七福神めぐり -吉祥天・毘沙門天-

雑司ヶ谷霊園の南東に当たる辺りから霊園を抜けて路地を進みます。
次なるは5つ目の七福神である「吉祥天」に向います。

清土鬼子母神 吉祥天

住宅街の路地を迷路のように進むと、妙な記念碑に気が付きました。
千石與太郎記念碑
記念碑には「千石與太郎記念碑」というプレートが掲げられています。

千石與太郎氏は1874年東京に生れ、札幌農学校を卒得た後県農県技師を経て産業組合中央会に迎えられ、同会会頭全国購買組会聯合会会長を始めとして数多くの産業組合全国機関の要職を歴任し、その間貴族院議員に勅選せられ東久邇宮内閣の農林大臣に就任する等77年の生涯を農業農民の発展に捧げた。氏は、資性剛毅人情に厚く時勢を洞察するに明敏、事に処するに果断、その清新明朗なる人格は、大衆運動の指導者としての天資にめぐまれ、振興刷新期より拡充発展期の産業組合運動の中枢に在って、常にその推進の原動力となり、わが国協同組合運動発展の礎を固めた第一人者である。
晩年この地に居を定め、1950年8月22日この地において逝去す。われら氏の遺徳を追慕するものたち相諮り、この由縁の地を永く記念するためこの碑を建立するものなり。
昭和42年8月22日 千石與太郎記念碑建設委員会
(現地記念碑碑文より)

特に詳細がわかりませんが、一つ知識を得ることができました。
ここから2,3分路地を進むと洒落た洋館が現れます。前の通りにはタイル画が道にはめ込まれています。
雑司ヶ谷旧宣教師館
そしてエントランスに「雑司ヶ谷旧宣教師館」と表示されています。
雑司ヶ谷旧宣教師館

東京都指定有形文化財(建造物) 旧マッケーレブ邸(雑司ヶ谷旧宣教師館)
邸内敷地899.28平方メートル
所在地:豊島区雑司が谷1丁目25番5号 指定:平成11年3月3日
この建物は明治40年(1907)にアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブが自邸として建てたもので、マッケーレブは昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をした。
建物は木造2階建。建築面積は113.03平方メートル。屋根は和小屋組の寄棟屋根で、南と西に切妻飾りを持ち、カラーベスト・コロニアル葺きである。外壁はペンキ塗りの下見板張りである、19世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル様式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック様式を用いている。
建物の内部は1階・2階ともに3部屋がT字形に配置され、各階3部屋ともに暖炉が組み込まれ壁の中で煙突につながっている。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け、北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしても使える広縁があり、東側には補助階段がある。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅であり、都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つとして貴重である。
平成11年9月 東京都教育委員会
(現地案内板説明文より)

J.M.マッケーレブは1861年アメリカ・テネシー州ナッシュビルに生まれ、多くの苦労の中で勉学に励み敬虔なクリスチャンの青年に成長しました。27歳のときにケンタッキー州にあるカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学し、ここで先輩の宣教師アズビルと出会い、彼に勧めによって日本伝道を決意したのだそうです。
1892年に妻のデラらと共に来日、築地・神田・小石川と伝道活動を展開した後、1907年に雑司が谷に移り住み、以降大戦開戦直前まで宣教活動を続けた人だそうです。
そしてこのマッケーレブが住んでいた宣教師館は、彼が帰国時に売却されたものだそうで、白とグリーンのコントラストが綺麗な建造物のようです。
雑司ヶ谷旧宣教師館
但し、残念なことに年末年始は1月4日まで休館の為、見学はできませんでした。雑司が谷の別な一面を垣間見て先に進むことにします。

旧宣教師館からさらに路地を進むと「清土鬼子母神」に到着です。
清土鬼子母神 清土鬼子母神
それ程広い境内ではないようです。山門の前に“鬼子母尊神出現所”と彫られた石碑があります。
ここはあの「鬼子母神堂」に祀られた“鬼子母神”が発見された地だったようです。

清土出現所(清土鬼子母神)
雑司ヶ谷鬼子母神堂に祀られている鬼子母神尊像は清土のこの地から出土した。清土出現所とはここからついた名前だが、地元では親しみをこめて清土鬼子母神と呼んでいる。吉祥天はこの鬼子母神の娘神である。
(七福神パンフレットより)

早速境内に入ると、直ぐ右手に古い道標があります。
道標
「文政6年癸未正月…」と記載されているので、1823年の江戸時代後期のものです。出現地として江戸時代では賑わっていたのかもしれません。
正面にあるのが本堂で、逆に正月らしい静かな佇まいを見せてくれています。
本堂
本堂の左手に5つ目の七福神である「吉祥天」が祀られており、まずは5つ目の朱印をいただきます。
吉祥天 吉祥天 吉祥天 朱印
さてここの「吉祥天」ですが、中野ビルの説明にもあったとおり、一般的な七福神は、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊の七神なのですが、寿老人と福禄寿は共に南極老人星の化身とされ、この二神は本来同一のものであると見なし、寿老人の代わりに吉祥天や猩猩、福助などが入れられることがあったようです。
ということから、この雑司ヶ谷七福神では寿老人に代わりに吉祥天が入れられていたのです。
ちなみに埼玉100選の栗橋での七福神めぐり【くりはし八福神】では、吉祥天を加えて八福神めぐりとしていました。
綺麗な吉祥天の尊像で、鬼子母神縁の地では鬼子母神の娘神が確かに相応しいでしょう。

吉祥天像の隣にあるのが「三角井」と呼ばれる井戸です。
三角井 三角井
この井戸については江戸名所図会の挿絵にも描かれています。
江戸名所図会 三角井

前述した鬼子母神堂の由来と歴史で、「当山におまつりする鬼子母神のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。」と記載されていましたが、この像を清めたのがこの井戸だったようです。
図会でも記載されています。

雑司ケ谷鬼子母神出現所
本浄寺より南にあり。この地を清土といふ。蒼林のうちに小社あり。すなはち、雑司ケ谷鬼子母神出現の地にして、同じ神を鎮れり。社前にあるところの井泉を星の清水と号く。往古鬼子母神出現の頃、この井に星の影を顕現せしことありしゆゑに、名づくるといへり(その井桁の形三稜なるゆゑに、土俗、三角井とも字せり)。
(江戸名所図会より)

井戸自体は結構新しく改修されているようですが、江戸時代の風情がそこはかとなく現在も感じられるようなロケーションです。
雑司ヶ谷のランドマークの一つである“鬼子母神”、そしてその鬼子母神の始まりとなった“清土鬼子母神”は、雑司ヶ谷にとっては無くてはならない貴重な旧跡といえるのでしょう。
この井戸の前にある石碑は芭蕉の句碑ではないかといわれており「此の道に出で涼しさよ松の風」と刻まれています。
芭蕉句碑
文化9(1812)年9月に金子直徳によって建立されたもののようで、近くに関口芭蕉庵があったので、芭蕉がこの地を訪れても不思議はないのです。
また、境内には何を祀っているのか判らない堂宇が2つありますが、やはり清土鬼子母神への尊崇の篤さを著しているようです。
境内堂宇

弦巻通り

5つ目の七福神を終えて、6つ目の毘沙門天のある「清立院」に向います。
「清立院」は雑司ヶ谷霊園のすぐ近くにあるのですが、単に戻るのも面白くありませんので、少々遠回りながら弦巻通りを通って向います。
再び路地を歩くと左手のマンションの前に何か案内板がありました。
菊池寛 旧宅跡

菊池寛 旧宅跡
菊池寛は、明治21年(1888)12月26日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正12年(1923)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和10年(1935)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。
寛は大正12年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和12年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和23年3月6日没。
「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。
平成11年11月 東京都豊島区教育委員会
(現地案内板説明文より)

ここにも記述があるように菊池寛と言えば文藝春秋です。実に個人的趣向で出版されたことが良く判る例です。

『文藝春秋』創刊の辞
私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだろう。又、私が知っている若い人達には、物が云いたくて、ウズゝしている人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。
『文藝春秋』創刊号編集後記
もとより、気まぐれに出した雑誌だから、何等の定見もない。原稿が、集らなくなったら、来月にも廃すかも知れない。また、雑誌も売れ景気もよかったら、拡大して、創作ものせ、堂々たる文藝雑誌にするかも知れない。
(文藝春秋創刊号より)

さすが菊池寛、見事なわがままぶりですが、文学者というよりはビジネスマンとしてのほうがより才能があった様に思えます。

通りを進むと右手に黒塀の粋な建物があります。「寛」という料亭なのだそうです。
個室料亭 雑司が谷 寛
ここは昭和初期の小説家「三角寛」の邸宅を料亭に使用しているのだそうです。
「三角寛」とは、大正15年朝日新聞社の記者となり、その後小説を書き始めて「昭和毒婦伝」を連載して文壇にデビューします。そして、「怪奇の山窩」「情炎の山窩」「純情の山窩」などの山窩(サンカ)小説を開拓し、流行作家の道を歩むのです。
山窩小説の「サンカ」とは、日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人びとを指す言葉だそうです。面白いことに「チャンネー」や「スーシー」などの現在の“業界用語”は、もともとサンカの人々が使っていた言葉だったそうです。
そしてこの料亭はその三角寛の一人娘が、平成元年、女将としてオープンさせ、その後、孫娘に引き継がれ、平成16(2004)年からは㈱女将塾が経営しているそうです。流石に雑司ヶ谷といった風情かもしれません。

参考:『個室料亭 雑司が谷 寛』http://zoshigayakan.jp/index.html

弦巻通りをさらに進むと商店街が見えてきます。
雑司ヶ谷弦巻通り商友会
「雑司ヶ谷弦巻通り商友会」というようです。 この弦巻通りもそれ程広い通りではありませんが、脇はさらに狭い路地となっていてノスタルジーを感じます。
雑司ヶ谷弦巻通り商友会
この弦巻通り、かつては弦巻川だったところで、昭和7(1932)年に暗渠化工事が行われたので川の流路は全く残っておらず、現在は下水道として使用されているのだそうです。
往古の弦巻川の流路は現在の元池袋史跡公園の付近の丸池が源泉で、ホテルメトロポリタン-法明寺-大鳥神社-清立院-弦巻通り- 清土鬼子母神-護国寺-講談社-江戸川橋といった付近を流れていたようです。
意外なことに2008年8月、この元弦巻川の下水道工事作業中に豪雨による増水により、作業員の5名が流され亡くなったそうです。今や下水道とはいへ、自然を侮ってはいけないという教訓でしょう。

弦巻通りの終わり頃には「旅猫雑貨店」という賑やかなお店がありました。
旅猫雑貨店
中には入りませんでしたが、和風小物のお店で、雑司ヶ谷らしい風情と言うべきでしょうか。オフィシャルサイトでその雰囲気を味わえそうです。

参考:【旅猫雑貨店】http://www.tabineko.jp/

流石に正月の3日ですので商店は殆ど休みで、めったに無いであろう静かな商店街でした。

清立院 -毘沙門天-

弦巻通りから1本路地を右折すると、小高い丘の上に建物が見えます。このが6ヶ所目の「清立院」のようです。
清立院 江戸名所図会 清立院
江戸名所図会でも、一段小高い丘にあるので、ロケーションはそう変わっていないようです。
階段をあがると、さらに階段があり、その階段の下の両脇に石碑が置かれているので、ここからが境内ということでしょう。
清立院 参道

清立院
約770年前、真言宗・清龍寺として創立。後に村を疫病から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから日蓮宗・清立院と改める。 雨乞いと皮膚病の祈願寺として尊崇された。木彫毘沙門天像は区指定文化財。
(七福神パンフレットより)

元々は真言宗の寺院として建立されたようです。この辺りの由緒を図会でもう少し詳しく説明されています。

御岳山清立院
護国寺の裏門より雑司ケ谷鬼子母神へ行く道の右側、小坂に傍ひてあり。雑司ケ谷本竜寺の持ちとす(御岳をまつるゆゑに、この号あり)。常唱堂に安ずるところの宗祖上人の霊像は、日法上人の真作なりといふ。相伝ふ、正嘉年間(1257-59)関東疫疾流行しける頃、行脚の沙門この草堂に投宿の間、この地の人の病患を救ひ、また別れに臨むのとき、この霊像を止め置きたりといへり(この影像威霊あるゆゑに、後世新たに別像を造り、日法上人作の像をば、この新像の胎中に収むるとなり)。
(江戸名所図会より)

そもそもこの清立寺は、寛喜年間(1229~89)の頃、真言宗三嶽山清龍寺として創立され、本尊は御岳=蔵王権現を祀っていたようです。
そして鎌倉時代に関東に疫病が流行ったときに、この清龍寺に投宿していた日蓮宗の修行僧が祈祷したことにより多くの人の病を治したのです。そしてこの修行僧が去っていった後には一体の木像が残されていて、この木像が日法上人の作った日蓮上人像だったことから、真言宗から日蓮宗に改宗したようです。そして仏像の名彫刻師としても知られた霊験新たかな日法上人作の像であったことから、別の像を作成してその像の中に安置させたということなのです。
但し、改号するのは延宝年間(1675)の頃で、本立寺の日顕上人により権現堂を常題目堂とし寺号を御嶽山清立院と改め、本立寺の末寺となったのです。従って図会の本竜寺とあるのは、現在の本立寺のことなのです。
そして、江戸時代の文政年間(1820)には、聞法院乗法尼が継ぐ様になり、いつしか「清立院尼寺」と呼ばれることもあったそうです。 このような歴史を持つ清立寺ですが、この清立寺を知らしめている一つが瘡守(かさもり)薬王菩薩です。薬王菩薩とは文字通り薬の仏で薬師八大菩薩の一尊とされているのですが、実際は釈迦如来の脇侍として薬上菩薩と共に従うことが多いようで、薬上菩薩とは兄弟であったといわれ、人々に薬を与えた功徳によって兄弟共に菩薩になったのです。
そして皮膚病に良く効くと多くの参拝人を集めていたようで、現在もまた霊験あらたかなる名残として、階段脇の右の石碑に「かさもり薬王菩薩安置」と刻まれているのでしょう。
かさもり薬王菩薩安置碑

石段を上がると正面にあるのが本堂です。
現在は非常に近代的な本堂で、正面に6つ目の七福神である「毘沙門天」が祀られています。
本堂 毘沙門天
まずは参拝し6つ目の朱印をいただきますが、ここだけは朱印が2種類あったので、欲張って2つ押しておきました。
毘沙門天 毘沙門天朱印
インドの神、毘沙門天は武勇に優れた神で、上杉謙信が帰依したことでも有名で、こちらの木彫りの毘沙門天像は豊島区の指定文化財になっています。かなり存在感のある毘沙門天です。

ここで、ちょっとトイレ拝借とばかりに社務所に入ると見事な置物などがあり目の保養となります。
置き物
そしてトイレの前には「烏芻沙摩明王」なる、何とトイレの神様が祀られているのです。
烏芻沙摩明王 烏芻沙摩明王
この烏芻沙摩明王とは、古代インド神話においては炎の神で“この世の一切の汚れを焼き尽くす”功徳を持っているといわれ、仏教に包括された後も“烈火で不浄を清浄と化す”という神力から、心の浄化から現実的な不浄までも清める功徳があると信仰されている火の仏なのだそうです。
特に有名な功徳がトイレの清めだそうで、トイレは古くから“怨霊や悪魔の出入口”と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入場所でもあったトイレを、烏芻沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が生れたのだそうです。トイレでも物知りになるものです。

本堂に戻ると本堂の裏手に観音像が見えるので寄ってみました。
「十一面観世音」と記載されています。
十一面観世音と瘡守稲荷社
どういった由来のあるものなのかは不明ですが、それ程古いものではなさそうです。
その手前には江戸名所図会の挿絵でしょうか、着色された石碑が置かれていて、結構印象的です。
そしてその右手にある小さな社が「かさもり薬王菩薩」が祀られているは瘡守稲荷社、らしいです。
伝承ではこの辺りの土で団子を作って、それを患部に塗ると傷がかさぶたになり、綺麗に治るのだそうです。よい子の皆は真似しない様にしましょう。
これらの一団の左手にある松の木が、清立寺を知らしめているもう一つの「雨乞いの松」なのです。
雨乞いの松

請雨の松
堂前にあり。干魃の年は、農民このところに集まり請雨す。当寺の日蓮上人(1222-82)の影像は、乞雨に霊験ありとて郷人おほいに信敬せり。この樹の下に存するところの石像は、日意師の肖像なり。
(江戸名所図会より)

当然現在その石像はありませんが、結局、松というよりは、その松の下にあった尊像に集ってきたということになるわけです。
江戸名所図会には“請雨の松”と記載され確かに存在しています。
江戸名所図会 請雨の松 江戸名所図会 請雨の松
そして松の幹の下には石像のようなものも描かれているので、ここに大勢の庶民が集ってきたのでしょう。
こちらの雨乞いもまた正嘉年間(1257-59)のことだったようですので、松と薬王がセットで尊崇されていたのです。確かに名が知れるのはもっともなことでしょう。

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