禄寿」と名付けられている通り、彩色や彫りに実に気品と優雅さを持ったキュートな福禄寿なのです。
福禄寿といえばどのように描こうが、今も昔もその特徴は長い頭にあります。
福禄寿 福禄寿 《左:(C)高松市歴史資料館、右:(C)西尾人形センター》
しかし、この福禄寿はその長い頭を無くし、更にユニセックス風な現代感覚の福禄寿なのです。先の布袋尊でもそうでしたが、新たに創造された七福神めぐりの真骨頂なのかもしれません。
そして境内の左手にあるのが「石像浄行菩薩像」です。
石像浄行菩薩像
こちらは逆にこの仙行寺で最も歴史を持った菩薩像といえるのでしょう。今昔の尊像が並列している興味深い寺院でした。

余談ながら、後にこの仙行寺を調べると更に興味深いことが判りました。
そもそも仙行寺の前の“シアターグリーン通り”自体が仙行寺に深く関わっている、というか仙行寺がその由来といってもよい道路なのでした。
それは、この仙行寺が都心にある寺院としての社会事業の一環として演劇活動の場を提供することを考え、新劇団の育成、日本人劇作家の発表・実験的演劇などを目的として、昭和43(1968)年「池袋アートシアター」という小劇場を創設したのだそうです。そして昭和47(1972)年に「シアターグリーン」と改称し、昭和55(1980)年には有限会社となり、現在小劇場の草分け、老舗として評価されているのだそうです。
つまり現在の仙行寺の右となりにあるビルがその「シアターグリーン」で、左のビルは仙行寺の会館である「沙羅ホール」のビルだそうなので、ビルに囲まれた…、というよりは都心にあってもかなり広い境内を持つ仙行寺ということになるのです。
そして現在、この「シアターグリーン」の支配人である朝比奈氏の父が仙行寺の住職で、朝比奈氏自身も仙行寺の僧侶でもあり、本堂で演劇が行われることもあるそうです。
中野ビルの中野家と同様、地域の活性化、さらに演劇界の繁栄といったところで多大なる貢献をされているようです。
こういった背景を知ると、キュートな「華の福禄寿」が何故生まれたのかが判るような気がしてきます。

参考:【シアターグリーン】http://www.theater-green.com/

雑司ヶ谷霊園

4つ目の朱印をいただいて、一気に半分を終わらせました。
まだ、30分ほどしか経過していないことから、このまま先に進みます。 ここからはしばらく“東通り”に戻って東方向に進むます。
左手にはランドマークである「サンシャイン60」が見えます。
サンシャイン60
「サンシャイン60」は1978年に開業した複合商業施設で、現在の都庁が竣工する1990年までの12年間、239.7mという日本一の高さを誇っていました。また1985年韓国ソウルの大韓生命63ビルが竣工するまで東洋一の高さを誇っていたランドマークでもあったのです。
そして歴史を遡れば、1970年までは巣鴨拘置所があったところで、ここでは戦時中、ゾルゲ事件の主犯であるリヒャルト・ゾルゲの死刑が執行され、大戦後GHQに接収された後は「巣鴨プリズン」と呼ばれ、東条英機などの主戦犯が収容され、死刑が執行された場所でもあるのです。
ある意味では「サンシャイン60」も「巣鴨プリズン」も明と暗のランドマークといえないことも無いでしょう。
先に進むと都電の踏切があり、その左右に“都電雑司ヶ谷駅”があります。
都電雑司ヶ谷駅 都電雑司ヶ谷駅
都内に残る唯一の都電荒川線で、ある意味、この駅は雑司ヶ谷霊園の為の駅といっても過言ではないかもしれません。
雑司ヶ谷霊園入口
そう、踏切をわたるとそこは既に「雑司ヶ谷霊園」なのです。

雑司ヶ谷霊園
御料地として、3代将軍家光の寛永15年(1638)に薬草栽培の御薬園となり、8代将軍吉宗の享保4年(1719)には御鷹部屋に変わり、将軍の鷹狩に使う鷹の飼育場所として使われていたところです。御鷹部屋時代の松の大樹が今も霊園内に残っています。
明治7年(1874)9月1日に東京市によって共同埋葬墓地となりました。現在の地番は南池袋4丁目25番。広さは約10万㎡です。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

明治5年から布告された明治政府の自葬禁止、神葬地設定、火葬禁止、墓地令などにより共葬墓地の必要が生じたことから、東京府が東京会議所に命じて「雑司ヶ谷旭出町墓地」を造営したのです。その後、明治9年に東京会議所から東京府が管理事務を引継、明治22年に東京市の管轄となり、昭和10年に「雑司ヶ谷霊園」に名称が変更されたのです。現在は東京都公園協会が管理しているそうです。
さて、この墓地ですが、このような歴史以外に多くの著名人の墓があることで有名なようです。
ゆっくり墓地めぐりをしている時間は有りませんが、いずれにしてもこの霊園を通り抜けるのですから、MAPを基に通り抜ける通路沿いの墓を参詣してみます。

永井荷風墓 永井荷風 1-1号7側3番

享楽に生きた反骨 永井荷風(1879~1959)
墓を作るなら「浄閑寺に」と言っていた荷風の墓が父久一郎(禾原)と並んでいる。時代に背を向けて江戸趣味を追い、上田敏の言う「真の享楽主義者」としての生を貫いた。「柳橋新誌」の成島柳北を深く慕った。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

左側の墓が父久一郎の墓のようで、久一郎は内務省衛生局に勤務していたそうです。
父、荷風、そして代々一家の墓が並んでいます。

小泉八雲墓 小泉八雲 1-1号8側35番

日本びいきのコスモポリタン 小泉八雲(1850~1904)
父はアイルランド人、母はギリシャ人。アメリカで新聞記者などをしたあと来朝して帰化。東大講師時代、哲学の講師ケーベルと同僚であった。講師辞任の時、小説家の武林無想庵らが留任運動をした。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

こちらも八雲、妻セツ、そして一家の墓の3墓が安置されています。
奥さんのセツは島根県士族小泉湊の娘、第七十五代出雲国造千家俊勝の次男千家俊信(国学者)の玄孫)という、よく判りませんが、かなり名のある一族だったので墓が別なのでしょうか。

大川橋蔵墓 大川橋蔵 1-1号13側44番

大川橋蔵(1929-1984)
本名、丹羽富成。戦後の映画俳優。東映時代劇の二枚目スターで大衆的娯楽作品に出演し、テレビ時代劇「銭形平次」は当り役です。
舞台でも多くのファンを集めたそうです。

泉鏡花墓 泉鏡花 1-1号13側33番

誠実に愛し、尽くした 泉鏡花(1873~1939)
10歳で失った母の鈴を生涯追慕し、師の尾崎紅葉を神格化するほど仕えた。芸者(本名すず)との結婚を紅葉に反対されたいきさつが小説「婦系図」に。新派の舞台で多くの人の泪を誘った。名優喜多村緑朗もここに。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

墓碑には「鏡花 泉鏡太郎墓」と刻まれているので“鏡太郎”が本名なのでしょう。結構シンプルな墓所です。

荻野吟子墓 荻野吟子 1-5号23側35番

荻野吟子(1851-1913)
埼玉県妻沼(現熊谷市)の旧家の生まれで、女性の医術開業受験を認めさせ、明治18年35歳で我が国初の女医となった埼玉県の偉人です。埼玉100選の【荻野吟子】でその地を以前訪れました。
墓所には石像までありかなり立派な墓所ですが、以前は「女醫荻野吟子之墓」の墓石だけだったのだそうです。
それが平成13年に吟子の生涯を描いた舞台「命燃えて」が上演されたことがきっかけで、現在の墓所になったのだそうです。

命燃えて 埼玉県知事 土屋義彦書
日本女医1号荻野吟子抄 妻沼町長 高橋茂撰
明治18年刻苦勉励の末、女医公許の門戸を開いた吟子の波乱と哀切の生涯が、昭和45年小説「花埋み」で紹介されるや、根性と愛が読む人の心を揺さぶる。更に故里で武観戯曲「荻野吟子抄」舞台化要望の高まりに、平成10年妻沼出身松竹㈱茂木近専務が奔走し、10月名優三田佳子主演「命燃えて」の新橋公演が喝采を博す。次いで12年2月埼玉女性の根性と三田の熱演に感動した土屋義彦埼玉県知事の英断で埼玉公園が成功し、同13年3月女史生誕150年祭に道の駅めぬまに開業記念姿の女史石像建立に際し、石匠熊谷市野口大作、彫師杉戸町山下隆雄の協力で吟子兄保坪4代の裔八王子市荻野正司家墓所改修と併せ、女史が眠る此処と瀬棚に同じ像を贈り、永く栄光を伝える。
平成13年5月吉日 埼玉県妻沼町建之
(記念碑碑文より)

埼玉県がパトロンであれば確かにここまでの豪華な墓所にはなるでしょう。
荻野吟子墓
一際石像が輝いているようです。

サトウハチロー墓 サトウハチロー 1-5号25側25番

あふれる詩の才能 サトウハチロー(1903~1973)
戦前の「二人は若い」、戦後の「リンゴの唄」に流行歌で圧倒的な人気を生んだ詩人。若い日の無頼を心配した小説家の父紅緑は、現在の豊島区上池袋3丁目に世帯を持たせた。ラジオドラマ「君の名は」の脚本家菊田一夫も同居。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

中学の時、ある朝、遊廓の二階に立って歯を磨いていたら担任の先生が下を通る姿を見たので挨拶をしたら、ハチローはその日のうちに退校処分になってしまった、という数多くの逸話が残っている無頼漢だったそうです。落第三回、転校八回、勘当十七回(自称)のサトウハチローです。
サトウハチロー墓 墓石には「ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる」と刻まれています。

竹久夢二墓 竹久夢二 1-8号9側32番

大正ロマンの抒情詩 竹久夢二(1884~1934)
「大正ロマン」を代表する画家であり詩人。「夢二式」の美人画や「宵待草」などの叙情的な詩歌が大流行。若い日に雑司ヶ谷に住む。島村抱月に目をかけられ、また羽仁もと子の「婦人之友社」で絵画主任、さし絵を描く。墓の文字は画家の有馬生馬。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

隣の解説板には晩年米欧に遊び体を壊して帰国し、昭和9年9月1日信州富士見高原療養所にで51歳で亡くなったと書かれています。
ちょっと意外な墓所に驚きは隠せませんでした。

夏目漱石墓 夏目漱石 1-14号1側3番

明治期、最高の人気作家 夏目漱石(1867~1916)
当時の雑誌「太陽」が募集した文化人の人気投票で毎年第1位。「こころ」に雑司ヶ谷霊園を描く。小泉八雲が東大を去った後の東大講師。親友の中村是公(東京市長)や、大塚保治と妻の楠緒子、門下の森田草平、敬愛したケーベルも。
(雑司ヶ谷霊園MAPより)

記載された人々はみなこの霊園に眠っている方たちです。
流石に日本を代表する文学者だけあって、かなり立派な墓所です。
夏目漱石墓 夏目漱石墓
一族の墓がかなり控えめです。
こうしていくつかの著名人の墓所を参詣して、最後の夏目漱石の墓所の前の通りを南東に進んで雑司ヶ谷霊園を後にしました。
雑司ヶ谷霊園
正月の3日ですが、それにしても静かな場所です。当たり前か…。

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